風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

空飛ぶクジラはやさしく唄う 最終話

2012年11月19日 07時25分44秒 | 恋愛小説『空飛ぶクジラはやさしく唄う』
 
空飛ぶクジラはやさしく唄う


   
 白い紙飛行機が病室の窓から冷たく晴れた空へ滑り出す。
「つかまえてごらん」
 僕は、病棟の下で待ち構えている男の子へ声をかけた。シアトル・マリナーズのスタジアムジャンパーを羽織った男の子ははしゃぎ声をあげ、三階からゆっくり舞い落ちる紙飛行機を追いかける。紙飛行機はやがてかくんと機首を下げ、滑り台をすべるようにして中庭のベンチへ落ちた。白い翼を拾った男の子は嬉しそうに僕を見上げ、
「おにいちゃん、ありがとう」
 と、無邪気な声を響かせた。
「じゃあね」
 僕は手を振った。男の子は手を振り返し、中庭の向こうの建物へ消えていった。
 さっとカーテンを引く音が鳴る。パジャマから服へ着替えた遥がベッドの縁に腰かけ、濃紺の靴下を履いた。
 過労による貧血という診断が下り、念のために一日だけ入院することになった。点滴を打ったおかげで血色はずいぶんよくなったのだけど、表情は冴えないままだ。遥は心の内を見つめ、ずっと物思いにふけっている。やり場のない怒りをこらえようとしてか、目尻がかすかに吊りあがる。白い肌が冷たく燃え、能面のように透き通った。
「行こうか」
 僕は、遥の着替えをつめたボストンバッグを持った。
 エレベーターで一階へ降り、中庭へ出た。消毒液の匂いから解き放たれ、やわらかい光がふたりをぬぐう。遥は、ふと立ちくらみをした。
「先生のところへ行こうよ。もう一度診てもらおう」
 僕は言った。
「いいのよ。貧血じゃないの。心が石になってしまったみたいだから――」
 遥は、さまよい疲れたようにつぶやく。
「ベンチで休もう」
 僕たちは、さっき紙飛行機が舞い落ちた中庭のベンチに腰をおろした。高くそびえる銀杏《いちょう》はすっかり木の葉を落とし、丸裸の枝を肌寒い風にさらしている。僕はコートを脱ぎ、遥の肩にかけた。
「お父さんのことを考えているの?」
 僕は訊いた。遥は唇を結び、小さく鼻を鳴らす。
「なにを思っているのか、話してよ」
 そう言っても、遥は黙ったままだ。
「たぶん、お父さんはもう現れないよ。刑事さんがきちんと念を押しておいてくれたし、今度あんなことをしでかしたら、どうなるかわかって――」
「それはいいのよ。わたしが考えているのはそんなことじゃないの」
 遥は、珍しくいらだたしそうにさえぎった。
「それじゃ、なにを考えているの?」
「わたしね、ほんとうはあの人を罰したくてしょうがなかったの。懲らしめてやりたくて、しかたなかったの。わたしが訴えれば、あの人はなにもかも失うわ。復讐したかったのよ」
「そう思って当然だよ。あんなことをされたんだから。僕だってそう思ったもん」
「あの人が刑務所へ入ったところを想像しただけでも、胸がすっとしたわ。楽しくてしょうがなかった。でもね、罰したいっていう気持ちも、やっぱり欲望なのよ。たぶん、一つ罰したら、もっともっとって求めてしまうと思うの。人を懲らしめたいっていう気持ちに切りなんてないのよ。わたしにだれかを断罪する資格なんてないのに――。
 警察沙汰にしたらお姉ちゃんが困るかもしれないっていったのは、あきらめる理由がほしかったからなのよ。――お姉ちゃんがわたしの気持ちをわかってくれたことはほんとうに嬉しかったんだけど、懲らしめたいっていう気持ちでこりかたまりそうな自分が怖かった。だから、お姉ちゃんと話した後、ずっと聖書を読んでお祈りしていたの。あの人を罰したいだなんて、そんなことばかり考えるわたしを救ってくださいって」
「そうだったんだ」
「間違ったことはしたくないもの。なにも考えないで、自分の気持ちのままに動いたほうがよっぽど楽だけど、でも、それじゃいけないのよね。あの人とおんなじになってしまうわ」
「立派だったと思うよ」
「でも、うまくいかなった。わたしなりに真剣に考えて、精一杯の気持ちで許したかったのに、あの人はわかってくれなかった。ほんのすこしでもいいから、わたしの思いをわかろうとしてくれたら、すこしは救われたかもしれないけど」
 遥はうつむいた。大きな瞳が小刻みに震える。深い虚無感と挫折感にとらわれたまなざしだった。
「残念だったけど、しょうがないって割り切るしかないよ。善意が相手に通じるとは限らないしさ。昨日も言ったけど、わかってもらえなくてもともとだから」
「頭ではわかっているんだけど、どうしても割り切れないのよ。いつかわかってくれるって信じられたらいいのに」
「あんまり考えすぎるのはよくないよ。遥は間違ったことはしなかったんだから、自分に自信を持っていいと思うよ」
「そんなの、もてないわ。なんだか、わからなくなってしまった」
 遥はやるせなく首を振った。
「疲れているだけだよ」
 僕は遥の肩を抱いた。だけど、遥は僕の手をそっとはずしてしまう。誰にも触れてほしくないのだろう。ふたりは無言で家路についた。

 それから二日間、遥はひと言も口を利かなかった。
 自分の殻に閉じこもってしまい、なにも言おうとしない。僕がなにかの拍子に物音を立てると、遥は頭がずきずき痛むように顔をしかめ、暗い目をして塞ぎこんだ。慰めの言葉をかけようとしても、遥は背中を向けて僕を避けてしまう。僕は、どうすればいいのかわからなかった。遥は学校もアルバイトも休み、買い物以外はずっと部屋にこもりっきりだった。
 オカマさんに話を聞いてもらいたくて連絡をとってみたのだけど、彼は忙しそうだった。年末が近づいているのに、勤め先の美容院はまだ人手が足りないままのようだ。いつもは朗らかな彼も元気がなく、喉を痛めたとかで声がしわがれていた。僕は、「また連絡します」とだけ言って電話を切るよりほかなかった。
「ただいま」
 いつものように学校から帰り、ふたりの家のドアを開けた。部屋には灯りがついていない。まだ六時前だけど、あたりはもう真っ暗で部屋も暗かった。僕は、近所の弁当屋で買ったかぼちゃコロッケと春雨サラダを手に提げていた。遥は疲れているから、料理を作る手間を省いてあげたかった。
 遥は出かけたのだろうか。惣菜を買って帰ると携帯のメールを送っておいたから、スーパーへは行かなくていいはずだ。どこへ行ったのだろう? 僕は不思議に思いながら、壁のスイッチを入れた。
 蛍光灯はすぐに灯らない。端っこがオレンジ色に変色しているから、もう寿命なのだろう。からからと乾いた音を立て、咳きこむように何回か明滅した後、ようやく明るくなった。カーペットにぺたりと坐りこんだ遥が、呆けた顔で天井を見上げていた。
「遥、どうしたの」
 僕は肩を揺さぶった。遥の瞳から涙がこぼれる。遥の目はどこかを見ているようで、どこも見ていない。
「なにがあったの?」
「ゆうちゃん――」
 遥は、放心したままかすかに聞き取れるほどの声で言う。
「黙ってたら、わからないよ。話してよ。また、お父さんがきたの?」
「違うわ」
「いったいどうしたの?」
「わたし、ほんとに、わからなくなったの。――わたしはなにをやっているんだろう? やっぱり、求めたりしたらいけないのよ。愛してほしいとか、わかってほしいとか、そんなふうに求めたりしたらだめなのよ」
「誰でもそう思うものだよ。すこしずつ慣れようねってこの前に話しただろ」
「そうだけど、やっぱりだめなのよ。求めたら、この始末だもの。きっと罰《ばち》が当たったんだわ」
「そんなことないよ」
「心がぐちゃぐちゃになってしまったの。どうしたらいいのかわからない」
 遥は頭をかきむしる。
「落ち着こうよ」
「そんなことできない」
「明日、いっしょに心療内科へ行こう。お医者さんに相談してみようよ」
「いやよ。お母さんといっしょになるのはごめんだわ。心療内科なんかへ行ったら、抗鬱剤を処方されてしまうわ。あれは麻薬なのよ。一度あんなものを飲み始めたら、一生飲み続けないといけなくなって、薬漬けにされてしまうわ。麻薬中毒にされるのとおなじだもの。心療内科の先生なんて白衣を着た麻薬の売人よ。患者の弱みにつけこんで、危ない薬ばっかり売りつけるのよ」
「そんなことないよ」
「わたしのお母さんは、十年以上も薬を飲み続けているのにぜんぜん治らないのよ」
「そんなことを言ったって、このままじゃどうしようもないだろ」
「どうしようもなくても、薬だけは飲みたくないわ。お母さんみたいに、入退院を繰り返すことになってしまうもの。薬だけは絶対にいや」
「それじゃ、どうすればいいんだよ」
「わからない。今は、砂のなかに埋まっているような感じがする。身動きがとれなくて、息苦しくて、はい上がろうにも、はい上がれないの。このまま窒息してしまいそう。死んだほうが楽なのかもしれない」
「そんなことを言わないでよ。今までなんのためにがんばってきたんだよ」
「がんばらないほうがよかったのかもしれない。なにをやっても、どうせむだなのよ」
「そんなことないってば」
「ゆうちゃんになにがわかるのよ」
 遥は顔をおおって泣き始めた。
「僕は遥のことをわかっているつもりだよ」
「つもりでしょ。ほんとうのことはわからないのよ」
「そんな」
 僕は返す言葉を失った。
 今まで何度か喧嘩をしたこともあるけど、遥がこんなことを口走ったのは初めてだった。中三の時に出会ってから、今まで一度も言ったことのない言葉だった。僕たちはいつもわかりあおうとしてきた。それだけが僕たちの命綱だった。
「ゆうちゃんは、わたしのことなんてなんにもわかっていないのよ。やさしそうなふりなんてしないでよ」
「とにかく、落ち着こうよ」
「だから、できないっていっているじゃない。もうなにも話さないで」
 遥はヒステリックな叫び声を上げ、床にうずくまる。遥は、これまでにないほど激しく混乱している。すこし冷静になれるまで、時間が必要なのだろう。気分さえ鎮まれば、遥もいつものように落ち着いて話すだろうから。父親にまったくわかってもらえなくて、ひどく傷ついてしまったのだ。むりもない。
 僕は腫れ物に触るように遥をそっとしておいた。そのうち気分が上向くだろうと待ったのだけど、いつまでたっても塞ぎこんだままだ。死んだ愛が遥の心のなかで腐り始め、そのなかで立ちすくんでいるのかもしれない。遥は泥沼にはまりこみ、なす術もなく沈みゆく人のようだった。
 どうすることもできないまま、一週間ばかりが過ぎた。
 遥は食事もろくにとらず、見るみる間に痩せこけた。頰がげっそりして、蒼白い顔に目ばかりが痛々しくぎらつく。まるで、追いつめられた手負いの獣のようだ。いらだちを隠さなかったのは、あの時の一回切りだけだけど、遥はよそよそしく僕を避けた。夜は床に布団を敷き、別々に寝た。僕は、遥の他人行儀な態度が悲しかった。なんでもいいから、ぶつかってきてほしかった。そうしてさえくれれば、いくらでも抱きとめようがあるのに。

「だいじな話があるの」
 遥がぽつりと言った。僕は要らないプリントの裏にмороз(マローズ・酷寒)と書いてた手をとめ、鉛筆を置いた。明日、ロシア語の単語テストがあるから、机に向かって暗記していた。窓の外は木枯らしが吹き、どんより曇っている。廃品回収車の間延びしたテープ音声が風に乗って途切れとぎれに聞こえてくる。
「なに?」
 僕は遥に向き直った。遥はゆうべ、オカマさんにデザインしてもらった髪型を元へ戻した。愛らしくぴょんと跳ねていた髪にストレートパーマを当て直し、前髪もきちんと切りそろえている。昨日、遥が家へ帰ってきた時、僕は髪型のことを言ったのだけど、遥はなにも言わず、申し訳なさそうに顔を伏せただけだった。
「わたしね、自分のことがよくわからなくなってしまったの」
「ゆっくりいこうよ。あせることなんてないんだから」
「ゆうちゃんはわたしのことを一生懸命考えてくれているのに、ひどいことを言ったりして、ごめんなさい」
「いいんだよ。べつに気にしてないから。遥が苦しいのはよくわかっているし」
「考えれば考えるほど、自分のことがわからなくなってしまったわ。なんのために生きているのか、自分のほんとうの気持ちがなんなのか、さっぱりわからないの。虚しくてやりきれなくて、息がつまりそうで、ただそれだけ。――わたしは自分のことなんてなんにも知らない。――だから、ゆうちゃんのこともよくわからないの。――自分のことを知らない人は、ほんとうに誰かを愛することなんてできないのよ。だから――」
 遥は言葉を詰まらせた。
「だから、なに――」
 僕は、冷たい風が胸に吹き抜けるのを感じた。
「これ以上、迷惑をかけられないわ。――だから、別れてほしいの」
 遥はつらそうに肩を震わせる。
 僕はじっと遥を見つめた。いろんな想いが泡のように浮かんでは、言葉にならないまま消える。心のともし火をふっと吹き消されてしまったようだ。僕にとって、遥との愛はオリンピックの聖火のようなものだった。僕たちは約束の地へ向かって走る聖火ランナーのはずだった。たとえつらいことに出くわしたとしても、今まで大切に守ってきたものをかき消してしまうだなんて、一度も考えたことがなかった。指先から、つま先から、力が抜ける。
「本気で言ってるの?」
「わたしは真剣よ。だって、ゆうちゃんに面倒ばかりかけているし、そう思うと心苦しくてしょうがないの。ゆうちゃんはもっと幸せになっていいのよ。そうなるべきなんだわ。わたしなんかがそばにいたら足手まといだもの」
「足手まといだなんて、僕は遥のことをそんなふうに思っていないよ。遥を幸せにしたいし、遥とじゃなきゃ、幸せになれないんだよ」
「どうして? わたしと付き合っていいことなんてないでしょ。楽しいことなんてないもの」
「僕は、こうして遥といっしょに暮しているから幸せなんだよ」
「ごめんなさい。――自分のことがわからなくなったら、ゆうちゃんへの愛情も消えてしまったの。今は、ゆうちゃんが赤の他人に思えてしょうがないのよ。いっしょにいるのも、なんだか苦痛だし、――窮屈だし」
 遥は言いにくそうに話し、目をそらす。
 僕は部屋を見渡した。
 ふたりで暮してきた狭いワンルームがなぜかがらんとして見える。ファッションケースの上に飾ったトトロとネコバスの人形も、本棚の隅に飾った陶製の回転木馬のオルゴールも息づかいをやめ、この部屋をつつんでいたあたたかい雰囲気もどこかへ消えてしまった。まるで誰も遊びにこない遊園地にいるようで、さびしい。
「暗いね」
 僕は立ち上がって蛍光灯のスイッチを入れたのだけど、とうとう切れてしまった。スイッチを入れなおしても、明かりがついてくれない。
「散歩に行ってくる」
 僕はそのまま部屋を飛び出した。
 すこしだけ家の近所をぶらついて気持ちを落ち着かせるつもりが、いつの間に電車に乗っていた。どこでどう乗り換えたのかもわからないけど、気がつくと荒川の堤防に立っていた。万力で締めつけられたような心の痛みを感じたから、無意識のうちにだだっ広い場所を求めたのかもしれない。
 ゆっくり流れる川は曇り空を映して鈍色に染まっていた。枯れたすすきが土手に揺れ、サッカーのユニホームを着た少年たちが河川敷のグランドで練習に励んでいる。僕は堤防の上をとぼとぼ歩き、適当なところで土手の斜面に腰かけた。
 ひょっとしたらとは考えていたけど、まさかほんとうに遥があんなことを言い出すとは思いも寄らなかった。今から思えば、遥のよそよそしさと冷たさはそのシグナルだったのだろうけど。
 今まで遥とふたりで幸せになろうと思ってがんばってきたのに、いきなりあんなことを言われても、すぐには納得できない。今までの努力は何だったのだろう。中三の頃から、僕たちは青春のすべてを注いでわかりあおうとしてきたはずなのに。
 僕は重たい空を見上げた。
 世界の果てまでおおった厚い雲はじれったそうに震え、今にも泣き出しそうだ。そういえば、遥とふたりで地元の土手へよく通っていた頃、雨に降られたことがあった。
 ちょうど、今と同じ冬の初めだった。休みの日に土手で落ち合っては、お互いに本を貸し借りした。あの日、僕はジッドの『狭き門』を遥へ返して、ドストエフスキーの『貧しき人々』を貸したのだったと思う。話しこんでいるうちに突然土砂降りの雨が降り出したから、僕たちは悲鳴をあげ、あわてて鉄橋の下へ駆けこんだ。ほっと一息ついたと思ったら、今度は電車が通り、大粒の滴をばらばらと振り落として行った。びっくりした僕たちはなにを思ったのか、雨へ飛び出してしまった。なんだかおかしくて、くすくす笑った。愉快そうな遥を見ているだけで、僕はなにもかもが満たされた。ほかのものなど、なにも要らなかった。
 むりに引き留めようとするよりも、あっさり別れてあげたほうがいいのだろう。
 遥の横顔は苦しげだった。遥は、僕を裏切ってしまったと自分を責めている。そんな遥は見たくもない。楽にしてあげたい。
 遥の気分がすっきりして、それで人生をやり直せるのなら、別れたほうがいいに決まっている。こんがらかってしまった糸の結び目は、切ってしまうよりほかにどうしようもない時がある。それが愛なのかどうかはわからないけど、やさしさなのかはわからないけど、今はそうするしかないのだろう。
 遥はきまぐれでものを言う女の子ではない。遥が別れたいと言ったのはよほどの理由があるからだ。もしかしたら、僕が一所懸命支えようとしたのが、かえって重荷になったのかもしれない。遥の言った通り、僕は遥のことをわかったつもりになっていただけなのかもしれない。
 僕は川岸まで駆け、あたりに転がっている石を手当たり次第、川面へ投げこんだ。石は、荒川のごく表面だけを跳ね飛ばしてすぐに沈んでしまう。石を投げつけたところで、川の流れが変わるはずもなければ、堰きとめられるはずもない。だけど、そうせずにはいられなかった。何度もなんども、息が切れても投げ続けた。

