興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

本町橋で候 その1 祝本町橋開通式

2014年11月09日 | 興浜道普請

 

 

 揖保川に新しく架かった本町橋の開通式が今日行われた。

 渡り初めに三代夫婦に加えて、興浜の檀尻が曳き出される予定であったが、未明から降り続く無常の雨の為曳き出しは中止となった。

 平成13年の魚吹八幡神社武神祭興浜当番の時を思い出させる、晴れ間続きの中をその日だけピンポイントに狙った雨である。

 浜田側から見学させて頂き写真を撮影。雨の中でもこれだけの渡り初め式は珍しいかもしれない。

 個人的には、浜田側も興浜地番なので都に上る方向で渡り初めをと考えるが致し方ない。

 住民の皆さんの渡り初めのあと、興浜檀尻に変わり興浜鐘檀尻が渡り初めを行った。

 


 

 揖保川の渡りについては、江戸時代は渡し舟であったが、今回新しく架かった本町橋の位置に明治26年5月に初代本町橋架橋、三代目は昭和32年3月に架けられた今まで我々が渡っていた本町橋、今回の新橋が三代目となる。

 明治26年(1893) ―60年― 昭和32年(1957) ―57年― 平成26年(2014)

 余談であるが、明治13年に架橋された本町橋があるようであるが、現在の本町橋より一本南側の大覚寺の筋に架かっていたようである。

 今回の開通式を機会に本町橋について書いてみようと思う。

 昭和32年3月の渡り初めの事が掲載された『広報ひめじ』昭和32年3月号

 

  

 

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網干新在家産業遺産を訪ねて 手塚傳治君の碑

2014年08月11日 | 網干公民館歴史ウォーク

   
石碑については2年前の8月13日に掲載した、「新在家墓地完成ニテ御座候」と同じになりますが、もう一度紹介させて頂きます。

今からちょうど95年前の大正8年8月16日の出来事です。

当時浦役場事務責任者であった興浜の茨木利雄氏が『播磨』に掲載された郷土雑話12にその時の様子が詳しく書かれているのでその一部を紹介します。


【水難救護の犠牲者 手塚傳治】
大正8年8月16日午後4時過ぎ「ヤマゼ」(海鳴りのする西南風)が吹いていた。
網干沖で難破した船から救助を求めて来たので、網干漁業組合へ救助船一艘出すように依頼がある。
鍵本重太郎・赤木嘉吉以下8名の屈強の者ばかり乗り込んだ救助船が出動。
手塚傳治は艫櫓(ともろ)を持って居て群を抽いた大男の青年で、結婚して一子を揚げて数カ月を経たばかり。
救助方法は、波浪が高いので到底難破船には接近出来ぬから乗組員各自の体に網を付け海中に飛込ませて曳き上げる方法であった。
救助船が高波におそわれ船は覆没し乗組員は海中に投げ出されたが乗組員は10〜20分で陸地へ泳ぎ付いた。
8名救助に向かったはずが7名より上陸して来ないので、残る1名は誰かと点検したら手塚であった。
第二第三の救助船を手塚傳治の捜索にあたらせたが、その日午後8時捜索隊は引揚げた。
翌8月17日
苅屋漁業組合・勘兵衛新田漁業組合の応援を求め隣保班・親族班・明友班・在郷軍人会班・漁業組合班・等々1船に3,4名乗組約数拾組4,5百名の捜索隊を編成して、御津・網干・大津の沿岸一里余の間を隈なく捜索したが遂に発見できずに終わる。
網干町婦人会応援の下に数カ所で炊き出しが行われた。
8月18日
捜索隊を縮小して隣保班・親族班・網干漁業組合班等4,5艘で捜索した処が親族班が網干港の西岸350間ある突堤の先端で腰部から足先迄白骨となっている死体を発見収容した。
8月20日
愈々死体を発見したので町葬が執行された。
斎場は網干小学校校庭
当日参列した主な人は、兵庫県知事代理・網干町会議員全員・網干警察署長以下職員・網干専売局出張所長以下職員・各村惣代・網干漁業組合長以下役職員全員・網干町婦人会長以下役員全員・網干町青年団役員全員・網干小学校生徒2,500名外教職員全員を筆頭に町民有志者一般の参列者無数。広い校庭も立錐の余地もない状態であった。

