興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

金刀比羅神社 御神体 菅原道真公

2011年02月11日 | 金刀比羅神社

 

 今朝、雪が降っているのを見て、正月に投稿した記事の続編がそれきりになっているの思い出し書いてみる事にした。

           
 神社明細帳の興浜金刀比羅神社のところに、
猿田彦命・菅原道真・日本武命・天照皇大神
明治41年9月18日仝町(興浜)無格社湾洞神社ヲ合祀スとある。
その尊像が興浜陣屋門資料館にある。
なぜ、資料館にあるのかは後に調べる事にして、この尊像について書いてみる。





 文政7年(1824) の文字は消えかけていたが、文政の申年(さるどし)は7年である。
 □の文字は解読不明。
 興浜の金刀比羅神社が勧請される36年前の作であるようだ。

 當所庄屋(興浜庄屋)の岡部庫太郎さんが再興奉(さいこうたてまつる)天満宮尊像(てんまんぐうそんぞう)であるから、菅原道真公の御尊像である。

 庚申堂(こうしんどう)については、下記の投稿記事と関連しているので、よかったら覗いてみてください。

大覚寺 寺宝展より 青面金剛明王之像   

興浜の石碑  興浜干拓碑

大覚寺総代である長澤啓文氏からの聴き取った話しを紹介する。
 丸亀藩陣屋の舟付場(旧本町橋南側)ほとりに、興村々有の福寿院庚申堂と付属の参籠会所が有った。
 揖保川流域の各村落の修験道の先達衆が集まる福寿院山行講々元会所でもあった。
 元治元年の記録によると大先達篭屋太右衛門と有り、大峰信仰の拠点であったが、明治新政府の廃仏稀釈・神仏分離の令による大峰信仰の禁止、又無住のお寺やお堂の取り壊しの令により庚申堂にも苦渋の選択を余儀なくされた。
 当時京都方面より修験者、陰陽師、神官職の澤山氏が篭屋宅を宿に年2回修行に来て居られ、長澤太郎右衛門ら村役協議の上、庚申堂と屋敷一切を澤山氏に任し庚申堂の護持を願い定住をお願いした。
 了承されて庚申堂に澤山氏は定住する事になった。
 湾洞神社の神像猿田彦之命は、関町にあった恵美酒神社神社と共に金刀比羅神社に合祀されたと思われる。

本来なら、刀比羅神社に安置されていてもいいのではと考えるがいかがなものでしょうか。



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2 コメント

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天神さん (みー@)
2011-02-13 22:08:05
実家の前栽に小さな祠の跡があったことを
ふっと思い出したので実家の母にたずねてみました。
天神さんを祀っていたのだそうです。
母が子供の時にはもうお祀りするのはやめていたそうですが、屋根の一部が残っていました。
大正ころに、近所の子供を集めてお祭りをしていたと、祖母が話していたそうです。

このブログをみて、思い出したので・・・・
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ありがとうございます (興ちゃん)
2011-02-14 23:11:48
 貴重な事なので、追跡調査されたらいかがでしょうか。
 商いをされておられたので、お稲荷さんをお祀りされていたのかと思ったら、天神さんでしたか。
 またゆっくりお聞かせ下さい。
 しかし寒い日が続きますね。
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