どんぴんからりん

昔話、絵本、創作は主に短編の内容を紹介しています。やればやるほど森に迷い込む感じです。(2012.10から)

繁次郎のとんち・・北海道

2022年02月16日 | 昔話(北海道・東北)

         北海道のむかし話/北海道むかし話研究会編/日本標準/1978年

 

 江差の町に住んでいた繁次郎のとんち話。背が低く頭と目玉が大きく、甘いもの、お酒、なんでもござれの大食漢でした。

<頭も名人>

 ニシンつぶし(とれたニシンの腹をさいて、なかのものを取り出し、カズノコヤシラコをえり分け、魚体は身欠きにまわす作業)の名人というふれこみで、やとわれた繁次郎。

 ところがさっぱり働かない繁次郎をぎゅうととっちめてやろうと、大だるにいっぱいニシンをいれて、腕前を見せたら全部くれてやろうと親方がいいます。

 すると、繁次郎は人を呼び集め、「これからニシンつぶしの競争だ。つぶしただけは、みんな自分のものだ。さあ、かかれ、かかれ」と、たるのニシンをつかんではなげ、つかんではなげしたので、あっというまにニシンつぶしが終わってしまいます。

 くやしがる親方に、繁次郎はいいました。

 「親方、おれはニシンつぶしも名人だけど、頭の方もめいじんだね。」

<家宝のハラワン>

 おれの家には家宝があるから、いつでも借金をかえせると、けむにまいていた繁次郎。

 暮れもおしせまって、借金とりが繁次郎のところにいくと、繁次郎は、頭にはちまき、着物の前を広げて腹をだし、へその上におわんをひとつ のっけていました。

 「借金はどうしてくれる。家宝はどこだ」

 「これだよ、これだよ」

 「これとはなんだ」

 「これ。腹の上のわん。ハラワンハラワン。借金はハラワンという家宝だ」

<火がもえている>

 夕暮れの町にクリをにるうまいにおい。腹ペコの繁次郎が、いきなり大声で、「そのへん火がもえている」とさけんだので、「火事はどこだ。火事はどこだ。」と、みんな大騒ぎ。

 火元がわからないので、繁次郎を問い詰めると「おれは、そこらだ火がもえている、といっただけだ」

 「そこらだとは、どこだ。」

 繁次郎「その鍋の、クリの下だ。」といって、うまくクリにありついた。

<大飯ぐらいは身の毒>

 なまけるわりに、たくさんの飯を食う繁次郎に困った親方が「大飯は身の毒だぞ」と文句をいいます。

 次の日から、繁次郎、山から運ぶ薪が半分になってしまった。「どうしてそんなに少なく背負ってきた?」という親方に、繁次郎はいいます。

 「親方、大飯ぐらいは身も毒といったべさ。重荷は背中の毒だってばせ。」

<とうふとセンベイ>

 繁次郎酒一升のかけを若者にもちかけます。

 「とうふ一丁を四十八に切って、ひとつづつ全部食べられたら一升ふるまう。もしくいきれなかったら、そいつは おれに一升出せ。」

 繁次郎は、とうふのいっぽうを薄く切り、その一枚を四十七に細かくきざみます。そして残った大きなとうふとともに若者にさしだします。若者は細かいほうは、あっというまに食べますが、大きい方は一口ではたべきれず、賭けは繁次郎の勝ち。

 この若者が、繁次郎をやりこめようと、センベイ五十枚を三百までかんじょうする間に食えたら、お前の好きなもの腹一杯ごちそうしてやると、山もりのセンベイを繁次郎の前につきだします。

 繁次郎は、台所から、スリばちとスリこぎをもってきて、若者が持ってきたセンベイを粉々にして、水でこね、団子を作って、あっという間にたいらげてしまいます。

 

 この他にもたくさんあります。


がっくび・・岩手

2022年01月05日 | 昔話(北海道・東北)

          岩手のむかし話/岩手県小学校国語教育研究会編/日本標準/1976年

 

 ”がっくび”というのは?