難破船の救助を求めた者は広島県大浜村の明静丸船主麓政太郎であった。

網干塩業組合へ石炭を輸送し陸揚げを終えて勘定を受取新在家の料亭福徳楼で散財中暴風となって救助を求めて来た。
遭難の場所は興浜と新在家の境界線で沿岸から4,5町離れた海中であった。
※明治晩年から大正12年頃迄難破船の取扱件数は約37,8件内死体取扱27名。
 遭難船は毎年正月と盆会の新旧暦の前後が大部分であった。


石碑だけではわからい事実が茨木さんの話から明らかになりました。

このお盆、新在家の墓地を通る事があれば、手を合わせて石碑をご覧ください。

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網干新在家産業遺産を訪ねて 網干神社

2014年06月29日 | 網干公民館歴史ウォーク

 ここ網干神社には、下記の石碑に記されているように、新在家南の塩田の鎮守として祀られていた塩竈神社が合祀されている。塩の生産地であった網干のように塩にかかわる土地に祀られている神社という事で産業遺産のひとつとして紹介します。今回のウォークのコースでは最終ポイントでしたが、整理・再調査の都合で、網干神社について書いてみます。

 網干神社について改めて書く事も無いので、今回は境内にある大きな石碑の解読をしてみました。

 石碑と同じ事が書かれた、その隣にある縁起由来の説明書きが見えにくくなっているので、こちらも解読してみました。

 

 

  

 

 

 

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網干新在家産業遺産を訪ねて 魚市場と潮入り運河跡と問屋川

2014年06月15日 | 網干公民館歴史ウォーク

 問屋川は古くは塩田の澪(みお)筋であったので、歴とした産業遺産です。その問屋川と昭和20年代まであった魚市場について書いてみます。

 何分資料も少なく、この記事を見て知っておられる方の情報が集まる事を期待します。

【魚市場と潮入り運河跡】
 網干漁業協同組合設立時の資料に魚市場について書かれた部分がある。
「昭和24年11月、網干漁業協同組合中より、鮮魚介類の共同販売所開設の要望が挙がる。ところが既に、吉美魚市場・網干水産・姫路魚類・丸松魚市場が近在していた為容易にその要望に応えられなかった。しかし同年12月13日、臨時総会を招集、満場一致で共同販売所の開設を決す。」とある。
 現在の新在家会館の付近まで海からの潮入り運河が延びていた頃、丸に松の字の「丸松」の魚市場があった。


古い資料を紐解けば、『揖保郡誌』には、
 商号:株式会社網干魚市場、本店:網干町新在家364番地、資本金12萬円、取締役社長:吉田卯吉

            
『網干町史』には、
 網干魚定市場は大正8年(1919)12月の設立にして、明治初年頃には各部落毎に小市場ありしを、明治10年頃松本尚元の市場に統一せられ、後山内武平の継承する所となって、大に改良発展し、同人没後大正8年12月株式会社に譲渡し現在は兵庫県水産会の下に経営せらる、資本金12万両、半額拂込、株主81名。

 
 タイトル写真は、新在家公民館に掛けられてある絵。「昭和25年頃迄の網干新在家問屋浜の賑わい」とある。

 

【問屋川】  
 現在の網干公民館の東側の道路の公民館から南側のダイセル敷地内を含めて海まで東問屋川が存在した。
一部ダイセルバス停留所南側にかつての面影を残している。
 昭和30年に埋めてられるまで、現在の網干児童公園から西側にかけては、新在家漁師の船溜り場であった。
 東問屋川は塩田東浜の取り水として機能していた為、埋め立てても問題は無かったのであろう。
 ただ、魚市場と新在家漁師の船溜まりという事で、どういう経緯で埋め立てに至ったかは確かな情報は得ていない。