 大学の女子寮に空き部屋があったので、遥はそちらへ移ることになった。
 ふたりで遥の荷物をダンボールにつめ、先に宅配便で送った。遥は薄いカーテンを外し、冬用の厚いカーテンにかけ替えてくれた。
「結局、振り出しに戻ってしまったのね」
 パソコンやデジカメといった宅配便で送れない荷物をまとめながら遥はしんみり言った。最後の荷物は、リュックと紙袋に入れて遥が自分で運ぶ。それが僕たちのお別れだった。
「どういうわけか、今は世の中の人が全部敵に思えてしょうがないの。ゆうちゃんと出会う前もそうだったわ。自分の世界が崩れないように、わたしは必死になって自分の壁を守ろうとしていたの。ゆうちゃんがせっかくその壁を突き崩してくれたのに、また壁を作ることになってしまったわ」
 僕はなにも答えず、パソコンのケーブルを紐でくくった。
「怒ってるの? そうよね。怒って当然よね」
「そんなことないよ」
「それじゃ、どうして黙っているの」
 遥はしょんぼりする。
「早く荷物を片付けなきゃね。寮の職員の人が向こうで待っているんだろ」
 僕は素っ気なく言った。そうでもしないと、遥を引き留めてしまいそうだ。
「そうだけど――」
 遥は洗濯できなかった汚れ物をビニール袋にまとめ、いつか伊勢丹で買ったリュックの底へ入れた。
「楽しかったわ」
 遥は僕を見つめる。僕は遥と目を合わさないようにして束ねたケーブルやマウスを紙袋につめた。
「さあ、できたよ。駅まで送っていくよ」
「ごめんなさい。勝手に出て行くのに、楽しかったなんてわがままよね」
 遥は、部屋の合鍵をちゃぶ台のうえに置き、
「今までありがとう。――ゆうちゃんは幸せになってね」
 と言って立ち上がる。僕は、遥が持とうとした紙袋をひったくるようにして自分の手に提げた。これが遥にしてあげられる最後のことだから。

 僕たちの物語は終わった。
 喫茶店の窓の外は夕暮れだった。買い物客がせわしそうに歩いている。
 僕は丸太造りの壁際まで行き、ふたりで花火大会へ行った時の写真を取り去ろうとした。思い出を取っておきたいからというわけではない。思い出なら胸の中にいくらでもある。遥と過ごした日々は僕の青春そのものだから、色褪せるはずもない。ただ、この店へくるたびに遥との日々を思い出すのは、せつなかった。
 写真に留めた画鋲を外そうとして、ふと迷った。
 ふたりの思い出なのに、ふたりで貼った写真なのに、僕一人で勝手にはがしてしまうのはどうなんだろう?
 憎くて別れたわけじゃない。嫌いになったわけでもない。いろんなことがうまくいかなくて、疲れてしまっただけのことだ。悪いのは僕だ。力が足りなくて、遥を幸せにしてあげられなかった。彼女につらい思いをさせてしまった。
 僕は画鋲から手を離した。
 このままそっとしておこう。
 愛の意味なんてまだわからないけど、いつか笑って話せる日がくるかもしれないから。
 ログハウス風のドアを開け、外へ出た。
 ビルに切り取られた東京の空は茜色に染まっていた。クジラの形をした雲はまだ空に浮かび、夕陽を浴びて黄金色に輝いている。
 僕は立ち止まり、ぼんやりその雲を眺めた。お母さんクジラのようなやさしい雲は、唄っているような、笑っているような。
 今は虚ろな気分だけど、なにかが僕をどこかへ導いてくれるのだろう。どこかへ連れて行ってくれるのだろう。僕は、遥が編んでくれたマフラーを首に巻いた。マフラーに顔をうずめると、遥の透明な香りがかすかに漂った。
 
 

 了

 
※本作は『小説家になろう』サイトへ投稿したものです。
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空飛ぶクジラはやさしく唄う 第17話

2012年11月18日 18時39分34秒 | 恋愛小説『空飛ぶクジラはやさしく唄う』

許したくないもの、許したいもの



「どうだった? ずいぶん話しこんだようだけど」
 部屋へ帰った僕はさっそく訊いた。
「お姉ちゃんは訴えなさいって勧めてくれたわ」
 遥は、すこしばかり気の晴れた顔をする。
 遥の姉はもう実家を出て、地元の県庁所在地の街で暮しているそうだ。勤め先で知り合った彼氏と同棲中で、来年の夏に結婚する予定なのだとか。
「でもね、お姉ちゃんの彼氏も、彼のご両親も複雑な事情はわかっているから、あの人が裁判にかけられたり牢屋へ入ったりしても大丈夫だって、万が一、婚約がご破算になってもかまわないし、自分のことは気にしなくていいから、ひどいことをされたぶんだけぎゃふんといわせてあげなさいって励ましてくれたの」
「そう、よかったね」
 僕は遥の頭をなでた。遥は涙ぐむ。
「久しぶりだったからつい話しこんじゃったんだけど、お姉ちゃんもあの人がお母さんをいじめたことは許せないみたい。お母さんの仇を討ついい機会じゃないともいってたわ。お姉ちゃんは、あの人からお母さんを取り上げられたんだもの。うらむわよね。それから、自分が家を出て、あの人の相手をまったくしなくなったから、ゆがんだ愛情のはけ口がわたしへむかったのかもしない、わたしがあの人に振り回されるようなことになってごめんってあやまるの。お姉ちゃんせいじゃないのにね」
「遥のことを心配してくれているんだよ」
 そう言いながら、エゴイストの親を持つと、いろんなことが自分の責任のような気にさせられて苦労するなと思わずにはいられなかった。
「お姉ちゃんはわたしが東京へ出てくるとき、あなたは好きなことをして、自分のしあわせをつかみなさいって送り出してくれたんだけど、さっきもその言葉をくりかえしてくれたわ。わたし、すごくうれしかった」
 遥は指で涙をぬぐった。離ればなれの姉でも心は通いあっていた。自分のことを気にかけてくれる家族がいて、遥はさぞ気持ちが楽になっただろう。僕もほっとした。
 ほうじ茶を淹れ、ふたりでいろいろ話し合った。といっても、遥の考えはもう固まっていたから、遥はそれでいいのかどうか僕に確認するだけだ。遥が軽はずみに物事を決めたりする女の子ではないとわかっている。悩みになやんだ末に出した結論なのだから、僕にも異論はない。誰かに答えを求めたり、投げ出したりせず、自分自身で答えを出した遥を誇りに思う。
 お地蔵さんのような刑事に連絡を入れ、警察署へ向かった。
 受付で名前と要件を告げ、制服を着た若い警官に二階へ案内してもらう。着替え用のロッカーがずらりと並んだ廊下の上には、剣道の防具や柔道着が渡したロープに干してあり、男くさい汗の匂いがこもっている。僕はふと、高校の部室を想い起こした。
 換気扇のうなり声が遠く鈍く響く。どこそこでひったくりが発生したので付近のパトカーは急行せよだとか、変死体が見つかったなどという警察無線のアナウンスがスピーカーからひっきりなしに流れる。そんな放送を聞いていると、自分の知らないところでいろんな犯罪が起きていることがわかる。日本中の警察の放送を全部合わせれば、一日にどれくらいの数になるのだろう。目には見えないけど、この世は暴力に覆われているようだ。
 殺風景な事務所の端を通り、その隅にある小さな取調べ室へ入った。ペンキの剥げた壁にかなり古ぼけた木目調のクーラーが取り付けられ、その下に風量を調整するための手回し式ダイヤルがついている。窓の下に銀色のスチーム暖房が置いてあったけど、まだスチームは通っていないようで、コンクリートの部屋は底冷えがした。
 お地蔵顔の刑事と左腕を白布で吊るした遥の父親がスチール机を前にして坐っている。遥のやつれた頰が一瞬ひきつる。男は遥を横目で睨み、あからさまに不貞腐れる。僕と遥はパイプ椅子に坐った。
「それでは、さっそくですが、昨日《さくじつ》発生した件につきまして、瀬戸佑弥さんと天草遥さんの考えをお聞かせ願いたいと存じます」
 刑事はあらたまった口調で言う。遥の父親は傲岸そうに腕を組み、
「私は仕事があるのでね、こんなところから早く出してもらいたいんだが」
 と、ぶっきら棒に吐き捨てた。留置所で一晩過ごしたのだろうか、彼の額には汚れと脂がうっすら浮かんでいた。
「まずは、お二人の話を聞きましょう」
 刑事は男を制し、
「どうぞ、ご遠慮なくおっしゃってください。彼が暴れたりすれば、私が押さえますから。私は小柄ですが、これでも柔道五段ですので」
 と、穏やかだけどどこか凄みのきいた声で言った。
「聞き捨てなりませんな。それではまるで犯罪者扱いでしょ。それに、あばら骨が折れて左腕にひびが入っているのに暴れられるわけがない。私の骨を折ったやつを捕まえてほしいくらいだ。あべこべじゃないか」
 遥の父親は口元に苦味を走らせる。
「あべこべってどういうことですか? あなたは立派な誘拐犯ですよ」
 腹が立った僕は思わず立ち上がった。
「君も落ち着いて。怒鳴りあってもしょうがないから」
 刑事は目で坐りなさいと合図する。僕はしぶしぶうなずき、
「遥、話しなよ」
 と、遥の肩に手を置きながら坐った。
「きのうはびっくりしました」
 遥は震える声で話し始めた。遥が膝のうえで揃えた両手を握りしめるから、僕は彼女の拳にそっと手を重ねた。心の震えなら、僕が受けとめてあげる。
「まさか、むりやりタクシーへ連れこまれたり、あなたが部屋へ押し入ってきたりするとは思いませんでした」
「話をしようと言っただけだ」
 遥の父親は怒った。
「聞いてください。そうでなければ、わたしは帰ります」
 遥は、勁《つよ》いまなざしで父を見据える。男は一瞬、不安そうな光を目に漂わせ、むっと黙りこんだ。
「とても悲しかったです。わたしの気持ちをほんとうに聞いてくれるのだったら、話をしてもいいかなと思いますけど、あなたは自分の都合を押し通そうとするだけだから、話す気にはとてもなれません。
 あなたを訴えるべきかどうか、さんざん悩みました。わたしの考えをいってもあなたは否定するだけでしょうし、大切なゆうちゃんにすごい迷惑をかけてしまったので、もう二度とこんなことをしてもらわないためにも、訴えるべきじゃないかと思いました。たぶん、そうしたほうがいいのでしょう。そうするべきなのでしょう」
 遥は、思いつめた表情でじっとうつむいた。遥の頰が紅潮したかと思うと、波が遠退くようにすっと血の気が引く。リップクリームを塗っただけの唇が紫色に蒼ざめる。遥は垂れた髪を指で耳の裏側にしまい、決心したように顔を上げた。
「ですけど、わたしの信じている神さまは汝の隣人を愛せよとおっしゃいました。あなたもわたしの隣人のひとりです。わたしは神さまを裏切りたくはありません。神さまの前では素直な子でいたいと思います。――あなたを許します。ですから、二度とわたしの前に現れないでください。わたしの暮らしを壊さないでください。お願いします」
 遥は深々と頭を下げた。長い睫毛から涙がはらはらこぼれ、机の上にせつない水玉模様を描く。遥の父親はほっと息をついて安堵の表情を浮かべたかと思うとたちまち激高し、
「親に向かってなんて言い草だ。お前の神さまなんか知るもんか」
 と言い放った。
「親の心、子知らずとは言うけど、親が子供の苦しみを理解してあげないとはねえ」
 お地蔵さんはやれやれと掌で額をこすり、
「あなたは情けないと思わないんですか。自分の娘にこんなことを言わせて、恥ずかしいと思わないんですか。私は刑事である前に一人の人間として、一人の父親として呆れますよ。許せないけど、やっぱり実の父親だから許したい。刑務所送りにして苦しめたくない。彼女はそう思っているんですよ。なぜ、それがわからないんでしょうかねえ。自分の娘の苦衷を察してあげようとは思わないんですか。私にはさっぱりわかりません」
 と、ぼやくように叱り飛ばすように言った。
「遥の前に現れないと約束してもらえますね」
 僕は男に迫った。きちんと言質を取っておきたかった。
「わかったよ。訴えないでおいてもらえるのなら、そうさせていただきます」
 男はそっぽを向き、ばかばかしいとでも言いたげに鼻を鳴らす。
「いい加減な答えでは困ります」
「はいはい、お約束いたします。身を粉にして働いて、自分の小遣いを削って養育費を送ってこのざまか。情けない。自分が情けない。娘も情けない」
「いいですか、約束は約束ですからね。あなたが約束を破ったら、すぐにでも訴えることにします」
 僕は机を叩いた。男は横を向いたまま答えない。
「私が証人になりましょう。お二人さんはなにかあったら連絡しなさい。私がきちんと処理しますから。――お父さん、妙な真似は許しませんよ」
 刑事が助太刀してくれた。
「あなたにお父さんなんて呼ばれる筋合いなんてないんだがね。ま、いいけど」
 遥の父親は皮肉に唇をゆがめる。もしかしたら、こんなふうに強がってみせるのが精一杯なのかもしれない。
「遥、行こう。反省の色もないし、これ以上はむだだから。――刑事さん、お忙しいところをどうもありがとうございました」
 僕は遥の手を牽いて立ち上がり、彼に一礼した。遥は、蒼ざめた顔で父親を見つめている。男は、いらだたしそうに貧乏ゆすりをしたまま遥の顔を見ようともしない。自分が不当な扱いを受けているとしか思っていないようだ。
 ここへ来る前にたぶんこうなるよと言って心の準備をさせておいたのだけど、いざ目の前でそんな態度を取られると、やはりショックを受けたようだ。今度も、遥は父親に裏切られてしまった。傷つけられてしまった。遥の思いとやさしさは通じない。遥と父親の関係はその繰り返しだった。
「いつか、あなたをお父さんと心から呼べる日がくればいいなと思います」
 遥の瞳が揺れる。卒業式で泣く女学生のようだ。これで遥は父親から卒業したのだと思いたかった。
「親だったら、なにか答えてやりなさい」
 お地蔵さんは遥の父親に言った。男は絶対に口を利くものかときっと唇を結ぶ。僕は遥の背中を軽く叩き、取調べ室を出た。
「ゆうちゃん、あれでよかったのよね」
 ふたりは、ひっきりなしに車が流れる国道沿いの歩道を歩いた。車が走る道と人が歩く道を隔てる背の低い常緑樹の植えこみは埃まみれになって汚れている。遥はなんでもないアスファルトの道につまづき、ふらりと体を傾ける。僕は腕を持って支えた。
「あれでいいんだよ。間違ったことはしていないから」
「あの人は、いつかわたしのいったことを理解してくれるかしら」
「わかってくれるといいけどね」
 僕はため息をついた。これでは遥があまりにも可哀想だ。
「遥、わかってもらえなくてもともとだし、いつかわかってもらえると信じるしかないよ」
「そうね。信じることね。信じたいな」
 遥はまたつまづいた。顔色は蒼いままだ。苦しそうな脂汗が額ににじんでいる。
「タクシーで帰ろうか。疲れただろ」
「歩けるわ。そんなの贅沢よ」
「いいから、タクシー代は僕が出すよ。ちょっと待ってて」
 僕は遥の腕を離し、道端へ出て手をあげた。すぐにタクシーがとまり、後部座席の自動ドアが開いた。
「遥、乗るよ」
 振り返ると、遥は歩道に体を投げ出して倒れていた。


