興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

網干新在家産業遺産を訪ねて 魚市場と潮入り運河跡と問屋川

2014年06月15日 | 網干公民館歴史ウォーク

 問屋川は古くは塩田の澪(みお)筋であったので、歴とした産業遺産です。その問屋川と昭和20年代まであった魚市場について書いてみます。

 何分資料も少なく、この記事を見て知っておられる方の情報が集まる事を期待します。

【魚市場と潮入り運河跡】
 網干漁業協同組合設立時の資料に魚市場について書かれた部分がある。
「昭和24年11月、網干漁業協同組合中より、鮮魚介類の共同販売所開設の要望が挙がる。ところが既に、吉美魚市場・網干水産・姫路魚類・丸松魚市場が近在していた為容易にその要望に応えられなかった。しかし同年12月13日、臨時総会を招集、満場一致で共同販売所の開設を決す。」とある。
 現在の新在家会館の付近まで海からの潮入り運河が延びていた頃、丸に松の字の「丸松」の魚市場があった。


古い資料を紐解けば、『揖保郡誌』には、
 商号:株式会社網干魚市場、本店:網干町新在家364番地、資本金12萬円、取締役社長:吉田卯吉

            
『網干町史』には、
 網干魚定市場は大正8年(1919)12月の設立にして、明治初年頃には各毎に小市場ありしを、明治10年頃松本尚元の市場に統一せられ、後山内武平の継承する所となって、大に改良発展し、同人没後大正8年12月株式会社に譲渡し現在は兵庫県水産会の下に経営せらる、資本金12万両、半額拂込、株主81名。

 
 タイトル写真は、新在家公民館に掛けられてある絵。「昭和25年頃迄の網干新在家問屋浜の賑わい」とある。

 

【問屋川】  
 現在の網干公民館の東側の道路の公民館から南側のダイセル敷地内を含めて海まで東問屋川が存在した。
一部ダイセルバス停留所南側にかつての面影を残している。
 昭和30年に埋めてられるまで、現在の網干児童公園から西側にかけては、新在家漁師の船溜り場であった。
 東問屋川は塩田東浜の取り水として機能していた為、埋め立てても問題は無かったのであろう。
 ただ、魚市場と新在家漁師の船溜まりという事で、どういう経緯で埋め立てに至ったかは確かな情報は得ていない。

 ダイセル敷地の西側にある、新在家問屋川の遊歩道の南北線は、かつて塩田西浜の取り水であった西問屋川沿いにあたる。  

 塩田について少しふれてみる。
 網干の塩田は昭和20年前後までは、入浜式塩田であった。
 入浜式塩田とは、塩田の砂に塩水を含ませて、水分を蒸発させ、塩分を多く含んだ砂を集めて海水を注ぎ塩分を溶解して濃厚な塩水にし、更に釜で煮詰める入浜式製法で、煙突をもった釜屋という建物があるのが特徴で、網干の塩田には26の釜場があった。
 昭和15年頃には年間/200万kgが製塩され、約150人が作業に従事していた。

 昭和25年頃から、流下式製塩法が行われるようになって、網干では昭和31~32年頃にこの製法が取り入れられた。竹や笹の小枝を無数に組合せ、数段に組み立てて、塩水がこの間を流下するときに、水分を蒸発させる濃縮装置である。この製法も電解式製塩法の登場により短期間で終幕をみた。
 下の航空写真は昭和33年撮影のものであるが、流下式製塩法の大きな装置を見る事ができる。

 網干の塩田は昭和35年に廃田となった。

  
 平成22年撮影の航空写真

 
 昭和33年12月撮影の航空写真
 埋立て前の東問屋川がわかる。
 塩田であった部分を見ると、流下式塩田の濃縮装置である枝条架がわかる。

 
 新在家の船溜まりを含めた網干公民館付近から魚市場までの部分は埋立てられている。
 

 
 上の写真は網干公民館から児童公園に向かって北西方向を望んだ写真。
 現在の写真と埋め立てる前の問屋川が魚市場まで入り込んでいた時の写真。
 〇印は、上の写真が現在児童公園にあるエノキで下の〇印のエノキと同じらしい。(写真提供:小谷氏)

 
 魚市場があった問屋川の一番奥にあたる場所の古い写真。(写真提供:小谷氏)

 
 これも同じ場所であるようだが、どこかは不明。(写真提供:小谷氏)

 ※航空写真は姫路市のもので、ブログ掲載に関して測量成果複製承認書を申請し承認済。


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