 昔、山おくにかっこどりの親子が、いだったど。

 母鳥が、ヤマイモほってきて、子鳥にあげると、子鳥は「ああ、みぁなあ」「ああ、みぁあなあ」(うまいうまい?)って食ったど。

 母鳥は、子に うまいところを 食べさせ 自分は いっつも イモに少しついている がっくびを食っていたと。

 ところが、いつも一緒に食べない母鳥のことをふしぎにおもった子鳥が、もっといいものを一人でくっているにちがいないと思い悩みます。母鳥の腹さいで見れば いいものがはいっているにちがいないと、とうとう母鳥の腹ぁさいてしまったずに。そしたら、ヤマイモのがっくびばかり、はいっていたと。

 「ああ、たいへんなことをしてしまった。どうすんべ」と、何日も何日も泣いた子鳥は、ここにいられないと、渡り鳥になってしまったんだす。それでも、年に一回お墓参りにきては またかえっていった子鳥。

 はじめは、親鳥の腹のなかさ、がっくびばかりはいっていたので「ガックビ、ガックビ」とないていたが、年たちうちに、だんだん「ガックウ、ガックウ」となって、そすて「カックウ、カックウ」と変わり、今では「カッコウ、カッコウ」と、山でなくようになったのだす。

 

 ”がっくび”というのは、ヤマイモのつるでしょうか。親の思いが誤解されるのは、食い物だけにかぎったことではありません。


ふえふき太郎・・岩手

2022年01月01日 | 昔話(北海道・東北)

          岩手のむかし話/岩手県小学校国語教育研究会編/日本標準/1976年

 

 継母にいじめられていた太郎が、おど(父親)からいわれて、風呂敷に晴れ着と銀の笛をいれ、それを背負って西の山の方にいきます。

 日が暮れて真っ暗な中を行くと、明かりが見えます。そこはりっぱな長者の家でした。

 太郎はおどに教えられたように、顔に泥をぬり、長者に、馬の世話でもふろの火たきでもなんでもするから使ってくれるようお願いします。そこで「かってぇぼ」という名前で働くことに。

 長者の家にはむすめが三人いました。

 ここには下男が何人もいましたが、仕事はみんな「かってぇぼ」にばかりさせていました。それでも、太郎は文句言わずに、はいはいいって働き、みんな寝静まってから一番あとに風呂に入り、風呂から上がると銀の笛をだし、低くふいて習ったりしていました。

 すえむすめが、笛の音っこにきがつきますが、理由があるだろうからと、だれにも話さずにいました。

 そのうち、あちこちの村から笛上手が集まり競い合う秋祭りがちかづきます。長者の家でも、ことしこそ一番をとろうと、わけえ者たちに、仕事を休ませ笛の練習をさせます。しかし「かってぇぼ」はだれからも相手にされず、ただ働くだけ。

 秋祭りの日、長者の家の人たちは、笛比べにまけてしまい、となり村の人が一番に決まりそうになります。すると、すえむすめが、「かってぇぼ」をだせばいいといいます。みんな笑いますが、とにかく出してみるべと「かってぇぼ」がでることになりました。

 「かってぇぼ」の笛の音はいままできいたこともないような上手なもので、一番になり、長者のだんなはびっくり。

 このあとは、昔話の定番です。

 

 顔に泥をぬったりするのは、女性版がほとんどで、この話のように男性が出くるのはあまりありません。そして容姿などでなく 笛というのも、なぜか安心して聞けます。


あざみ姫の首・・岩手

2021年12月24日 | 昔話(北海道・東北)

          岩手のむかし話/岩手県小学校国語教育研究会編/日本標準/1976年

 