 
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空飛ぶクジラはやさしく唄う 第16話

2012年09月11日 08時00分15秒 | 恋愛小説『空飛ぶクジラはやさしく唄う』

 穢れた神話


「ゆうちゃん、コンビニで氷を買ってかえろうね」
 遥がぽつりと口を開く。
 ふたりは夜中の道を歩いていた。警察署から帰るところだった。
 階段から転げ落ちた後、僕は遥と巡査に付き添われて救急車で病院へ運ばれた。背中に青痣ができてしまったものの、幸い、打ち身とかすり傷だけの軽傷だった。遥の父親はあばら骨を折り、左腕の骨にひびが入ったそうだ。ざまあみろと言いたいところだけど、それだけの怪我ですんでよかった。いくら横暴な父親とはいえ、死なせたりしたら遥を傷つけてしまう。
 手当てを受けてからパトカーに乗って警察署へ行き、薄汚れた壁の小部屋で事情聴取を受けた。
 取り調べにあたった年嵩の刑事は、お地蔵さんを思わせるような人間のできあがった人だった。坊主頭になんともいえない温かい雰囲気が漂っている。小柄なお地蔵さんが僕に質問し、僕の答えをまとめてノートパソコンへ打ちこむ。調書が一通りできあがったところで、彼は声に出して読みあげた。
 調書の文体は一人称で、彼が書いた文章なのに僕が告白した形になっている。自分に起きたできごとや自分の気持ちを他人が代わりに書くというのは、どうも違和感があるし、不安で落ち着かない。それを朗読されればなおさらだ。心配したとおり、あの男が部屋へ侵入してきた時に怖いと感じたなどと、話していないことも書かれていた。
「これで間違いないですかね?」
 刑事は、僕の目をのぞきこむ。
「だいたいいいんですけど、僕は怖いとは思いませんでした。彼女を守らなきゃって必死だったので。むしろ、かっとして頭に血がのぼったような感じでした」
 僕は、ちぐはぐなかゆさを隠しきれなかった。
「そうかあ、君は彼女思いなんだ。でも、これがお約束というか、パターンなんだよね」
 刑事は人の好さそうな照れ笑いを浮かべ、坊主頭の後ろをかく。そんな彼の姿を見ると、自分の真実にこだわり過ぎるのも考え物かなと思ってしまう。
「そのほうが通りがいいということですか?」
「そんなところなんだけど」
「それじゃ、それでいいです」
 調書には調書のスタイルがあって、それにそったほうが仕事がスムーズに流れるのだろう。真実は僕のなかにある。それでいい。
「ところで、あの男のしたことは不法住居侵入といつくかの罪にあたるんだけどね」
 お地蔵さんは、調書を目で読み返しながらむずかしい顔をする。
「なんでしょうか?」
「不法住居侵入は親告罪といって、被害者が被害届を提出しないと事件にはできないんだ。暴行はそのまま事件にできるけどね」
「それだけじゃなくて、昼間、彼女を連れ去ろうとまでしたんですよ」
「あの男が悪いことをしたのはわかるよ。ただ、いくら法律上の親子関係はないとはいえ、やはり身内のことだからねえ」
「事件にならないということですか」
 遥の父親はこのまま裁きを受けるものだとてっきり思いこんでいた僕は、驚いてしまった。
「もちろん、あなたたちが彼女のお父さんを訴えるというなら、警察は正式に事件として処理するよ。ただし、そうなると関係者にいっせいに事情を聞いてまわるから、彼女自身も、彼女のお父さんも、世間から白い目で見られることになるし、根も葉もない噂が飛び交って苦しい思いをすることにもなるんだ。警察沙汰にするのがいちばんいい解決方法なのかどうか、そのあたりのことも含めてよく考えてみてほしいんだよね」
 訴えるのはあまり勧められないという口振りだ。
「ですけど――」
「あなたが怒る気持ちはよくわかるよ。あの男がしたことは言語道断だ。私もけしからんことだと思う。でもね、この仕事をしていると時々似たようなケースに出くわすんだけど、身内同士で警察沙汰にしてしまったがために、よけい不幸になってしまったということも得てしてあるものなんだよ。世間の嫌がらせを受けたり、罪悪感にさいなまれたりしてね。後になって、訴えた本人が自分の親を刑務所送りにしたことを苦にして自殺したことも過去にはあったしねえ」
「わかりました。彼女とよく話し合ってみます」
 あの男を懲らしめてやりたいのはやまやまだけど、そこまで言われればこう答えるよりしかたない。もし、遥がこれ以上苦しむようなことがあっても困る。
「そうしてくれないかな。複雑な家庭事情だから、むずかしいところではあるんだけどね。さっきも言ったけど、訴えるなということでは決してないんだよ。それはあなたたちが決めることだから」
 刑事は、どうしたものかといった顔をして坊主頭をつるりとなでた。
 家に着いたのは、もう午前四時前だった。遥はコンビニで買った氷を氷枕に入れて、僕の背中に当ててくれた。つけたばかりのエアコンが低くうなっている。
「遥のお父さんのことだけど、どうしよう。訴える?」
 僕は言った。
「そうね――」
 遥は眉をひそませ、口をつぐんでしまう。遥も、お地蔵さんから同じ話を聞いていた。
「ゆうちゃんはどう思う?」
「あんなひどいことをしたんだから、ちゃんとお灸をすえておいたほうがいいと思うんだけど。遥だって、またあんなことをされたらたまらないだろう。むちゃくちゃしたら罰を受けるんだって、わかってもらわないと」
「わたしもあの人を許せない気持ちでいっぱいよ。訴えたいわ。でも、そうしたら、お姉ちゃんが困るかもしれない」
「刑事さんがそう言ってたの?」
「ううん、いってないけど」
「父親が手錠をかけられたら、お嫁にいけなくなるかもしれないね。お姉さんはどうしているの? たしか、地元の専門学校へ進学したんだっけ」
「学校はもう卒業しているはずだわ。今はどうしているか知らないの。わたしが東京へ出てくる時にちょっとだけ会って、それっきりなのよ。姉妹《きょうだい》っていっても、ずっと離ればなれで会うことなんてほとんどなかったし、お姉ちゃんはお姉ちゃんであの家でつらい思いをしていたから、連絡を取りづらいのよ。わたしのせいでお姉ちゃんに迷惑がかかったら、いやだな」
 遥は肩を落とした。
「遥のせいじゃないよ。悪いのはお父さんのほうなんだから。遥を誘拐しようとしたり、部屋へ押し入ったり、あんなことはれっきとした犯罪だよ。――ごめん、言いすぎたよ。遥のお父さんを悪く言うつもりはなかったんだ」
「いいのよ。だって悪いことをしたんだもの。――ごめんね。ゆうちゃんに怪我させちゃって」
「これくらいどうってことないよ。遥、お姉さんに電話してみたら。今日のことを話してみて、もしお姉さんが困るって言うのなら、訴えるのはやめにすればいいじゃない。お姉さんに迷惑をかけたくないっていう遥の気持ちはわかるよ。僕は遥の気の済むようにすればいいと思うし、どっちでもいいから」
「電話してみる」
 遥はこくりとうなずいた。
 翌朝、僕は駅前の商店街へ出かけた。遥が外へ出て携帯電話をかけようとしたのだけど、僕のほうが部屋を出ることにした。
 ログハウス風の喫茶店でモーニングを注文し、寝ぼけ眼のまま新聞に目を通した。店にはラフマニノフのピアノ協奏曲第二番が流れていた。
 中学生が包丁で父親をめった刺しにした事件が社会面に載っている。記事を読むうちに、背中の痣が疼きだす。不幸な中学生は誰だかわからなくなるほど自分の父親の顔を切り刻んだそうだ。血の通わない興味本位の記事の片隅に評論家の無責任なコメントが載っていた。
 僕はふと、昨日の取り調べを思い出した。一人称で書かれた父親殺しの中学生の調書に真実は載っているのだろうか。この記事は真実を伝えているのだろうか。おそらく、真実のいちばん肝心なところは載っていないはずだ。警察の調書も新聞記事も、誰かの言葉を聞き書きしたものに過ぎない。そんなものが真実を伝えられるだろうか。僕の調書に怖いと思ったなどと話してもいないことが書かれていたように、聞き手が理解したいように理解した文章しか載っていないはずだ。真実というものは、その人自身が自分の言葉で語ったものでしか表すことはできない。もちろん、人の心はあやふやなものだから、それだってほんとうに真実を述べているのかどうかといえば、あやしいものだけど。
 壊れた家庭に育った子供が親へ抱く気持ちはアンビバレントだ。どんなにひどい親だったとしても、心の底では仲良くしたいという想いが必ずある。それは、まっさらな心で生きていた幼い頃に親から受けた愛情の残像なのかもしれないし、親の存在が心の神話として魂の奥に根を張っているからなのかもしれない。だけど、親への情愛をないがしろにされたり、自分の話を聞いてもらえなかったりすると、汚れた洗濯物がたまるようにわだかまりと諦めが心に積み重なってしまう。わかってほしい期待が強い分だけ、邪険な恨みつらみが心でとぐろを巻いてしまう。
 夕べ、遥は姉について話すだけで、自分の父親のことは語らなかった。たぶん、正反対な気持ちが胸の内で綱引きして、言葉にできなかったのだと思う。僕もあえて尋ねなかった。遥はお姉さんのことばかりでなく、その矛盾とも闘っているのだろう。
 お姉さんとの話が終わったら携帯のメールをくれることになっていたのだけど、まだこない。僕はもう新聞を読む気にもなれず、遥のことをぼんやり考えた。
 中高生の頃から、僕たちはいろんなことを話し合った。楽しい話もたくさんしたけど、悩み事も話した。頭痛の種はいつも自分たちの親のことだった。親のわがままや欠点が見える年頃になったということもあるけど、いちばん厄介なことは、やはり親が家庭の問題を自分たちの手で解決できないどころか、それとまともに向かい合おうとすらしないことだった。
 家族というものは彼らが考えているほど簡単なものではないし、子供を取り巻く世間も親が想像しているほど単純なものではない。親は子供に勝手な期待を抱いたり、自分の都合のいいように動くように求めるけど、子供は親のわがままや親自身が満たされなかったことを満足させるための下請けではない。遥の親も、僕の親も、人生にとってほんとうに大切なことはなにかということを忘れている。それが原因のすべてだ。そして、どうしようもない矛盾が遥のような立場の弱い子供に押しつけられてしまう。自分の娘に親を訴えさせるかどうかで悩ませる遥の父親なんて、最低だ。
 僕は、ゆで卵の殻とサンドイッチのパン屑が散らばった皿をぼんやり見つめた。お姉さんとうまく話せているのだろうか。泣いたりしていないだろうか。それだけが気がかりだった。
 少年ジャンプを見るともなくぱらぱらめくっていると、ようやくメールがきた。僕は勘定をすませ、足早に部屋へ戻った。



