風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

旅と恋と君の唄

2011年06月26日 00時14分01秒 | 詩集

 君を見つめていると
 涙がこぼれるのさ
 あどけない横顔に
 虹色 夢がさす 

 君に逢うためだけに
 ここまで旅をしてきた
 南風に吹かれてみたら
 たどり着いたのは君

 やさしい気持ちでそっと
 手をつなごう
 青くきらめく心重ねれば
 あたたかい海が見える

  愛の唄 歌うよ
  君のため 歌うよ
  楽しい時も悲しい時も
  支えになるように

  愛の唄 歌うよ
  君のため 歌うよ
  素敵な笑顔 もっと見せてよ
  そばにいるから


 君の香りは健やかな
 あこがれの香りに似て
 やわらかな黒髪に
 大陸の風が吹く

 こんなに穏やかになれるのは
 どうしてなんだろう
 長かった僕の旅 
 今君で終わる

 やさしい気持ちでそっと
 くちづけ かわそう
 青くゆれる心重ねれば
 あたたかい海が見える

  愛の唄 歌うよ
  君のため 歌うよ
  楽しい時も悲しい時も
  支えになるように

  愛の唄 歌うよ
  君のため 歌うよ
  素敵な笑顔 もっと見せてよ
  そばにいるから




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なぜという問いかけ(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第38話)

2011年06月22日 21時15分00秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 
 なぜという問いかけは、とても切ない。
 どうしようもないことだとわかっていながら、答えはもう出ているのだとわかっていながら、そう問いかけずにはいられない。理不尽なことや、裏切りや、自分の力ではどうしようもないできごとに。たとえば、帰り道を確かめるようにしてなんども振り向きながら去ってゆく恋人に。その人にだけはわかってほしいのに、どうしてもわかろうとしてくれない人に。

 なぜと問いかけ続けて、人生を識《し》る。
 生きることは悲しいことだと気づかされる。
 思いのままに生きられないのは、愚かさと罪を背負っているからだと、それが私という人間の業なのだと。この世は存在の流刑地だから。それは、どこで暮そうともけっして変わりはしないから。

 なぜと問いかけ続けて、愛を識《し》る。
 それでも生きているのは、愛されているからだと気づかされる。
 愛されているということは、許されてあるということ。ときに愛を信じられなくなっても、それは自分の勁《つよ》さを試されているだけのこと。
 この世と呼ばれる存在の流刑地で、もっとやさしくなれ、もっと強くなれと励まされている。

 なぜという問いかけはとても切ない。
 切ないのは、私が私でいるから。
 切ないのは、私自身だから。




 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第38話として投稿しました。『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
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私は日本人のことあるね(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第37話)

2011年06月20日 06時30分00秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 
 中国で暮していると、
「韓国人?」
 とよく訊かれる。
 どうやら、中国人は日本人と韓国人の区別がつかないようだ。中国には韓国人が大勢いるから、「自分たちとは違う東アジア人」と話をしたら、まず韓国人を思い浮かべるのだろう。
「違うよ。日本人だよ」
 僕がそう答えると、まずいことを言ってしまったと後悔の色を浮かべる人もときどきいる。国を間違えるのは失礼だと思っているようだ。僕はこだわらないけど、気にする人もいるだろうし。
「ほら、韓国ドラマをけっこう放送しているでしょ。なんか、テレビに出ている俳優さんに似てるなって思ったから。男前も多いし」
 気を遣う人はこんな風に言ってくれるのだけど、それってフォローになってへんやん。
 もっとも、バックパッカーになって旅をしていた頃は、よく韓国人の旅人が「アニョ~」とかなんとか元気よく言いながら韓国語で僕に話しかけてきた。たいていの日本人バックパッカーはこんな経験をしているから、僕が特別韓国人に似ているというわけでもなさそうだ。韓国人の目から見れば、日本人は自分たちの同胞と同じ姿に見えるのだろうか。ともあれ、韓国人は自国の人間と日本人の区別がつかないようだ。それくらい似ているのだろう。

