六畳の神殿

私の神さまは様々な姿をしています。他者の善意、自分の良心、自然、文化、季節、社会・・それらへの祈りの記。

狸親

2005年05月22日 | 心や命のこと
 本日は、タヌキ(Nyctereutes procyonoides)の子育ての話から。

 動物もののドキュメンタリー番組か何かで紹介されたことがあるので、ご存知の方もいらっしゃるかもしれない。
 タヌキは愛情深い動物で、子が生まれると、夫婦が協力して子育てする。通常、子は5~6頭生まれるが、まれに1頭しか生まれないことがある。そういう場合、その子はうまく育たないそうだ。愛情深い親タヌキはオスもメスも一生懸命子をかまい、舐め回して可愛がる。そのため1頭だけの子は、乳を飲もうとしても舐め転がされてうまく乳首に吸いつけず、眠ろうとしても夫婦競って世話を焼かれるため起こされてしまう。栄養も休息も満足に得られずに、子は次第に衰弱していく。親タヌキはなおさら必死で子の世話を焼く。それでその子は結局死んでしまうのだそうだ。

 親タヌキの行動は愛にもとづいたものだし、とった行動にも、それほどの間違いはない。だが、適切さを欠くゆえに、愛情が子を殺すこともある。

 いま全国で何万人もの不登校児やひきこもり、ニートが社会問題になっているが、彼らの親たちの多くが、この「狸親」ではないだろうか。いや、もしかしたら日本の「親」たちのかなりの割合が、そうかもしれない。「疲れた」が口癖でドリンク剤愛飲の小学生・・なんて典型的な「衰弱した子狸」の姿ではないだろうか。

 親の行動は愛ゆえだと誰の目にも明らかだから、誰も責めることができない。「何かヘンな親子」と違和感を感じつつも「まぁ子育て方針は各家庭でいろいろあるわね・・」と見逃され、子の声にならない悲鳴は、闇に呑みこまれていく。

 昔は多人数・多世帯の同居が珍しくなく、いろいろな価値観が一つ屋根の下にあった。目配り口出しをする人も地域の中にも多かったから、子は「未熟な狸親」からのみ育てられることはなかった。狸親自身も地域共同体の一員であることを強要されていたから「家庭と言う巣穴」にひきこもることができなかった。
 しかし今は人間関係が希薄だし、ひきこもることも自由だ。「思い遣りからの苦言」を言う人も滅多にいなくなった・・価値観が多様化して、聞く耳もたない人が増えたから。聞く耳のない人に何かを言って不快な顔を返されれば、誰だって口を閉ざすようになる。

 また、情報過多で「狸親」自身が日々「自分は良い親かどうか」という内なる評価に晒され続け疲弊している。
 昔は「生きること」と「子を育て上げること」さえクリアすれば充分評価された。しかし今やそれはアタリマエの事になってしまって、評価の力点は「より良いかどうか」の方にズレてしまった。そのため、常に比較作業が必要になり、心の余裕が無くなった。「親としてダメ」と評価されるのが怖くて家庭という巣穴にひきこもり、助言にも耳をふさぐ。そして疲労ゆえの感覚麻痺から「外から『より良く』見えれば子の心など死んでいてもよい」というところまで容易に滑り墜ちていってしまう。

 生きるために・・「食べて、眠る」という単純なことをして人並みのアタリマエの成長をするために、愛情深い親に牙を剥かなくてはならない子が、いる。安心できる巣穴であるべき「家庭」は、生き残りを賭けたサバイバルフィールド。

 そんな家庭があることを・・そこで育つ子の苦しみと哀しみを、理解できない人は全く理解できない。
 「親にあんなに愛情を注がれて、あの子は何が不満なの」
 「贅沢な悩みだよ」
 「甘やかされているだけだ」・・
 周囲に理解されない絶望から、子は衰弱する。子が弱れば弱るほど、親は必死になって、なりふりかまわず舐めまわすように愛情を注ぐ。それで子はますます弱っていく・・

 あなたの身近に、そういう「狸親子」はいませんか?

 もし身近にそういう親子がいたら・・あるいは「もしかして自分は『狸親』かもしれない」と感じてしまったら、どうすれば良いのだろうか?

 ・・答えは、次のエントリーで (^^)

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