 ダイセル敷地の西側にある、新在家問屋川の遊歩道の南北線は、かつて塩田西浜の取り水であった西問屋川沿いにあたる。  

 塩田について少しふれてみる。
 網干の塩田は昭和20年前後までは、入浜式塩田であった。
 入浜式塩田とは、塩田の砂に塩水を含ませて、水分を蒸発させ、塩分を多く含んだ砂を集めて海水を注ぎ塩分を溶解して濃厚な塩水にし、更に釜で煮詰める入浜式製法で、煙突をもった釜屋という建物があるのが特徴で、網干の塩田には26の釜場があった。
 昭和15年頃には年間/200万kgが製塩され、約150人が作業に従事していた。

 昭和25年頃から、流下式製塩法が行われるようになって、網干では昭和31〜32年頃にこの製法が取り入れられた。竹や笹の小枝を無数に組合せ、数段に組み立てて、塩水がこの間を流下するときに、水分を蒸発させる濃縮装置である。この製法も電解式製塩法の登場により短期間で終幕をみた。
 下の航空写真は昭和33年撮影のものであるが、流下式製塩法の大きな装置を見る事ができる。

 網干の塩田は昭和35年に廃田となった。

  
 平成22年撮影の航空写真

 
 昭和33年12月撮影の航空写真
 埋立て前の東問屋川がわかる。
 塩田であった部分を見ると、流下式塩田の濃縮装置である枝条架がわかる。

 
 新在家の船溜まりを含めた網干公民館付近から魚市場までの部分は埋立てられている。
 

 
 上の写真は網干公民館から児童公園に向かって北西方向を望んだ写真。
 現在の写真と埋め立てる前の問屋川が魚市場まで入り込んでいた時の写真。
 〇印は、上の写真が現在児童公園にあるエノキで下の〇印のエノキと同じらしい。(写真提供:小谷氏)

 
 魚市場があった問屋川の一番奥にあたる場所の古い写真。(写真提供:小谷氏)

 
 これも同じ場所であるようだが、どこかは不明。(写真提供:小谷氏)

 ※航空写真は姫路市のもので、ブログ掲載に関して測量成果複製承認書を申請し承認済。

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網干新在家産業遺産を訪ねて 塩社〔旧専売公社跡・現東京電機〕(旧赤穂塩務局網干出張所) 

2014年05月11日 | 網干公民館歴史ウォーク

当日参加者の方に配布した資料には下記のように書いた。
塩社〔旧専売公社跡・現東京電機〕(旧赤穂塩務局網干出張所)  
現在は東京電機工業(株)の社屋として使われている建物は、赤穂塩務局網干出張所として明治後期に建てられたものである。設計は大蔵省営繕課。建物の築年については資料が乏しく詳細は不明であるが、明治38年の塩の専売化に伴って全国の主要な塩産地に塩務局が設置されて行った時期の物と思われる。近代製塩技術の発達によって姿を消してしまった網干の塩田の歴史として、唯一当時の名残を示す建物である。


もう少し調べてみようと頑張りましたが、なかなか塩社の事が書かれたものが無いのが残念である。
『網干町史』と『揖保郡誌』に書かれている部分を掲載させて頂く。


『網干町史』より
明治21年網干製塩商社を設け大に改良を計った。
と書かれてある程度であるが、それより古い『揖保郡誌』にはもう少し詳しく書かれた部分がある。

『揖保郡誌』より
大阪地方専売局網干派出所

大阪専売局網干派出所は網干町新在家の中央南浜手に位置し明治38年赤穂塩務局網干出張所を設けた。主として網干浜に於ける塩田を所管して事務を取締まっていたが明治40年10月変革されて専売局赤穂収納所の出張所に属した。明治42年12月赤穂収納所は合併されて赤穂専売支局となる。次いで大正2年6月官制の改正となって神戸専売支局に属するに至りしも大正11年またも官制の改正を見て大阪地方専売局の出張所と改称され大正13年12月出張所は派出所に変更されて大阪地方専売局網干派出所と称へ揖保郡一円を所管し、塩売捌区域(しおうりさばくくいき)は揖保宍粟両郡に亘り塩収納販売及び専売取締を行って極めて成績を揚げている。


