風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

雪の幻想

2019年01月02日 06時15分15秒 | 短編小説

 雪が降る。
 この世界を埋め尽くして雪が降る。
 北の大地の最果て。小さな村の小さな通り。村のなかも、村の外に広がる畑も、地平線さえも雪のなか。悲しみは雪の白に埋もれ、ひっそりため息をつく。
 あの人が連れられてくる。あの人は腰に薄汚れた布を巻いただけ。疲れ切った瞳、うつろなまなざし、ばらばらにほどけた長い髪、痩せた体には痛々しい拷問の傷の跡。わたしたちはただ息を飲み見守る。それしかできなくて。
 死刑執行人は雪の上に十字架を置く。あの人は、これが定めだというように自らゆっくりと十字架に体を横たえる。死刑執行人が、太い釘をあの人の掌に打ち付ける。あの掌は、いつかわたしの頭にかざしてくださった掌。わたしの心に棲んでいた悪霊と心を穢していた罪を追い払ってくださったやさしい掌。
 槌の音が無情に響く。死刑執行人は自分がなにを打ち付けているのかを知らない。打ち付けるのは愛。混じり気のない純粋の愛。神さまが地上へ送った無償の贈り物。かけがえのない奇蹟。死刑執行人はあの人の掌を打ち終えると、あの人の重ねた足に釘を打ち付ける。あの人の血が白い雪に点々と飛び散る。
 あの人は十字架ごと橇に乗せられる。あの人は目をまたたき、じっと降りしきる雪を見つめている。降りしきる雪はあの人になにを語りかけているのだろう。あの人の頬に、まつ毛に、雪が降り積もる。あの人はなにを想っているのだろう。
 屈強な体つきをした死刑執行人たちが橇にロープをつけて引っ張る。新雪を踏み抜く音だけがあたりに広がる。静まった村の小道を抜け、ゆるやかな丘を登る。わたしたちは神さまにあの人を救ってくださいと祈りながら後をついて歩く。それだけがわたしたちに許されたこと。祈ることだけが。ただ祈ることだけが。
 村の外れの低い丘。雪に埋もれた白い丘。ここがあの人の処刑場。死刑執行人たちは雪を掘り、四角い地面を空け、橇から十字架を卸す。わたしは思わず、
「もうこれで十分でしょう。村へ戻りましょう」
 と死刑執行人へ話しかける。死刑執行人は、
「あんたらがどれだけこの人を大切に思っているのかはわかっているさ。だけどよ、うちらにとっちゃ、この人はただの罪人なんだよ。罪人を処刑にするのがうちらの仕事。ただ仕事をしているだけ。さあ、邪魔だからどいておくれ」
 と首を振り、十字架を打ち立てる。空へ掲げられたあの人は穏やかなまなざしでわたしたちを見つめ、それから鈍色に染まった雪雲を見上げた。
 人間ほど恐ろしい生き物はいない。
 欲と傲慢に駆られた心は、純粋な愛を責め立て、神の子を罪びと扱いする。神の子が受肉した意味も考えず、ただのかりそめにすぎない虚栄と富を守ろうとして、愛を磔にする。愛を処刑した人々は、闇に心を奪われたまま自分自身と他人を苦しめ続ける。
 死刑執行人は槍を突き刺す。あの人の脇腹へ何度もなんども力をこめて。あの人の体から血潮が噴き出す。あの人は苦痛に顔をゆがめる。やがて血は勢いを失い、だらだらと体を伝って滴り落ちた。雪まじりの風があの人の長い髪を乱す。
 わたしたちは祈りを唱える。
 あの人に教えられた祈りを唱える。
 あの人が祈ってくださった時に感じた純粋な光、あたたかさ、それを失いたくないから。いつまでも、いついつまでもあの人にそばにいて欲しいから。
 神さま、どうか出てきてください。あの人をお救いください。あの人なしでは、わたしたちの生は輝きと潤いを失ってしまうのです。あの人だけが、わたしの心に確かな形と奥行きを与えてくださるのです。
 すすり泣きの混じった祈りの声が雪の丘に響く。白い風にさらわれた祈りはどこへ行くのか。わたしたちの願いは風にちぎれるだけなのか。それでも祈るしかなくて。
 どれくらいあの人を見守っただろう。わたしたちは祈り、そして、あの人を見つめ続けた。あの人は混濁した意識のなかでうわ言をいう。あの人の髪や肩や足に細かな氷のかけらがこびりつく。わたしはなにもできない。なにも助けてあげられない。なにもして差し上げられない。ひたすらに無力なわたしたち。
 あの人は数々の奇蹟を見せてくださった。湖のうえを歩きもすれば、見捨てられた重病人を治しもした。数えきれないほどの悪霊を退治して、死者すらも生き返らせた。それなのに、なぜあの人は自分自身のために力を使おうとはしないのだろう。純粋な愛は自分のために使うものではないから?
 あの人が、最後の力を振り絞ってわたしたちへ語りかける。
「必ず帰ってくる。それまで愛し合って暮らしなさい」
 わたしたちは涙を流す。思いやりに満ちた言葉、だけど、残酷な言葉。あの人を失っては生きる意味などないのに。純粋な愛のない人生は石ころと同じなのに。あの人に別れを告げてほしくない。
「わが神、わが神、なんぞ我を見捨て給いし」
 あの人は吹きすさぶ風へ叫ぶ。
 あの人も神さまを待っていたのだ。救いを待ちわびていたのだ。そう思うと胸が締めつけられる。あの人はどれほどつらかったことだろう。この世がもうすぐ愛で満たされることを信じていたのに。そして、もしかしてあの人はわたしたちを見捨てたのではないかと心の片隅で疑ったわたしを愧じた。
 ついに、あの人はうめき声をあげ、息絶えた。
 祈りがやむ。
 風の声だけがあたりをつつむ。
 退屈そうに待っていた死刑執行人があの人を十字架からおろす。凍りついた素肌、霜焼けた手、脇腹の傷跡、乾いた血糊、ぬくもりの消えた瞳。わたしは死刑執行人にお金を払ってあの人の遺体を引き取る。みんなはあの人のまわりに集まってむせび泣き、あの人の体にこびりついた氷を震える手で払いのける。みんな嘘だと笑って生き返ってくださったらどんなにいいだろう。
 雪が降る。
 純粋な愛を失った世界に雪は降り続く。
 白い闇がこの世を覆った。




