風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

曹丕のロックンロール精神

2024年07月20日 08時32分39秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 曹丕は曹操の息子。
 曹操の跡を継いで魏王となり、魏王となった後すぐに漢王朝を簒奪して魏王朝を建て、その皇帝なった。
 曹丕は政治家なのだが、文学にも通じていて『典論』という文学論を書いている。非常に格調の高い文章なので核心の部分の読み下し文を味わってみていただきたい。読み下し文の後ろに、自分なりに言葉を補いながら訳してみた。

【読み下し】
 蓋(けだ)し文章は経国(けいこく)の大業にして、不朽の盛時(せいじ)なり。年寿(ねんじゅ)は時(とき)有り尽き、栄楽(えいらく)は其(そ)の身に止(とど)まる。二者は必ず至るの常期(じやうき)あり、未(いま)だ文章の無窮(むきゅう)なるに若(し)かず。是(これ)を以(もつ)て古(いにしへ)の作者、身を翰墨(かんぼく)に寄せ、意を篇籍(へんせき)に見(あらは)し、良史(りやうし)の辞(じ)を仮(か)らず、飛馳(ひち)の勢ひに託せずして、声名(せいめい)は自(おのづか)ら後(のち)に伝はる。

【訳】
 そもそも文章を書くということは国を治めるための非常に重要な事業であり、滅びることのない偉大な営みである。時がくれば人の寿命は尽きてしまう。その人の栄華や享楽はその人の身の上にあるものだけであってその人が死ねばそれで終わってしまう。寿命、栄華や享楽といったものはしかるべき時に終わるものであって、文章が永久であることに比べれば及びもしない。だから、古来より著述家や詩人たちは詩文に身をささげ、書きたいことを書物に著(あらわ)した。著述家や詩人たちは、優れた史書編纂官たちの言葉を借ることもなく、権力者たちの力を頼ることもなく、その名声が自ずから伝えられるのである。

 この文の初めに「文章がなければ国家が成立しない」と高らかに宣言し、そしてこの文の最後には、「権力者たちの力を頼ることもなく、その名声が自ずから伝えられるのである。」と結んでいる。
 曹丕は中国一の権力者だった。それもただの権力者ではない。足かけ四百年も続いた漢王朝を潰して、中国を乗っ取った男だ。それなのに文学の名声は権力なんて関係ないのだと宣言している。なんだかロックな文章だ。
 

 ※読み下し文は『文選(文章篇)下(新釈漢文体系)』(竹田晃)による。



(2022年2月28日発表)

 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第494話として投稿しました。
 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
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『枕草子』の「をかし」を「やばい」に換えてみた

2023年09月20日 06時15分30秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 第一段(抜粋)

 夏は夜。
 月の頃はさらなり、闇もなほ、蛍のおほく飛びちがひたる。
 また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くも、や・ば・い・。
 雨など降るも、や・ば・い・。

 秋は夕暮れ。
 夕日のさして、山の端いと近くなりたるに、烏の、寝所へ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど、飛び急ぐさへ、あはれなり。
 まいて、雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆるは、ち・ょ・う・や・ば・い・。
 日入りはてて、風の音、虫の音など、はた、言ふべきにあらず。


第二段(抜粋)

 三月。
 三日は、うらうらとのどかに照りたる。
 桃の花の、いま咲きはじむる。
 柳など、や・ば・さ・こそさらなれ。
 それも、まだ繭にこもりたるはや・ば・い・よ・。
 ひろごりたるは、うたてぞ見ゆる。
 おもしろく咲きたる桜を、長く折りて、大きなる瓶に挿したるこそや・ば・い・。
 桜の直衣に出だし袿して、客人にもあれ、御兄の君達にても、そこ近くゐて、ものなどうちいひたる、ち・ょ・う・や・ば・い・。


第二十六段

 心ときめきするもの。
 雀の子飼ひ。稚児遊ばする所の前渡る。
 よき薫き物たきて、一人臥したる。唐鏡の少し暗き見たる。
 よき男の車とどめて、案内問はせたる。
 頭洗ひ、化粧じて、香ばしう染みたる衣など着たる。
 ことに見る人なき所にても、心のうちはなほち・ょ・う・や・ば・い・。
 待つ人などのある夜、雨の音、風の吹きゆるがすも、ふと驚かる。