 (つづく)
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空飛ぶクジラはやさしく唄う 第15話

2012年07月29日 20時13分06秒 | 恋愛小説『空飛ぶクジラはやさしく唄う』
 負けられない


「たすけて」
 携帯電話の液晶パネルに遥からの文字が浮かんでいる。
 教室を飛び出した僕は階段へ出て電話をかけた。
 ノイズが火花のように散り、コールがつながる。
「遥。なにがあったの?」
 電話の向こうでレールの軋みが響いていた。
「あの人がね――。学校へ――」
 遥は途切れとぎれに言う。
「お父さんが遥の学校へきたの?」
「むりやりわたしを――」
 遥の声をかき消すようにして、次は飯田橋と告げる車掌のアナウンスが流れた。
「もっと大きな声でしゃべって。今、一人なの?」
「そうよ。逃げてきたの」
「新宿へ出てこられる?」
「新宿? この電車はどこへ行くのかしら」
「さっき飯田橋って聞こえたんだけどさ、何線に乗っているの?」
「お堀が見えるわ。――中央線だと思う」
「JRの黄色い電車だね」
「たぶん」
「次の駅で方向を確かめてみて。反対方向だったら乗り換えてよ」
「わかったわ」
「大丈夫だから、心配しないで」
 僕は教室へ戻り、かばんを取った。ちょうど第二外国語のロシア語の語学教師が教壇へあがったところだったので、先生に家族が大変だから欠席すると断った。僕があまりにも勢いこんで話したせいか、教師は驚いた顔をしていたけど、かまわずにそのまま教室を後にした。
 新宿駅新南口の自動券売機の前に遥が立っている。蒼ざめた顔をした遥はあごを心持ちあげ、迷子になった子供が自分がどこにいるのかわからず怯えるように、焦点の合わない目でどこかを見ていた。
 僕は駆け寄り、遥を抱きすくめた。だけど、遥は呆然と突っ立ったまま、僕を抱き返そうとしない。後悔の念が胸を締めつける。昨日、きちんと話しておくべきだった。
 遥を連れて近くの喫茶店へ入った。レンガ造りのシックな内装だ。片隅にグランドピアノと小さなアンプが置いてある。レジの後ろの棚にはレコードのジャケットがずらりと並び、レコードプレーヤーのうえで黒光りするLPレコードが回っていた。スピーカーから村下孝蔵の『とまりぎ』が流れ、ゆったり店をつつんでいる。僕が生まれるずっと前に作られたせつない歌だった。
 壁際の席に坐り、レモンティーをふたつ注文した。
 遥は、息をつめてお冷のコップを見つめる。目の縁が真っ赤だ。ずいぶん泣きはらしたようだった。
「ごめんね、遥」
 僕は言った。遥はハンカチで鼻をこすった。
「どうしてゆうちゃんが謝るの?」
「実はさ――」
 僕は、昨日の朝、遥の父親が僕たちの家へきたことを話した。それから、夕べ近所の児童公園でまた彼と話をしたことも告げた。遥の瞳から涙がこぼれる。
「今晩、遥に話そうと思っていたんだけど――」
 僕はため息をつき、悔し紛れに膝を叩いた。
「ゆうちゃんは悪くないわ。わたしをかばってくれたのね。――ありがとう」
 遥は、手にしたハンカチを握りしめる。
「そんなの当たり前だよ。ほんとにごめん」
「謝らないで。ゆうちゃんは、わたしのためにがんばってくれたのよ。わたしの気持ちをわかってくれるのは、ゆうちゃんだけだもの」
 遥はしんみり言った。遥はどれだけ傷ついただろう。僕は悲しかった。ふたりとも黙りこんだところへウェイトレスがきて、白いカップをさりげなく置いていった。
「いつ遥のお父さんが学校へきたの?」
 僕はようやくのことで訊いた。
「お昼にバイトをあがって図書館を出たら、出口のところであの人が待ち伏せしていたのよ。どうしてわかったのかしら?」
「大学に伝《つて》があるそうだから、大学の関係者に聞き出したんだろうね」
「あの人は話があるっていうんだけど、帰ってくださいっていって無視して歩き出したの。昔のことなんて思い出したくもないし、かかわりあいにもなりたくもないから。だけど、あの人は追いかけてきて、どうしても聞いてほしいってひつこく食い下がるのよ。
 門を出たところで、あの人はわたしの腕をつかんだわ。怖かった。あの人はかんかんになっていて、わたしが小さかった頃、お母さんをなじっていたのとおんなじ表情なの。あれから十何年も経つのに、ぜんぜん変わっていないのね。わたしは振りほどこうとしたんだけど、手首をがっちり握られて逃げられなかった」
 遥はレモンティーを飲もうとしてカップを手にしたのだけど、手が震えてうまく持てなかった。紅茶が波立ち、こぼれそうになる。
「むりやりタクシーへ押しこめられたわ。どこへ連れて行かれるんだろうって気が動転しちゃった。運転手さんにとめてくださいってなんどもお願いしたんだけど、あの人は娘と話をするだけだからっていって誤魔化してしまうのよ。運転手さんはあの人の話を信じちゃったみたい。わたしも年頃の娘がいるからお父さんの気持ちはよくわかりますよなんていって、お嬢さんもお父さんの話くらい聞いてあげたらどうですかってわたしを諭すの。お父さんてものは娘がかわいくてしかたないんだからって。たぶん、ごくふつうの家の、ごくふつうの愛情をもったお父さんなのね。壊れた家庭のことなんて、わからないのよ。
 あの人は自分のところへおいでってひつこく誘ってきたわ。お母さんのところから籍を抜いて、自分のほうへ籍を移しなさいってね。就職するにしても、結婚するにしても、鬱病の母親といっしょにいるより、自分といたほうがずっと有利だからって。どうしてあんなことを平気でいえるのか、わからないわ。あの人がお母さんを大切にしてくれたら、こんなことにはならなかったのに。わたしだって、あたりまえにしあわせに過ごしたかった。お母さんだってそうよ。わたしは、昔のことは忘れたいからもう目の前に現れないでってなんどもいったの。
 あの人と口論しているうちに、運転手さんはちょっとへんだなって気づいてくれたみたい。運転手さんは、娘さんの話も聞いてあげなくっちゃ、娘さんももう大人なんだし、いろいろ自分で考えていることもあるんだからって、わたしに助け舟を出してくれたのよ。でも、あの人は逆ギレして運転手さんを叱りつけちゃった。タクシー代は払うから、君は黙って客のいうことを聞いていればいいんだっていってね。運転手さんはむっとして黙りこんじゃった。
 小学生の頃、施設にいたときにあの人が迎えにきたことを思い出したわ。
 あのときは、ちょっぴりうれしかった。施設でお友達もできて、それなりになじんで暮していたんだけど、やっぱりさみしかったもの。
 わたしね、施設へ入ってから万引きの癖がついちゃったの。そんなことはそれまで一度もしたことがなかったし、万引きしようなんて考えたこともなかったんだけど、どういうわけかお店にならんでいる物を取りたくなっちゃうのよ。それでお店の人に見つかって、施設へ連絡が入って、いつも神父さんに怒られていたの。でもね、わたしは神父さんに怒られるのがうれしくてしょうがなかった。神父さんはわたしのためを思って、親身になって真剣にお説教してくれたわ。わたしのことをほんとうに考えてくれる人がいるんだって思ったら、泣けてきちゃうもの。神父さんは忙しい人だから、施設でもめったに見かけないし、話をする機会もあんまりないんだけど、子供が問題を起こしたらいつも自分の仕事は後回しにして、子供とまっすぐ向かい合ってくれたわ。やさしい人だった。ひょっとしたら、わたしは神父さんとお話をして、いっしょに神様に懺悔したかったから、万引きをしていたのかもしれない。
 あの人の家ではお姉ちゃんがやさしくしてくれたし、それはよかったんだけど、お母さんに会わせてもらえなかった。毎日、あの人がお母さんの悪口ばかりいうものだから、つらかったわ。なんだか胸がずきずき痛んで、心が引き千切られそうだった。わたしはお母さんを裏切ってしまったって思って、自分を責めていたの。
 あの人は、タクシーのなかでお母さんの悪口を言い始めたわ。お母さんだって悪いところがあったのかもしれないけど、あんまりよ。一方的過ぎるもの。わたしは息苦しくなっちゃった。
 それでね、運転手さんはバックミラー越しにわたしのことを心配そうにちらちら見ていたんだけど、機転を利かして交番の前でとまってくれたの。クラクションを鳴らしてお巡りさんを呼んでくれて、ややこしい事情のようだから自分には手におえないし、もしかしたら誘拐かもしれないからお客さんの話を聞いてみてくださいよって駐在さんにいってくれたのよ。
 あの人は怒って、あたりかまわず怒鳴り散らしたわ。いつもそうなのよ。ちょっとでも思い通りにならないことがあったら、ぜんぶまわりのせい。自分の言い分をとおすことしか考えていないのよ。お巡りさんも怒ってしまって押し問答になったわ。わたしは、その隙にドアを開けて逃げ出してきたの。あんまり走りすぎたから、胸が破れるかと思った」
 話し終えた遥は今走ってきたかのように胸を大きく上下させ、手で押さえた。店に流れていたレコードはいつのまにかとまっていた。長い髪をした中年の女性がピアノの前に坐り、ショパンの夜想曲を弾き始める。
「とにかく、遥が無事でよかったよ」
 僕はほっと息をついた。
「あの運転手さんのおかげだわ」
「男気のある人でよかったよね」
「もし会えたら、お礼を言いたいわ。――あの人はまたくるかしら」
「たぶん」
「どうしよう」
 遥は消え入りそうな声で言い、心底困ったふうに眉根を寄せた。
「今日のことを警察へ訴えれば、なんとかなるのかな?」
「わからない」
「家へ帰ったらネットで調べてみようか。アメリカだと、ストーカーに被害者の半径何十メートル以内に近づいてはいけないとかっていう判決を出しているらしいけど」
「もしそんな判決が出ても、あの人のことだから無視するにきまっているわ」
「そうかもしれないね。いつでも自分が絶対に正しいって勘違いしているタイプの人間だから。――警察沙汰にしたとしても、遥のお父さんが遥の気持ちを理解しようとしなかったら、ほんとうの解決にはならないよね」
「わたしの話にきちんと耳を傾けてくれるんだったら、話し合うことだってできるかもしれないのに」
「遥のお父さんはごり押しばっかりなんだよな。そうでなかったら、餌で人を釣ろうとするし」
 僕は首を振った。あの男とのやりとりを思い出すと虫唾が走る。
「ごめんね。ゆうちゃんに迷惑をかけてしまって」
「なにを言っているんだよ。そんなことないよ。遥を守るのが僕の仕事なんだから」
「こんなごたごたに巻きこんで、もうしわけないわ」
「だから、そんなことを言わないでよ。ふたりで解決しよう。いいね」
「うん」
 遥は心細そうにうなずく。もしかしたら、遥の父親は一生つきまとい、懸命に生きようとする遥の足を引っ張り続けるのかもしれない。なにか名案があればいいのだけれど。
「でもさ、よくわからないんだけど、自分の娘が嫌がっているのに、どうしてここまで追いかけるんだろう。むりやり誘拐したりしてさ。ひどいよね」
「失ったものはいつまでも心に残るのよ。あの人にとっては、失ったものがいちばん大切なものなのよ。ほんとうに大切なものは、ほかにあるはずなのに」
 うつむいた遥は頬をひっそりさせた。
 父親と一緒に暮していた時、遥は大切にしてもらえなかった。その悲しみは僕にもよくわかる。僕は冷えた紅茶を飲み干した。
 とりあえず、ふたりの部屋へ帰ることにして喫茶店を出た。僕たちにはほかに行くところなど、どこにもなかった。
 電車から眺める東京の風景は、冬枯れた肌寒い色に染まっている。遥が時折、怯えた木の葉のように体を震わせるから、僕は遥の肩を抱き続けた。遥の心の重荷をせめてはんぶんでも背負ってあげられたらと願うけど、これくらいのことしか僕にはしてあげられない。遥はまた、この間のようにどうにもならないくらいに落ちこんでしまうのだろうか? そう考えると気が気ではなかった。
 部屋へ帰ってからも、遥はしょんぼりしたままだ。ベッドに腰かけてずっと考えこんでいる。
「遥、引越ししようか」
 僕もベッドに腰かけた。
「ここは遥が学校へ通うのもちょっと不便だし、台所も狭いしね。それに、遥のお父さんはここを知っているから、またやってくるかもしれない。ちょうどいい機会だから、遥の学校と僕の学校との中間くらいのところで部屋を探そうよ」
「そうね」
 遥は気のない返事をする。今日の出来事ばかりを考え、心ここにあらずといった様子だった。一度落ちこむとそのことばかり考え続ける遥の悪い癖が出ていた。
「考えておいてよ。僕は、遥と一緒ならどこに住んでもかまわないから。それから、今日のことはあんまり考えないことにしようよ。考えるなって言ってもむりかもしれないけど、思いつめるはよくないよ」
 遥はなにも答えず、ぽろぽろ涙を流す。僕はやりきれなかった。あの男は、こんなふうに遥を苦しめて、いったいなにを考えているのだろう。
 昨夜のカレーの残りを温め、ふたりで食べた。今日は全部やるからといって夕飯の支度も後片付けも僕がすませた。
 食事が終わった後も、遥はやはりベッドに腰かけて考えこんでいる。そっとしておいてほしいようなので、僕は机に向かってロシア語の勉強をした。
 夜の十一時をまわった。
 しんと冷えた夜だった。
 こんなに遅くなら、遥の父親もさすがにやってこないだろうと思い、小腹の空いた僕は近所の弁当屋へ焼き鳥を買いに行くことにした。いっしょに出かけようかと誘ってみたけど、遥は黙って首を振るだけだ。明日か明後日あたりにでも、遥の気持ちがすこし落ち着いたところで引越しの話をしよう。いつ父親が現れるのかとびくびくしながら暮らすのは、遥にとっても僕にとっても決していいことではない。新しい場所で新しい気分になれば、元気になってくれるかもしれない。できるだけ早いほうがいいだろう。
 スニーカーを履いてドアを引いた瞬間、黒い影がなだれこんできた。僕は突き飛ばされ、壁で頭をしたたか打った。
 遥が悲鳴をあげる。
 はっとして振り向くと、遥の父親が、
「お父さんといっしょに行こう」
 とわめきながら、遥の腕を引っ張っていた。男の目は吊りあがり、凄まじい形相をしている。人攫いの鬼だった。
「なにをするんだ」
 僕は土足のまま部屋へ駆けこみ、彼へ飛びかかった。
「遥、早くきなさい。お前の将来のことを考えたら、お父さんといるのがいちばんなんだ」
 遥の父親は遥を放そうとしない。僕は力任せに彼の腕を殴った。遥の腕が離れ、遥は床へ倒れこむ。遥に襲いかかろうとした男のアキレス腱をスニーカーで思いきり踏みつけ、うずくまった彼を廊下へひきずりだした。
「遥、一一〇番して」
 僕は叫んだ。
「娘を返せ」
 怒り狂った遥の父親は僕の首を絞める。
 悔しくてしょうがない。せっかく幸せになろうとしているのに、これではなにもかもぶち壊しだ。このまま負けたのでは、今までなんのためにがんばってきたのかわからない。
「ふざけんな」
 僕は男の腕を振りほどいた。頭突きを喰らわせ、廊下の端まで押し出す。僕は、がむしゃらに男を押しまくることしか考えていなかった。遥には近づけさせない。
 突然、相手が軽くなる。
 そのまま階段を転げ落ちた。
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空飛ぶクジラはやさしく唄う 第14話

2012年07月12日 08時15分15秒 | 恋愛小説『空飛ぶクジラはやさしく唄う』

 あなたが変わらなければ、なにも変わらない


 僕は公園へ足を踏み入れた。
 遠くで犬が吠えている。
 ベンチへ近づいて人影を確かめると、やはり遥の父親だった。彼はかがみこむようにして足元の砂を見つめ、いらだたしげに貧乏ゆすりをしている。
「まだいたんですか」
 僕は声をかけた。
「また会ったね。瀬戸君――だったかな」
 男は顔を上げ、作り笑いを浮かべた。まったくなじめない下卑た笑顔だった。相手の大切なものを掠め取って自分の欲求を満足させたいと顔に書いてある。ほかの人間にはそんな愛想笑いが通じるのかもしれないけど、僕には通じない。通じさせない。
「遥のことはあきらめてください」僕は言った。
「さっき君たちのマンションまで行ったら、ちょうど宅配便がいてね、ドアの陰に君の姿が見えたから引き返してきたんだ。君を説得しないことには、遥と話もできないからね」
 顔は尻尾を振る犬のように笑っているけど、目は底冷えのする擦り切れたまなざしだった。
「僕たちの家へきてもらっては困ります。それに、説得なんてむだですよ」
「私を切り捨てないでほしいな」
 彼は、憐れみを誘うように首をすくめる。どこまでも計算高い男だ。人をなめてかかるにもほどがある。
「あなたが遥のお母さんを切り捨てたことがすべての原因ですよ」
「あの子が母親といっしょに暮したがって、家庭裁判所もそれを認めてしまったんだよ。遥の母親に子供の養育能力がないことをいくら言っても理解してもらえかった。遥を取られてしまった」
 男は都合の悪いところには触れず、自分の言い分だけを言った。
「遥は自分のお母さんを支えてあげたかったんだと思いますよ。遥の話を聞いているとそんな気がします。子供心にかわいそうだと思っていたんですよ」
「なにがかわいそうだ」
 男は顔をゆがめて吐き捨た。僕はなにも答えず、冷ややかに彼を見下ろした。思わず本性を表に出した男はしくじったという表情を浮かべ、また見え透いた愛想笑いを作った。それが大人の流儀だとでも言いたげに。愛想さえ振りまけば、自分の本心を包み隠せると勘違いして。
「君、坐ったらどうだ。立っていられると、どうも話しにくくてね」
「このままでいいです」
 僕は男の誘いを断った。相手のペースに乗せられるのはごめんだ。僕は僕のペースで話したかった。
「頼む」
 突然、男はベンチを降り、
「この通りだ。遥に会わせてくれ」
 と、地面に額をこすりつける。
「やめてください」
 これも計算のうちだとわかっているから、土下座をされてもなんとも思わなかった。僕は動揺しない。僕がぐらついたら、遥を守れない。
「私と二人っきりで会うのが嫌だと遥が言うのなら、君が立ち会ってくれてもいい」
「立ってください」
「私は遥を取り戻したい。どうか、力になってくれ」
「そんなことはできません。今朝、お話したとおりです」
「君が遥に引き会わせてくれるというのなら、君たちの同棲は認めよう」
「なにを言っているのですか。あなたに認めてもらう必要なんてどこにもありませんよ。あなたは他人です」
「他人なら他人でかまわない。君が遥と私の間を取り持ってくれたら、君たちのことは全面的にバックアップさせてもらう」
「なんですか、それ」
「遥に仕送りもする。君たちだって助かるだろう。君たちの面倒は見させてもらう」
「いりません。僕たちはふたりできちんと暮しています。いちばん困るのは、あなたに出てこられることです。遥が傷つきます」
「私も遥のことはずっと心配している。一日だって忘れたことはない。だから、こうして君にお願いしているんだ」
「心配するというのなら、遥をそっとしておいてあげてください」
「私はもう一度お父さんと呼んで欲しい。父親として認めて欲しいんだ。遥に拒絶されたのでは、人間として失格したと言われているようでつらい」
「失格したんですよ」
 僕ははっきり言った。遥の父親はきっとまなじりをつりあげて僕を睨み、
「これだけ頼んでもわかってくれないのか。人としてどうかと思うがね」
 と言いながら立ち上がった。スラックスについた砂を払ってベンチに坐り直す。彼は、憤りをこらえきれないように鼻を鳴らした。
「人としてどうかと思うのは、あなたのほうだと思いますよ。取引をして僕を抱きこもうとしたでしょう」
 僕は呆れてしまった。彼の理屈では、自分の言うことを聞いてくれない人間はみんな人でなしということになってしまう。
「それのどこが悪いんだ」
「問題は、あなたが遥のことをこれっぽちも考えていないことです。だから、遥を理解しようとせずに、目先の取引に走るんですよ。遥は変わろうとしています。つらいことを乗り越えて強く生きようとしています。自分と戦っているんですよ。昔の話を蒸し返されて足を引っ張られたら、どうにもならないじゃないですか」
「足を引っ張っているのは君のほうだろう」
 男は嫌そうに顔を背ける。
「どうしてですか」
「嫁入り前の娘をたぶらしかして、いっしょに暮しているじゃないか」
「たぶらかしてなんかいません」
「しかし、君の歳で同棲するだなんて、どうかしていると思うがね」
「どうかしているのはあなたのほうですよ」
「私はモラルの問題を言っているんだ。規則を守れない人間が社会へ出て通用すると思っているのかね」
「同棲してはいけないなんてルールはどこにもありません」
「世間の目というものがあるだろう。今は学生だから暢気に構えていられるかもしれないが、君も世間へ出れば厳しい目にさらされるんだ」
 遥の父親は作戦を変えて、僕たちの仲を引き裂こうとするつもりのようだ。僕たちの日々の営みを否定させはしない。
「そうして、あなたみたいに世ずれしてしまうんですね。取引さえすれば、なんでも手に入ると思って」
「大人をからかうのもいい加減にしろっ」
「僕は大真面目に言ったつもりです。あなたは大人ではなくて、小人《しょうじん》です。ほんとうの大人なら遥のことをきちんと考えてあげられるはずですよ」
「だから同棲なんてやめろと言っているんだ。もし妊娠でもしたら、君はいったいどういう責任を取るつもりなんだね」
「その時は働きます。遥と僕たちの子供をきちんと育てます」
「そんなこと、信用できるか。格好いいことだけを言っておいて、逃げる男なんていくらでもいるからな」
「信用できるかどうかは、遥がいちばんよく知っています。僕たちは遊び半分でいっしょに暮しているのではありません。僕の育った家も冷え切った家庭でした。僕たちは、家庭的なぬくもりに飢えているんです。でも、それを親に言ってもはじまりません。だから、ふたりでやさしさを持ち寄って暮しているんですよ。それが僕たちにとって大切なことだからです。人は独りでは生きていかれないから、支えあって生きているんです」
「なにが支えあってだ。乳繰り合っているだけだろ」
「遥も僕も親に家族のぬくもりを与えてもらえませんでしたから、ふたりでそれを作っているんですよ。僕たちはふたりで愛情を育てているんです。あなたには理解できないかもしれませんけど」
「わからないね。破廉恥《はれんち》だ」
「破廉恥なのはあなたのほうでしょう。自分の妻をいじめ抜いて、その挙句の果てに離婚してしまうだなんて。会社で白い目で見られたのも当然です」
「私のことには口を挟まないでほしいな」
「だったら、僕たちのことにも口を挟まないでください。赤の他人ですから」
「君は理屈ばかり言って話にならん」
「いい加減にしてください」
 僕は声を張り上げた。
「わかりました。一つだけ条件を出しましょう」
「なに、条件?」
 遥の父親はずるそうに目を動かし、
「なんだ。はじめからそう言ってくれればいいのに」
 と、にやっと笑った。心根のいやらしさがにじみ出ている。
「今すぐ、遥のお母さんのところへ行って、さっき僕にしたように土下座をして謝ってください。それから、遥のお母さんの愛情と信頼を取り戻して、一緒に仲良く暮してみてください。そうすれば、僕はあなたに会ったほうがいいと遥に勧めますよ。もしかしたら、僕がなにも言わなくても、遥のわだかまりが自然ととけるかもしれません。どうですか?」
「そんなことをできるわけがないだろ。あいつとはもう終わったんだ。君は、人のことも考えずにむちゃばかり言う」
 男は顔を真っ赤にして怒った。
「遥は、あなたとお母さんに仲良くしてほしかったのですよ。それが遥のいちばんの望みだったんです。あなたとお母さんが仲良くすれば、遥も幸せな気持ちになれるんです。むちゃかもしれませんが、間違ったことは言っていないつもりです。あなた自身が変わろうとしなければ、遥に会わせることなんてできません」
「わたしのどこがいけないんだ」
「そこですよ。問題なのはあなたが自分でしたことを反省していないことです。だから、変わることができないんですよ。あなたの傲慢な態度がいちばんの問題なんです。遥に会えるかどうかは、あなた自身が変われるかどうかにかかっているんですよ」
「君みたいな青二才には言われたくないな。君になにがわかるんだ」
「僕はよくわかっています。あなたは自分の都合で遥を振り回そうとしているだけなんですよ」
「振り回してなどいない。あの子のことを思ってのことだ」
「このままのあなたが遥に会えば、遥はまたあなたに傷つけられてしまいます。遥には近づかないでください。僕はこれで失礼します」
 僕は踵を返した。
「君、待ちなさい」
 遥の父は慌てて叫び、
「あの子は私の娘だ」
 と、僕の背中へ言葉を投げつける。
 うんざりだった。
 僕は、振り返りもせずに公園を出た。
 子供は成長するにつれて変わるけど、親は変わらない。子供が変わっても、親が変わらなければ、壊れた親子関係はそのままだ。月日が過ぎて嫌な記憶が薄れ、関係を修復できるような気がすることもあるけど、それは幻想にすぎない。親が変わらなければ、なにも変わらない。また同じことの繰り返しになってしまう。僕は、自分自身の体験で嫌というほど識《し》っていた。
 僕も自分の家でさんざんつらい思いをしたからいろいろ考えたのだけど、結局、僕と遥の両親は、自分の家族を運営するための知識もノウハウも、家族をうまくやっていこうという意識さえもないのだと思う。彼らなりに一生懸命やっているつもりなのだろうけど、なにかが決定的に間違っている。それがすべての問題の根っこにある。その間違いとはたぶん、自分が満足感を得たり、自分の体面を保つために、子供をその道具として扱うことなのだろう。そして、それに気づかない限り、問題はなにも解決しない。親が変わろうとしない限り、親とはできるだけ距離を置いたほうがいい。そんな親なんて、いないことにしておくに越したことはない。同じ問題ばかり際限なく蒸し返されるのは、たまらないから。僕の弟が不登校になった時そうだったように、親は自分の子供がとことん追いつめられて身動きがとれなくなるまで過ちを繰り返す。そこで自分の振る舞いに気づけばまだいいほうだけど、なかなかそうはならない。自分が欲しい解答を出せといって、子供を押しつぶしてしまう。
 遥の父親はなにもわかっていない。わかろうともしない。遥にしてみれば、祟り神みたいなものだろう。
 ワンルームのドアを開けると豆電球だけがついていた。遥はもう眠っていた。明日の朝、遥は大学の図書館でアルバイトがあった。僕は遥を起こさないよう、そっとパジャマに着替えた。
 遥は、安心しきった寝顔で眠っている。明日の晩、きちんと話すことにしよう。
 遥の白い額に口づけ、僕はベッドへもぐりこんだ。




