六畳の神殿

私の神さまは様々な姿をしています。他者の善意、自分の良心、自然、文化、季節、社会・・それらへの祈りの記。

名付けることの功罪

2005年04月06日 | 心や命のこと
 「自我」という概念を意識する思春期。自分とは何ぞや、かくありたし、という思考(または衝動)を手っ取り早く表現する手段のひとつに、自分にペンネームをつける、というものがあった。

 あまりに恥ずかしいので書いてしまうが、私が自分に最初につけたペンネームは「涙」と書いて「ルイ」と読ませるものだった。
 姓の方は、好きな響きや興味のある事物に漢字をあてはめたもので、半年もすれば飽きる(笑)ので、3,4回変えたかな。でもファーストネームは常に『涙と書いて「ルイ」』。

 男の子と缶蹴りやドッジボールを楽しみ、意見はハッキリ言い、女の子グループからは浮き気味だがイジメの標的になるほどバリバリ強くも弱くもなく、いつも半端な位置でのほほんとしていた子・・それが私。

 でもかなり幼い頃から、胸の中には涙の池があって、いつもたぷんたぷんと水音が響いていた。
 なぜかはわからない、でもいつも哀しかった。
 そしてそれが普通の状態なのだと、ずっと思っていた。だから自分の「本当の名前」は 涙(ルイ)なのだ、と。

 成人してから「アダルトチルドレン(AC)」という単語に出会った。
 普通の家庭だと思い込んでいた自分の家庭が「機能不全家族」だったと知った。
 なるほど、と膝を打った。
 そのころの私にとって日々は、時間は、まるで、ギシギシと音を立てて回る巨大な歯車のようだった。あらがいようもなく巻き込まれ、止まりたくても運ばれていく。向きを変えようとすると身が引き裂かれるように痛く息苦しく、毎日がとても辛かった。
 ACという単語は、その状態から一歩離れて自分を客観視できる「自己同定の魔法の言葉」だった。

 でも魔法には、効き目がある分、毒もある。

 「機能不全」な家族、と言う表現があるからには「機能の健全な家族」というのもあるに違いない(そりゃーきっとあるに違いない)。ではなぜ、それが我が家でなかったのか?・・そこに私はひっかかってしまった。
 
 「なぜ」なんて理由を考えても仕方がない、そういう家庭に生まれてきてしまった偶然というか運命というか、事実があるだけだ。なのに「理由」を探し求め、それを何とかしようとかなりの時間と労力を費やしてしまった。

 「名付ける言葉」は用意されても、その魔法を各人でどう使うかのマニュアルは無い。あるのかもしれないが、きっと単一のものじゃない。

 ダーリンは、私の親もまた父母ともにACで、私も兄もサラブレッド的AC二世(笑)として育ったことを理解してくれたが、ある時ふと私に尋ねた。
 「そういう育ち方をしたわりには、君はマトモだね。なんで?」

 ・・ん? そういわれてみれば。男性恐怖症だったりとか多少の歪みはあるにしろ概ねフツーに生活できるのは、なんでなんだろう?

 元来の、のほほんとして空想好きな性格が幸いしたのかもしれないし、それが許容される環境だったことも幸運だった。「いい子」である限り家族内に破綻は無いわけで、その枠内での「自己肯定感」もエンパワメントの「足し」にはなったと思う。不本意ではあったが大学で心理学を専攻し「心に向き合う」訓練をしたことも役に立った(初めてパニック発作にみまわれた時「ああ、これがそうか」と落ち着いて対処でき、持病として抱え込まなくて済んだし)。

 でもやはり一番大きいのは「私を取り巻く人々のおかげ」だ。

 「おかげ」というのは、直接的に恩恵を被ったわけではないという意味。相手もそのつもりはないし私もそのつもりがなくて経験した事が、結果としてとても大きな「勉強」になった、そんな例がいくつもある。

 たとえば、友人同士の喧嘩。AちゃんとBちゃんがトラブって、周囲にいる皆が巻き込まれた。AちゃんもBちゃんもそれぞれAC的背景があったため「あの子にこんなに傷つけられた、あの子は酷い!」「友だちなら私の事、理解してくれるよね」的な泥沼のパワーゲームに発展。巻き込まれた一人として「双方の気持ちはわかるけどさー、どーすりゃいいかねぇ」と嘆息する私に向かってCちゃんは言った。「放っとけ放っとけ。あの子たちは不幸自慢をしてるだけ。不毛。」

 そして笑って付け加えた。「不幸自慢なら私だって負けない」

 ハッとした。
 そう思って周囲を見れば、男女問わず、程度の差こそあれ様々な「不全」を抱えた家庭に育った友人の何と多いこと。

 機能不全家族、という表現があるからには「機能の健全な家族」というのもあるに違いない。なぜそれが我が家でなかったのか?理由など無い、そういう家庭に生まれてしまった偶然というか運命というか、事実があるだけ・・
 それを黙って受け入れ、かつきちんと魅力的に生きている沢山の友人たち。Cちゃんの言葉は、それを私に気づかせてくれた。

 彼らの姿が私を勇気づけ、彼らへの尊敬と憧れが、導いてくれる標の光になった。

 我以外すべて我が師。皆が、教えを下さる神さま。彼らとの出会いの偶然が、いまの私を作っている。