 雲南省に住んでいる少数民族に間違えられたこともある。雲南省には漢民族を含めて二十六の民族が住んでいる。
 十年ほど前、広州から雲南省の省都・昆明行きの列車に乗った時、雲南人の乗客が話しかけてきた。
 僕がまったく中国語を聞き取れないので、話しかけてきたお姉さんは、僕が中国語を話せない少数民族だと思ったらしい。
「もしかしてヤオ族?」
 彼女はそう訊いてくる。ほかの雲南人にも「あなたはヤオ族か?」と訊かれたことがあるので、どうやら僕の顔はヤオ族という少数民族に似ているらしい。ちなみに、ヤオ族は雲南省では山奥で田んぼを耕して暮している民族だ。
「ニホンジン」
 僕は片言の中国語で答えた。
「ええっ? ほんとう!」
 お姉さんは心が躍《おど》ってしまったようだ。
「中国語を話せる?」
「ハナセナイ」
「ほんとに日本人なんだ」
 ほがらかに笑った彼女は勢いこんで中国語でいろいろ話しかけてきた。でも、僕は彼女がなにを言っているのかまったくわからない。ちんぷんかんぷんだ。せやから、話されへんねんてさっき言ったやん。
「ほんとうに中国語がわからないんだ」
 ぽかんとした僕の顔を見て、彼女はしょんぼりしてしまった。あんまり落ち込んでいるものだから、ちょっとかわいそうだった。雲南人の喜怒哀楽の表現はけっこう素朴だ。うれしかったらすぐに笑うし、気落ちしたらすぐにしょんぼりしてしまう。僕はそんな雲南人が好きだ。

 中国暮らしも長くなると、今度は日本人に中国人と間違えられるようになった。中国製のジーンズを穿いて、中国製のシャツを着て、地元の値段の安い理髪店で髪を切ってもらうと、中国人に見えるようだ。
 僕が日本語で日本人に話しかけると、
「あ、ニイハオ」
 と反射的に日本語訛りの中国語が返ってくることもあるし、
「びっくりしたあ。てっきり中国人かと思っていました」
 と驚かれることもある。
 最初はなんだかなあと思ったけど、今はもう慣れてしまった。
 中国人から見れば、僕はやはり中国人には見えないらしい。理由は、雰囲気と仕草が中国人とは違うからだとか。
 それぞれの国の人たちには固有の雰囲気や仕草がある。いくら外国で長い間暮らしてみても、それは抜けないようだ。日本ではわからないことだけど、僕の体と心には日本の文明や文化がたくさんつまっている。僕自身が日本文化の缶詰といってもいいのかもしれない。もちろん、日本人なら誰でもそうなのだけど、外国で暮らしてみればこんなことにふと気づかされる。
 僕が日本人であるのは、たぶん偶然なんだろう。たまたま日本人として生まれただけのことだ。
 それでも、日本人であることからは離れられない。日本人をやめることはできない。なるべく外国のいろんな習慣や文化を学んでみたいと思っているし、自分の殻を破ってみたいけど、僕は死ぬまで日本人であり続けるのだろう。当たり前のことのようだけど、思えばなんだか不思議な気もする。




 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第37話として投稿しました。『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
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描かれないリアリティ(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第36話)