第四十段(抜粋)

 夏虫ち・ょ・う・や・ば・く・廊のうへ飛びありく、ち・ょ・う・や・ば・い・。
 蟻はにくけれど、軽びいみじうて、水のうへなどをただ歩みありくこそや・ば・い・よ・。


第四十一段

 七月ばかりに、風のいたう吹きて、雨などさわがしき日、おほかたいと涼しければ、扇もうち忘れたるに、汗の香少しかかへたる綿衣の薄きをいとよく引き着て、昼寝したるこそ、や・ば・い・よ・。



(2021年2月5日発表)

 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第485話として投稿しました。
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捕虜を斬るな(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第484話)

2023年06月07日 06時15分30秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 祖父は学生時代に剣道をやっていた。戦前には学生選手の代表チームへ入って当時の満州へ遠征試合に行ったこともあるらしい。強かったようだ。
 中国との戦争が始まり、剣道仲間は次々と召集を受けた。
 祖父の剣道仲間は、
「捕虜を斬るな。剣道をやっていたとなれば軍刀で捕虜を斬れと命令されるだろう。そんな時は、便所にでも行って隠れて、絶対に捕虜を斬らないようにするんだ。動いている相手を倒すのは戦争だから仕方ないが、動かない相手を斬るのは絶対にやってはいけないことだ」
 と互いに言い交わしていたそうだ。
 それでもやはり捕虜を斬るはめになった仲間はいたようだ。
 捕虜を斬る時は、首の骨の間に刃が入るように刀を振り下ろす。そうすれば、首はあっけないほどきれいに飛ぶ。もし首の骨に刀を当ててしまうと首は切れない。人間の首はやはり大事なところだけあって頑丈にできているそうだ。首が切れないと刀の打撃で相手はひどく苦しむことになる。
 祖父は「捕虜を斬ったやつは早く死んでしまう」と嘆いていた。捕虜を斬ったことがトラウマとして心に残ってしまい自責の念にかられ続けるのだとか。斬ったほうは、自分の心を殺したことになってしまうのかもしれない。
 戦争のない時代が続きますように。

(2021年1月24日発表)

 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第458話として投稿しました。
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龍へ祈祷をして建てた高架道路 〜上海の都市伝説(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第458話)

2022年04月02日 05時39分15秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 
 1990年代半ば、上海市内の中心部で高架道路を建設していたところ、ある一箇所だけ、どうしても高架の支柱を打ち込めないところがあった。工事は困難を極め、死者も出た。困った工事関係者は市政府の関連部門へ「この一箇所だけ、支柱を浅く打ち込んでおしまいにしていいか」と打診したが、市政府の関連部署は、当然、「そんなことをしては安全性が保たれない。支柱を規定通りの深さへ打ち込むように」と指導した。工事関係者は再び色々と試してみたのだが、やはり地盤が固くてどうしてもダメだった。
 この硬さはただものではない、風水からみて、ここは龍の棲家に違いない、龍の棲家へ支柱を打ち込めるはずがない、ということになった。
 早速、上海市内の有名な寺院の高僧が招かれた。
 年老いた高僧は、その場所に祭壇をたて、数十日に渡って祈祷を行なった。つまりは、龍へ立ち退きをお願いしたのである。
 祈祷が終わった後、再び支柱を打ち込んでみると、思いのほかすんなりと入った。なにごともなかったかのように無事に規定の深さまで打ち込み、めでたく工事が完了した。龍は高僧の願いを聞いてくださり、どこかへ去ってしまったようだ。かなりの高齢だった高僧は祈祷で力を使い果たしたのか、ほどなくして遷化せんげされた。
 完成した高架道路は上海市内の交通の大動脈として上海の発展に大きく貢献し、上海にとってなくてはならない高架道路となっている。かつて龍の棲家だった場所に打ち込んだ高架道路の支柱には、今でも九つの龍をかたどった銀のレリーフを巻いてある。





(2019年9月8日発表)

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「ゆっくりゆうやけ」第493回「秋の散歩2021 流山電鉄編」