 
東京電機工業株式会社のホームページによると、同社がここ新在家355−2に本店を大江島から移転したのが昭和37年2月24日とあり、「大きな楠に囲まれ、夏場もクーラー無しで過ごしています。」と書かれてある。

  
 大蔵省と書かれた境界杭

 

 
 裏側にある建物は塩の貯蔵庫であったのであろう。
                                                  つづく

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網干新在家産業遺産を訪ねて ダイセル異人館

2014年05月08日 | 網干公民館歴史ウォーク

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ダイセル網干工場は、日本セルロイド人造絹糸(株)として明治41年に設立。
ダイセル外国人住宅は、明治41年に創設された時に技術指導を担当した外国人技師の住宅として建てられた。
以下『姫路市史』によると、
揖保川の豊富な工業用水が得られる網干の臨海部は、明治以降工業地帯として開発されて行った。中でも明治42年に操業を開始した日本セルロイド人造絹糸は網干地区最大の工場として地元の経済発展に大きく寄与した。現在のダイセル化学工業網干工場(日本セルロイド人造絹糸の後身)の広大な敷地の一角には工場創設時に建てられた2棟の洋館が残されている。

明治期に創業した他の近代産業と同様、日本セルロイドは工場開設に際してヨーロッパから数人の技師を招いて技術指導にあたらせた。これら技師達の宿舎として建てられたのがこの建物である。当時数棟が建てられたと思われるが、その内の2棟が現存してる。今回は現在同社の資料館として使われているこちらの建物を紹介する。
下の写真にある説明板に拠れば「・・・19世紀のイギリスのコテージに類似している建物で、コロニアルスタイルと共通点がある・・・」との事である。軒を深く取り通風に配慮した亜熱帯地域に多く見られるベランダコロニアル風の建物である。大阪の通天閣や同社の工場も手掛けた設楽貞雄が設計している。
外国人技師住宅は現在4棟残っており、そのうちの2棟が平成元年に姫路市都市景観重要建築物に指定されている。



 

  

 

  

  

  


日曜日であったが、同社総務部2名の方に案内して頂き、内部見学させてもらった。
タイトル写真の黒いキューピーさんも内部に展示されている。
日本に数体しかない貴重な物であるようであるが、何故黒いキューピーなのか聞き忘れていた。

 

 

 

   

  

  

つづく

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網干新在家産業遺産を訪ねて

2014年05月04日 | 網干公民館歴史ウォーク

去る4月13日(日)に行われた、網干公民館歴史ウォーク「網干新在家産業遺産を訪ねて(新在家編)」を掲載していく予定です。

ちょうど今、富岡製糸場と絹産業遺産群が世界歴史遺産に登録される予定で沸き立っていますが、ここ網干にも明治時代以降日本を近代化に導いた産業遺産がたくさん残っています。

読売新聞に今回のウォークの予定が掲載された事もあり100名近くの参加者があり大盛況でしたが、皆さんに十分な説明ができなかった事が残念でありました。

網干公民館の講座のひとつの「古文書学習会」のメンバーが説明を担当していきました。

今日は当日配布しましたA4サイズ2枚の説明文を掲載して終わりますが、それぞれの場所を写真を交えて興ちゃん風の説明を補足していく予定です。

  
  