 山の中で暮らす五助とキク。

 遊びにいったキクが、待っても待っても帰ってこないので、五助が探すにいくと、とちゅうにキクの下駄。

 五助が山男のせいにちがいないと、山男のところにいくと、キクはそこで洗濯をしていました。

 山男には勝てそうにないとみた五助に、山男は「あざみ姫の首をもってこないと、キクは返せない」という。あざみ姫の首というのは見たこともないし聞いたこともない五助は、家にもどってもなかなか眠れない。

 そこへ、ぼろぼろの着物を着たおじいさんから、ひとばんとめてくれるよう頼まれ、おじいさんをとめた五助。五助が あざみ姫のことを話すと、おじいさんは、あざみ姫のことを知っていました。

 おじいさんから教えられたように東の方にいくと、ウメの木で、うっとりすような声でさえずっていた小鳥をみつけます。そこにいたおばあさんから岩切丸という刀を借り、さらに東へ。

 大きな沼からでてきたのは、神さま。鏡をもっていました。五助は、たのんでたのんで、ようやく鏡を借りることができました。

 あざみ姫のいる御殿に近くなると、大きな岩が道をふさいでいます。岩切丸がほんとに岩を切れるか試してみると、ざくっと切れて大きな穴ができ、そこをくぐってさらにさきへ。

 ずんずんいくと、大きな石がごろごろころがっていました。この石はあざみ姫ににらまれて、人が石になったものでした。

 あざみ姫に睨まれ石になることを警戒した五郎は、歩くところを鏡にうつしながら うしろ向きに歩いていきます。すると御殿の二階に、足まで届く長い髪をしたきれいなおひめさまがいました。

 これがあざみ姫かと近づいていくと、一本一本の髪がヘビになって、うねうねと五助の方に立ちあがってきました。

 キクのことを考えると、こうしてはいられないとはらをきめた五助は、岩切丸をあざみ姫の首にたたきつけます。首がねっこから落ちると、真っ赤な血が、湯気のようにもやもやと出て、霧がかかったようになり、その霧が馬っこみたいになってぴょんととびあがります。

 すると山一面に、きれいな花が咲き、御殿も人石も消えて、五助は馬っこといっしょに、山のなかにいました。

 五助があざみ姫の首をもってかえると、山男は約束通り、キクをかえします。それから五助とキクは、しあわせに暮らします。

 

 あざみ姫の髪の毛が一本一本ヘビになりますが、それ以外は正体不明のまま。そして、山男がなぜあざみ姫の首を欲しかったのも明らかにされていません。けれどもこまかいところにこだわらないのが昔話の世界です。

 キクは五助の妹でしょうか。


運はさずかりもの、お年徳神さま・・宮城

2021年12月13日 | 昔話(北海道・東北)

      宮城のむかし話/「宮城のむかし話」刊行委員会編/日本標準/1978年

 

 ちょっと短い宮城の話。

・運はさずかりもの

 産婆さまが、東の方の家の子には、青竹一本さずけ、西の方の家の子には48の蔵ばさずけ、めでてい、めでていと、かえっていきます。この産婆さんは山の神。

 東の家の子が大きくなって、山で青竹一本を見つけ尺八をこしらえると、たんまげて音のいい尺八。この尺八を懸命にふいて、日本一の尺八の名人に。

 西の家の子は、おおきくなっても、ごおろり ごおろり 寝てばかり。家を追い出され、あちこちを歩いて、のどかわいて沢で水を飲むと、それは酒で、この酒を売り歩いて大変な金持ちになって、48の蔵を建てて、幸せに暮らします。

 運をさずけるが、あとは自分の力で実現しなさいということでしょうか。

 

・お年徳神さま

 だれもが年をとらなかったら?

 そのためにお年徳神さまがいらっしゃるのかな?