2021年11月28日 23時50分13秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 流山電鉄は、千葉県の馬橋から流山までを結ぶ5・7キロのローカル私鉄。馬橋でJR常磐線と接続している。散歩がてら乗りに行ってみた。





 改札へ行ってびっくりした。
 自動改札機がない。
 交通系ICカードのタッチ機もない。
 昔ながらの駅員が検札する改札口だ。
 写真右手にある窓口で駅員に切符を見せて中へ入る。





 ホームへ入ってまたびっくりした。
 ホームの柱は木造。
 屋根も木造。
 今時、ほんとに珍しい。
 懐かしい感じだなあと思いながら思わず天井を見上げてしまった。





 電車は西武鉄道のお古だった。
 昭和57年製造の車両だ。
 昔は西武鉄道の主力車両だったけど、今は流山電鉄で第二の人生を送っている。







 沿線はのんびりとした住宅地。住宅と畑が入り混じっている。
 馬橋から十二分で流山駅に着いた。








 流山駅の奥には車庫があった。
 流山駅も、当然、自動改札機もICカードのタッチ機もない。
 改札に箱が置いてあって、切符はここに入れてくださいと書いてあるだけ。
 東京の郊外にこんな昭和のままののどかな私鉄があるとは知らなかった。
 昭和のノスタルジアにちょっぴり浸った散歩だった。





この記事は、小説家になろうに投稿したものです。
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超能力で直ったプラレールの電車(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第457話)

2021年08月12日 12時47分27秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』


 子供の頃、スプーン曲げで一世を風靡した超能力者ユリ・ゲラーのテレビ番組を観たことがあった。ユリ・ゲラーが来日し、生放送で透視術や念動力といった超能力を次々と披露する。番組が大詰めを迎えたところ、ユリ・ゲラーは、
「壊れた電化製品を手に持ってテレビの前に坐ってください。これから念力を送って直します」
 という。
 一緒にテレビを観ていた弟は、急いでモーターが壊れたプラレールの電車を持ってきて、テレビの前に座った。弟は欲張って両手にプラレールの電車を持ち、さらに右手と左手に持った電車の間に、もう一両の電車を挟んで、計三両のプラレールの電車を持った。
 僕は超能力を信じなかったので、手ぶらのままなにもせずにそのままぼんやりとテレビを観た。僕は友達とスプーン曲げを試したことがあったのだけど、みんな簡単に曲がった。スプーンを擦った時の摩擦熱で曲がっただけのことだ。超能力でもなんでもない。スプーンが曲がるのは楽しかったけど、超能力ではないと知ってちょっぴりがっかりした。
「みなさん、手に持った電化製品が直りますようにと念じてください」
 テレビ画面の中の超能力者ユリ・ゲラーが厳かに言って念力を送る。弟は目を瞑って念じる。プラレールが直りますようにと口の中でぶつぶつとつぶやく。
 ユリ・ゲラーがさあ直りましたと言った後、さっそく、壊れたはずのプラレールの電車のスイッチを入れてみた。
 なんと、弟が右手と左手に握っていた二両の電車が走り出した。右手の電車と左手の電車の間に挟んでいた電車は動かなかった。ユリ・ゲラーの言った通り直接手に持った電車だけが直った。諦めていたプラレールの電車が超能力で直って弟は大はしゃぎだった。
 この一件があってから、僕は超能力をすこしだけ信じるようになった。トリックを使ってテレビの向こう側からプラレールの電車を直せるはずがない。特殊な能力を持っている人がいることはいるのだと思う。
 なんとも不思議な夜だった。




(2019年9月1日発表)

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痩せ細る日本(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第449話)

2021年07月21日 06時15分15秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

「ブランド物のバッグを持っている人がほんとうに少なくなったわね」
 上海人の奥さんがしみじみと言う。
 奥さんは二〇〇〇年頃に一年半ほど東京に暮らしていたことがある。僕と知り合うずっと前だ。その頃、奥さんは東京の街を歩いているとブランド物のバッグを下げている女性が多くて羨ましかったそうだ。
 三十年ほど前と比べて、日本は二割ほど貧しくなっているだろうか。非正規雇用が激増し、賃金が削られ、増税や社会保険費用負担の増大のために懐の余裕がなくなってしまった。ブランド物のバッグを下げている人が減ったのも、消費者の嗜好の変化というものもあるだろうが生活のゆとりがなくなった一つの証といえるだろう。