 (了)

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自然な味の慈姑炒め(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第421話)

2019年01月01日 06時45分45秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 子供の頃、慈姑(くわい)が好きではなかった。

 おせち料理に必ず慈姑の煮物が出てくる。「芽が出る」というので縁起がいい食べ物なのだそうだ。だけど、なんだか苦いし、おいしくない。正月からどうしてこんなものを食べなきゃいけないのだろうと思いながら食べていた。

 雲南省に留学していた頃、仲良くなった雲南人の家庭にお呼ばれしたりしたのだけど、ある時、慈姑の炒め物が出てきた。御馳走になった慈姑はほっこりしているうえに、甘い。子供の頃、苦手だったあの独特の苦さがない。たんに炒めただけなのにどうしてこんなにおいしいのだろうと思った。

 留学中に住んでいた宿舎の近所にあった農業市場へ行って、試しに慈姑を買ってみた。皮を剝いてから実を半分に切り、茹でてあく抜きをして、それからざっと炒める。自分で作ってみても、やはり甘くておいしかった。実もしっとりとしている。

 子供の頃におせち料理で食べていた日本の慈姑と雲南の慈姑は品種が違うのかもしれないし、雲南で食べた慈姑が新鮮だったからなのかもしれないけど、慈姑っておいしいものなんだと見直した。それから時々、自分でも作って食べたりした。

 ちなみに、雲南省のある少数民族には慈姑採りの様子を踊りにしたものがある。慈姑は水田に生える。水田のなかを歩きながら、足の指股で芽を挟んで採るのだけど、その様子を模して足をさっと前へ出して軽やかに踊ってみせる。素朴でいい踊りだった。




(2018年1月2日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第421話として投稿しました。
 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/

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