 お年徳神さまがみんなの家をまわって年とりしていきます。
 一軒の家を忘れて、年をとらそうとすると、家の中はがらんとして、だれもいません。

 うらの口から外にでようとして、臼にひっかかると、うすがひっくりかえって中には人。
 「こごも、年とらせる人いだ。」と、年とりたくない人も年をとらせたと。

 

 だれもに平等におとずれるのが、年をとること。これからはだれも逃げれられません。


なぞの子もり歌・・宮城

2021年12月08日 | 昔話(北海道・東北)

      宮城のむかし話/「宮城のむかし話」刊行委員会編/日本標準/1978年

 

 とっぷり日が暮れて、旅僧がとまったのは親切な一軒の家。

 ご飯をごちそうになり、お風呂にもはいって、ぐっすりねむり、夜中にふっとめがさめると、子守歌が聞こえてきます。子守唄を歌っていたのはそこのががさま。

  ”りんがじんと、ががじんと、だんずることをもんすれば、旅僧をせっすとぐんだす。

  草にそうこないとときは、やんまとやんまを重ねべし。

  ねんねんころろ、ねんころろ。”

 不思議な子守り歌もあるもんだなあと思って聞いていた旅僧ですが、はっと気がつきます。

 「りんがじんと、ががじんと」というのは、となりの人とわが家の人
 「だんずることをもんすれば」というのは、語っていたことを聞くと
 「旅僧をせっすとぐんだす」・・旅の僧を殺す
 「草にそうこないとときは」・・草という字に、くさかんむりないのは「はやく」
 「やんまとやんまを重ねべし」・・山と山を重ねれば、出るという字

 つまり

 「ここの人と、となりの人が語っているのをきくと、旅僧を殺して、金をとって、早く出ていけ」ということ。

 そこの家のおやんつぁと、となりのおやんつぁが、研ぎ澄ました刀をもって、抜き足、忍び足、そっと旅僧の寝ている部屋にきてみると、布団はもぬけのから。旅僧に逃げられて、二人は地団太ふんでくやしがります。

 

 そこのががさま、旅僧も歌の意味がわかるほどの学問の力があったのですが、聞く方も試されそう。これまであったことのないめずらしい話です。

 注釈がないのですが、”ががさま”は 母親 ”おやんつぁ”は そこの親父さんでしょうか。


長者のむこ・・宮城

2021年12月05日 | 昔話(北海道・東北)

       宮城のむかし話/「宮城のむかし話」刊行委員会編/日本標準/1978年

 

 助けた者から、助けてもらいメデタシになる昔話。

 貧しい男が、いじめられていたサル、カメ、アブをたすけて、先に進んでいくと長者さまの門口に立て札。

 「川こえて、杉の木のてっぺんで踊りこ おどったら、むすめのむこにする」という。

 男もやってみることにして、着るもの、扇、鉢巻き用の手ぬぐいまで渡され川まで。ところが大きな川で流れも急。そこへカメがあらわれ、カメの背中に乗って向こう岸へ。

 杉の木のところまでいってみると、高い高い木で、とても登れない。そこへサルがやってきて、男の持っていた着物を着て、扇を腰にさし、すいすいとのぼり 扇をかざして踊ります。

 むこにするといったものの、長者の本心は別。そこで、おおぜいの娘をあつめ、このなかにいるむすめに盃をやるようにいい、まちがったら むこにしないと言い出します。男は見たこともない娘だから、どこにいるかわからない。ここでアブの出番。それでめでたく長者のむこに。

 

 助け助けられるのが一度というのは、よくありますが、三度の繰り返しが続くのは日本には珍しい。ここにでてくる男は乞食とありますが、お金でサル、カメ、アブを助けています。いじめているのが”わらすたち”と、こどもですが、あくまで後半へのつなぎでしょうか。


赤いこん箱・・山形

2021年11月29日 | 昔話(北海道・東北)

      山形のむかし話/山形とんと昔の会・山形県国語教育研究会/日本標準/1978年

 

 口から口へ伝承されてきたという昔話。何世代か伝承されてくると、骨格の部分は同じでも細かなところがちがってきてもおかしくはない。そして、いくつかの昔話がつなぎ合わせたものがあっても不思議はない。これはそんな話。