(つづく)
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空飛ぶクジラはやさしく唄う 第13話

2012年04月23日 08時05分15秒 | 恋愛小説『空飛ぶクジラはやさしく唄う』
 銀色の雨を見つめていた君


 帰ってからすぐ、ユニットバスへ入ってシャワーを浴びた。
 まるでどす黒い廃油を頭からかぶったようで、どうにも気持ち悪い。肌がぬめる。心までがべとつく。
 この感覚はいったいなんなのだろう。
 遥の父親と激しいやりとりをして嫌なことをずいぶん口にしたから、その自己嫌悪もあった。遥を守るために必死だったし、いくらそうするのが遥のためだとわかっていても、家族関係を断ち切ってしまうのは、やはり胸の奥が疼く。だけど、そればかりでもない。
 考えあぐねているうちに、遥が時々口にする「死んだ愛情が腐っているのよ」という言葉を想い起こした。穢されたような気がするのは、きっと、あの男の心のなかで腐敗してしまったものが、言葉になって僕の心へ流れこんだからだろう。彼の腐った心に触れて、僕の心までが腐り始めたのだ。ちょうど、木箱のなかの腐ったりんごがほかのりんごもだめにしてしまうように。強欲と傲慢に心を乗っ取られた人間は始末が悪い。それを自分自身で自覚していなければなおさらだ。心が化膿して、膿だらけになってしまったようなものだから。
 遥が自分の欲望を抑えようとあれほどまでにこだわるのは、きっと自分の父親を反面教師としたからだろう。あの男の驕慢《きょうまん》がどれだけ家族を損なったのか骨身にしみてわかっているから、自分の強欲さに対しても過敏になってしまったのに違いない。
 僕は全身にせっけんを塗りたくり、体のすみずみまで力をこめて垢すりタオルでこすった。穢れをすべて落としたかった。
 バスタブをざっと流して栓をした。シャワーを壁にかけ、バスタブの底で三角坐りしながら熱い湯を浴びた。
 シャワーの音が雨のように響く。
 バスタブにすこしずつ湯がたまる。
 その音が呼び水になって、中三の頃のなんでもない日の光景が脳裡に甦った。
 たしか、秋の長雨が続いていた頃だった。教師たちは、夏休み前までは部活さえしっかりやっていればいいという態度だったけど、いざ引退試合を終えてクラブの運営を後輩たちへ譲り渡すと、今度は掌を返したように成績のことばかり言い始めた。進路相談や受験勉強で慌しい日々を送っていた。
 なにかの用事で帰るのが遅くなった。がらんとした放課後の下足室に、遥がぽつんと立っている。外は銀色の雨が降っていた。雨を眺める遥のうなじが白い。
「天草」
 僕が呼びかけると、遥はぼんやり振り返る。制服の肩がさびしそうだった。
「どうしたの? 傘は?」
 遥は黙って首を振るだけだ。
「僕の傘に入りなよ。送っていくよ」
 僕は遥を元気づけようと思ってわざと明るく言ったのだけど、遥はなにも言わずに瞳を翳《かげ》らせる。
「なにかあったの?」
「なんでもないわ。――いっしょに傘を差したら、瀬戸君はまたからかわれるわよ」
「べつにそんなのかまわないよ。言わせておけばいいんだから」
 僕は遥を見つめた。遥はずっと雨を見ている。
 ――ひとりぼっちなんだ。
 胸が締めつけられるようで、目頭が熱くなった。遥の孤独が痛いほど心にしみた。それが僕の心のなかで魔法の森の調べのように透き通った和音を奏でる。さみしいのは僕も同じだった。
 ――遥の孤独を抱きとめてあげたい。
 震えるような想いでそう願った。
 あの時、相合傘をしていっしょに帰ったような気がするけど、よく覚えていない。ただ、降りしきる雨を見つめる遥の横顔だけが、心のアルバムに焼きついている。
 僕はシャワーをとめた。
 熱い湯にじっとつかりながら、遥を想った。

 昼からふたコマぶんの授業を受けて、サークルの部屋にも寄らずにさっさと帰ってきた。遥の父親がマンションの近くで張りこんでいるのではないかと疑って近所を探してみたけど、彼の姿は見当たらない。僕はほっと息をつき、ワンルームマンションの狭い階段をのぼった。
「おかえりなさい」
 遥は、ドアのすぐそばにある流し台に立っていた。ペンギンのエプロンをつけて、にんじんを切っている。換気扇のファンが鈍くうなり、玉葱の匂いがかすかに漂っていた。
「ただいま」
 僕は遥の顔色をうかがった。
「どうしたの?」
 遥は不思議そうに首を傾げる。
「な、なんでも」
 僕は、首を振ってスニーカーを脱いだ。
「今日はカレーにするから」
「わかった」
「ゆうちゃん、なんかへんよ」
「ほんとになんでもないんだよ。手伝おうか?」
「いいわよ」
 遥はプラスチックの薄いまな板を持ち上げて、切り終えたにんじんをボールへ移す。僕は遥の後ろを忍び足でそっと通って部屋へ入り、テレビをつけてその前に坐った。
 彼女の父親がきたことを話そうかどうか、まだ迷っていた。授業も上の空で、帰り道もそればかり考えていた。
 あの男の言い分を突っぱねられるだけ突っぱねてどうにか追い払うことができたけど、あれですんなり引き下がるかどうかはわからない。遥に聞いていたとおり、彼はすべて自分の思うようにしないと気の済まない性格だ。またやってくるかもしれない。
 今日は、遥がいなくて不幸中の幸いだった。彼がきたことを言えば、遥は傷つくに決まっている。ようやく元気になってくれたばかりなのに、負担をかけるようなことは言いたくなかった。でも、もし彼がもう一度現れるのだとしたら、今ほんとうのことを言って、心の準備をしておいたほうがいい。たとえつらくても、いきなり父親が目の前に現れるよりは、ショックもやわらぐはずだから。どちらが、遥のためになるのだろう。
 じゅっとカレー肉が爆ぜる。遥はみじん切りにした玉葱を手際よく鍋へ放りこみ、にんじんとじゃがいもを炒めてから鍋に水を入れてぐつぐつ煮込む。遥は手を休めることなくレタスを洗った。野菜サラダも作るようだ。
 炊飯器から湯気があがる。遥はS&Bのルーを割り、おたまで溶かす。僕は、折り畳みのちゃぶ台を広げて布巾で拭いた。
「いただきます」
 僕たちは手を合わせて食べ始めた。
 ――やっぱり、ほんとうのことを言っておいたほうがいいんだろうな。
 スプーンでカレーライスをすくいながら、なんとなく思った。
「ゆうちゃん、たまごは?」
「あ、そうだね。遥は?」
「わたしはいらないわ」
 僕は、カレーに生卵をかけるのが好きだった。冷蔵庫から一つ取ってカレーへ落とすと、黄身と白身がカレーライスのうえを滑り落ちて皿の端からこぼれそうになる。僕は慌ててスプーンでかきまぜた。カレーライスの真ん中に穴を掘っておくのを忘れていた。
「ゆうちゃん、ほんとうにどうしたの? ぼんやりしちゃって、元気ないわよ」
「ちょっとね。いきなり先生にレポートを出せって言われてさ、どうしようかなって考えているんだよ」
 僕はとっさに嘘をついた。
「そうなの。急に言われても困るわね」
 遥は、なんとなく納得したような面持ちだった。
 ふたりとも黙ったまま食べた。僕はいつものように遥の作ったカレーライスをお替りした。
 遥が洗い物を終えた後、いっしょにお茶を飲んだ。遥は、今日授業で習ったことや街角で見かけたことをとりとめもなく話す。僕は、遥の話が途切れたら切り出そうとタイミングを計っていた。
 突然、チャイムが鳴る。
 思わずどきりとする。
 遥がインターフォンへ出ようしたのをとめて、僕が受話器を取った。
 あの男かと思って身構えたのだけど、相手は宅配便だった。僕は胸をなでおろした。
 僕の祖父が小包を送ってくれた。
 ダンボールを開けると、箱一杯にみかんがつまっていた。蓋の裏側に白い封書が貼り付けてあったので封を切った。祖父の直筆の手紙だった。学業に励むように、それから、正月に帰ってくるのを楽しみにしていると万年筆で書いてある。あたたかい励ましだった。
「いい香りね」
 遥は、みかんを鼻先にあてて匂いをかぐ。
「おいしそうだね。食べきれるかな」
 僕は、摑んだみかんをボール遊びでもするように手の甲に乗せ、
「ねえ、遥――」
 と、遥の父親のことを話そうとした。
「ゆうちゃん、今度の週末に教会のボランティアで施設へ行くんだけど、すこし持っていっておすそわけしてあげていいかな」
 遥は楽しそうに肩を揺らし、少女のようにくすくす笑う。
「いいよ。子供たちも喜んでくれるだろうね」
「ありがとう。いっしょに食べながら絵本でも読んであげようかしら」
 遥は、さっそくみかんをむき始めた。遥の嬉しげな姿を見ると、切り出せなくなってしまった。
「ちょっと、コンビニで立ち読みしてくるよ」
 僕は遥に言って部屋を出た。外の空気を吸って、気持ちを入れ換えたかった。
 セブンイレブンで週刊誌やコミック雑誌をぱらぱらめくってみたけど、あのことが気懸かりで落ち着かない。お菓子の棚をぶらぶら眺めると、新発売になったという油で揚げないポテトチップスが目に留まったので一袋買ってみた。金色のゴージャスなパッケージだ。ノンフライだから太らないと書いてある。目新しいものでも口にすれば、気分転換になるかもしれない。僕は一袋買うことにした。
 帰り道、ふと思い立ってオカマさんに電話した。彼ならどう考えるのだろう。意見を聞いてみたかった。だけど、オカマさんの携帯電話は話し中で通じない。道端で立ったまま五分ほど待ってかけ直してみたのだけど、やはり話し中だった。メールを打とうかとも考えたけど、あきらめて帰ることにした。
 街灯のともった住宅街の道を歩く。なんとなくあやふやで頼りない気分だ。中学校の下足室で銀色の雨を見つめていた遥の姿がまた脳裏に浮かぶ。
 これまでずっと、僕は遥の孤独を抱きしめようとしてきた。
 遥は僕の想いに応え、幸せになろうとがんばってくれた。現実と向かい合い、自分と向かい合い、神さまと向かい合い、なんとか折り合いをつけようと努力してくれた。もちろん、大切なことは忘れずに。
 ――ほんとうのことを言おう。
 ようやく、きちんと決心がついた。
 現実を見つめなければ、なにもはじまらない。遥が落ちこんだとしても、僕が支えてあげればいい。遥になにがあっても、僕はそばにいるのだから。遥のことが心配だと言いながら、逃げていたのは、実は僕自身なのかもしれない。
 近道の路地を抜けて、児童公園のそばを通りかかった。ブランコとジャングルジムとシーソーがあるだけの小さな公園だ。横目でなかを見た僕は、ふとなにかがひっかかった。
 僕は足をとめ、水銀灯に照らされた公園を見渡した。
 コートを羽織った中年男がベンチに坐っている。その背格好は遥の父親によく似ていた。
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空飛ぶクジラはやさしく唄う 第12話