 僕が大学の在学中にバブル経済が弾けた。僕が入学した頃はバブル経済の末期だったから、四年生の先輩は一人で七つ八つと企業の内定を取り、なかには十社から内定を取った人もいた。企業から電話がかかってきて一次面接へ行き、その場で即内定ということも珍しくはなかった。ところが、僕の一つ上の学年から就職氷河期が始まり、内定を一つ取るのがやっという状態になった。
 当時、「価格破壊」という言葉が流行った。バブル経済の浮かれ調子はどこへやらで、不景気になって安売り合戦が始まったのだ。この失われた三十年は安売り合戦が当たり前の時代になったが、それまでは物価は上がるものというのが常識だったから「価格破壊」という名の値下げ合戦は新しい現象だった。僕が受講していた経営学のK先生は「価格破壊なんていつまでも続かないと思うけどねえ」と首をひねっていた。そんなことを続ければ企業はみな赤字になって倒産してしまうだろうということだった。だが、「価格破壊」――つまり、デフレは約三十年間も続くことになった。

 それまでの経済学では、K先生の考え方は常識的なものだった。
 それまでの経済学とは、「戦後復興と国造り」を目指した経済学といえるだろう。欧米諸国にいかに近づき、いかに追い越すかがテーマだった。バブルの絶頂期には、「日本は太平洋戦争ではアメリカに負けたが、経済戦争ではアメリカに勝った」と今から考えてみれば呑気なこと言う人がわりといたのだが、それは「アメリカを追い越したい」という思いが強かったからなのだろう。戦争でこてんぱんにやられ、悲惨な目にあいながらも焦土から立ち上がった世代からすれば溜飲が下がる思いだったのかもしれない。貧しかった日本がよくぞここまで豊かになったという陶酔感が日本を覆っていた。
 だが、日本はアメリカに勝ったわけでもなんでもなかった。確かに、個々の製造業の企業をみれば、アメリカのそれよりずっとすばらしい企業が数多くあった(数は減ったものの今でもそうだ)。しかし、政治、軍事といったものを含めた総合的な国力ではアメリカのほうがはるかに上であり、なにより、日本がアメリカの属国でしか過ぎないということには変わりなかった。

 バブル経済で浮かれていたのは、ソ連が崩壊した時期と重なる。社会主義国家が自壊して、資本主義の全面勝利とされた。
 資本主義国家陣営と社会主義国家陣営に分かれて東西の冷戦をやっていた頃は、資本主義の国家でも社会主義的な政策を採り入れて国民を豊かにする必要があった。日本でも社会主義が一定の勢力を保ち、社会主義的な政策を求める国民の声が一定の力を持っていた。国家は、自国が社会主義国家になることを恐れ、国民の不満がたまらないように国の舵取りを行なっていたのである。
 社会主義的な政策は、国力の増大に大きく寄与した。国民一人ひとりが豊かになるということは、それだけ消費力が大きくなる。その国民の消費力の大きさが、新たな投資を呼び込み、発展の原動力となった。国民の消費力の大きさが発展の好循環を形作っていたのであった。
 ところが、「仮想敵」であった社会主義国家が自壊してしまうと、日本も含めた資本主義国家は、社会主義的な政策を取り入れる必要性が薄れた。社会主義が退潮して、自国で社会主義革命が起きる可能性がほとんどなくなったからである。このことも、日本の経済政策変更の大きなきっかけとなった。

 バブル経済崩壊後の日本に起きたのは、国民からの収奪だった。平たく言えばピンはねである。それまでも、もちろん国民からの収奪はあったが、国造りを目指す経済政策や社会主義的な経済政策による国民の富の増進がそれを上回っていた。しかし、国造りを目指す政策や社会主義的な政策が影をひそめると、国は国民からの収奪するための政策を露骨に進めるようになった。
 収奪の代表的な例が、1996年と1999年に行われた「労働者派遣法」の改正(専門性の高い業務に限られていたものから、原則自由化へ)であり、1997年4月に行われた消費税率の引き上げ(3%から5%へ)だった。
 この二つの政策変更は、日本経済の発展を阻害する大きな要因となる。

