風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

今日は絶対に負けられねえんだ(短編小説)

2011年02月21日 12時00分00秒 | 短編小説

 いてっ。
 なにしやがるんだ、この野郎。
 てめえ、いま嗤《わら》っただろ。俺にはよく見えるんだぜ。
 お前さんよ、人を殴っておいて嗤《わら》うなんざ、よくねえぜ。
 まずは軽くジャブってところからいこうぜ。
 挨拶がわりにさ。
 そんな怖い顔して、俺を睨むなよ。

 ジャブ、ジャブ、左フック、おっと危ねえ。
 知ってるかい?
 じつは俺、珠算七段なんだよ。
 笑っちまうだろ。プロボクサーが珠算七段だってよ。デヘヘ。ほんとだよ。俺は中学校の時、県の珠算大会で三位に入ったんだ。今でも賞状を持ってるぜ。ほんとうは、ボクシングよりも算盤のほうが得意なんだ。
 それからついでに言っとくけどよ、俺は簿記一級に税理士の資格も持ってるんだ。どうだ、すげえだろ。
 みみっちい? なんでだよ。
 ああわかった。俺がファイトマネーの管理を自分でやってるって思ってるんだろ。アハハ。ばかだな。お前はほんとにばかだよ。ボクシング業界ってやつは世界チャンピオンにでもならねえかぎり、ボクシングだけで喰っていけるもんじゃねえんだよ。お前さんだって知ってるだろうに。俺は、コンビニと宅配便の配達とビル掃除のアルバイトで喰ってるんだよ。管理しなくちゃいけねえような資産なんてねえよ。お前さんだって、なんかバイトをやってるんだろ。おたがいさまさ。
 なに?
 税理士のバイトでぼろ儲けしてるんだろうってか?
 時給はそこそこいいけどさ、そんなもんは確定申告と決算の手伝いくらいしかねえんだよ。なにしろ俺はボクサーだ。面接に行っても「こいつほんとうに計算できんのかよ」って目で見られちまう。頭を殴られておかしくなってるんじゃないかって思われちまうんだよ。おまけに試合が入ったら準備をしなくちゃいけねえから、一年通して働くなんてむりだ。減量すりゃ、腹が減る。腹を空かせてたんじゃ、計算を間違えちまう。いくら珠算七段でも、腹ペコじゃ計算できねえしな。あんまり儲からないよ。

 フェイント、左フック、右ストレート。
 ちぇっ。うまくよけやがったな。
 お前さん、なかなかのもんだよ。デヘヘ。
 さっさと経理の仕事でも見つけて引退しろってか?
 お前さんの言うとおりかもしれねえ。ボクシングは儲からねえからな。算盤勘定はたしかに合わねえよ。けどよ、ボクシングでしかできねえことがあるんだ。お前さんにも、おいおい話してやるよ。
 正直言うと、殴り合いは性に合わねえ。
 第一ランドのゴングが鳴った時の一瞬はたしかに気持ちいいな。みんなが俺を見てるって思うのは最高だね。快感さ。でも、俺は人に殴られるのが大嫌いなんだ。人を殴るのも、どうも気が進まねえ。
 俺がボクシングを始めたのは、ほかでもねえ、いじめられたからさ。俺は珠算が得意だった。なんでか知らねえけど、それが気に喰わないってやつがいて、俺は殴られ通しだったんだ。なんで珠算がうまかったら殴られなきゃいけねえんだ。わけがわからねえよ。でも、殴られたのは事実さ。
 殴られねえようにするには、強くなるしかないよな。そこで俺はボクシングジムの門を叩いた。ご破算で願いましてはなんて言って算盤をぱちぱち弾いてた手にグローブをはめったってわけよ。
 おやっさんとの出会いが俺を変えた。
 そこでセコンドをやってくれてる禿頭のおやじよ。
 殴られ通しで、根性の曲がりかけてた俺にやさしくしてくれたんだ。あのままだったら、俺はほんとうにグレてた。いや、グレるくらいだったらまだましだっただろうよ。自分で自分の首をくくっていたかも知れねえし、下手すりゃやけになって人を殺していたかも知れねえ。
 俺は物心がつく前にほんとうの親父が死んだから、親父の匂いってやつに飢えてたんだな。俺はおやっさんに心酔した。おやっさんも俺を実の子供みてえにかわいがってくれた。上手になって、おやっさんに認めてもらいたかった。算盤大会の賞状をもらうより、おやっさんに声をかけてもらうほうがよっぽどうれしかったね。おやっさんが、俺に人生のすべてを教えてくれたんだ。
 やれやれ、やっとゴングが鳴ってくれたよ。
 体も温まってきたし、一息入れようや。
 じゃあな。