2012年04月15日 00時35分32秒 | 恋愛小説『空飛ぶクジラはやさしく唄う』
 遥を守りたい

 
 肚《はら》を決めた僕は、携帯電話を握り締めながらドアを開けた。ただし、チェーンはつけたまま。相手がどう出るのかを見たかった。もし、足をドアの隙間に入れてくるよう真似をするなら、すぐに警察を呼ぶつもりでいた。
 遥の父は、ハイボールの似合いそうな渋い中年男だった。碁盤のようにしっかりとあごの張った四角い顔に小さく整った端正な鼻をしている。鼻筋は遥にそっくりだ。すらりと背が高く、歳相応の貫禄はついているけど肥っているというわけでもない。ポマードでなでつけた髪を七三に分け、縁なし眼鏡をかけていた。小さな目の眼光は鋭い。頭の切れそうなインテリ・サラリーマンといった風情だ。
「なんの御用ですか」
 僕が素っ気なく訊くと、
「御用って、君」
 と、中年男は途惑い気味に咳払いする。
「ここは天草遥の部屋かね」
「そうです」
「遥に会いたい。遥を出してくれ」
「外出しています。いたとしても会わせられません」
「君はいったいなんなんだ」
「遥の彼氏です。いっしょに暮らしています」
「同棲か」
 男は顔を背けたまま苦虫を噛み潰し、横目でぎろりと睨む。
「遥はいつ帰ってくるんだ」
「知りません」
「開けなさい。遥が帰ってくるまでなかで待つ」
「あなたを部屋へ入れるわけにはいきませんよ」
「私は遥の父親なんだがね」
「他人です。残念ですが、親権はないですよね。離婚された時に失った。違いますか?」
 僕の問いかけに遥の父親は押し黙った。彼のいらついた仕草がうっとうしい。
「私の意図をきちんと把握してほしいものだな」
 男は居直る。僕は許さない。
「意図というより、わがままといったほうがいいんじゃないでしょうか。あなたの言うとおりにしなくちゃけいない義理も道理もありません」
「もちろん君は他人だが」
 遥の父親の横顔には困惑と傲岸さが浮かんでいる。それから、弱みを見せまいとする虚勢も。目の色には、自分の意のままにならないことへの憤りと相手をねじ伏せたいという動物そのものの獰猛さが浮かんでいた。嘘喝《きょかつ》で凝り固まった人だった。
「外で話しませんか? きちんと言っておきたいことがありますから」
 僕は男を誘った。
「話? ――わかった。そうしよう」
 彼はしぶしぶうなずき、また嫌そうに顔を背けた。
 国道沿いの喫茶店まで黙ったまま歩いた。遥の父親は根掘り葉掘り尋ねたがっていたけど、僕は着いてから話をしましょうと言ってとりあわなかった。
 歩きながら何度も拳を握り締めた。
 こみあげてくる怒りを何度も抑えた。
 僕の大切な遥を不幸にしたのは、ほかならない彼だ。先入観で人を判断するのはやめようと心がけているつもりだけど、彼にだけはどうしてもできない。遥の父親というよりも、遥を傷つけたろくでもない男だと、そんなふうにしか思えない。もし遥の家が普通の家庭だったら、娘の彼氏にいきなり出くわした父親の途惑いを理解しようとしただろうし、彼と仲良くしようとも試みたのだろうけど。
 喫茶店のガラステーブルを挟んで彼と向かい合った。市販のレトルトカレーを電子レンジで温めてそのまま出すような、なんの工夫もない安っぽい店だ。椅子のクッションはすり減って硬い。色あせた無機質な内装のなかで、水着姿のキャンペーンガールを写したビールのポスターだけが真新しかった。
「ところで、どうやって僕たちの住所を知ったのですか?」
 僕は彼の目を見据え、切り出した。遥の父はうろんそうに僕を見て目をそらし、
「君は知らなくていい」
 と、木で鼻をくくったように言う。
「それを言っていただけないのなら、僕はなにも話しません」
「それより、君が名乗るのが先だろう」
「では、帰らせていただきます」
 僕は腰を浮かした。
「わかった。話せばいいんだろ。遥の通っている大学に伝《つて》があって、それで調べてもらったんだ」
「それって犯罪ですよね。個人情報保護法で他人に明かしてはいけないはずじゃないんですか?」
「だから君は知らなくていいと言った」
「まあ、いいですよ」
 僕は椅子に腰かけた。
「瀬戸佑弥と申します。遥とは中三の時からの付き合いです。恋人になったのは一年ほど前ですけど。あなたのことは遥からいろいろ聞いています」
「遥、遥って、気安く呼ばれちゃ困るね。よそ様の家の子供にはさんづけで呼ぶのが礼儀だろう、君」
 男は貧乏ゆすりを始めた。僕は目障りなその足を睨みつけた。
「もう一度言いますけど、あなたに親権はありません。他人です。遥もあなたを父親だとは思っていません。遥が高校へ上がる時、あなたは遥を取り戻しに行って拒絶されたそうですね」
 僕がそう言うと、男はひりつくように顔をしかめた。プライドを傷つけられたようだ。こんなことを初対面の人間に言われたら、誰でも腹を立てるだろう。だけど、彼の表情にはひとかけらの後悔や娘に対してすまないという気持ちも現れていなかった。
 ――自分の体面がすべてなんだ。
 僕はそう感じた。
「君は知らないかもしれないが、私は約束通り、遥が二十歳になるまで毎月養育費を支払った。一度も遅れることなく、きっちりとだ」
「お金の問題じゃないですよね」
「そうとも。金の問題じゃない。誠意の問題だ。私は誠意を見せた。だから、遥には帰ってきてほしい」
 男は金の問題ではなく誠意の問題だというけど、どうも混同しているようだ。お金を払うのが誠意のすべてだと勘違いしている。まるでお金さえ払えば自分の娘が帰ってくるかのように。僕が聞きたかったのは、ほかの言葉だった。
「離婚協議書で約束したことは反故《ほご》にして、あくまでも取り戻したいということですか」僕は訊いた。
「遥は私の娘だ」
「他人です。どうしてそんなにこだわるんですか? 遥は嫌がっているのに」
「血は水よりも濃いと言ってね。親子の絆は簡単に断ち切れるものじゃない」
「遥はあなたを忘れたがっています。あなたが遥のお母さんをいじめたのが、トラウマになっているんですよ」
「あんなやつがなんだ」
 男は吐き捨てた。
「私は遥の母親とは性格が合わなかったんだよ」
「合わせようとしたのですか? 理解しようとしたのですか?」
「君にそんなことを言われる筋合いなどない。夫婦のことなど、君の歳ではわからんさ。惚れたの腫れたのって言っているだけなんだからな」
「失礼ですね。そんなことはありません。僕は、遥のことは誰よりも知っているつもりです」
 僕は遥の状況を説明した。
 遥は自分を責めすぎて悩み苦しんだ状態からようやく立ち直りかけたところなので、あなたに現れてもらっては迷惑だとはっきり告げた。男は、またプライドを傷つけられたような顔をしたけど、僕はかまわなかった。彼のゆがんだプライドなど、知ったことじゃない。悲しみを乗り越えて生きようとする遥を守るほうがよっぽど大切だ。
「あんな鬱病の母親といっしょにいたからそうなるんだ。鬱がうつったんだ」
「どうして遥のお母さんのせいにするんですか? 遥のお母さんを鬱病にしたのは、あなたですよ。あなたが遥のお母さんをいびりまわして人格を破壊するような真似をするから、そうなったのですよ。わかっているんですか」
「君には関係ない」
「遥の問題は、僕の問題です」
「娘のことをそこまで考えてくれるのはうれしいがね。君は遥の代理人というわけか」
 男は唇を皮肉に曲げた。
「言っておくが、鬱病になったのはあいつ自身の問題じゃないか。私にはなんにも関係ない。離婚した時、あいつはまだ病気じゃなかった」
「言い逃れですね。遥の幼い頃から、遥のお母さんはいつも死にたいって口走っていたそうですよ」
「記憶にないな」
 男の視線が一瞬、宙に浮いた。嘘をついている。
「また言い逃れですね。どうして、ほんとうのことを話してくれないんですか?」
「どうして君はそう喧嘩腰なんだ?」
「あなたが喧嘩腰だからです。あなたは信用できません」
「もともと信用しようなんて気はないじゃないか。誰も私のことをわかってくれようとはしないんだ」
 男は声を荒げる。
「それはどうでもいいんですけど」
 僕は冷たく受け流した。ほんとうにどうでもよかった。遥のことだけが心配だった。
「僕はずっと遥を支えてきました」
「面倒くさいなら、ほかの女性を探せばいいだろう。いくらでもいるじゃないか」
「そんなことは一言も言っていません。これからもずっと遥を支えるつもりです。でも、あなたに邪魔されたんじゃ、遥は元気になれないんです。そっとしておいてあげてくれませんか。そのほうが遥のためなんですよ」
「君ではらちがあかない。遥に会わせろ」
「それはできません。どうしてもと言うのなら、警察を呼びます。あなたの会社にも電話します」
「けっこう汚い手を使うんだな。おぼこい顔をしてさ」
 遥の父親はいらだたしそうにテーブルをこつこつ叩き、蔑んだ目で僕を睨む。だけど、その目は本心から蔑んでいるのではなかった。自分自身が後ろめたいことをした時に、逆に相手が悪いと責めるための戦術だ。そうしたほうが、相手にダメージを与えられるからという計算でしかない。なにも信じていない人間特有の狡猾な目つきだった。
「大学に裏から手をまわして、僕たちの住所を手に入れたのは誰でしょうか? 遥のためだったら、僕はなんでもします」
「私だってそうだ」
「でしたら、遥には会わないでください。もし遥があなたと会う気になったら、いつか会えるでしょうから」
「だからそれはいつなんだ。私はいつまで待たされるんだ」
「わかりません」
「離婚してあの子に悲しませてしまったのは悪かったと思っている。だが、私はもう十分に償った。どうしてわかってくれないんだ」
「あなたを許すかどうかは、遥が決めることでしょう。どうして、自分のことしか言わないんですか。僕は不思議です。娘がかわいいって言いながら、結局、いちばんかわいいのはあなた自身なんじゃないですか」
「誰だってそうだろう」
「そんな理由で正当化できることではありません。遥は幼い時に心の痛手を負って、今でもそれと闘っているんです。その姿を間近で見ていないからご存知ないかもしれませんけど、トラウマの元凶が目の前に現れたらどうなるか、見当がつくでしょう」
「ずいぶんな言い方だな」
「何度同じことを言えばいいんですか。あなたが遥のお母さんを罵倒したからです。幼い頃の遥はそれを見て、いつも怖くて震えていたんですよ。あなたが怖くてしかたないんです。あなたは取り返しのつかないことをしてしまったんです」
「遥を手放したのは間違いだった。ばかみたいにお人好しで、世間知らずで、頭のおかしいあんなやつと一緒に暮して、さぞ苦労したことだろう。あいつの母親もいけすかないばばあだからな。私は償った。養育費だって払った。遥に嫌われるのが耐えられない」
 男はどんとテーブルを叩いた。異様なくらいの音が響く。コーヒーが飛び跳ね、焦げ茶色の滴がテーブルに散らばった。
「私は自分の家族を取り戻したい。ただそれだけなんだ」
 遥の父は肩を震わせる。
「自分のために遥を利用するだなんて、あんまりですよ。すこしは遥のことも考えてあげてください」
「どうして遥はそんなに私を嫌うんだ。あの子に母親にいろいろ吹きこまれたんだろう。自分の母親を信じているのかもしれないが、あいつはなにもわかっちゃいないやつなんだ」
 遥の父は、僕の話を聞かずに激高しだした。このエゴイズムの塊のような性格が遥の母親と遥を追いつめたのだろう。会社のなかではそれで通用するのかもしれないけど、そのやり方を家族に応用したのでは、家庭が壊れるに決まっている。僕は冷ややかに彼を見た。
「なんでもする。土下座でもなんでもする。殴って気が済むのなら、殴ってくれて結構だ。遥にそう言ってくれ」
「だから、もう取り返しがつかないんですよ。あとは、あなたがその事実を受け容れるかどうかの問題なんです。覆水盆に返らずって言いますよね。そういうことなんですよ。とりあえず、落ち着いてください」
「あの子の母親と離婚した後、私は会社でずいぶんつらい思いをした。針の筵に坐るようだった。いろいろ陰口を言われたものだよ。そのせいで出世だって遅れた。だが、養育費を支払わなければならない。あの子の姉さんだって育てなくちゃいけない。だから、仕事を続けた。私はこれまで努力してきたんだ。どうしてそれを認めてくれないんだ」
「あなたが相手を認めようとしなかったからです。とりわけ、遥のお母さんを。だから、あなたはその報いを受けているだけなんだと思いますよ。いちばんの問題は、さっきも言いましたけど、あなたが自分のことしか言わないことです。はっきり言って、傲慢だと思います」
「たしかに、私はプライドが高いと言われる。だが、そんなことは君には言われたくない。赤の他人なんだからな」
「そうですよ。赤の他人ですよ。これからもずっと他人です。遥とあなたとの間柄も」
 僕は、自分でも嫌なことを言っていると自覚していた。こんなことを僕に言わせた彼を憎んでもいた。でも、遥を守るためだ。遥のためだったら、なんでも言う。言わなくちゃいけないことは、きちんと言う。
「とにかく、遥の前には現れないでください。きっと、遥はパニックになります。またひどく落ちこんでどうしようもならなくなってしまうのは目に見えていますから。この間は、友人が助けてくれたこともあってなんとか持ち直しましたけど、今度そうなったらどうなるかわかりません」
「もういいっ」
 遥の父は席を蹴り、
「話をするというから、私のことを聞いてくれるのかと思ったのに」
 と、捨て台詞を吐いてそのまま喫茶店を出て行った。
 僕は彼の後ろ姿を見送り、水に濡れた伝票を持ってレジへ立った。
「悪いことはもう起きないって遥に約束したんだけどな」
 僕はつぶやいた。
 喫茶店の店主は不機嫌そうな顔で僕を見る。遥の父が大声を出していたので腹を立てたようだ。
「なんでもないです」
 さすがに遥の父親のかわりに謝る気にはなれず、僕は首を振った。二人分のコーヒー代を支払ってさっさと店を出た。
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空飛ぶクジラはやさしく唄う 第11話

2012年02月27日 08時15分15秒 | 恋愛小説『空飛ぶクジラはやさしく唄う』
 
 影はどこまでも追いかけてくる


 誰かが追いかけてくる。
 僕は薄暗がりを必死で逃げた。
 振り返っても人の姿は見えない。ただ、誰かの影だけが見える。そいつが執拗に僕を追ってくる。強盗なのか、通り魔なのか、それはわからない。だけど、僕を狙っている。それだけはわかる。
 思うように走れない。
 足がもつれる。
 目の前のドアを開け、部屋へ飛びこんだ。
 その部屋は、実家の居間だった。
 その光景は、あの日だった。
 母親と弟が取っ組み合いをしている。母親は学校へ行きなさいと叱りつけ、弟はなんで行かなくちゃいけないんだと叫んでいた。酔って赤ら顔になった父親はあぐらをかいたまま嫌そうに顔を背けている。
 弟が母の足を蹴る。
 母親が悲鳴をあげる。
 父親はざまあみろと皮肉に嗤った。
 彼のゆがんだ表情を見た時、目の前の光景が急に遠ざかるような奇妙な感覚に襲われた。
 ――ここにいたら、自分がだめになる。
 風船の空気が抜けるように、心がしぼむ。すべてが擦りガラス越しに映る影絵だった。
 居間を満たしていたのは、家族の情愛の温かさでなく、相手を理解しようとする気持ちなどひとかけらもない憎悪と恣意だけだった。
 母親は自分の都合の通りに弟を育てようとしていた。いや、世間の都合通りと言ったほうがいいだろうか。幼い頃から集団や規則になじめなかった弟は理解してもらえない絶望感から苦しみを募らせ、自己とも他者とも、誰とも折り合いをつけることができずにいた。父親は父親で、母が苦しむ姿に暗い歓びを覚えていた。父親は、自分の配偶者を受け容れることもできなければ、家族がどういうものなのかすら、わかっていなかった。彼にとって、自分がもった家庭はビールとつまみ付きのカプセルホテルのようなものだった。もしかしたら、自分の家族だという意識すらなかったのかもしれない。一つ屋根の下に暮らす人間がたがいに苦しめあう家族地獄だった。
 父親は、やはり手酌でビールを飲んでいる。酒に逃げるのが得意技だった。情けない人だと蔑んだ。失望しか覚えない。そんなふうにしか思えない自分もむなしい。
 僕は黙って背を向けた。
 もうなにを言ってもむだなんだ。なにも変わらない。はっきり、そう悟った。
 ここにいたら、自分がだめになるだけだ。

