現実のあれこれに追い立てられていると、感性ががさついてくる気がします。
ゆったりと自然に身を浸す無為の時間をつくらねば・・・・。
と思いながらも、相変わらず資料作りでパソコンに向かっています。
理性とか合理性とかを嫌うほうではありませんが、情緒的な心性も失いたくない。
というか情緒のほうが根源的、本来的なものなので、合理一辺倒では息苦しい。
だから時には息苦しさから解放されたくて、情緒を求めるのかもしれません。
人間の理性には限界がある、人間はどこまでも理性的であるべきものである。
先日読んだ本に、前者を右翼、後者を左翼というと書いてあって、へえ~。
それでは信条にこだわってしまうと、どこまでいっても平行線になりかねない。
政権と沖縄県知事との会談にもそれがありました。
もっとも信条と云うより、目線が違うといったほうがいいのかもしれません。
一方は遠くの宗主国を仰ぎ見る?目線、もう一方は地元、足元を見る目線。
理性の限界云々の話に戻ると、この世の中に限界のないものなどはない。
とわたしは思っているから、わたしは右翼?
でも、若い頃は心情的左翼。心情的というのは政治活動をしなかった、の意。
ともかく何かを100%信じたり思い込んだりはできません。
何かを決めるにしても、この判断でいいのだろうか、という思いは常につきまといます。
決めてしまったあとも、これでよかったのだろうか。でも、正解はたぶん誰にもわからない
情緒的でいられる、ということは、考えることや判断を求められません。
いいなあ、きれいだなあ、たぶんそれが無為の時間と云うことにつながるのでしょう。