 

 ばあさが川さどんぶりを洗いに行くと、川上から赤いこん箱(香箱)と、白いこん箱がながれてきたど。ばあが、「赤いこん箱、こっちゃ来い。白いこん箱、あっちゃいけ」というと、赤いこん箱が、にこにっことばあさのところに流れてきた。(桃太郎風出だし)

 赤いこん箱からでてきたのはめんこい子犬。お椀で食わせればお椀ぐらいの大きさに、どんぶりで食わせればどんぶりのおおきさになった白犬。ある日、じいさまとばあが、白犬のせなかにのって山へ行くと、「ここほれ、カンコーカェン、あそこもほれ、カンコーカェン」という。じさまとばあが土を掘ってみると宝物がざくざく。この話を聞いたとなりのじいがやってきて、「しろば、ちょっと貸してけろ」という。貸してくれないと殺してしまうといわれ じいさまは、貸してやったど。

 となりのじさまは、いやがるしろを山に連れていき、めちゃくちゃにそのへんを掘り返したが、でてくるのは石っころやくそなど。おこったじいはしろば殺して、穴を掘ってうめ、ちっちゃな松の木をそのうえに植えて、かえってきたど。

 じいさまがしろをかえしてもらおうと、となりのじいのところにでかけ、松の木のところに行ってみると、松の木は、すばらしい大木になっていたと。じいさまは、しろのことはあきらめて、松の木を切ってうすをこしらえ、もちをついてみると、もちは大判小判に変わったど。

 となりのじいが、うすを借りて、自分も大判小判をだそうとすると、もちはみな汚いものにかわってしまったので、うすを割って、かまどに燃やしてしまったど。(花さか爺風)

 しかたがないので、じいさまが灰をもちかえり畑にまくと、畑一面にヒョウができたので、じいさまとばあは腹いっぱい食べたど。

 じいさまが”へ”をこくと、そのへは「綾ちゅうちゅう 錦さらさら ごよの股のあいだから ツツラブンバンビー」と聞こえたど。めずらしい屁だからと、旦那衆に聞かせると旦那衆はおおよろこびで宝物をくれたど。

 となりのじいも、おなじようにやってみると・・・。(鳥呑み爺風)

 

 ヒョウというのがどんなものかイメージできないないのが残念ですが、サツマイモやカボチャならわかりやすそうです。


あなほり長兵衛・・青森

2021年11月23日 | 昔話(北海道・東北)

     青森のむかし話/青森県小学校国語研究会・青森児童文学研究会/日本標準/1975年

 

 井戸掘りの”あなほり長兵衛”が頼まれたのは大根を抜くこと。長くて、長くて七日かかってやっと根元まで。

 頼まれたじさま、ばさまに声をかけて、ひっぱってもらうが、あとすこしというところで、長兵衛がつかまっていた大根のしっぽが ぽきんとおれ、穴の中へ真っ逆さま。

 ついたところがなんと地獄。閻魔さまが見たところ、地獄にくるような悪人の顔もしてねえ。「はやくかえれ」といわれても、どうして、かえったらいいかわからない。すると閻魔さまが「したら、この丸薬ばくれる。ひとつぶ飲めば穴の途中まで、もう一つぶ飲めば地面まででられる。あとのひとつぶは、もし、薬がきかなかったときのためだ。かならず、ひとつぶずつ飲めよ」と、黒くて丸い薬を、三つくれます。

 長兵衛は早く家へ戻りたい一心で、三つぶを一回で飲んでしまったから、さあ、たいへん。どんどん上にのぼりはじめ、どんどんあがっていて、ついたところが、雲の上。まわりには、かみなりさま。

 太鼓の係にされて、ばちでたたくが、重くて重くて持ち上げられない。かみなりさまからいわれて、汗をかきながら、一生懸命太鼓をたたいていると、だんだん上手になって、面白くなる。力を入れてたたくと、太鼓の皮が破れて、下界に大雨が降り、ためていた水も流れてしまい、かみなりさまはかんかん。