 企業は社員が働くことによって利益を得る。社員が働かなければ利益を得ることができない。これはどんな業種であっても同じだ。労働が価値の源泉となる。
 この労働から収奪を行えば、企業はさらに富を蓄積することができる。例えば、今まで正社員が時給一五〇〇円で働いていたものを、非正規労働者が時給一〇〇〇円で同じ仕事をすれば、企業は同じ労働から五〇〇円分ピンはねして富を蓄積することができる。派遣会社は非正規労働者を企業へ斡旋し、非正規労働者からピンはねを行なう。非正規労働者は派遣会社と派遣先から二重にピンはねされているわけだ。
 ピンはねされれば、当然、労働者が手にする給料は減る。給料が減れば、消費を抑えざるを得ない。消費を抑えれば、モノやサービスの売れ行きが落ち込み、企業の収益は下がる。企業の収益が下がれば、企業は非正規雇用を増やして労働者の給与をさらに抑制する。そうなれば、消費はさらに落ち込む。負のスパイラルである。
 この負のスパイラルを繰り返した結果、今では雇用の約四割が非正規雇用となっている。二十五年前と比べて世帯当たりの平均収入は約百万円も下がってしまった。なによりも問題なのは、ワーキングプアの問題だ。働いても働いてもまともな暮らしができない世帯が大幅に増加してしまった。

 消費税は消費からのピンはねだ。
 消費者がモノやサービスを購入するたびに政府がその数%をピンはねする。ピンはねされれば、当然、その分、消費が萎縮してモノやサービスの売れ行きが悪くなる。消費税は抑制する効果がある。
 税負担の逆進性が高いのも問題だ。
 例えば、一万円の商品を購入したとする。消費税は8%だから誰でも平等に八百円の消費税を支払う。この誰でも平等にと言うのが曲者だ。年収三百万円の人も、年収三千万円の人も、同じく八百円の消費税を支払う。ただし、年収三百万円の人にとっての八百円と年収三千万円の人にとっての八百円では重みが違う。年収からの税負担率をみた場合、年収三百万円の人にとっての八百円は、年収三千万円の人にとっての八百円よりも十倍も重くなる。消費税は、年収が低ければ低いほど、負担の大きい税金だ。世の中に年収三百万円の人と三千万円の人を比べてどちらが多いかといえば、年収三百万円の人の方が圧倒的に多い。消費税は、消費の主体となるはずの大多数の人に重い税負担がのしかかる仕組みなのだ。これでは消費が上向くはずがない。
 これまでの消費税増税では毎回、消費が劇的に落ち込み、そのために景気が劇的に落ち込み、ようやく成長の軌道に乗りかけた日本経済を破壊してきた。
 なお、消費税には輸出戻し税の問題もある。海外へ輸出する場合、海外の消費者に負担を求めることはできないので、輸出企業に輸出戻し税が還付され、下請け企業が納めた消費税が輸出企業の収入となる。この輸出戻し税は、一説によれば毎年三兆円になるとも言われている。一種の輸出奨励金と言えるのかもしれないが、一部の輸出企業だけが消費税を横取りする形になるのは、やはり問題だろう。一部の輸出企業が消費税を悪用してピンはねしているとも言えるからだ。

 労働からのピンはねと消費からのピンはねによってーーもちろんこれだけが要因ではなくもっと大きな要因もあるのだがーー、日本経済は成長を抑えこまれてきた。日本経済は没落の一途をたどっている。
 日本の一人当たりの名目GDPは1993年に世界第三位だったものが、二十五年後の2018年には世界第二十六位にまで落ちてしまった(IMF統計)。1990年代は世界第三位や第四位といった世界でもトップのポジョションにいたのだが、2003年には第十二位と二桁代に落ち、2013年からは、第二十五位前後が定位置になっている。
 日本が世界中のGDPに占める割合も随分と下がった。1995年には、日本のGDPは世界の十七・六%を占めていたが、今では約六%にまで下がってしまった。