 おいおい、お前さん、動きすぎだよ。
 まだ第二ラウンドが始まったばっかだぜ。そんなことをしてたら、ばてちまう。ぼちぼちやろうや。先は長いんだ。
 なに? 俺を見てるといらつくってか?
 そうよ。その通りよ。
 だから教えといただろ。俺は珠算七段で税理士だって。計算高いのよ。いらいらさせて、あんたの体力を消耗させるのが狙いなのさ。デヘヘ。それにしても、お前さんは単純だな。ここまでいらつく奴は見たことがねえよ。まあ、勝手にしな。

 ジャブ、ジャブ、ジャブ、左フック、右アッパー。
 くそっ、またはずれやがった。
 おやっさんにはリング以外で人を殴っちゃいけねえって何度も諭された。だけどよ、ここだけの話、おやっさんの許可を取って、一度だけ人を殴ったことがあるんだ。
 カツアゲされたことがあるかい?
 ああそうかよ。
 あんたは、カツアゲするほうだったんだな。お前さんもその口か。そんな顔つきだよな。俺は一度もやったことがねえ。やりたいとすら思ったことがないね。そんなのは卑怯だからよ。

 俺はボクシングジムへ通うようになってからも、いじめられ続けてた。でもよ、俺はおやっさんの言いつけを守って一度も反撃しなかった。おやっさんが、素人をどつくなんてそんなのはボクサーじゃねえって口を酸っぱくして言うもんだからさ。
 一年くらいたった頃かな、俺はとうとう耐え切れなくなって、親父さんに訴えた。
 今までのことを全部おやっさんにぶちまけたんだ。
 おやっさんは親身になって俺の話を聞いてくれたよ。そんな大人に出会ったことがなかったから、それだけでも大感激さ。子供だって精一杯生きてるんだ。そんな簡単なことに気づかない大人があまりに多すぎるんだよ。
 おやっさんは、俺を許してくれた。
 素人を殴ることは、リングの神様に背くことだ。でも、おやっさんは、そんな俺を受け容れてくれたんだ。
 俺は、カツアゲする奴らを思う存分ぶちのめしてやったぜ。
 連中の顔ったら、ありゃしなかった。いつもみてえにカツアゲしてくるからよ、挨拶代わりに一人のしてやったら、びびってやがんの。アハハハハハ。
 その時、俺は悟ったね。
 カツアゲする奴らなんて、ほんとは弱虫なんだ。人間じゃねえ、虫なんだよ。ゴキブリみてえにごそごそしてやがるだけなんだよ。カツアゲしてんのを見てみぬふりをする先公《センコー》も弱虫だ。おまけに、中学校のセンコーときたら、ちんぴらみてえな口を利きやがるしよ。どこもかしこも、弱虫だらけだ。子供だって、大人だって、ちゃちな弱虫が一人前の顔をして幅をきかせてるんだ。しょうもないよな。
 コロンブスの卵みてえな話よ。わかっちまえば、簡単なことかもしれねえけど、俺はわからなかった。アホだったんだ。
 もちろん、人のことばかり言えねえ。
 虫けらにいじめられていじけてた俺も虫だった。ろくでもないゴミ虫よ。でもよ、俺はあの時脱皮したんだ。虫のままじゃいけねえ、ちゃんとした人間にならなくちゃいけねえって心底思ったんだよ。リングの神様にかけてな。
 それもこれも、おやっさんがチャンスを与えてくれたからさ。おやっさんが俺をカツアゲする連中を殴っていいって言ってくれなかったら、たぶん、俺は今の今までそんなことに気づかなかっただろうな。真人間になろうとも思わなかっただろうよ。誰かを恨んで、ゆがんだ恨みを晴らすことしか考えなかったかもしれねえ。いじけたまま一生を送るところだった。おやっさんにはいくら感謝しても、したりねえ。
 おっと、そこまで。とまりなよ。
 ゴングが鳴ったぜ。