2011年06月18日 00時32分37秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 
 彼女とはじめてデートする時は、手をつなぎたいものだ。
 手をつなげば、ときめきの風がふたりをつつむ。世界はこんなに輝いているのだと気づいたりもする。
 だけど困ったことに、手をつなげば自然とあそこが膨張してしまう。そう、男の子の大事な部分が。
「不潔」などと言ってはいけない。
 これはどうしようもないことだ。
 意志の力ではどうにもならない。
「鎮まれっ!」と念じてみても、かんたんに鎮まってくれるものでもない。
 だったら、手をつながなければいいじゃないかと言われそうだけど、そうもいかない。やっぱり、ルンルン気分で手をつなぎたい。いっしょに歩いてくれる人がいるというのは、なにより嬉しいことだから。
 冬場なら、ジャンパーかコートで隠せるのだけど、夏場は隠しようがない。見られたらどうしようと思うと恥ずかしくしょうがないのだけど、なかなか引っこんでくれない。困ったものだ。
 どうやら、恋をすることと体を求めることはイコールのようだ。恋は求めることだから、それが自然なのかもしれない。それが動物としての人間の本能なのだろう。
 ところが、青春小説や恋愛小説では、こんな場面はたいてい描かれない。
 僕も初デートのシーンを描く時は、そんなことはカットしてしまう。
 まず第一に書こうとも思わない。無意識のうちに避けているのだと思う。彼女の掌のぬくもりは心をこめて丹念に描くのに、彼の体について描かないのは片手落ちだと思うのだけど、やはり描かない。
 初デートのシーンにそんな描写を入れたらどうなるのだろうと空想してみるけど、
 ――やっぱり美しくないよなあ。
 とか、
 ――描くのもなんだか照れくさい。
 と思ってしまう。
 初デートのシーンは、登場人物の想いを思う存分描くことができるから結構盛り上がる。恋愛をはじめたばかりの初々しい恋人同士というのはいいものだ。ふたりの後姿には倖せがいっぱいつまっている。ふたりの心のなかは楽しい未来だけだ。それなのに、あそこが膨張したなどと描写しては、せっかくの初デートがなんだかいやらしくて胡散臭いものになってしまうような気もする。
 もちろん、これは僕だけの考え方かもしれない。僕が「膨張」を描かないのは、その小説の世界観を壊さずに「膨張」を描写する力量がないだけのことだ。いろんな見方があっていいし、そうあるべきだと思う。
 このことは現実が小説に反映されないほんの一例にすぎない。無意識のうちに醜いものとして遠ざけて描かれないことは、ほかにもたくさんあるのだろう。精一杯描写しているつもりで、その実、それとは知らずにタブーにしてしまって描かないことだらけなのかもしれない。
 もちろん、小説は現実をそのまま写し取れば成立するというような単純なものではないけれど、こうした描かれないリアリティーを追究すれば、より深い作品を書けそうな気がする。




 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第36話として投稿しました。『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
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民主化運動家のノーベル平和賞受賞と中国文明の限界(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第35話)

2011年06月16日 07時40分00秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
(2010年10月9日発表)

 
 ゆうべ、中国の民主化運動家の劉暁衡氏が二〇一〇年度のノーベル平和賞を受賞した。
 一夜明けて今日、さっそく知り合いの中国人に、
「中国人がノーベル平和賞を取ったんだけど、知ってる?」
 と、聞いて回ったのだけど、案の定、ほとんど誰も知らなかった。
 ネットで検索しても、人民日報がごく短い記事を載せているだけだ。人民日報は中国共産党の機関紙だから、庶民はほとんど読まない。ちなみに、広州でわりと読まれている地元紙「南方都市報」の一面は、「ホテルの朝食で中毒。広州の女性が四川で死亡」というものだった。一面はおろか、紙面のどこにもノーベル平和賞のことは載っていない。中国当局が報道管制を敷き、劉氏の受賞を報道させないように指示したのは間違いない。
 劉暁波氏の名も、中国の庶民は知らないようだ。日本のニュースサイトの画面を見せても、「この人は誰?」という反応しか返ってこない。もっとも、彼は反体制活動家だから、一般の人々が知らないのもむりもないだろう。中国政府としては人民に知られたくない存在だ。
 ともあれ、中国国内では、劉氏のノーベル平和賞受賞はなかったことになっている。
 僕の知り合いのある日本人は、
「名誉なことなのに、どうしてみんな知らないんだろうねえ?」
 と首を傾げたのだけど、おおかたの中国人はこの喜ばしいニュースを知らされていない。
 新聞の報道などで知っておられる方も多いだろうけど、劉氏は天安門事件以来の民主化運動の活動家だ。
 天安門事件後に逮捕された時の罪状は「反革命罪」。釈放された後も、中国国内にとどまって民主化運動を続けたため何度も逮捕された。二〇〇八年には大幅な民主化を訴えた「08憲章」の起草に加わったのだが、このことによって逮捕され、懲役十一年の刑を宣告された。罪状は「国家政権転覆扇動罪」。現在も獄中にいる。
 劉氏のノーベル平和賞受賞に関して、中国外務省のスポークスマンは当然声明を発表した。
「劉氏は中国の法律を犯した犯罪者である。このような人物に授与することはノーベル平和賞を冒涜する行為だ」
 簡単にまとめれば、このようになる。「悪法も法」だから、法を犯せば犯罪者ということになるけど、このような発言を詭弁《きべん》という。