つづく

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興浜丸亀藩陣屋跡と鶴松亭跡と黒田官兵衛 弐

2014年02月09日 | 丸亀藩興浜陣屋

黒田官兵衛と興浜の鶴松亭について前回書いてみたが、茨木利雄さんが『播磨』の中に他にも書かれてあるのを発見したので紹介する。

故茨木利雄さんは官兵衛というより豊臣秀吉と鶴松亭について気になっていたのであろうと思われる。

前回のブログにはこう書いた。
興浜の郷土史家故茨木利雄さんは、『播磨』でこのように書かれている。

羽柴秀吉公が姫路城に在住の際、領内を狩猟又は散策に出た時の一時的の休憩所を現姫路市網干区興浜字網干壱番地に置いて鶴松亭として命名して居った。

万治元年京極公が龍野から讃州丸亀に移封の際網干壱万石の領分を分割保有し彼の鶴松亭を治所として使用された。

今回『播磨』に掲載した郷土雑話に同じような内容であるが、ちょっと表現が違う部分を発見。

『播磨』の中に掲載された、郷土雑話6より(一部抜粋)
 治所はその昔豊臣秀吉公が姫路在城の際領内巡視の時の休憩所として建設しておった別館(後に鶴松亭と名命)を使用したので、その他の附属建物米倉、お成門等は、必要に応じて新築増設したので、京極侯が参勤交代の往復の中継所であったので、今尚その一部の建物が大破して見る影もないが残っている。

『播磨』の中に掲載された、郷土雑話13より(一部抜粋)
豊臣秀吉が姫路城主であった時に地方へ鷹狩に出た場合休憩する為め別館を網干の興浜に建てた後に秀吉が境内の松の木に鶴のとまっておるのを見て自ら鶴松亭と命名した。今山岡壮八の書いた小説「徳川家康」に茶々姫と秀吉との間に出来た子を鶴松丸と名づけたと書いてあったが一脈通ずるように思う、別館に後年京極侯が龍野から四国の丸亀へお国替となった時此処に治所を置いて網干壱万石の領地を支配した。

(後に鶴松亭と名命)いう部分が気になったが、深く考える事はないかな。

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興浜丸亀藩陣屋跡と鶴松亭跡と黒田官兵衛 壱

2013年08月15日 | 丸亀藩興浜陣屋

 平成26年のNHK大河ドラマが「軍師官兵衛」に決まってから、“ひめじの官兵衛 見参”という事で姫路市にも黒田官兵衛ゆかりの地がたくさんあるという事で、姫路市もいろいろなパンフレットを作成しているようだ。

 網干区興浜にもゆかりの場所がある。

 姫路市網干区興浜1番地にある丸亀藩陣屋跡である。

 姫路市作成のパンフレットにはこのように書かれている。
 天正8年(1580)、羽柴秀吉から網干を含む揖東郡壱万石を与えられた官兵衛は、そのお礼にと秀吉を網干に招待。松が生い茂る揖保川河口の沖之浜洲の陣屋で大茶会を催したところ、秀吉の席の近くの大松に一羽の鶴が見事な巣をかけており、秀吉が陣屋の名を「鶴松亭」にするように命じたという。

タイトル写真の石碑は、昭和34年11月に建碑、昭和35年1月13日に除幕式を挙行した。

史蹟 豊太閤乃於茶屋鶴松亭跡

    併 丸亀藩京極家治所址

興浜の郷土史家故茨木利雄さんは、『播磨』でこのように書かれている。

羽柴秀吉公が姫路城に在住の際、領内を狩猟又は散策に出た時の一時的の休憩所を現姫路市網干区興浜字網干壱番地に置いて鶴松亭として命名して居った。

万治元年京極公が龍野から讃州丸亀に移封の際網干壱万石の領分を分割保有し彼の鶴松亭を治所として使用された。

『西讃府誌』:安政5年丸亀藩京極家編纂にはこのように書かれている。

豊臣公姫路ノ城ニ居玉フ時、別館ヲ此ニ建テ游観ノ処トス、庭中ニ古松一株アリ、鶴アリ巣ヲ其梢ニ作レリ、公是ヲ見玉ヒ此館ヲ名テ鶴松亭ト云ヘリ、我先公丸亀ニ移ラセ玉フニ及ンデ、此館ヲ治所トナシ玉フ、今アル処是ナリ・・・・

〔興ちゃんの読み仮名〕
とよとみこうひめじのしろにいたまうとき、べっかんをここにたてゆうかんのところとす、にわなかにこしょうひとかぶあり、つるありすをそのこずえにつくれり、こうこれをみたまいこのやかたをなづけてかくしょうていといえり、われせんこうまるがめにうつらせたまうにおよんで、このやかたをじしょとなしたまう、いまあるところこれなり・・・・