 日本が衰退する一方で、当然のことながら世界中の様々な国は成長を続けてきた。
 一人当たりの名目GDPデータで1993年と2018年を比べてみるとアメリカは約二・三倍になり、韓国は約三・六倍になった。韓国の名目GDPは、1993年においては日本の四分の一だったが、2018年には日本の約八割にまで成長している。中国はこの二十五年間で名目GDPが約十八・三倍になった。1993年にはわずか日本の約一・五%に過ぎなかったのが、2018年には日本の約四分の一のところまできている。日本はといえば、この二十五年間でわずかに10%増えただけだ。日本は没落の一途をたどっているのである。

 日本にいると物価もあまり変わらないのでこんなものかなと思ってしまうのだが、経済成長を遂げている諸外国の物価はかなり上がっている。
 日本の物価が変わらず、諸外国の物価が上がるということは、日本の購買力が落ちるということでもある。日本は様々な国から様々なものを輸入している。特に大きな輸入先はやはり中国で輸入総額の二十%強を占める。輸入総額の五割弱はアジアからだ。
 例えば、ある企業が十五年前にアジアのA国のメーカーに設備を依頼して輸入していたとしよう。十五年が経過して設備の耐用年数を迎えたので設備を更新することになった。見積りを取ってみると、十五年前は日本円にして五億円だったものが、A国の物価が上がったので今回は十二億円もする。
 よその国で安く作れるメーカーがあればいいのだが、そうもいかず、やはりA国のメーカーに作ってもらうしかないとなれば、その設備を使った事業を続けられるかどうかの問題になる。設備の価格が上がった分をすんなりと価格へ転嫁できればいいが、そんなに値上げしては顧客が離れてしまい採算がとれるだけの販売が見込めないとなればその事業を諦めるしかない。
 このようなケースは珍しくない。日本の物価が上がらないために、外国からの物品(設備)やサービスの購買が厳しくなり、日本でのビジネスチャンスが奪われてしまっているのである。ピンはねされて経済活動が痩せ細れば、ビジネスチャンスが狭まるのも当然のことなのだが。

 さて、ピンはねされた日本国民のお金はいったいどこへ行ったのか? 
 ピンはねされたお金はごく一握りの裕福層の懐へ入り、大企業の内部留保として蓄えられ、株式の配当として外国へ流れている。
 ピンはねされたお金は日本国内では回らない。
 富裕層がピンはねした分は、それが贅沢品の購入に回るかもしれないが、消費に回るのはたかが知れていて大部分は資産として蓄え込まれてしまう。企業の内部留保は死蔵されているわけで世の中には出回らない。外国へ流れて行ったお金は当然、外国で回る訳で日本国内では回らない。日本国内でお金が回らないのであれば、日本経済がよくなるわけがない。日本人がいくら働いたところで、働いたそばからピンはねされるのでは、暮らしがよくなるはずもない。

 僕が学生だった頃は、まさかこんなことになるとは思いもしなかった。バブル崩壊の痛手のためにひどい不況がしばらく続くのだろうとは思っていたが、日本がここまで没落して貧困が蔓延するような国になるとは考えてもみなかった。
 どうしてこんなことになるのだろうと調べてみたら、国民からの収奪が原因だった。日本は壊れたのではなく、意図的に壊され続けてきたのだった。悪意を以て壊されたのではよくなるはずもない。そして、この収奪はひどくなる一方である。

 時間を巻き戻すことはできないのだから、失われた三十年は取り返しようもない。問題はこれからどうするかだ。
 逆に言えば、ピンはねをやめさせることができれば、日本経済は復活する。今のように景気がいいはずなのに実質賃金が下がるといった偽の好景気でなく、人々の暮らしがよくなるという本当の意味での経済成長が訪れる。失われた三十年となってしまったのは、労働からのピンはねと消費からのピンはねといった様々なピンはねによって痩せ細らされ続けてきただけのことだ。

 大多数の世帯の場合、消費税の負担額は一年あたり一か月の所得になるという。消費税を廃止すれば、今までぎりぎりの収入で暮らしている大多数の人々は、今まで必要であっても買えなかったものが買えるようになり消費が増える。大切なことは、ごく真面目に働きごく真面目に暮らしている大多数の人々の懐具合がよくなることだ。人々の暮らしが上向けば、消費が活発になり、企業活動も活発になる。つまりは、日本国内でお金が回る。
 ただでさえひどい財政赤字なのに、消費税を廃止すれば、税収が減ってしまうとの声もあるが、そんな心配はない。政府は一貫して消費税を社会福祉に使うと説明してきたが、実際のところは法人税減税の穴埋めに使われただけなので、法人税率を元に戻せば税収は問題ない。