 基本的に、民主主義という思想は中国文明とは相容れないものだ。
 歴史的にみて、中国は強力な中央集権による専制政治を発展させてきた。現在の中国共産党も、この中国文明の枠のなかで政権を運営している。中国共産党は絶対であり、異論は許さないという専制政治だ。彼らの統治技術は非常に巧妙で、あらゆる反権力の芽を潰す。究極の独裁といってもいい。
 これに対して、民主主義は権力を分割し、すべての人間に「一票」という権力を与える。誰でも自分の意見を自由に発表できるし、全員が選挙に参加できる。もし行政がおかしなことをすれば異議を申し立てることも可能だ。日本でいえば、日本人の成人は誰でも「一票」という名の一億分の一の権力を持っていて、投票所へ行ってそれを行使することができる。つまり、民主主義は究極の分権だ。
 どちらがいいかは言うまでもない。
 民主主義は、人間一人ひとりの尊厳を大切にする優れた思想だ。人類が生み出した叡智、人類の理想といってもいいかもしれない。もちろん、民主主義にはいろんな問題があるし、様々な欠陥を抱えているのだけど、もしかしたら、今の人類は自らが生み出した叡智や理想を適切に理解して運用するだけの能力がまだ備わっていないだけなのかもしれないとふと思う。
「究極の独裁」と「究極の分権」。水と油だ。
 この両極にあるふたつのものが手をとりあうことはきわめてむずかしい。

 劉暁波氏はノーベル平和賞にふさわしいだけの実績を残している。
 何度牢屋へ放りこまれても、そのたびに再起して民主化運動を続けるなどということは、並の人間にはまねできないことだ。
「ノーベル賞を冒涜するものだ」という中国政府の子供じみた声明は、人類の理想を冒涜するものだ。また、中国外務省のスポークスマンは声明のなかで、
「ノルウェーとの関係が損なわれる」
 と発言していたけど、こんな恫喝をするだなんて、これではある広域組織となんら変わらない。
 人間は金儲けだけをすればいいというものではない。
 権力闘争を勝ち抜いて、権力を握ればいいというだけでもない。
 人間性の向上と発展。これこそが人類の課題ではないだろうか。民主主義は真の意味での人類発展の鍵を握る思想の一つだ。
 さらに言えば、あのような幼稚な声明は、中国文明の限界を自ら露呈するものだった。
 今の中国は高度経済成長が続き騎虎《きこ》の勢いを見せている。だけど、それはたんに金儲けがうまくいっているというだけの話であって、中国が他国のお手本になるようなものを提示できるのかといえば、そうではない。
 かつて、中国は東洋的な近代国家であり、近隣諸国の手本となる国だった。
 日本の場合、中国の法律制度を見習って大宝律令(701)を制定し、平城京(710)や平安京(794)は唐の都・長安を模倣して建設した。中国は政治のあり方、文明のあり方の教師役だった。いろんな意味で「先進」を行く国であり、中国文明は最先端の文明だった。それを思えば、今の状態はお寒い限りだ。古代の中国文明はともかく、今の中国文明には他国や他民族が真似るべきものはなにひとつない。今の中国文明にはなんの理念も理想もないからだ。
 中国文明は、よくいえば「おじいちゃんの文明」と言えるかもしれない。成熟の段階を通り越し、完成した文明だ。一つの完結した形をもつ文明だ。だが、悪く言えば、「終わった文明」だ。もうどこにも発展の余地がない。文明の創造力は枯れはて、袋小路へはまりこんでしまった。
 劉氏のノーベル平和賞受賞は、そんな行き詰った中国文明にちいさな風穴をあけるものだ。東洋的な古い近代が行き着き、がらんどうになってしまった中国文明に新しい命を吹き込むための、その魁《さきがけ》となるものだろう。
 ただ、民主化に限っていっても、今後の道のりは決して平坦ではない。いささか大袈裟な物言いになるけど、劉氏が戦っているのは中国文明の宿痾《しゅくあ》そのものだ。上から下まで権力の甘い汁を吸ってゆがんだ国家を築き、庶民を痛めつける政治屋や腐敗役人を一掃するのは容易な作業ではない。中国文明そのものに、そんな腐敗を無条件に肯定する土壌がある。今回の受賞によっても、中国国内の状況はなにひとつ変わらない。中国の民主化が進展するわけでもない。
 それでも、劉氏の受賞はうれしいニュースだ。
 たとえ状況がまったく変わらないとしても、いちばん大切なのは理想を訴え続けることだ。それが明日の希望へつながるのだから。