〔興ちゃんの説明文〕
豊臣秀吉公が姫路城に居られた時、別館をここに建てて遊び楽しんで見るところとした。庭の中に松の古株が一株あった。鶴がそのこずえに巣をつくった。豊臣秀吉公がこれを見てたいそう喜びこの館を「鶴松亭」と名付けた。万治元年京極高和公が龍野から丸亀へ移られる時、飛び地である網干一万石の陣屋をこの館跡に建てた。

時代背景から見てみると
天正10年(1582)    6月2日    本能寺の変。明智光秀により、織田信長が討たれる。49歳
天正17年(1589)    5月27日 淀殿、鶴松を出産
天正19年(1591)    8月5日    豊臣秀吉の長男鶴松死去。3歳

姫路市のパンフレットに書かれている天正8年が正しいのであれば、本能寺の変の2年前に秀吉はここ興浜に来られたようである。
秀吉公の長男が鶴松という名前なのが少し気になったので書いておく。

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回船問屋児島家 三社丸で候

2013年04月05日 | 金刀比羅神社

 

 

2年前に児島さんから昔船を繋いでいた柱があるので写真に撮っておくかと言われた事があった。

昔、児島の船は網干川の東雲橋の西側に繋がれていたようである。

児島家は丸亀藩の回船問屋を営んでいたので、龍野藩の場所に船が繋がれていたのは不自然であるので、明治以降の事であろう。

石の柱の上の部分は児島家の屋号である○にカの字が書かれている。

その下に船名であろう「三社丸」と書かれている。

2年前は気にしていなかったが、何故「三社丸」なのか?

 

 

 

 

ここからは興ちゃんの想像である。

金刀比羅神社には三対の燈籠がある。

境内入ってすぐにある文政7年と天保14年の燈籠。

大正6年に土盛りをして一段高くなった、社殿がある正面にある大正6年の燈籠。

そしてもう一対が土盛りをして一段高くなった両側に皆から忘れ去られたように建っている燈籠。

その建ち方が現在どうも不自然である。

西側については、社務所の前栽の中に隠れてしまったように建っているのだ。

境内の桜を見ながら考えた。

そうだ、大正6年に土盛りをした時は、本殿の東側には現在と同じお稲荷さんが祀られ、本殿の西側には武大神社が祀られていたのだ。

『大正5年5月 魚吹八幡神社 神社明細帳』には、興浜金刀比羅神社には境内社として武大神社があり、素盞男命(スサノオノミコト)が御祭神として祀られていたとある。

その境内社が本殿の東側にあり、興浜金刀比羅神社は御社が三社あり、金刀比羅神社の近くである児島家はそこから三社丸と名付けたのではなかろうかと考えている。

 
 東側の端に建つ燈籠

 
 西側に建つ燈籠は、現在社務所の前栽のなかであるが、昭和に入って前栽ができ燈籠が不自然なかたちとなったのでは無かろうか。

 
 本殿東側に祀られているお稲荷さん

 
 本殿西側には玉垣のみが残るが、この中に武大神社があったのであろう。
 玉垣の名前から明治時代のものである事がわかる。
 いつ、どいいう理由でなくなったかは不明。
 武大神社があり、素盞男命(スサノオノミコト)を祀っていたのであれば、その御祭神はどこへ行ってしまったのか。 

    
 燈籠の裏側に書かれている文字を調べる為に赤いチョークをすり込んでみた。
 東側の燈籠には上の写真にあるように、「万延元庚申10月御祭日 金田丹之助」とある。
 写真は無いが西側の燈籠にも同じように、「万延元庚申10月御祭日 寺田平右衛門」とある。

 金田氏と寺田氏の名前が解りにくかったので、同じ年代の文献を探してみたら、網干町史に『興霑動』という題で載っている。明治8年10月の騒ぎの事のようだ。事の起りは加東郡に近藤文蔵という長者(山形県酒井の本間氏より長者だったようです)が居て、万延元年11月興陝濱田・苅屋三ケ村地先の開発の為、近藤文蔵から資金七百二十貫目を借受けた。その時に丸亀藩網干郡代と奉行から、保証のために所持の田畑質入を承諾せしめた依頼状の最後に井口善右衛門・河野與次右門・堀仁左衛門・八木重郎右衛門・福本新平・寺田平右衛門・八木又左衛門・植田仁八郎・金田丹之助・山田久太夫の名前がある。
(2008年1月6日に投稿した金刀比羅神社その5)より

