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興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

武神祭 その3 南無八幡大菩薩

2012年04月01日 | 魚吹八幡神社

 魚吹八幡神社は明治以前は「福井庄津宮山魚吹寺八幡宮」と呼ばれていた。

 ところが、明治維新の廃仏毀釈という流れのなかで、「福井庄津宮山魚吹寺八幡宮」は魚吹八幡神社に改名された。

 魚吹八幡神社と徳寿院の関係について少し書いてみる。

 魚吹八幡神社の東側に隣接する津宮山魚吹寺徳寿院は明治以前は魚吹八幡神社と一体の神宮寺であった。

 魚吹八幡神社関係の古文書にこのようなものがある。
 文政10年に取り決められた例祭の規定についてで明治維新まで存続した。
「神事のとりきめ」
1.祭祀のことは別当(等覚院)社僧(徳寿院)がとり計らい、神事全体については、両寺・輪番と敷村役人がその年柄を考慮して計らう。
とある。

 又次のようにもある。

 明治政府は、天皇の神権的権威確立のために、神武創業への王政復古祭政一致を目的に、従来混合していた新道と仏教とを分離する政策をとり、慶応4年(1868)諸神社に対し神社所属の寺僧の還俗を命じ、続いて仏像を神体とすることを禁止し、仏像仏具を神社より取り除かせれう命令を発した。
 津之宮八幡神社も、別当等覚院蜜道が当初、等覚将監と改名したが、高野山から等覚の二字は仏語であると言われ、福井将監と改名し神職を勤め、さいわい等覚院敷地が神社敷地外にあるので、そこに仏像仏具を移し徳寿院とし、徳寿院は神社敷地内にあるので、そこを社務所とするよう協議決定した。(近世魚吹八幡神社関係史料)より 

 現在魚吹八幡神社境内の北西にある招魂社の位置に徳寿院があり現在徳寿院がある場所に等覚院があった。
招魂社建立が明治11年8月なので徳寿院を撤去した跡地にできた事は年代的にも間違い無い。

 別当とは何ぞやという事だが、魚吹八幡神社の本宮である石清水八幡宮の田中宮司が書かれた本から引用すると、

 石清水八幡宮の名称も、明治維新以前は「石清水八幡宮寺」で、神さまを祀る寺、すなわち「宮寺」というスタイルでした。かつて一山のトップにあたる人を「検校(けんぎょう)」社事務の執行を行う人を「別当(べっとう)」といいましたが、いずれも僧侶で、立場的にも僧侶のほうが神主より上だったのです。いわば神主は、検校や別当の下で、社務を補佐する立場でした。
  御鎮座から明治維新までの長い間、神仏同座のもっとも典型的な宮寺であり、八幡大菩薩と呼ばれた神をお祀りしてきた当宮・・・(神社本庁総長石清水八幡宮宮司 田中恆清著 『神道のちから』)より

 

 

つづく


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