 ジャブ、ジャブ、ジャブ。
 さっき聞いたか?
 そうよ、休憩の間、ちびっ子たちが観客席から俺へ声援を贈ってくれただろ。ヒロ兄ちゃんってな。みんな声をそろえてよ。かわいい声でよ。
 聞いてねえ?
 しょうがねえ奴だな。お前さんは自分のことで手一杯だもんな。
 今日は二十人のちびっ子どもを招待したんだ。
 ちぇっ、ばかにすんな。スポンサーにやってもらったんじゃねえ。俺が身銭を切ってチケットをプレゼントしたんだよ。俺はバイト代を豚さんの貯金箱へ入れてこつこつ金を貯めたんだ。そうじゃなけりゃ、意味ねえじゃないか。
 あいつら、みんなかわいそうな子供たちなんだ。
 親父にいじめられた、お袋にいじめられた、友達にいじめられた、先公にいじめられた、知らない人にいじめられた。みんな心に傷を負ってる子供たちさ。
 あいつらは、うつむくことしか知らねえ。
 いじめられて、すっかり萎縮させられてしまっているのさ。
 ほんとは人間なのに、つまらねえ虫だって思いこまされてるんだ。
 だけどよ、それじゃいけねえ。
 俺の闘ってる姿をあの子たちに見てもらいてえんだ。
 虫けらだった俺でも、ちゃんと人間になれる。そこんとこをちっちゃな眼《まなこ》でしっかり見てほしいんだよ。なに、心配しなくても大丈夫だ。子供はなんでもわかるんだよ。
 ジャブ、フェイント、左フック。
 お前さん、今、顔をしかめただろ。
 ちょっと当たったかな。やったぜ。デヘヘ。

 俺は、勝ち負けなんてどうでもいいんだ。
 格好つけて言ってるんじゃねえぜ。
 勝ち負けなんてただの結果さ。結果が出る時もあれば、そりゃ、出ねえ時もあるわな。肝心なのは、試合へ向けてどれだけ努力したかってことよ。結果なんて、糞みたいなもんだ。出るときゃ出る。出ないときゃ出ねえ。
 だけどよ、今日ばかりは勝ちたいんだ。絶対、負けられねえ。
 子供たちが観《み》てる。
 あいつらが俺を観てるんだ。
 下手なことはできねえ。
 俺は、奴らの期待を背負っているんだよ。あいつらの声援をしょっているんだよ。自分だけのために戦ってるお前とは大違いさ。
 なに?
 お前の気持ちなんてどうでもいい?
 そりゃ、そうだ。
 あんたの言うとおりだよ。アハハ。
 人のことなんてどうでもいいことだよな。俺だって、ほんとうのことを言えば、自分のために闘っているのさ。
 でもよ、俺はお前みたいな考え方が大嫌いなんだ。自分のことで手一杯の奴なんてクソだ。お前さんの足りない頭じゃわからねえかもしれないけどよ、人は誰でも、誰かのためになにかができるんだ。
 ジャブ、ジャブ、左フック、右ストレート。
 かわすなよ。
 頼むからさ、当たったふりくらいしてくれよ。
 子供たちが観てるんだぜ。エヘヘ。

 第四ラウンドだな。
 そろそろ、こっちも調子をあげていくぜ。
 うるさいな。
 わかってるよ。
 俺の調子はおしゃべりばっかりだってか。
 その通りよ。
 俺は、ボクシングよりも客商売のほうが向いてるんだ。だから言っただろ。ボクシングは性に合わねえって。黙ってるのは嫌いなんだ。自分のバーでも持ったら、きっと繁盛するだろうよ。俺は客あしらいがうまいから、客がわんさかやってくるだろうな。俺は客相手におしゃべりして、がっぽり儲けさせてもらうよ。それになんと言っても、俺は算盤七段で簿記一級だ。税理士資格だって持っているんだぜ。帳簿だってきっちりつけられるし、節税のテクニックだってちょこっとは知ってる。小金くらいすぐにためられるさ。
 そんなことはどうでもいいけどよ、ところで、お前さんはなんのためにボクシングをやってるんだ? そこんとこを訊きたいね。
 なんだって?
 チャンピオンベルトが欲しい?
 ビッグになりたい?
 勝手にしな。
 くそっ。いてえな。
 お前さんのストレートがすこし入っちまったよ。
 あんたの人生だから、勝手にしなって言っただけだろ。そんなにむきになるなよな。
 俺はよ、さっきも言ったとおり、子供たちのために闘っているんだ。
 俺が勝てば、ちびっこどもは希望が持てる。自分の手がなにかができるって思えるんだ。これは大事なことだぜ。
 命は宝石みたいなもんよ。磨けば磨くほど輝くんだ。
 でもよ、ふがいない大人たちのせいで、子供たちは自分はもうなにもできないと思いこまされてる。大人の都合にふりまわされて、縛りつけられているんだ。悲しみのパンチドランカーさ。自分じゃどうにもできねえ悲しみでちっちゃな心がどうにかなっちまったんだ。
 そんなの黙って見てられるか?
 俺は見ちゃいられねえ。
 だから、その呪縛を解いてやるんだ。