 労働からのピンはねをやめさせることも大事だ。
 派遣労働法は廃止して、派遣労働者をなくせばいい。外国人単純労働者の受け入れも廃止すればいい。
 人手が不足しているというが、企業にとって都合のいい低賃金で働く人が不足しているというだけのことだ。
 不足しているのは、人手ではなく賃金だ。相応の賃金を払えば自然と人手は集まる。現に、人手不足が激しいと言われている業界でも、相応の賃金を払っている企業は人手に困っていない。働いてもいくらも稼げない、生活ができないというところに人手がこないのは当然なのである。労働からのピンはねをやめさせて、労働者が適正な賃金を得て安心して暮らせるようにしなければならない。

 これから第4次産業革命が起きてAIの時代になるというのに、いつまでも低賃金の労働者に頼っているのは問題だ。時代の流れに逆行している。
 賃金が高くなれば、企業は自然とAIロボットによる自動化を目指して投資を行なう。第4次産業革命の波に乗るためにはそのほうがよい。賃金が安ければ、企業はいつまでたってもAIによる自動化を目指さない。AIロボットを使うよりも、低賃金の労働者を使ったほうが目先の収益が上がるからだ。低賃金の労働者に頼るような旧態依然としたやり方を続けるよりも、AIによるイノベーションを目指したほうがはるかにいい。いろんなチャンスが広がる。

 ピンはねをやめさせることができれば、前向きで積極的ないい好循環を生み出すことができる。日本人は概して勤勉であるし、物事の処理能力も高い。外国にはない技術やノウハウもたくさん持っている。成長できるような環境さえ整えば、日本の経済はいくらでも伸びる。日本人の暮らしはよくなる。







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亭主がいくら稼いでも自分の仕事は手放さない(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第448話)

2021年04月13日 06時30分15秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 上海人の奥さんの友人に夫がある中国企業のCEO(雇われ社長)をやっていてとても裕福な女性がいる。高級マンションを買っていい暮らしをしている。二人とも上海人だ。
 もともと看護士だった彼女は、息子を出産した後、月給八万円で元の病院に勤め始めた。彼女の亭主は、「会社は順調だし、給料は十分にもらっている。生活には困らないから、専業主婦になって息子の面倒を見ればいいじゃないか」と言ったのだが、彼女は、「生活に困るとか困らないの問題ではなくて、仕事をすることが大事なのよ」と言ってフルタイムの看護士にこだわった。
 中国では共働きが当たり前なので、子供の面倒はおばあちゃんやおじいちゃんが看るのが普通なのだが、彼女と彼女の夫は結構な高齢で元気いっぱいな赤子の面倒はとても看きれれない。そこでベビーシッターを雇うことにした。
 このベビーシッターの費用は、彼女の給料と同じくらいかかるそうだ。看護士の給料はすべてベビーシッター代で消えることになる。それでも彼女は看護士の仕事を辞めない。
「私の亭主は仕事ができて稼ぎもいいし、優しいし、いい夫でいい父親でいてくれるから今の家庭は十分幸せだと思う。でも男であろうと女であろうとフルタイムで自分を養っていける仕事を持ってこそ一人前の大人となるのよ。だから、仕事を辞めるわけにはいかないの。それにリスクを考えておく必要もあるわ。亭主の稼ぎがいいということは、亭主は私が老いたら私を捨てて若い女の子と再婚するかもしれないわ。実際、そんな男は山ほどいるしね。亭主が私を捨て、私に仕事がなかったら、私と息子は生きていけなくなるわ。仕事があれば、少なくとも生活できるから安心でしょ。仕事がある限り、私は独立した人間でいられるの」
 彼女は僕の奥さんにそう語ったそうだ。僕の奥さんは彼女の意見に激しく同意したそうだ。
 上海の女は強い。


(2019年6月16日発表)

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キャビンアテンダントの安全模範演技(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第440話)

