六畳の神殿

私の神さまは様々な姿をしています。他者の善意、自分の良心、自然、文化、季節、社会・・それらへの祈りの記。

男と女の間には冥くて深い川が・・2

2005年03月13日 | 心や命のこと
 前回の「男は男なりに、不器用なりに」という表現には、補足が必要かもしれない。
 
 「不器用」というよりは、大づかみと表現した方がいいのかな。

 それは顕微鏡の接眼レンズに例えると分かり易い。
 プレパラートの上に対象物を載せて、ある倍率の接眼レンズを用いる。たしかに物体を載せたはずなのに、まるで何も無いかのように見えないことがある。そこで別の倍率のレンズを持ってくる。すると魔法のようにくっきりと像が立ち上がってくる。(小学校の昼下がりの理科室はホグワーツばりの魔法学校だった・・余談)

 男と女はいわば、倍率の違う接眼レンズを持っているのだ。
 同じものを見ていても、脳裏に同じ像が結ばれているとは限らない。

 ひとつの事象を異なる倍率でそれぞれに観察し、情報を伝え合い理解しあい、お互いにカバーし合えれば理想的だ。
 しかし現実はそうはいかない。自分の倍率で見えたことから物を言い、異なる倍率でしか見ることの出来ないものは「無い」と断定してしまう。
 自分の目に映った、という「体験に基づく発言」だから、主張には迷いが無い。そしてかたや相手を「狭量な見方だ」「些末な事だ」と嗤い、こなた他方を「あまりにも無神経だ」「杜撰で早計だ」と怒る。
 そのすれ違いのすきまに、悪意をもった第三者がすべりこむ余地が生まれてしまう。

 たとえばNHKと朝日の泥仕合のそもそもの発端となった「従軍慰安婦問題」という問題。
 あれはもちろん「ある意図をもった」存在による捏造に違いないけれども、そんなものが巨大メディアを巻き込み将来性ある政治家を陥れかねない事態にまで大きくなった背景は、男には見えない倍率だった「女の痛み」を「無い」ものとして無視軽視してきたツケである側面も、あると思うなぁ。

 だから男性の倍率で声高に高圧的にものを言うだけでは、この問題はなかなかスムーズには解消しないと思う。

 女自身が「女の誇り」の問題としてこれときちんと向き合わないと。そして、男性と異なる倍率のものの見方があるんだと、ハッキリ言葉で伝えていかないと。

 いつまでも「社会とかァ、世界情勢とかァ、難しくってェ」と思考停止していたら、巧妙な操作に誘導されて、いつのまにか自分が率先して、愛しい人の尻をひっぱたいて戦場へ送り出すような人間に作り変えられてしまうかもしれないのだから。

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