 かみなりさまからおわれた長兵衛はがむしゃらに走りますが、ふわふわした雲の上で、なかなか走れない。やがて雲の切れ目の中から、すとんと下に落ち、岩木山のふもとの大きな木の枝に、ぶらんと下がります。いくら叫んでも、山の中でだれも助けてくれる人がいない。しかたがないので木の枝で居眠りしていると、強い風がふいてきて、どしんと落ちてしまいます。そこがいまの弘前の富田だったと。

 

 最後は地名の由来まで。閻魔さまは、誰でも地獄に受け入れるということでもなさそう。 かみなり界も突然現れた長兵衛を太鼓係にするほどだから、人手不足か。


タラつけサブ・・青森

2021年11月21日 | 昔話(北海道・東北)

     青森のむかし話/青森県小学校国語研究会・青森児童文学研究会/日本標準/1975年

 

 「牛方と山姥」の青森バージョンですが、途中鬼ばばあから逃げ出すあたりは「長靴をはいた猫」風です。

 タラを売り歩いていたサブが、鬼ばばあから脅かされ商売物のタラだけでなく、赤べごっこ(牛)まで食べられ、次には命まで狙われて、逃げ出します。

 サブは、カヤかりをしている人のところにいって隠してくれるよう頼み、つぎには船大工のところでも隠してくれよう頼み込みます。

 ところが、カヤかりの人も、船大工も、鬼ばばあから「こねぇだま、なんだば おまえどを、かみしめるぁ」と、脅かされ、すぐに隠れた場所を白状してしまいます。

 家に逃げ帰ったサブは、ほし栗をふところにいれ、縄で屋根裏部屋にかくれます。

 鬼ばばあが、家にやってきて縄をのぼりはじめると、サブは ほし栗をピチカチッと かみます。すると鬼ばばあは、縄がきれそうだと 縄をおりますが、きらめきれず、またのぼりはじめます。するとサブは、もういちどほし栗をピチカチッとかんで、「縄が切れるところだ」と、叫びます。あきらめた鬼ばばあが、炉に火をごんごんもやし、眠ってしまうと、サブは、じゃんぐと煮立った湯を寝ている鬼ばばあに がおっとかけます。すると、鬼ばばああは ぐにゃぐにゃと、じぇんこ(お金)になってしまいます。

 

 「タラけろでぇ」「おまえば食いてぇでぁ」「これければ、あすから、あきないにならねもぇ」など、鬼ばばあとサブのやりとりは、共通語ではどぎつくなりますが、方言だと不思議なリズムがうまれます。


じぇんこがモッケになった話・・青森

2021年11月18日 | 昔話(北海道・東北)

     青森のむかし話/青森県小学校国語研究会・青森児童文学研究会/日本標準/1975年

 

 「じぇんこ」はお金、「モッケ」はかえるのこと。

 「かえるのぼたもち」という昔話は、よめさんにぼたもちを食わせたくなかった姑が、「ぼたもち、ぼたもち、もしよめが重箱の蓋取ったら、かえるになってくれ」と言い聞かせて外にでていくと、それを聞いていたよめさんが、ぼたもちを 食べてしまい、そのかわりに重箱にかえるをいれておき、かえってきた姑が重箱をあけると、なかからかえるがでてきたので「よめでねえ。ばあさまだ」と、あわてる話。

 この話も全国にみられ、この青森版では、金持ちと おじいさんとのやりとりで、かえるがでてきます。

 欲張りの金持ちが、火事になったらどうしよう、泥棒に入られたらどうしたものかと、心配して、漬物がめに、じぇんこをいれて畑にかくし、「ほかの者が、おまえをみつけたら かえるになれや」といいます。

