六畳の神殿

私の神さまは様々な姿をしています。他者の善意、自分の良心、自然、文化、季節、社会・・それらへの祈りの記。

幸せについて

2006年01月24日 | 心や命のこと
 「よいお年を」 に寄せられたsayaさんのコメントに対し、もっと丁寧にお答えする必要があるのではないかと、ずっと心に引っかかっていました。
 「公開した記事をどう受け取るかは読み手の自由なんだから、そのままでいいじゃないか」とも思ったのですが、こんなに何日も引きずるということは、私にとってもこの話題は何か大切なことなんだろうな、と思い直して、今日は、後日談も含めて、もう一度お話ししたいと思います。少し長くなりますが、ご興味のある方だけお付き合いください。

 まず、あのエントリーで私が言いたかった主旨ですが、「私は幸せ、なのに彼女は独身のまま死んじゃって可哀想」ということではありませんでした。

 若くして世を去ることは、本当に痛ましいことです。本田美奈子なんかもそうですが、どんなにか、もっと生きたかったろう、どんなにか、大切な人々、とりわけ自分を慈しんでくれた親を残して先に逝かねばならぬことを嘆いたろう・・さらに言えば、おそらくは「なぜ私だけが」という苦しみも、「もう楽にしてくれ」と叫ぶような苦しみも、あったことだろうと思わずにはいられません。

 そんなことはない、亡くなった人は精一杯自分の生を全うして満足していたんだと、認めてあげたい気持ちは分かります。でも本当のところ、その方がどんな思いを抱いて世を去ったかなんて、実は当人にしか分からないことじゃないでしょうか。「認めてあげなきゃ、故人が可哀想すぎる」というのは、もしかしたら生者の奢った同情かもしれません。

 人の幸せは、その当人にしかわからない。人生の充足は、他者には測れない。

 残された者にとってできることは、もう訊く事のできない当人の想いを想像すること、そこからうかがい知れる故人の希望をただ受け入れることだけです。
 その手がかりは、時間の中で積み重ねてきた関係や、思い出や、ゆかりの品々や言葉にちりばめられています。そこに「故人の満足」を見い出すことができれば、残された者にとっては本当に救いです。それらを拾い集め、多少の願望や愛慕も込めて、「良い人生だったね」とはなむけの言葉を、もう届かない耳にささやく。残された者が去りゆく人に対してできる、それが唯一の、そして最大の作業です。

 でも、あのエントリーを書いた時点で私には、友人に手向けるはなむけの言葉が何も無かった。突然の知らせで、友人の想いを推しはかりsayaさんのように「短いけれど充実していたね」と言ってあげる材料が、手近に何もみつからなかったのです。何年も季節の便りをやりとりしながら、近況は何も知らなかった。

 それって、友人として失格ではないか。

 私はあの時点で、友人を二重に・・肉体としてだけでなく、友人という関係までも喪ったのかもしれないと、衝撃を受けていたのです。

 でも、いまさら時間は巻き戻せない。せめて、せめて、何か幸せのかけらをはなむけに贈れないだろうか・・。そう考えるのは、遺された者の情として当然ではないでしょうか?棺に花を入れるように、故人の好物を遺影の前に供えるように。何か、何か無いかしら。

 そして、「家族に対する献身という幸せ」ならば。中学時代の彼女の性格から察するに、その「幸せ」ならきっと見い出すことはできたんじゃないだろうか。確信に近い願望を込めて、あのエントリーを書きました。

 私は家族から「家族に対する献身という女の幸せ」を充分に教わらずに育ちました。家族からの献身に対しては常に、感謝や成功(「いいお子さんですねー」と世間様から親がうらやましがられること含む)といった《見返り》を求められ、将来の恩返しを期待されて育ち、おかげで「期待には応えなければならない」という脅迫的な感情がこの歳になっても未だに抜けません。
 だから、あのエントリーにも書いたとおり、ダーリンに出会う前までは「自分のことは自分ですれば」的な女だったわけで、それが「自立した大人どうしの関係だ」と賞賛されていた世代でもあり、「見返りのない献身は、損」と脳裏に刷り込まれておりました。
 そうでない幸せを、ダーリンと暮らすことでようやく学ぶことができた。
 でもそれって、ふつうの家族に育った女性にとってはきっとあたりまえの事。ことさら学ぶような事でも、「幸せだぁ」と嬉しがる事でもないのかもしれません。ゆえに、そのあたりの「自分の境遇の説明」が足りなければ、『「私のように幸せだったかしら」と誇っている』と読まれても仕方ないかなとは思います。

 あのエントリーは友人の人生を評するのが目的ではなく、私自身の人生についての考え方・・生きるうえでの《心構え》というか。常に予測できない人生において、他者が私の人生をどう評しようとも、常に死を対置しつつ心に真実を離さないように生きよう、という決意表明みたいなつもりでした。
 そうすれば、たとえ明日突然に死が訪れても、大切な人たちに「私は満足だった」という言葉を残すことだけはできる。その言葉を全員が私の期待通りに受け取ってはくれないかもしれないが(特に両親なんかはかなり期待薄ではあるが)ともかく「多代里は不幸せだった、可哀想な人生だった」と嘆き苦しませ続けることだけは無いだろうと。そのためにせっせとブログにノロケ話を書いている、という側面があります。