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「価値」の牢獄からの脱出(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第34話)

2011年06月09日 15時45分00秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 
 小説を商品として売り出そうと思えば、他人のための使用価値があるものを書かなくてはいけない。
 当然のことだけど、商品というものは、他人が使用価値を感じてなんぼのものだ。自己満足だけの「商品」を出しても、誰も相手してくれない。化粧品でも、トイレットペーパーでも、コンビニ弁当でも、車やバイクでも、消費者がこの商品には利用価値があると判断しなければ、買おうとしない。他人が買ってくれないかぎり、商品は商品になれない。他人が買ってくれない商品――つまり不良在庫はただのガラクタにすぎないから。
 それではひるがってみて、小説の使用価値とはいったいなんなのだろう?
 エンタメの場合は、わかりやすいかもしれない。
 読者に楽しんでもらってなんぼだ。
 ドキドキハラハラ、スリル、ユーモアといった愉快さを読者が感じるか、ここに小説の使用価値がある、とこんな風に単純化して言ってしまったら、エンタメの書き手に怒られてしまうかもしれない。だけど、読者が楽しめるかという一点にエンタメ小説の価値がかかっていることには異論がないと思う。
 それでは、純文学の場合は?
「恥の多い生涯を送ってきました」(太宰治『人間失格』)
 だとか、
「彼らが代表している人間というものを憎む事を覚えたのだ」(夏目漱石『こころ』)
 などと書いている小説の利用価値っていったいなんだろう?
 簡単に言えば、商品とは「世間のご機嫌を取る」ものだ。ご機嫌を上手に取れば取るほど商品は売れ行きがよくなる。お金が儲かる。だけど、こんなフレーズではとても世間のご機嫌を取れそうもない。むしろ、反発を買ってしまうだろう。

 僕は純文学系の書き手だけど、そもそも使用価値なんて考えて書いたことがない。わかりやすく丁寧に書くよう心がけているつもりだ。だけど、商品としてどれほどの価値を出すのか、ということにはまったく関心がない。
 僕の関心は、使用価値の高い小説をいかに書くかということよりも、自分の抱えている課題をどうやって解決するのかという一点にある。自分を救いたい。自分が救済されたい。だから、その方法を探る手段として小説を書いている。自分のために書いている。自分を救済したいのなら、特定の宗教に帰依するという方法もあるけど、僕の場合、そうはならなかった。神様や仏様をだしにして金儲けする人たちは、どうにもいかがわしく思えてしまう。
 もちろん、自分のために書くのだとはいっても、なにかを読者とわかちあえたら、これほどうれしいことはない。小説のエッセンスに触れたそんな感想をいただいた時は、小説を書いてほんとうによかったと思う。いささか大袈裟かもしれないけど、すべてが報われた気がする。人生は孤独なものだし、自分の課題は自分で背負うよりほかにないのだけど、それでもやっぱり、ひとりでは生きていかれないから。

 価値というものは相対的なものだ。
 乱暴かもしれないけど、思いきり単純化して言うとこうなる。
 Aの価値がBの価値を凌駕したときのみ、Aは値打ちがあるものとなる。しかし、Aの価値がBの価値を下回る時、Aには価値がない。
 純文学で価値を追い求めて、その果てになにがあるのだろう? なんにもないような気がする。袋小路にはまってどこへも行けなくなるような気さえする。これは懐疑的過ぎる見方かもしれないけど。
 僕は、価値よりも意味を追究したい。世の中がどう変化しようとも、変わることのない意味をつきつめたい。意味とはもちろん人生の意味だ。この生の意味だ。
 日常の生活では、使用価値の檻のなかで暮らすしかない。僕自身、商品を使用価値をあれこれ比べてものを買っているし、逆に職場では僕の「労働力」という価値を測られ、使い物にならないと判断されれば切り捨てられる立場にある。だけど、せめて小説を書いている時くらい、価値の牢獄から抜け出して、どこか遠くを目指してみたいものだと思う。



 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第34話として投稿しました。『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
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