風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

そんなにわさびをつけなくても(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第306話)

2015年10月17日 21時55分55秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 
 中国人も刺身をよく食べるようになった。なにより日本料理店へ中国人が大勢くるようになった。今住んでいる広東省広州で行きつけの日本料理店へ行くと昼のランチタイムも夜も中国人で席が埋まっていたりする。おまけに彼らは刺身の舟盛りや大きな甘海老をどんどん頼んだりする。値段の高いものから頼むという感じだ。僕なんぞは、梅酒ロックをちびちび飲みながら、日替わり定食やハンバーグ定食を食べていたりするのだけど。
 びっくりさせられるのは、中国人は決まってからい中国わさびを大量につけて刺身を食べることだ。中国のわさびは日本のわさびとは品種が違う。日本のそれよりも数等からい。
 中国人のある友人と日本料理店でいっしょに食事した時、友人はわさびを箸でたっぷりすくったかと思うと醤油皿のなかをわさびでどろどろにして、刺身にそれをたっぷりからめてぱくりと一口に食べた。わさびが効きすぎているから、当然、
「からいっ! 鼻が痛いっ!」
 と友人はおっぴろげた鼻の孔をおさえる。
「つけすぎだよ。鼻がつんとしてしかたないだろう」
「だってわさびってからいものなんだろ。話には聞いていたけど、ほんとにわさびってからいねえ~」
 彼は楽しそうだ。唐辛子たっぷりの激辛料理を「辛い!」と言いながら食べるようなノリだ。
「そんなにつけたら醤油とわさびの味しかしないじゃん。魚の味がしないだろ。ほら、こうやってつけるんだよ」
 僕は醤油皿の端にすこしだけわさびを入れ、さっとかきまわして、それから箸につまんだ刺身の端っこにちょっとだけ醤油をつけた。
「たったそれだけ? それじゃわさびの味がしないじゃない」
「だから、刺身の味を引き立てるためにわさびがあるんだよ」
「そういうものなのかなあ」
 友人は不思議そうだ。彼によると、刺身を食べるときはたっぷりわさびつけて毒消しをしなければならないのだそうだ。そうしないとお腹をこわしてしまうと。確かに、中国人は生ものを食べる習慣がないから、生ものに弱い。なにか工夫して腹痛を予防しないといけないのかもしれないけど。
 それからも友人はわさび醤油でどろどろになった刺身を食べ続ける。一切れ食べては「からい、からい」と嬉しそうに叫ぶ。わさびの刺激が病みつきになってしまったようだ。中国人には中国人の刺身の楽しみ方があるだろうからそれいいんだけど、でもそれではまるで、刺身を食べにきたのではなくて、わさびを食べにきたようなものだ。中国四千年の歴史にはかなわないと思った。




(2014年8月6日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第306話として投稿しました。
 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/

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『戯作三昧』について ――創作活動の舞台(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第304話)

2015年10月07日 22時15分15秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 芥川龍之介の作品のなかで、いちばん好きなのは『戯作三昧』だ。
『戯作三昧』では、滝沢馬琴を主人公にして彼の日常生活と創作活動の舞台裏を活写している。ただし、この作品は実際の滝川馬琴をリアルに描こうとしたものではない。伝記文学でもなく、歴史小説でもなく、純文学の題材として滝川馬琴を選んだにすぎない。
 この作品では、小説家・滝沢馬琴の姿を借りて、小説家である芥川自身の自意識を掘り下げようと試みている。もちろん小説だから、江戸時代の雰囲気といったものはそれらしく書いているけれど、肝心なのは創作者の生活と創作に対する姿勢だ。そこが読んでいて面白い。
 馬琴は神経症的な人物として描かれている。この神経症的な病み方は、芥川自身の自意識を掘り下げようとしたほかの作品――たとえば『蜜柑』――の主人公と同じだ。近代文学は新しい「自我」を持った「私(わたくし)」を描くことから始まる。
 この作品の馬琴は、かなり自己解剖的だ。たえず自分の心の動きをたしかめ、それをできるだけ客観的にかつ批判的にとらまえようとする。芥川自身、いつも己の心理を解剖し、その成果を作品に活かしていたのだろう。もちろん、自分の心を絶えず解剖するなどというのはかなり危険な作業だ。心を痛めつける。芥川は天才だったから、心を徹底的に解剖することができた。そして、解剖しすぎて心をぼろぼろに痛めつけたために、芥川はとうとう狂気へ陥ってしまった。

 銭湯へ行けば聞こえよがしに嫌味を言われたり、作品の芸術性などどうでもよくてただ儲かる本を書いてくれさえすればそれでいいという態度の俗物編集者が自宅へやって来たりといろんなことが重なり、滝川馬琴はいらいらする。世間と触れ合うほどに、彼の神経は逆立ってしまう。創作に集中したいのに、どうしてもできない。そんなところへ、絵描きの友人が遊びにくる。
 絵描きの友人は、馬琴と言葉を交わしながらもずっと絵のことを考えている。それが馬琴にはうらやましい。プロフェッショナルな人は分野を問わずたいていそうだけど、いつも仕事のことを考えている。小説家ならいつもその書きかけの小説のことを考え続けているものだ。芥川もたえず小説のことを考えていたに違いない。ずっと小説のことを考え続けていたからこそ、珠玉の作品群を生み出すことができたのだ。

 さて、滝川馬琴が書斎で書きかけの原稿を読み返してみれば、どうにも粗が目立つ。自分に腹が立ったり、情けなくなったり。ここでも、芥川の創作の日常が窺える。天才芥川でもいろいろ悩みながら書いていたのだろう。そう思うと、こちらもほっとする。もちろん、芥川は天才だから、悩むレベルが凡人とは違うだろうけど。
 芥川の描写は研ぎ澄まされている。読む返すたびにほれぼれとして、いつも溜息がでてしまう。芥川の描写は無駄がなく研ぎ澄まされている。映像が鮮やかに浮かぶ。冴えた音が聞こえてくる。芥川は何度も推敲しては無駄な言葉をそぎ落としたのだろう。
 会話の運び方も非常に巧みだ。その場の雰囲気や会話者の気分や心理、思想といったものを的確に捉えたうえで会話を進める。会話に無駄なよどみがない。芥川の小説を読むと、正座をして一心不乱に彫刻を刻み続ける彫刻師の姿を連想してしまう。

 最後に馬琴を救ってくれたのは、寺参りから帰ってきた孫の言葉だった。孫はやさしく祖父の馬琴にこう諭す。
 ――勉強しなさい。
 ――癇癪を起こしてはいけません。
 ――辛抱しなさい。
 といった月並みな言葉だが、振るっているのは、孫が、
「浅草の観音様がそう言ったの。」
 というところだ。この言葉で馬琴の心が引き締まる。雑念が消え、創作に集中できるようになった。馬琴の筆はすらすらと進む。
 人はなにか偉大なものに見つめられている。そして、その偉大なものに答えを出すのは自分自身にほかならない。
 ともすれば、他人のどうでもいいような言葉や自分の邪念やちっぽけな欲望にまどわされたりする。だが、それではほんとうの意味でいい仕事はできない。いい仕事をするためには、どこか「無私」でなければならない。愚直な純粋さと言えばいいだろうか。その愚直な純粋さを担保するものが偉大ななにかであり、『戯作三昧』では「浅草の観音様」になるのだろう。
 もしかしたら芥川龍之介は、心の奥底ではそんななにかを信じて創作活動を続けていたのかもしれない。





(2014年7月27日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第304話として投稿しました。
 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/

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