 でも、そういうオノレの自己満足的決意表明など、読むだけ不快だから書くな、と言われてはねぇ・・。
 公開日記とかブログっちゅーのは路上ライブみたいなもので、気が向いた人だけ立ち止まって聞いてくれれば良いし、そうでない人は素通りしていくもん、と思っていましたが、そういうモノではないのかしら。どうも私は「引っ込め、へたくそ!」と野次られることが多いような気がする・・気のせいでしょうか。
 多分、何か野次りたくなるような表現というか、芳香を放っているのだろうなぁと自分でも思います。ひっかかるっちゅーかね。路上でやるには不適切な選曲っちゅーかね。確かに私もいろんなブログやサイトを覗いて回ると、ちょっかい出したくなる文面て有るものなぁ・・。
 ・・まぁ、「へたくそー」と野次られても気にせず歌い続けていれば、いつか誰かの心に届く、それが路上ライブの醍醐味であるわけですが・・その話は、また後日。

 後日といえば、その後の話。私は友人のお別れの会に参列しました。

 会場に着くと、少し時間が早かったせいもあり、他に参列予定の地元の友人たちはまだ誰も来ていませんでした。従って、周りは全く見知らぬ顔ばかり。気後れしまくりで受付に向かいました。友人のご遺族の顔も知らないので、まずはどなたがご親族か尋ねて、参列者の中からさがしだしてご挨拶をして、私が彼女とどんな関係だったかを説明することから始めなきゃ・・などと思いながら、受付に居る方にお悔やみの言葉を述べ、香典を渡し、芳名帳に住所と名前を書きました。
 すると、文字を見てその方が目を丸くしたのです。
 「**(←私の本名)さんって・・あの**ちゃん?A子(亡き友人)が良く言っていた、あの**ちゃん?」
 そしてすぐに喪主である友人のご両親に「**ちゃんが来てくれましたよ」と知らせて下さり、友人にお顔のそっくりな年老いたご夫婦が出てきて、温かく迎えて下さいました。
 「ああ、A子がよく話していましたよ。あなたが、**ちゃんですか。そうですか、そうですか・・」

 その瞬間、私とご遺族の真ん中の空間に、確かに彼女が、居た。肉体はもう無かったけれど、すぐそばに佇んで、笑った気配を感じた。

 私と、この見知らぬ老夫婦を対面させているのは、彼女をおいて他にない。この方達は、もし彼女がいなければ、私がこうして言葉を交わすことはおそらく一生無かっただろう相手だ。
 私たち個々に固有の時間と空間を《今ここ》という場で結びつけたのは、今はもうこの世に居ない人の、力。

 人というものは、個人で、個別の肉体としてだけ生きているんじゃない。本当にそう感じた。人と人、第三者と第三者の関わりの中からも、リアルに立ち上がってくる存在なんだ。
 そういう意味では、彼女は死んでいない。私の思い出の中という主観だけでなく、他者との関わりという何も無い空間の真ん中に、彼女は存在し続ける、彼女を想い語り合う人間がいる限り。

 友人失格などと、独りで衝撃を受けていた自分は、何と浅はかだったろう。彼女は、私との友情をこんなに大切に思い、ご家族とも分け合ってくれていたのに。

 「A子は、**ちゃんには病気のことを知らせてなかったんですね。じゃあ、元気だった頃のA子の姿しか想像できないでしょう」とご両親は言った。長い闘病の日々の様子や、思い出のあれこれを、問わず語りに教えて下さり、私がはなむけにしたいととっさに願った、「家族への献身という幸せ」の玉石が、間違いなく彼女の胸に抱かれていたと知ることができ、本当に安堵しました。

 そして、ご両親は最後にこう言われた。
「A子のことを忘れないで下さいね。覚えていてくださいね」

 それを聞いて、ふと、分かった気がした。
 彼女はきっと、私には、元気な頃の姿だけを覚えていて欲しかったのかもしれない。病院にお見舞いに行った友人も言っていたけれど、病み衰えた姿を見せたくないという気持ちは、同じ女として良く分かる。長い闘病の合間の便りにも私に全く知らせてくれなかったのは、友情の度合い云々の話ではなく、そういう友人としての役割を私に期待していたのかもしれない、と。
 その気持ち、分かるよ。ひとりくらい、そういう友人がいてもいいよね・・

 元気で、将来はきっと肝っ玉母ちゃんになりそうな、でもどこかハニカミにゆれる、向日葵よりは黄色のガーベラみたいな少女だった、彼女。

 それが故人の希望ならば、それを受け入れるのが、私にできる友人として唯一の、最後の、精一杯のことだ。

 忘れません、とご両親に約束して、会場を後にした。

 忘れないよ。いつまでも。