興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

提灯で候 その壱

2009年10月21日 | 魚吹八幡神社 秋祭り

 今年も魚吹八幡神社の秋季大祭が始まった。

 今回は10月21日、22日にしか見られない魚吹八幡神社の提灯を紹介しよう。

 まずは楼門に吊るされた三張の大提灯は、正面にはすべて「八幡宮」の文字がある。左から、茶屋町と中之町、西の町、東の町とある。全て敷村である宮内地区の町名だ。年号は「享保四歳□八月」とある。

 ここで興ちゃん困りました。上から5番目の字がどうしても読めない。

 享保4年は1719年徳川八代将軍吉宗の時代と判明。この年は干支では己亥(つちのとのい)年である。亥己と書けば答えが出てきた。もちろん一文字の漢字では無い。己亥を右から書いただけである。

 年を歳と書く事についてはわからないが、暦に詳しい方に後日聞くという事で楼門の提灯は終了。

  

 

   
 拝殿に上がると三張の箱提灯が左右対になって吊るされている。

 写真左から田井村・長松村・天満村とある。

 この三ケ村に共通する事は、この網干地方は寛永年代より京極家の所領であった。万治元年京極家が丸亀に移ってからも揖保郡之内二十八ケ村の所領は引き続き領有した。と『網干町史』にあるが、その二十八ケ村の内現在の魚吹八幡神社の氏子である村は、興浜・余子浜・大江島・長松・天満・田井・宮内・津市場である。途中余子浜と大江島は天領になったが、田井村・長松村・天満村が丸亀藩であった事は間違い無い。

 年代は安永八年 亥八月十五日とある。

 8月15日について少し書いておくと、『近世魚吹八幡神社関係資料』によると、「現在行われている津之宮秋祭は、江戸時代には「放生会」と呼ばれていた。放生会は本来、殺生を禁ずる思想からでた仏教の儀式で、陰歴八月十五日に全国の神社や仏寺で行われたもので、津之宮でも「往古より放生会として毎年八月十五日神式仕来り」とあるように例外ではなかった。」とある。明治中頃までは毎年八月十五日にお祭りがあったようだ。

     
 
      
 
拝殿の左側と右側に三張の箱提灯が吊るされているが、これはすべて個人名が入っている。この提灯に年代は入っていないが興ちゃんは明治時代寄進の提灯であると推測する。

 左側真ん中の提灯は興浜 山本昭とある。右側左の提灯は平松 土井勘次郎とある。この土井勘次郎氏は平成20年9月15日に投稿した金刀比羅神社その16手水舎の記事の中で興浜金刀比羅神社において明治中期から後期に手水舎を寄進した方の一人である。興浜の山本昭氏の祖父である山本真蔵氏と深くかかわっていた可能性がある人物の為、山本真蔵氏寄進の提灯が古くなり傷んだ為、孫である山本昭氏がやりかえた時に自分の名前を入れたのではないだろうか。

  
 幣殿の御神燈の箱提灯は坂上

  

 
 本殿前の提灯は左右両側に三張ずつ箱提灯が吊るされており、糸井・當所・糸井とある。
 年代は糸井村の提灯が、明暦二年八月(1656)徳川4代将軍家綱の時代のもがひとつと、明和五年八月(1768)徳川10代将軍家治の時代のものがひとつである。
 當所の提灯は正徳二年八月吉日(1712)徳川7代将軍家継の時代である。

 共に8月の文字が意味するように8月15日に行われていた放生会の提灯であろう。それにしても明暦2年は古い。京極家が龍野に入封したのが寛永十四年(1637)である。


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4 コメント

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こんばんわ。 (海人)
2009-11-13 20:56:46
こんばんわ。
私は西土井に住むものですが、おとつい魚吹八幡神社で初めて神社をゆっくり見ました。
拝殿の奥から興浜、新在家、余子浜の提灯も確認したのですが、写真でもあるように興浜の提灯が並んでいる中で真ん中に糸井の提灯があるのは何か意味があるのですか??

ご存知であれば教えてください。


あと知り合いに聞いたところによると、魚吹八幡神社を、宇須伎津八幡神社??と書くのを聞いたのですが、発音する際は「うすきはちまんじんじゃ」と津を発音するときいたのですが、
「津」というのはなにか意味がおるのですか??

よければ教えてください。
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知っている範囲で (興ちゃん)
2009-11-14 22:05:09
 魚吹八幡神社の社務所に入ると、「魚吹八幡神社略記」というものを頂けます。
 その中に、魚吹の由来が書かれています。
「播磨国風土記には宇須伎津と見え、本来、当地方は海べりの砂堆積地であった。神宮皇后説と相交わり、魚が群れをなして砂を吹き寄せて、土地が出来たと云い伝えられている。これは洋の東西を問わず語られる神話的方法で、魚は人とおきかえ、すなわち、多くの人々が海を埋め埋めして開いていったと解するが自然であって、後生永く伝えるため、魚吹伝説として今日まで云ひ伝えられた。又、網干の地名も、当社祭礼に漁民が一斉に、休漁して網を干して参詣したので網干と云うようになったと伝えられている。」とあります。

 津というのは現在の港を表します。

 糸井の件については近いうちに記事にしたいと思います。わかる範囲で書いてみます。

 Mさんのご親戚かと思われますが、間違っていたら御免なさい。よければ右上のメッセージから入ってもらうと僕のところへのMailとなります。画面には出てきません。
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Unknown (海人)
2009-11-14 22:35:13
ありがとうございます。
Mさんとゆーのはちょっとわからないんですが 
とゆーことは魚吹とゆーのは神話を基準にした当て字であって本当は宇須伎津なのですか?それとも当日はあの当りの土地を宇須伎津と言っていたのですか?それとも宇須伎とゆー土地の港だったとゆーことでしょうか?
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力不足です (興ちゃん)
2009-11-16 22:30:09
昔、お宮のあたりは宇須伎津だったのでしょう。宇須伎津から魚吹に変わる経緯は『網干町史』に書かれています。図書館で確認して下さい。力不足の為、わかりやすく説明できません。残念。
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