2020年12月01日 06時30分45秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 広東省広州から成田空港行きの日系航空会社の飛行機に乗った時のことだった。
 離陸前になって、いつものようにキャビンアテンダントが安全の模範演技を始めた。僕はそれをぼおっと眺めた。右側の通路は日本人のキャビンアテンダントで、左側の通路は中国人のキャビンアテンダントだった。
 キャビンアテンダントは救命胴衣をつけ、筒に息を吹き込んで膨らませ、紐を引っ張って締める。日本人のキャビンアテンダントと中国人のキャビンアテンダントは同時に同じ動作をしているのだけど、所作が違った。日本人のキャビンアテンダントは紐を引っ張った後、指先までぴんと伸ばして綺麗に見せる。茶道や華道のお作法のような美しさだ。中国人のキャビンアテンダントのほうは、ごく普通というか、指先まではぴんと伸ばさずにだらりとさせていた。
 救命胴衣がきちんとつけられればそれでいいわけだから、指先までぴんと伸ばす必要はない。指先をぴんと伸ばしたからといってそれで安全性が高まるわけでもないのだが、それでも日本人のキャビンアテンダントはできるかぎり綺麗に見せようと努力する。見ていて快い。航空会社が細かいところまでキャビンアテンダントを教育しているという証でもある。こんな細部(ディテール)へのこだわりが、日本の「おもてなし」といったものにつながるのだろう。
 ちょっとしたしぐさから文化の違いが垣間見えた。




(2019年2月17日発表)

 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第440話として投稿しました。
 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/

舌が痺れて感覚がマヒする本場の麻婆豆腐(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第438話)

2020年11月02日 06時30分30秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 四川省成都へ初めて行った時、本場の麻婆豆腐を食べに行った。ガイドブックに「陳麻婆豆腐店」が発祥だと書いてあったので、街中にあるそのお店へ行き、麻婆豆腐を注文してみた。店は普通の街角のレストラン風だった。
 盛られた豆腐は赤茶色の汁にひたり、赤い唐辛子と山椒の実がたっぷりかかっている。見るからに辛そうだ。
 レンゲで掬って口に入れたとたん、口のなかがカアッと熱くなり、舌がぴりぴりと痺れる。熱くなるのはもちろん唐辛子の辛さで、痺れるのは山椒のせいだった。ふうふういながら食べているうちに、がりっと山椒の粒を噛んでしまった。舌の上がさらに痺れる。僕は思わず水を飲んだけど、そんなものでは口のなかは冷めない。ものすごい辛さだ。
 麻婆豆腐だけでは辛すぎて食べきれないと思ったので、白ご飯を頼んだ。麻婆豆腐をご飯にのせて、すこしでも辛さをごまかしながら食べようとしたけど、甘かった。もう何口か食べているうちに、舌がぼあっと膨れ上がり、口のなかは辛いのと痺れるので感覚がなくなってしまった。味もへったくれもない、ただただ口のなかがひりひりする。
 もうだめ。
 ギブアップ。
 もったいないけど、これ以上は耐えられない。結局、四分の一くらい食べただけで店から逃げ出してしまった。罰ゲームのような麻婆豆腐だった。唐辛子の辛さもさることながら、山椒があんなにしびれるものだとは思いもしなかった。日本で食べてた麻婆豆腐とはまったく別物だった。
 四川料理の特徴は「麻辣(まーらー)」だ。
「麻」は痺れるという意味。「辣」は辛いという意味。山椒と唐辛子がたっぷり入っていればいるほど地元の人はおいしく感じる。陳麻婆豆腐店ではほうほうの体で逃げ出したのだけど、不思議なもので三か月ばかり成都に滞在して麻辣料理を食べているうちに次第に辛さと痺れにも慣れてきた。「麻辣(まーらー)」の「辣(らー)」の山椒が曲者で、舌がぴりぴりする感じが恋しくなり、山椒がたっぷりかかった料理がついつい食べたくなるようになった。舌が痺れないことにはなにかが物足りないのだ。唐辛子と山椒で出汁が黒ずんだ赫(あか)さになった成都の火鍋もおいしい。
 もう何年も成都へは行っていないのだけど、成都へ行く機会があれば、もう一度本場の麻婆豆腐や麻辣火鍋を是非食べてみたい。



(2019年1月6日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第438話として投稿しました。
 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
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