土曜日の新柴又教室での話題。
なぜ、鎌倉町という地名なのか、本家?の鎌倉と何か関連があるのでしょうか。
その場では誰もわかる人がいなかったので、調べてみました。
東京地名考という本があったはず、と探してみましたが見つかりません。
それではネットのウィキペディアで。いくつかの説があると書いてあって、うち2つを記述。
・相模国鎌倉郡にある鎌倉八幡宮から勧請して八幡宮をこの地に置いたのでついた説。
・相模国鎌倉郡から来た源右衛門がこの地を開発したことからついた説
鎌倉八幡神社は、鎌倉4丁目に実在する神社なので、その由緒を調べてみました。
「相模鎌倉郡の人、源右衛門が当地開発に際し、寛永年間(1624-44)に鎌倉八幡宮を勧請して
氏神としたと伝えられ、江戸時代には旧鎌倉新田村の鎮守となっていました」(猫のあしあと)
ここでは、ウィキペディアの2つの説が一つになっていました。
葛飾区教育委員会の葛飾区神社調査報告にも、その旨掲載されているようです。
というわけで、このあたりが妥当なところでしょうか。
さて、ここからが本題。
調べているうちに、東の京あちこちに鎌倉橋、鎌倉通りの地名があることを知りました。
どうやら、中世の頃、鎌倉街道(鎌倉海道)が通っていた名残のところもあるようです。
「鎌倉街道には上道、中道、下道(しもつみち)の道筋がある。
鎌倉から武蔵国側の東京湾沿いを北上して下総国府、常陸国に向かう道筋を下道と呼ぶ場合もある」
だとしたら葛飾区鎌倉町にも、中世鎌倉街道が通っていたのではないか?
というわけで調べてみたのですが、残念ながらわかりませんでした。
そこで思い出したのが、葛飾には古代東海道が通っていたという話。
10年ほど前に、地元学の講座で教えてもらったのですが、奥戸街道あたりはその一部です。
ネットで古代東海道のルートを調べてみたら、格好のマップがありました。(冒頭画像)
葛飾区内では、四ツ木、立石、奥戸、細田、鎌倉、小岩と通っています。
もしかしたら、中世鎌倉街道は、古代東海道と同じ道筋だったのではないか。
わたしの勝手な推測に過ぎませんが、こうした時間を過ごすのもなかなかオツなものです。