 ところが、夜中に小便におきたとなりのじいさまが、これをきいて、畑をほって、じぇんこを全部とり、かえるを いれておきます。

 そして、金持ちは、かめからでて、とんでいく かえるをおいかけていきます。

 

 都会だけでなく地方でも、よめと姑の同居はすくなくなっているのではないでしょうか。また、デジタル化で、お金そのものの意味合いがことなってきました。こうした時代の中で昔話も淘汰されるものがでてくるのもやむを得ないかもしれません。


あかんぼうになったじさま・・青森

2021年11月14日 | 昔話(北海道・東北)

     青森のむかし話/青森県小学校国語研究会・青森児童文学研究会/日本標準/1975年

 

 「若返りの水」と、おなじものかと思ったら、おわりかたもユニークです。

 

 貧乏から抜け出したいと 毎日観音様に通って拝んでいたじさま。そこであきんど風のあん様とであいます。あん様は木綿問屋で、子どもが授かるように観音様においのりしていました。

 じさまが三七、二十一日の終わりの日、いつものように観音様にお祈りしていると「ここに、ありがたい、護符が五枚あるから、おまえにさずける。この護符を一枚飲めば、二十ずつ年が若くなるから、たくさん若くなって、一生懸命働くがよい。そうすれば金持ちになるだろう」という声。

 じさまが、もう、はやく若くなりたくて一枚の護符(お守り)をぺっろっと飲み込むと、すっと四十くらいになったど。もっと若くなりたくて、もう一枚護符を飲むと、こんどは二十ぐらいの若者に。

 若くなったのはいいが、村へ帰ると「どこの若者だ」「みたことのねえ若者だな」と、誰も相手にしてくれない。

 そこで、じさまは、観音様のところでであった木綿問屋で働かせてもらおうと町へでかけます。木綿問屋は蔵が七つもある大きな店で、着ているものを見た番頭は、相手にしてくれません。がやがやさわいでいるところへ、あん様がでてきて、きがついてくれます。

 若くなった理由を聞かれ、護符のことをはなすと、あん様から「一枚、その護符をくれ」といわれ、うんとごちそうになったお礼に、護符をあん様にあげると、あん様は、すぐに、護符を飲み込み、すぐに二十五、六の若者になります。

 それをみた、あん様の嫁っこも、びっくりぎょうてんして、「これだら、わたしが年上でつりあわねえから、わだしさも、一枚くれ」というので、しかたなく護符を一枚、嫁っこにやると、十七、八の嫁っこになってしまいます。

 それをみていた、はげ頭の番頭も、一枚くれと頭をさげますが、一枚しかなくなった護符を、番頭にやることがおしくなったじさま。寝床で考えますが、どう考えても、ひとにやるのがおしくなって、「この一枚ば飲んでしまえば、だれにもとられないんだ」と、最後の一枚を、ぺっろと飲んでしまいます。つぎの朝、寝床の中には生まれたばかりのめんこい赤ん坊が。子どものいなかったあん様は、観音様のさずかりものだと、おおよろこびして、あかんぼうをそだでたぞ。

 

 再度人生をやり直すことになったじさま。相方の若返った姿を見た嫁っこのおどろきが想像できる ほっこりした昔話です。


米良の上漆・・秋田

2021年05月31日 | 昔話(北海道・東北)

              日本昔話大成 第四巻/関敬吾/角川書店/1978年

 

 ある兄弟が、朱の塊がたくさん埋まっている赤淵という深い深い淵に潜り、朱をとって、それを町へもっていって売り、暮らしをたてていました。

 腹黒い弟が、淵の朱をひとりじめしようと、朱塗りの膳で蛇体頭をこしらえ、それをこっそり赤淵へ沈めておきました。何も知らない兄が、翌日朱を取ろうとしたら、大きな竜が真っ赤な口を開いて自分を飲み込むように見えたので、蒼くなって逃げてきました。それからは弟は自分ばかり朱を取って大儲け。