安政7年4月8日に金刀比羅神社は勧請されているが、正確には3月18日に万延と改元されたため、安政7年(1860)ではなく万延元年である。

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興(おきのはま) 御祭神は応神天皇

2012年10月11日 | 魚吹八幡神社 秋祭り

 魚吹八幡神社秋季例祭まであと10日となった。

 タイトル写真は、魚吹八幡神社秋季例祭の時の西の馬場(お旅所)での渡神殿(わたりしんでん)での3基の神輿である。

 魚吹八幡神社の御祭神は応神天皇(おうじんてんのう)・神功皇后(じんぐうこうごう)・玉依比売命(たまよりひめのみこと)の三柱である。

 応神天皇(おうじんてんのう):品陀和気命(ほんだわけのみこと) 15代天皇

 神功皇后(じんぐうこうごう):息長足比売命(おきながたらしひめのみこと) 応神天皇の御母

 玉依比売命(たまよりひめのみこと):初代神武天皇の御母・海神の娘

 魚吹八幡神社秋季例祭における神輿の御奉仕村は昔より網干3ケ村(興浜・新在家・余子浜)に決められている。

 さて、どの村がどの神様か?という事である。

 興浜が応神天皇、新在家が神功皇后、余子浜が玉依比売命である。

 文献より検証してみる。

  

 『魚吹八幡神社文書』大正5年の神社明細帳である。
 
祭神として左より玉依比売命(たまよりひめのみこと)・応神天皇(おうじんてんのう)品陀和気命(ほんだわけのみこと)・神功皇后(じんぐうこうごう):息長足比売命(おきながたらしひめのみこと)と記されている。この順番をタイトル写真の神輿の配置と照らし合わせればよい。

 同じく『魚吹八幡神社文書』の明治39年の魚吹八幡神社県社昇格願の中にも由緒書として「祭神 右殿玉依比売命 中殿応神天皇 左殿品陀和気命」とある。右殿・中殿・左殿とあるが、これは神様から向かって右側・真中・左側で、神輿の写真で言えば右殿は左側の余子浜・中殿はもちろん興浜・左殿は右側の新在家である。

 興浜『渡邊家文書』の宝暦10年(1760)庚辰2月の播磨国揖東郡揖西郡之内28箇村神社帳拠抄にも、末社三神 御神号御座候 玉依姫 応神天皇 神功皇后とある。

 由緒書については後日にしたいと思う。

  
 左の写真と右の写真は違う年に写したものである。近年興浜は、左側のように提灯は八幡宮を前にして飾っている。

 最後に、今年の祭りが無事に終わる事をお祈り致します。

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新在家墓地完成ニテ御座候

2012年08月13日 | 歴史散歩

 姫路市網干区新在家において市道拡張に伴う新墓地築造整備工事が終了しましたので、その中の石碑とともに報告致します。

 12月21日に魚吹八幡神社のお祓いから始まり、今月の5日に完成式があったようです。

 

 

 

  
 平成23年12月21日魚吹八幡神社より澤宮司・浦上権禰宜が来られてお祓いが行われた。

 

 もともと市道横にあった二本の石碑は、新墓地に移された。

 ひとつは、手塚與三五郎氏の漁業功労者としての石碑が大正10年に建立。

 もうひとつは、大正9年に手塚傳治氏が遭難船を救助に行って亡くなられた石碑。

 手塚與三五郎氏と手塚傳治氏の関係はまだ聞き取りしていないが親子か親戚であろう。

 

  

    

                      

 

