富岡製糸場は 官営の製糸場として 明治5年に操業を始めていますが
そもそも なぜ日本の生糸が そんなに海外に 輸出されたのか…?
学校で習った歴史では 日本は明治初期から 軽工業(繊維工業など)が盛んになった
富岡製糸場も 明治政府の殖産興業政策の一環として 造られた官営工場であることも習いました
昨日 富岡製糸場の有料ガイドさんの話で すごく納得できたことがあります
それは 日本の生糸生産が ヨーロッパで どうしても必要だった事情があったということなんです
フランスの王妃マリー・アントワネットは、次から次にドレスを作り贅沢をしていたが、
そのドレスの材料といえば「絹」である。
「絹」は、蚕の繭からとった天然繊維で、「蚕」が欠かせない。
だが、フランスの蚕に1854、55年頃(明治維新の10年ちょっと前あたり?)に
疫病が流行し壊滅的状態となった。
この状態を救ったのが、「日本の蚕」だった。
そもそも、養蚕と絹は、中国からヨーロッパへ、シルクロードを経由して伝来したといわれ、イタリアがヨーロッパの養蚕業発生の地で、ローマ時代にはすでに養蚕業が行われていたという。
フランスにはイタリアから伝わり、16世紀半ば頃リヨンで絹織物の生産が始まったが、
早くも16世紀後半からは宗教戦争の影響で衰退した。
しかし、17世紀に入ると回復し、生産の拡大を続け、1720年頃に繁栄期を迎えた。
1760、70年代から伸び悩み、1780年代には需要の減退により生産量が低下した。
その後、19世紀半ばのナポレオン3世の頃には、リヨンは絹織物の世界的中心地となっている。
再び繁栄期を迎えたにもかかわらず、1854、55年頃に蚕の疫病が蔓延してしまい、
イタリアでも同様な状況だったため、1854年に開国したばかりの日本から蚕種紙(蚕の卵が産み付けられた紙)を輸入した。
中国からも生糸を輸入したが、中国では太平天国の乱(1851~64年)が起こっていたため、貿易においては日本が有利だった。
上記は ネットで探した記述ですが ガイドさんの話を補足するために調べたのです
明治初期に 日本の生糸が ヨーロッパで必要とされた理由が よく分かりました
富岡製糸場に 指導者として招へいされたブリュナさんが フランス人だったことも これで納得!
そもそも なぜ日本の生糸が そんなに海外に 輸出されたのか…?
学校で習った歴史では 日本は明治初期から 軽工業(繊維工業など)が盛んになった
富岡製糸場も 明治政府の殖産興業政策の一環として 造られた官営工場であることも習いました
昨日 富岡製糸場の有料ガイドさんの話で すごく納得できたことがあります
それは 日本の生糸生産が ヨーロッパで どうしても必要だった事情があったということなんです
フランスの王妃マリー・アントワネットは、次から次にドレスを作り贅沢をしていたが、
そのドレスの材料といえば「絹」である。
「絹」は、蚕の繭からとった天然繊維で、「蚕」が欠かせない。
だが、フランスの蚕に1854、55年頃(明治維新の10年ちょっと前あたり?)に
疫病が流行し壊滅的状態となった。
この状態を救ったのが、「日本の蚕」だった。
そもそも、養蚕と絹は、中国からヨーロッパへ、シルクロードを経由して伝来したといわれ、イタリアがヨーロッパの養蚕業発生の地で、ローマ時代にはすでに養蚕業が行われていたという。
フランスにはイタリアから伝わり、16世紀半ば頃リヨンで絹織物の生産が始まったが、
早くも16世紀後半からは宗教戦争の影響で衰退した。
しかし、17世紀に入ると回復し、生産の拡大を続け、1720年頃に繁栄期を迎えた。
1760、70年代から伸び悩み、1780年代には需要の減退により生産量が低下した。
その後、19世紀半ばのナポレオン3世の頃には、リヨンは絹織物の世界的中心地となっている。
再び繁栄期を迎えたにもかかわらず、1854、55年頃に蚕の疫病が蔓延してしまい、
イタリアでも同様な状況だったため、1854年に開国したばかりの日本から蚕種紙(蚕の卵が産み付けられた紙)を輸入した。
中国からも生糸を輸入したが、中国では太平天国の乱(1851~64年)が起こっていたため、貿易においては日本が有利だった。
上記は ネットで探した記述ですが ガイドさんの話を補足するために調べたのです
明治初期に 日本の生糸が ヨーロッパで必要とされた理由が よく分かりました
富岡製糸場に 指導者として招へいされたブリュナさんが フランス人だったことも これで納得!