 ある日、いつものように淵に出かけ水へ入ろうとしたら、気のせいか竜が生きているように見える。そんなはずはないと水に入ろうとすると、その竜はほんとうにいきていて、弟を一のみにしてしまう。

 

 自分ばかりいいことをするもんでないという教訓。昔話では、腹黒いのは兄という相場ですが、この話では弟です。新潟県にも同様の話があるといいます。


やまんばのにしき・・秋田

2019年09月21日 | 昔話(北海道・東北)

やまんばのにしき(日本の民話7/妖怪と人間/瀬川拓男・松谷みよ子・編/角川書店/1973年初版)

 この昔話のもとになったのは1958年の「秋田の民話」(瀬川拓男・松谷みよ子/未来社))。

 村人が月見をしていると、空がにわかに曇り、風が吹き雨が降り、雹までが音を立て降ってくると、「ちょうふくやまの山姥が子どもうんだで、餅ついてこう。ついてこねば、人馬ともに食い殺すどう。」と叫ぶ声。

 村じゅうは大騒ぎ。村中が米を出し合って餅をついたが、さて持っていく者がいない。白羽の矢がたったのが日頃力自慢の若者ふたり。なかなかうんといわなかったが、あかざばんばと呼ばれる婆さまが案内をかってでて、若者二人とあかざばんばが山に登ることに。

 ところが、若者ふたりは途中でこわくなって、餅をおいて逃げてしまい、残ったあかざばんばがひとりきり。ようやく山のてっぺんのこもの下がった小屋につくと・・・・。

 山姥がでてくると恐ろしいイメージがありますが、あかざばんばが21日間山姥の手伝いをすると、山姥は不思議な「にしき」をお礼にくれ、あかざばんばは無事に家に帰ります。

 村ではあかざばんばが死んだものと思って、お弔いをだしていたのですが・・・・。

 山姥からもらった「にしき」は、切っても切ってももとどおりになる「にしき」。

 村人みんなが風邪もひかず、楽に暮らしたという、ほっとする終わり方です。

 山姥は子どもを産んで、手助けがほしかったのでしょう。肝っ玉おっかさんのような山姥です。

 山姥の子どもは、熊をとってきたり、あかざばんばを背中にのせて、あっという間に村にとどけたりと、はじめはこわそうですが、おわりはとってもあたたかくなります。

 

 絵本が、松谷さんと長谷川さんの2冊ありました。        

      やまんばのにしき/作:松谷 みよ子 絵:瀬川 康男/ポプラ社/1967年

 

      てのひらのむかしばなし やまんばとがら/長谷川摂子・文/沼野正子・絵/岩波書店/2004年

 「やまんばとがら」とあったので、最初は気がつきませんでした。松谷さんの37年後に出版されています。

 がらというのはやまんばの子。生まれてすぐに四つか五つになるほどの大きさ。

 やまんばもがらもやさしく、ようやく、やまんばのところにやってきた あかざばんばに がらが、くまを かついできて、クマの肉のぞうにを はらいっぱい ごちそうします。

 あかざばんばは、七十過ぎとありますが、どうして、あかざばんばとよばれていたのか気になりました。

 再話でも作者によって、大分印象がちがいます。


親子三人馬鹿・・秋田

2019年02月12日 | 昔話(北海道・東北)

      いまに語りつぐ日本民話集5/笑い話・世間話/野村純一・松谷みよ子・監修/作品社/2002年


 あまりかしこくない父親と二人の息子の会話。

 十五夜は月のはじめにあるという兄。月の終わりにあるという弟。
 父親の教えは、十五夜というのは、ある月も、ないつきもある。

 下の息子が「海の水は、あんなに沢山、川から流れて行っても余らねえのだべ」と聞くと
 父親「海の水が余らないのは、魚が沢山いて、のんでしまうからだ」

 下の息子の疑問は素直です。確かにいくら水が流れ込んでも、海の水は増えません。子どもからきかれたらうまくこたえられるか、自信がなくなりました。