 明治・大正時代の石碑には良く書かれている単語であるが、最近は余り聞きなれない単語を『広辞苑』で調べてみた。

 資性(しせい)      : うまれつき。天性。
 仁慈(じんじ)       : いつくしみめぐむこと。なさけ。
 勇敢(ゆうかん)     : 勇ましく果断なこと。
 夙ク(はやく)
 卒タ(おわった)
 勇躍(ゆうやく)      : 勇んでおどりあがること。
 厄(やく)           : くるしみ。わざわい。
 表旌(ひょうしょう) : 表彰
 識(しき)                : 心おぼえに書きしるしておく事

 この石碑の碑文の最後が珍しいように思っている。
 山内佐太郎富田佐一書とあるが、普通はのところがとあるのが多いように思う。

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武神祭 その12 平成13年当番町興

2012年06月05日 | 魚吹八幡神社

 平成13年3月25日(日) 近年の武神祭の予備日をつくる原因の無常の雨が降りしきった日である。不思議な事にこの日の前後は晴天であった。

 筆頭氏子興浜ならではの後世に残る試行が凝らされた武神祭になるはずであったのだが、残念な事であった。

 興ちゃんは興伸会幹事長として檀尻運行に携わった。詳細な記録を残しているのでいずれこのブログで紹介できればと考えている。

 雨の中での檀尻運行は前梃子・梃子持ちは前梃子経験者でその年に発足した前梃子会が担当。根曳きを興伸会・青年団の参加者120名が担当。

 タイトル写真は、魚吹八幡神社楼門前での曳き子の集合写真。

 雨の中での強行な檀尻運行の為、カメラを持つ人も少なく、貴重な一枚である。

 
 平成12年当番町津市場北の時の津宮山魚吹寺徳寿院からの目録。
 来年平成13年の興浜が当番の時も今年と同じように御献上品をお願いしますという目録である。

 
 平成13年の時の請書。
 御鏡餅と御供酒を献上頂き受取ましたという請書。
 受取致候(うけとりいたしそうろう)はいい響きです。

 
 こちらは魚吹八幡神社の目録。
 平成12年の当番町津市場北の時に来年は御献上品をよろしくという目録。
 御献饌下され候也(ごけんせんくだされたくそうろうなり)

  
 平成13年の当番町の時に御献上品を受け取りましたという目録。
 御献饌下され候也(ごけんせんくだされそうろうなり)

 

 長々と続いた武神祭シリーズですが、ブログタイトルにふさわしい候文の書状で一旦終了とさせて頂き、次回より別のシリーズに移っていきたいと考えております。

終わり

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武神祭 その11 昭和53年当番町興  四

2012年05月29日 | 魚吹八幡神社

 興浜が前回当番であった平成13年度の武神祭は無常の雨の為、献納行列は中止され場所を網干西小学校体育館に移しての献納行列披露と相成った。

 タイトル写真は、昭和53年の時の金刀比羅神社での出立ち前の風景である。

 興ちゃんその時中学2年生。大覚寺南側の関町に住んでいた。その関町の献納行列が赤穂四十七士の義士行列であったと覚えている。

 その行列に父が参加していた。赤穂義士が好きな父は近松勘六役であった。近松勘六34歳、赤穂藩馬廻役250石取。

 

 
 流し太鼓の衣装が自前の着物であったのがこの時かその前くらいから村持ちの着物に変わった。
現在調査中。

つづく

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武神祭 その10 昭和53年当番町興  参

2012年05月22日 | 魚吹八幡神社

 タイトル写真は、興ちゃん登場である。

 三木毅俊氏からアルバムを預かって目を通していて驚いた。自分がオドケテ写っていた。それも2枚。

 隣に写っているのがお隣に住んでいたヒトツ年上の今栄清志の兄ちゃんなので間違い無い。

 自分のアルバムには無い自分の写真に35年ぶりの再会に感謝。

 中学生は体育の服装で統一されていたが、腕章を見たら、現在「水掛係」と「電線係」であったが、この当時は「水掛係」が「給水係」であったようだ。檀尻横に付いた水槽に前もって役員さんがお願いされていた家からバケツで水をもらい給水するのが中学生の仕事のひとつであった。

 

つづく

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