「ゆうちゃん」
 目が覚めた。遥が僕を揺さぶっている。息が苦しい。口が渇く。
「夢か」
 僕はまわりを見渡した。ふたりの家だった。
「うなされていたわ」
「ひどい夢だったから」
 またあの夢を見てしまった。僕が家を出ようと決めた日の光景だった。遥と暮らし始めてから見たことがなかったのに。
 流し台に立った僕はコップの水を一気に飲み干し、ベッドへ戻った。
 すぐに眠ろうとしたけど、言いようのないざわめきと重圧感が心でとぐろを巻いていて、寝付けそうになかった。目覚まし時計の針は二時を指していた。
 僕は、横向きになって遥の体を抱いた。肌さみしかった。
「眠れないの?」
 遥は、首だけ曲げてじっと僕の顔を覗きこむ。
「目が冴えちゃった」
 僕は夢のことを話した。僕が浪人生の頃にその夢をしょっちゅう見ていたことは、遥も知っていた。
「ゆうちゃんも苦しいのね。夢はただの夢よ」
 遥は体を僕のほうに向け、子供を寝かしつけるように僕の背中を軽くはたく。すこし気分が落ち着く。
「家のことはもういいんだよ。帰るつもりもないし」
 あのできごとがあった翌々日、僕は母の実家へ行き、祖父母といっしょに暮らした。浪人生活を送って東京へ出てくるまではしんどい思いもしたけど、今は遥とふたりで暮らすことだけを考えればいい。自分の明日を切り拓くために家を出たのだから。
 飛騨の温泉から帰って二週間ばかりが過ぎていた。
 完全に元通りとはいかないけど、遥の具合はかなりよくなった。遥が思い悩んだ様子を見せたら、僕はすぐに声をかけた。気持ちを軽く持ってと言ってから、抱きしめてキスする。それだけで遥は持ち直してくれた。すべての悲しみを潜り抜ければ着実で平凡な幸せの人生が見えてくると、今日読んだ本のなかに書いてあった。すこしずつでいいから、そんなものが見えてきてほしかった。
「今日ね、ささちゃんからメールがきたの」
 遥はささやくように言った。
「なんて?」
 東京へ戻ってすぐ、僕たちはオカマさんを招待しようとしたのだけど、彼は仕事が立てこんでいるからそのうち連絡すると言っていたのだった。
「なかなか休みが取れないんだって。だから、遥ちゃんのお家で新年会をしましょうって書いてあったわ。今月はむりだけど一月は絶対に行くからって」
「忙しいんだ」
「うん、お店の理容師さんが突然二人も辞めちゃったんだって。それで、ささちゃんはてんてこ舞いなのよ」
「二人もいっぺんに?」
「そうらしいわ。ひとりは彼氏と大喧嘩して地元へ帰っちゃったんだって。前から暴力を受けていたらしいの。青あざをつくって出勤していたこともあったそうよ。それで、とうとう耐え切れなくなったんだって」
「女の子を殴るのはよくないよ」
「彼氏が店まで追いかけてきて、たいへんだったみたい。ささちゃんがなんとか追い返したんだけど、お客さんからも苦情を言われたりして」
「お店にいられなくなったんだ。彼氏もそこまでしなくてもいいのにね」
 僕は、オカマさんが必死になって女の子をかばっている姿を想像した。面倒見がよくてやさしい彼のことだから、同僚のために一生懸命、間に入ったのだろう。
 いろんな愛の形がある。でも、殴ることが愛情の表現というのは、どうしても理解できない。愛情の裏返しなのだろうか? それとも、彼女のほうに男を殴らせるなにかがあるのだろうか?
 遥とそのことをすこし話してみた。遥は、おたがいの心のなかで死んだ愛情が腐っているのよと言った。それが響きあうと暴力という形をとって現れるのだと。
「それでもうひとりはね、腕が動かなくなったんだって」
「怪我でもしたの?」
「怪我というか、職業病ね。一日中、はさみをしゃきしゃき動かしているでしょ。それで、腕が麻痺してしまったのよ。手が震えてはさみを持てないんだって。そんな理容師さんはけっこういるみたい」
「きつい仕事なんだね」
「その人はお客さんに人気があったし、指名もいっぱい取っていたから、店長さんは腕の具合のいい日だけでも出られないかって引きとめたんだけど、彼はこれを機会にきっぱりヘアデザイナーを辞めたいって言ったそうよ。調子が悪いのを隠してかなりむりしていたんだって。ささちゃんは気づいていたみたいだけど」
「麻痺する前に休んで治せばよかったのにね」
「センスがあって仕事のできる人だから、そうするわけにはいかなかったのよ。お客さんだって待っているし、その人がいないとまわりが困るもの」
「仕事が集まりすぎて、どうにもならなくなったんだ」
「プレッシャーにつぶされちゃったのね」
 遥の話を聞きながら、人生にはいろんなアクシデントがあるのだと思った。僕も学校を卒業して世の中へ出れば、思いがけもしないことやままならないことにたくさん出くわすのだろう。暗い闇へ漕ぎ出すようで、ちょっと怖い気もする。でも、遥と暮らしていくためには、うまく泳ぎきらなければならない。希望はすぐそばにあるのだから、勇気を出していかないと。
「篠山さんが落ち着いたら、遊びにきてもらおうよ」
「そうしましょ」
 遥はうなずいた。
「あと三週間でクリスマスだよね。今年はなにしようか」
 僕はなにげなく言った。
「ふつうでいいわ」
 遥は、満ち足りたように瞳を輝かせる。
「ふつうって?」
「教会へ行ってお祈りして、それから家で食事を作って、買ってきたケーキを食べるの」
「僕もそれでいいよ」
「オーブンが欲しいな。わたしがケーキを焼くのに」
「バイト代が入ったら、電子レンジといっしょになってるやつを買おうか。コンパクトタイプの」
「それじゃ、つまらないわ。どうせなら、ガスオーブンで火力の強いのがいいもの」
「それってけっこう大きいだろ」
「そうね。場所をとるわね」
「ここは、そんなオーブンを置くスペースなんてないしなあ。そのうち、ここより広いところへ引っ越したら買おうよ」
「わたしが買うわ」
「どうして? 半分ずつ出してふたりで買おうよ」
「使うのはわたしだけよ。ゆうちゃんは使い方がわからないでしょ」
「僕だってなにかできると思うけど」
「なにをつくるの?」
「焼き芋でもしようかな」
「さつまいもを焼くだけじゃない」
 遥はくすくす笑った。
「ねえ遥、去年のクリスマスイブを覚えてる?」
「もちろんよ」
「ふたりで教会へ行ったよね」
「退屈じゃなかった?」
「面白かったよ。ミサってこんなふうにするんだっていうのがわかったし、讃美歌もきれいだったし。パイプオルガンの響きっていいね」
「それから、ミサが終わってから、わたしはここへきたのよね」
「そうだったね」
 あの日、遥は初めて僕の下宿へやってきた。今ふたりで住んでいるこのワンルームマンションだ。
「なにを料理したんだっけ」
「鶏肉のソテーだよ」
「思い出したわ。そういえば、ゆうちゃんが鶏肉がいいって言ったのよね」
「カニかまぼこ入りのマカロニサラダも」
「今年はなにがいいかしら?」
「やっぱり、鶏肉がいいな。モモ肉の照り焼きはどう?」
「それを作ろうと思ったらオーブンがいるわ。できあいのを買ってくるしかないわね」
「それはつまらないな。ほかのにしようよ」
「手作りがいい?」
「決まってるよ。なにがいいか考えておくね――」
 遥は答えない。もう軽い寝息を立てていた。僕は掛け布団を引っ張りあげ、遥の肩が隠れるように整えた。
 去年のクリスマスイブはふたりともはしゃぎ通しだった。
 遥の手料理を食べてから、小さなデコレーションケーキに蝋燭を立てて火を点《とも》した。電灯を消すと、二十本の祝福がきれいに浮かんだ。遥は十字を切り、胸の前で手を組んでお祈りの文句を唱える。僕も教えてもらって、もう一度いっしょに唱えた。灯火《ともしび》は、喜びがそこに宿ったかのようにゆらめく。たしかに、僕たちを祝ってくれていた。ふたりはいっしょに吹き消した。
 遥が嬉しそうに手を叩く。
 僕は遥を抱きしめ、頰に口づけた。
 ふっと、ふたりの体が震える。僕たちは、思わず大きく息を吸いこんだ。あこがれと不安と恥ずかしさがないまぜになって、照れ笑いしてしまう。もう一度きつく抱きしめた。遥の心臓の鼓動が聞こえるようだった。僕と遥の心がひとつに溶けあうような、そんな気がした。
「今日は、ずっといっしょにいようね」
 僕はささやいた。実を言えば、前の日から何回もその台詞を練習したのだった。
「わたしも、ゆうちゃんとずっといたいわ」
 遥は、瞳を閉じたまま小声で答えた。
 どれくらいそのまま抱きしめあっていただろう。なにもかも忘れて、無重力の宇宙を漂うような心地良さがあった。遥は、すべてを僕にゆだねてくれた。
 僕も遥もはじめてだった。
 遥の肌の熱とやわらかい吐息が僕をつつむ。
 ぎこちないけど、混じりけのない愛だった。
 いちばん素敵な夜だった。

 遥は朝早く出かけていった。一時限目の授業があった。
 僕の授業は昼からなので、朝はゆっくり過ごした。
 朝食の洗い物を片付けて、録音しておいたNHKラジオ講座の英会話入門を一週間分まとめて聞き返した。スピーカーから流れるフレーズを繰り返しながら、ふとゆうべ見た悪夢を思い出したりしたけど、すぐに頭から追い払った。考えたくもなかったし、過ぎ去ったことをいつまで引きずっていても、ろくなことはないから。
 英会話入門の復習が終わったところで、大学の図書館で借りたユング心理学関係の本を開いた。河合隼雄の『影の現象学』だ。人間の心がどうなっているのか、知りたかった。
 不意に、チャイムが鳴った。
 僕は本にしおりを挟んで机を離れ、ドアの覗き穴を見た。
 グレーの背広を着たサラリーマン風の中年男が魚眼レンズに映っている。
 前に一度、似たような背格好をしたこのマンションの不動産管理会社の社員が現れたことがあったので、管理会社がなんの用だろうと思いつつ、インターホンを取った。
「天草遥はいる?」
 中年男の声はいくぶんうわずっていた。
「どちらさまでしょうか」
「いったい、君は誰なんだ?」
 突然、彼は僕をなじる。
「誰はないでしょう。どちらさまか、言っていただけませんか」
 男の物言いにかちんときた僕は、冷たく言い返した。男は一瞬押し黙り、口を開いた。
「天草遥の父親だ」
 招かざる来訪者だった。よりによって、こんな時に。崩れかけていた遥の心がようやく持ち直してきたばかりだというのに。とんでもないことになってしまった。暗い底なし沼へ引きずりこまれるような気がして、僕は首を振った。どうしたものかと考えあぐねた。

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空飛ぶクジラはやさしく唄う 第10話

2012年01月31日 16時00分15秒 | 恋愛小説『空飛ぶクジラはやさしく唄う』

 希望はすぐそばにあるから自分を信じて


 渓谷に湯煙があがっている。
 シビックは急な坂を登る。
 谷間の細い山道だけど、シビックは賢くてしっかり者の車だから無難にこなしてくれた。ハンドルを切るたびにイグニッションキーのコロポックル人形が振り子のように揺れる。傾きかけた陽射しが檜林をやわらかく照らす。ひなびた温泉街に着いた。
 急斜面の狭い峡谷の中腹に木造の温泉宿が五つほど軒を連ねていた。僕は、そのなかの山月館という名の宿に車をとめた。のんびりしたいのならここがいいとオカマさんが勧めてくれた宿だった。黒い木板と白い漆喰が古めかしい。時代劇に出てくる陣屋のような建物だ。
 玄関へ入ると湯の花の香りがかすかに鼻をくすぐった。黒光りする柱や床のなかで、すのこだけが真新しい。すのこのそばには泊り客用の白い鼻緒の草履が並び、下駄箱の上にはきれいに色づいた紅葉《もみじ》の盆栽が置いてあった。海老茶色の和服を着た女将《おかみ》さんが迎えてくれる。僕の母と同い年くらいだろうか。いささか厚化粧だけどしっとりと目の濡れた美人だった。物腰がやわらかい。
 記帳を済ませた後、僕たちは二階の川沿いの和室へ通された。
 障子を開け、ガラス窓を開けると、すぐ向かいの山の稜線と川のせせらぎが飛びこんでくる。宿の真下は蒼い崖になっていて、狭い川が流れていた。虫取り網を手にした子供たちが石ころだらけの河原で遊んでいる。
 備え付けの浴衣に着替え、下着とタオルを入れたふろしきを持って宿を出た。温泉街を抜け、檜の匂いが漂う坂をぶらぶら歩く。
「やっぱり、空気がおいしいわね。檜の香りもいいわ」
 遥は気持ちよさそうだ。
「さっぱりした匂いだね」
 そんなたわいもないことを話しているうちにこじんまりとした町営の公衆温泉に着いた。宿にも大浴場があるけど、残念なことに露天風呂がなかった。陽のあるうちに町営温泉の露天風呂に入っておきたかった。
 さきに体と髪を洗って、誰もいない岩造りの風呂につかった。
 なにもかもがぽかぽか温まる。なんともいえないため息が自然と口からもれる。体中の疲れと毒素が出ていくようだ。山がきれいに見えるから、景色もいい。湯加減もちょうどいい。空が広くてのんびりできる。首を回して、骨をぽきぽき鳴らした。ずっと運転を続けてこわばった体がほぐれた。
「ゆうちゃん。聞こえる?」
 遥が仕切りの竹垣越しに僕を呼んだ。
「聞こえるよ。大丈夫? ほかに人はいない?」
「わたしだけ」
「いくよ」
 僕は、シャンプーのふたがしまっているかを確認してから放り投げた。山なりに飛んだシャンプーが竹垣の向こうの女湯へ消える。
「うわっ、すごい」
 遥がはしゃいでいる。
「どうしたの?」
「やったー。ちゃんと捕ったわよ」
「ナイスキャッチ」
 僕は笑った。
 ふと視線を感じて振り返ると、いつのまにか湯につかっていた老人と目があった。髪の毛のすっかり薄くなった彼は、ひょうきんそうな雰囲気を顔に漂わせている。まるで狂言師のようだ。僕は、照れながらどうもと言って湯池に体を沈めた。
「これはこれは」
 老人は、ユーモラスな笑顔を浮かべる。目尻に寄ったしわが人懐っこくて、素朴であたたかい人柄を感じさせる。東京ではあまり見かけないけど、僕の田舎では似たような感じのおじいさんがいたものだった。人を信用するところから、他者との出会いをはじめるタイプのようだ。
「彼女といっしょにきたの?」
 老人は両手ですくった湯を顔にかけ、気持ちよさそうに拭う。
「ええまあ」
「若い人はいいねえ。わしもばあさんときてるんだけど。やっぱり若いほうがいいなあ。女房と畳はなんとかってね。お兄さんはどこからきたの?」
「東京からです」
「そう。旅行かい」
「そうなんです。いい温泉ですね」
「ここはいいねえ。わしはこの近所に住んでいるもんだから、毎日きてるんだわ」
「いいですねえ。羨ましいですよ」
「いやまあ、湯治なのよ。ほら、ここに傷があるでしょう」
 老人は、自分の右胸に残る手術の痕をなぞった。
「ご病気されたんですか」
「癌なのよ。肝臓にできちゃってね。医者に余命一年って言われたんだわ」
「たいへんですね――」
 その後をどう言えばいいのかわからない。だけど、老人はさばさばした表情でただ温泉を楽しんでいる。つらそうな様子も、悲しんでいる気配も見受けられない。
「まあね。しょうがないわね。歳をとれば、体にがたがくるもんだわ。でもね、医者にそう言われてからもう五年も生きているんだよ」
 老人は、狂言の翁のように嬉しそうに笑った。
「治ったんですね」
「いやあ、治りはしないけどねえ。癌といっしょに生きてるのよ」
 老人は、自分の病気について語り始めた。
「かみさんがうるさいもんだからさ、人間ドックへ入ったのよ。そしたら、見つかっちゃったのよ、癌が。あんなもんに行かなかったら、知らないままですんだのにねえ、まったく。それで総合病院へ行って精密検査を受けたんだけど、手術して抗癌剤《こうがんざい》の治療を受ければだいたい余命一年ちょっと、うまくいったら数年生きられるかもしれないけど、なんにもしなかったら半年もつかもたないって言われちゃったのよ。
 その検査の結果を聞いた時、もめちゃってねえ。えらいことになったのよ。かみさんのいとこが内科の医者をやっていて、それでいっしょについてきてくれたんだけど、そいつが頑固なやつでさ、主治医と大喧嘩をおっぱじめちゃった。あいつは怒ってねえ。『馬鹿言うな。治りもしない手術や治療をやってなにがあと一年だ。威張るんじゃない』って主治医の先生を怒鳴りつけるんだよ。
 あいつに言わせたら、抗癌剤を使ったら死ぬのは当たり前だってことなんだな。ほら、抗癌剤って劇薬じゃない。副作用が激しいしねえ。癌細胞をやっつけてくれるかもしれないけど、正常な細胞まで破壊しちゃうわけよ。あいつは『抗癌剤なんて使ったら、逆に体を痛めつけてぼろぼろにして、命を縮めるだけだ。抗癌剤はぼったくりの人殺しの毒でしかない。あんたは医療行為に名を借りて、患者の体を利用して抗癌剤のデータ収集とぼろ儲けを狙っているだけなんだ。製薬会社にいいように使われているだけなんだ。それがわからないのか。恥ずかしいと思わないのか』って、そこまで言うんだね。先生を犯罪者扱いよ。
 先生はむっとしちゃって、患者を見捨てろって言うのかって怒り出す始末でさ、わしは立場がなかったねえ、ほんとに。お世話になっている主治医にそんなことを言われたら困るじゃない。参ったよ。とはいっても、あいつだって悪いやつじゃないんだよ。むしろ、いいやつだよな。子供の頃はいじめられた友達をしょっちゅうかばってたし、今だって医者のいない山村をまわって往診しているのよ。身寄りのないじいさんばあさんからは治療代も受け取らないしね。飛騨の赤ひげ先生ってとこよ。
 ふたりとも顔を真っ赤にしてさ、もめにもめて大激論。主治医の先生は、世界の医学界で認められたまともな手術と治療をするだけだって主張するのよ。わしだって先生の意見のほうが正しいって思ったもん。ごくオーソドックスだしねえ。ところが、あいつはそれを認めないのよ。『あんたは製薬会社に洗脳されているだけだ。治せもしない高価な抗癌剤を使っていちばん喜ぶのは誰だ? 製薬会社だろう。儲かってしょうがないから、笑いがとまらないだろうよ。でもな、そんなものを使われる患者の身にもなってみろ。病気は治らない。苦労して稼いだお金はぼったくられる。踏んだり蹴ったりじゃないか。治せもしないのは治療じゃない。あんたは医療の本質がわかってない』って譲らないわけさ。先生に言わせたら、あいつはでたらめをいうばかよ。あいつにしてみれば、先生はペテン師よ。もう、しっちゃかめっちゃかよ」
 老人は子供の頃の喧嘩でも思い出すようになつかしそうに微笑み、眉のあたりまで沈んだ。老人は、湯から顔を出していい湯だとつぶやく。
「それでどうなったのですか?」
 僕は訊いた。
「結局、手術して癌は切り取るけど、抗癌剤や放射線治療はいっさいしないってことで話がついたのよ。先生は放置したら全身へ転移するって言うし、わしだって体のなかに癌のかたまりがあったんじゃあ、気持ち悪いものね」
「それだけで五年も元気にしていらっしゃるんですか?」
 以前、僕の親戚が癌にかかったのだけど、次から次へと転移して、手術と抗癌剤治療を繰り返した。最後は管だらけの生ける屍になってしまった。気の毒だった。
「いやいや、手術だけじゃよくはならないわね。酒もたばこもきっぱりやめて、食餌《しょくじ》療法をして漢方薬を飲んでいるのよ。あいつがそうしなさいって言うからね。でも、正解だったね。主治医の先生の言うとおりにしてたら、とっくにお陀仏だもんな。同じ病室にいた癌の人たちは、病状の重い人が集まってたこともあるんだけど、みんな死んじゃった。わしより症状が軽かった人も、あの世へ逝《い》ってしまった。みんな抗癌剤を使っていたからねえ。副作用に耐えられずに死んじゃったのよ。あの人たちを殺したのは癌じゃない。じつは抗癌剤なのよ。生き残ったのは抗癌剤を使わなかったわし一人だけ。
 癌細胞ってね、どんな人にもけっこうできちゃうものらしいんだよ。だけど、人間には免疫系ってやつがあって、そいつが癌細胞をぱくぱく食べてくれるんだな。だから、おどかすわけじゃないけど、お兄さんの体にも何個かあるかもしれないのよ。心配しなくても大丈夫だよ。免疫系が箒とちり取りで掃除してくれるから。ところが、なんかの拍子で癌細胞が異常に増殖することがあって、それがぱあっと広がると癌になっちゃうんだね。
 それでわしみたいになったらどうしたらいいんだって話なんだけど、あいつは『人間には自然治癒力ってやつが本来備わっている。だからそれを引き出してやればいい。それこそが医療の本質だ』って言うんだ。医療の本質なんて言われても、こっちは素人なんだからちんぷんかんぷんだけどさ、でも、むずかしいことはなんにもないのよ。要するに、規則正しい生活をして、体にいいものを食べて、刺激物はできるだけ控えて体に悪いものは食べない。漢方薬で五臓六腑の調子を整えて、軽く運動して、温泉でリラックス。これだけよ。わけのわからない名前のついた高価な薬なんて、なんも要らないの。ただひたすら全身のバランスを整えるように心がけるだけ。そうしたら、癌が消えるわけじゃないけど、そこそこ大人しくしてくれるもんなのよ。副作用で苦しむこともないし、痛みもまったくないしねえ。だから、わしは癌といっしょに生きているのよ。もうこの歳だから、あと何年生きられるかわからないけど、死ぬまでいっしょ。うちのかみさんみたいなもんだ」
 老人は愉快な笑い声をあげた。それからいろいろ話をした。酒を飲めないのがつらいところだけど、日常生活にはなんの差し障りもないし、囲碁のサークルへ入って隠居暮らしを楽しんでいるそうだ。老人はお先にと言って湯を出た。
 僕は湯池の縁に腰かけ、老人がさっき話してくれたことを考えた。
 人間の体には自然治癒力が備わっているそうだけど、心にも同じようにそんな大いなる力があるのだろう。
 遥がいつも気にしている欲望は、言ってみれば癌細胞みたいなものだ。人間の心にはかならず欲望が芽生える。だけど、心の健康な人は心の免疫系がそれを摘み取ってくれる。遥がむりに欲望を抑えこもうとしたのは、抗癌剤を使おうとしたようなものなのかもしれない。それで欲望が小さくなったとしても、正常な心の細胞まで傷つけてしまう。それでは心がもつはずもない。
「遥の心の自然治癒力を引き出すようにしてあげればいいんだな。それが僕の仕事なんだ」
 僕はひとりごちた。
「ゆうちゃん、いつまでつかってるの?」
 遥が女湯から呼びかけてきた。
「ごめん、もう出ようか」
 出る時は合図すると言っておいて、忘れていた。
 道すがら、遥は道端に生えているすすきの穂を手折って髪に挿した。すすきの穂は楽しそうにゆらゆら揺れる。湯上りの頰は赤味がさして艶やかだった。僕たちは手を繋いで宿へ帰った。
 部屋へ運んでもらった川魚のお膳をいただきながら、地酒の熱燗《あつかん》を飲んだ。塩焼きのヤマメと胡麻豆腐がおいしい。
 ふだんの遥はお酒を飲まないし、居酒屋へ行ってもほんの付き合い程度口にするだけだけど、今晩はわりあいよく飲む。さしつさされつするうち、僕はほろ酔い加減になった。遥の耳たぶが赤くなり、白いうなじまで真っ赤に染まる。
「はい、ゆうちゃん」
 徳利を傾ける遥の手つきが妙に色っぽい。
 お膳はさげて、お酒だけ残してもらった。仲居が布団を敷いてくれた。
 部屋の灯りを消して、ガラス窓を閉めたまま障子だけ開けてみた。向かいの山に白い半月がかかっている。月がきれいに見えるから山月館なんだな、といまさらのことをぼんやり思った。しんと冷えた川のせせらぎが耳に心地良い。僕は遥の膝枕に頭をもたせかけた。
「ゆうちゃん、今日はありがとう」
 遥はしんみり微笑む。
「なにが?」
「つかれたでしょ」
 遥は僕の頭をなでた。
「ちょっとね」
「寝ちゃっていいのよ」
「眠くはないよ。いい気分なだけだから」
 僕は目を瞬いた。月光が遥の顔を半分照らしている。きれいな切り絵のようだ。
「僕のかぐや姫」
「なにそれ?」
「遥のこと」
「中学生の時、なんだか遥は月からきたみたいだなって思っていたんだ」
「ざんねん。地球生まれの地球育ちよ。お月さま育ちだったらいいんだけど。悲しいことだって、そんなになかったかもしれないわね。でも、地球に生まれて、ゆうちゃんと出会えてよかった」
「僕もだよ」
「わたしのお母さんは、わたしの物心がついた頃からずっと、自分はもうだめだって一日になんどもため息をつきながら繰り返し言っていたの。それを聞くたびに、わたしはいつもしょんぼりしてしまったわ。悲しかった。そのうち、わたしもだめなんだって思うようになってしまったの。両親が離婚したとき、わたしの人生にいいことはぜったい起こらないって、そう思いこんでしまったわ。ほら、やっぱりだめだったじゃないって。もともとだめで、このさきもっとだめになるだけなんだって。神さまにお祈りして、神さまにすがって、そんな気持ちにじっと耐えていたのよ。
 でも、中三の時、ゆうちゃんと出会って、すこし変わったわ。希望をもってもいいのかなって思いはじめたの。聖書に『今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる』って書いてあるんだけど、ほんとうかもしれないって信じはじめたわ。いろいろあったけど、今は希望をもたなくちゃいけないんだってちょっと思ってる。そんなふうに思えるようになったのは、ゆうちゃんのおかげよ」
「自分のことをだめだなんて思ったらいけないよ。希望はいつでもすぐそばにあるんだよ。それに気づくか気づかないかだけなんだよ」
「わかったわ。今の言葉をこころにきざんでおくわ」
 遥はこっくりうなずく。
 僕は、露天風呂で出会った老人のことを話した。
「そのおじいさんが言っていたんだよ。人間には知らない力がいっぱい眠っているから、自分の力を信じて生きることが大切なんだって。自然治癒力っていうのは生きようとする力だとも言ってたよ。ただ、知らないうちに自分でそれを邪魔してしまうから、おかしなことになってしまうんだって。遥のなかにだって生きようとする力があるんだから、心配しなくても大丈夫だよ。希望をもたなくちゃ」
「そうね。わたしはこんなふうにも思うの。ゆうちゃんがわたしの前に現れたとき、無意識だけど希望に気づいていたのもしれないって」
「僕もそうなんだと思う。初めて遥と机を並べた時にね」
 僕は、制服姿の遥をふと思い出した。あの日から、恋と、夢と、僕の人生そのものが始まったような、そんな気がする。僕の人生は遥との出会いがすべてだ。
「ゆうちゃん、もう悪いことなんて起こらないわよね」
 遥は僕の目をじっと見つめる。祈りを捧げるような、救いを求めるような、せつないまなざしだった。遥はこんなふうに、隣のお兄ちゃんに助けを求めるようにして、神さまにお祈りしていたのだろう。
「起こらないよ」
 僕は手を伸ばし、遥の頰をやさしくさすった。
「ぜったい?」
「約束する」
 これからどんどんよくなる。僕もそう信じたかった。未来は僕たちのものだと。
「遥、酔いは醒めた?」
「もう平気よ」
「ここの温泉に入ろうか。体を流そうよ」
「そうね」
 遥は穏やかに微笑んだ。川のせせらぎがふと高まる。
 僕たちは起き上がり、一階の奥にある大浴場へ行った。