 いくぜ。
 あんたをコーナーへ追いこんでやる。
 右ストレート、右ストレート、左フック、右ストレート。
 左フック、ジャブ、ジャブ、右アッパー。
 フェイント、右ストレート。
 デヘヘ。おもしれえな。デヘヘヘヘヘ。
 ひっくり返っちまいやがった。のしてやったぜ。
 どんなもんだい。
 ほら、立てよ。
 ビッグになりてえんだろ。
 お前さんの夢は否定しねえぜ。
 俺だって、世界チャンピオンになったら、舞い上がっちまうことだろうよ。ちやほやされりゃ、そりゃ嬉しいよな。
 ファイトマネーをがっぼりもらって、テレビCMに出演してニカッと笑うだけで大金が転がりこんでくるんだろうな。そうなりゃ、ちゃちなアルバイトで食いつながなくてもいい。俺だって楽な生活をしてえよ。だけどよ、そんなことが目標じゃ、力が湧かねえんだ。
 ジャブ、ジャブ、左フック。
 お前さんよ、脇が甘くなってきたぜ。こんどこそ、ノックダウンさせてやる。
 右ストレート。左フェイント。右アッパー。
 こらっ。
 俺に抱きつくな。
 気持ち悪いじゃねえか。
 あんたの体はやたらとねちねちするぜ。すげえ脂性だな。
 長年ボクシングをやってても、これだけはどうしても慣れねえんだ。男同士で抱きつくなんて、気色悪いだろ。
 あっち行けよ。
 そんなにべたべたされたんじゃ、殴りたくても、殴れねえじゃないか。
 ほら、あっちへ行けってば。
 くそっ。
 最高の気分になってきたっていうのに、ゴングが鳴りやがった。
 次のラウンドこそ、ぶちのめしてやる。

 水が気持ちいい。
 天井のライトがにじんでやがる。
 俺はこの瞬間が好きなんだ。
 生きてるって感じがするよな。
 最高だね。
 おやっさん、もっと水をかけてくれよ。
 なにかのために闘うってのは、気持ちいいもんだな。
 ちびっ子どもが俺を呼んでるよ。
 天使みてえにかわいい声だよな。
 こんな俺でも、誰かのために闘えるんだ。

 魔の第七ラウンドになっちまった。
 俺はいつもここでやられちまうんだ。
 なんでか知らねえけど、第七ラウンドとは相性が悪いんだ。
 ラッキー・セブンなんて人は言うけどよ、俺にかぎっちゃ、逆なんだ。
 えっ?
 俺がへそ曲がりだからってか。
 ほっといてくれよ。
 自分の欠点を人に指摘されることほど、むかつくことはねえからな。
 お前さん、まぶたが腫れてるぜ。デヘヘ。俺もそうだ。ふらふらになってきやがった。足がうまく動かねえ。そうなんだよ。足のスタミナが足りねえのが、俺の欠点なんだ。
 ジャブ、ジャブ、ジャブ。

 嫌な感じになってきやがったな。
 おい、やめてくれよ。
 そんなに殴らなくてもいいだろうよ。
 危ねえな。そんなに殴られたら、頭がどうかしちまうぜ。算盤が弾けなくなるだろ。せっかく暗記した税務知識がどっかへいっちまうじゃねえか。資格試験はけっこう面倒なんだぜ。
 うっ。
 倒れちまった。
 倒されちまった。
 おいおい。
 おやっさん。なにするんだよ。やめてくれよ。
 だから、やめろってば。
 タオルなんか入れてどうするんだよ。
 子供たちが観てる。
 今日ばかりは負けられねえんだ。
 わかったよ。
 立ちゃいいんだろ。立つからさ。
 いてえなあ。なんだか体中の骨が砕かれたみたいだぜ。
 ふう。よっこいしょ。
 ほら、なんとか立ち上がったぜ。ほんとに、タオルなんてやめてくれよな。洒落にならねえよ。

 お前さんの姿が二重に見えるぜ。あんたもつらそうだな。おたがいさまさ。デヘヘ。
 世の中なんて、くそったれよ。
 なんで世の中がくそったれなんだっていったら、そもそも人間がふがいねえからなのさ。やさしさを出し惜しみするくせに、人から平気でいろんなものを奪いやがる。人間なんて、ろくなものじゃねえんだよ。
 どこもかしこも罪だらけだ。
 罪ってなんだ?
 罪は愛を裏切ることだよ。
 俺は愛を裏切りたくねえ。
 愛を守るためだったら、地獄へ落ちてもかまわねえ。
 だから、最後まで闘うんだ。
 俺が勝つところを子供たちに観てもらうんだ。
 リングの神様よ。頼む。今日ばかりは俺を勝たしてくれ。俺に力を与えてくれよな。
 右アッパー、左フェイント、ジャブ、ジャブ、右ストレート……。


  了


 珠算七段の風変わりなボクサーの奮闘記。2010年9月23日に投稿した作品です。ソ連の反体制派の俳優・歌手のウラジミール・ヴイソーツキイの『Боксер』に着想を得ました。
http://ncode.syosetu.com/n9348n/
 


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