興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

渡邊 鼎  その1

2008年12月11日 | 興浜偉人傳

 渡邊鼎(わたなべ かなえ)は今から160年前の嘉永元年(1848)1212日に播磨国揖東郡興浜村に生まれ、明治6年から10年までを飾磨県、明治12年までを兵庫県、明治22年までを大阪府、明治39年までを山陽鉄道会社、明治40年までを逓信省に勤務し、そのあと郷里であるここ興浜に帰って来られ、昭和6年に亡くなるまでは大覚寺総代・顧問として大覚寺の世話人として活躍された。

 興浜にある金刀比羅神社に『従七位渡邊鼎』とあるひときわ大きな玉垣の人物と言えば地元の方ならおわかりであろう。

 現在、渡邊家は鼎さんから数えて3代目にあたる聰さんが亡くなり、聰さんの妻静子さんが現在の当主である。4代目にあたる晃さんは現在JR西日本において社長主席補佐として活躍されている。

 渡邊家には約870の古文書と鼎さんの遺品が大切に保存されている。
静子さんは太子町立岡から昭和18年に嫁入りして来られた。
嫁入りして来た時はすでに鼎さんは亡くなっていたが、鼎さんの事は主人の聰さんと父巍さんから詳しく聞いておられたようで、静子さんからの聴き取りと鼎さんが書き残した『履歴書』と遺品から偉人傳としてまとめて行く予定だ。

 

        渡邊家古文書の中の『履歴書』 
 鼎さん独特の文字で明治6年飾磨県での勤務に始まり、兵庫県、大阪府、山陽鉄道会社、明治40年に逓信省を退職されるまでの事が書かれている。

つづく



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