(続く)
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空飛ぶクジラはやさしく唄う 第9話

2012年01月04日 19時45分45秒 | 恋愛小説『空飛ぶクジラはやさしく唄う』
 紅葉は陽の光に透き通り


 シビックは両側を山に挟まれた川沿いの道を走る。川の水は転げ落ちるように走り、岩にぶつかっては白い波を立てる。透き通る青い川床と涼しげな檜林のコントラストがきれいだ。泣いてすっきりしたのか、遥の表情はすっと落ち着いた。晴れた景色をまぶしそうに眺めている。
 幹線道路を右に折れ、橋を渡った。車は再び山道へ入った。
 緑のカーテンをすり抜けるようにして坂をのぼる。山へ分け入るごとに秋が深まる。紅《あか》や黄色のまだら模様が目立つようになった。
 さっと視界が開け、目の前に秋の高原が広がった。牧草地や林が続くその向こうに神秘的な雰囲気を漂わせた山がどっしりそびえる。両側に優美な稜線を描き、真ん中に雪をいただいた峰がいつくも連なっていた。
「あれはなんていう山なの?」遥が訊く。
「御嶽山《おんたけさん》だね」
 僕はカーナビの表示をちらりと見ていった。
「きれいな山ね」
 遥は御嶽山に見とれた。
 展望台で車をとめた。駐車場には観光バスや乗用車が並んでいて、見物客が大勢いた。手軽な撮影ポイントなのだろう、一眼レフのカメラを手にしたアマチュアカメラマンがそこかしこで山を撮っている。ガードレールの向こうの草地には、イーゼルを立てて油絵を描く人や、坐りながら水彩画の筆を執る人たちがいた。僕たちは見物客にお願いして、御嶽山をバックにふたりの写真を撮ってもらった。
 観光客を引率したバスガイドがハンドマイクを片手に説明を始めた。お転婆そうなお姉さんだ。僕たちもそばへ行って彼女の話を聞いた。
「御嶽山は長野県と岐阜県にまたがる標高三〇六七メートルの火山でございます。四つの峰がございますが、あちらから、継子岳、摩利支天山、剣ヶ峰、継母岳の順に並んでおり、最高峰が剣ヶ峰となっております。長い間、死火山と思われていた御岳山ですが、第二次オイルショックのあった昭和五十四年、とつぜん水蒸気爆発を起こしまして、高さ約一千メートルまで噴煙をあげました。その後も小規模な噴気活動が断続的に続いております。
 また、御嶽山は豊かな山の森と独特の容姿のために、古くから山岳信仰の対象となってきました。七世紀に開山されて以来、修験道の行場がいくつも開かれ、今日でも行者さんたちが修行にはげんでおられます。急峻な地形の御嶽山は滝の山といわれるほど滝が数多くあるため、かっこうの修行の場となっています。このほかにも、宗教登山が盛んでして、白装束姿の信者のかたがた、あるいは一般の服装をした信者のかたがたも、毎年、おおぜい登られております。――それではこちらに続いてください」
 よどみなく解説を終えたバスガイドは、澄ました顔で観光客を連れて行った。
「登れるのね」
 遥は、あごに指を当てながら興味深そうに御嶽山を眺める。
「登ってみたい?」
「うん。頂上から景色を眺めたら気持ちよさそうだもの」
「それじゃ、今度の夏にでも登りに行こうか」
「今じゃだめからしら」
「もう寒いよ。山小屋も閉まっているだろうし、この格好で登ったら凍えちゃうよ」
「あ、そうか。それじゃ、夏にしましょ」
「山開きしたら、いっしょに行こうよ」
「指切り」
 遥は小指を差し出す。
「ゆびきりげんまん、嘘ついたら針千本、飲おます、指切った」
 遥は、嬉しそうにくすくす笑った。
 道は一車線になったり、二車線に戻ったりする。森を走り、田畑が広がる狭い盆地を抜け、また山へ戻る。長いトンネルを抜けておだやかな水をたたえたダム湖に着いた。そこでもしばらく景色を眺め、また山道を走った。
 途中、旧国道の入り口があったので、いたずら心を起こして入ってみることにした。道端の看板にはこの先行き止まりと表示が出ている。どこまで行けるかわからないけど、進めるだけ進んで引き返せばいい。
 枯葉が道をおおっている。車はほとんど通らないようだ。もう長い間補修工事をしていないのだろう、アスファルトがひび割れていた。スリップしないように速度を落としてゆっくり走る。落ち葉を踏みしめる音がからから響く。
 何度か急カーブを曲がり、切り立った崖の川沿いに出た。いい景色だ。
 対岸の森は、赤や黄色やオレンジが入り乱れ、色あざやかに燃えている。紅葉はゆるやかな川の流れに照り映え、蜃気楼のように揺れる。たおやかでのびやかな日本の秋だった。遥はほっとしたため息をつく。わずらわしいことはすべて忘れて、この国に生まれてよかったと思える眺めだ。
 旧道は崖の中腹を蛇行しながらのびる。ゆっくりと、できるだけゆっくりと、美しい景色を味わいながら徐行した。紅葉色が心に染みこむようでほんわりなごむ。ごつごつした素掘りの表面をコンクリートで固めただけの素朴なトンネルを二つくぐり、水色の鉄橋の前に出た。道はそこで行き止まりだった。一車線だけの狭い橋の入り口にコンクリートブロックを置いて通せんぼしている。ふたりは車を降りた。
 森は風にそよぎ、川の流れだけが静かに響く。赤茶色したむき出しの岩と紅葉のコントラストが美しい。ここまで民家は一軒もなかった。手つかずの自然がそのまま残っているようだ。
 真っ赤なナナカマドの木の脇に、背の高い紅葉《もみじ》が枝を広げていた。
「遥、こっちへおいでよ」
 川を眺めていた遥を呼んで、幹に手をあてながらふたりでいっしょに紅葉の葉を見上げた。
 こもれ陽が色づいた紅葉のあいだからきらきらとこぼれる。太陽の光に透き通った葉は、ステンドグラスのようだ。赤い葉脈が浮き上がっている。一つひとつの細い筋がまぶしさに脈打つようだった。
「このもみじはここちよさそうね。生きいきしているわね」
 遥はぽつりとつぶやいた。
「そうだね。輝いているよね」
「命は輝くものなのね」
「お日さまの光をあびてね」
「もみじは光を求めて葉っぱを茂らせて、せいいっぱい生きようとするのね。それは許されることなのよね。わたしが生きていることも、もしかしたら許されているのかもしれない。お日さまは、毎日、私を照らしてくれるもの。神さまがそうしてくれているのよね」
 遥の瞳から涙があふれる。そよ風が遥の髪を揺らし、あごの先から滴がしたたり落ちた。僕は遥を抱きしめ、頰ずりした。
「やっとわかってくれたんだね」
 遥はきっかけを摑んでくれた。悲しみの涙ばかり流していた遥が、喜びの涙を流してくれた。駆け出したいくらい嬉しくてたまらなかった。遥の今までの苦しみがちょっぴり報われたんだ。そう思うと、僕まで泣きそうになった。
「ごめんなさい。なにも考えないって約束したのに」
「いいんだよ。なにも考えないでって言ったのは、自分を苦しめるようなことは考えないでっていう意味なんだから。今の気持ちを忘れないでね。もしこれから先、苦しくなったら、ここであったことを思い出そうね」
「ゆうちゃんの言うとおりにするわ」
 遥は僕の胸にしがみついた。
 遥は大切なことを心の底から実感した。それだけでも大きな収穫だ。
 今感じ取ったことを実際の生活で実践するとなれば、たぶん、いろんなことがあると思う。また悲しみの涙を流すことがあるかもしれない。でも、今の気持ちさえしっかり心に刻んでいれば、きっと乗り越えられるだろう。必ず、倖せになれる。僕が倖せにしてみせる。
「ねえ、ゆうちゃん」
「なに」
「しゃぼん玉があったわよね」
 オカマさんがボストンバッグに入れておいてくれたのだった。昔、遥はしゃぼん玉が好きだった。
「ひさしぶりに吹いてみたいな」
 僕がしゃぼん玉セットを出すと、遥は待ちかねたようにさっそく遊び始める。
「遥、橋のうえで吹こうよ」
「だって、通行止めじゃない」
 遥は目を丸くする。
「大丈夫だよ」
「落ちたらどうするの?」
「車は危ないかもしれないけど、人間がふたり渡ったくらいで簡単に壊れるものじゃないよ。それに、もし人が渡れないくらいおんぼろなら、フェンスを張って入れないようにするはずだよ」
「でも――」
 遥がどうしても怖がるから、僕は一人で橋へ入った。
「ゆうちゃん、なにしてるのよ。危ないわよ」
「心配しなくていいから」
 橋をすこし渡ったところで振り返り、準備体操をするように両手をぶらぶらさせてなんども跳んだ。
「ほら、平気だろ」
 僕は両手を広げた。遥は不安そうに眉間にしわを寄せたまま、まだ納得しない。
「大丈夫だって」
 僕は大声で言って、今度は思いっきりジャンプした。橋はびくともしない。長い間使われていないけど、昔は国道だったから、重いトラックが毎日走っていた。頑丈に造られている。
「わかったから、もうやめてよ」
 遥はしぶしぶ橋に足を踏み入れ、あたりをきょろきょろ見回しながら歩いてくる。僕は橋の真ん中で遥を待った。
「なんともないだろ」
「心臓がとまるかと思ったわ」
「おおげさだよ。見てごらん。いい眺めだよ」
 ふたりは断崖の下を流れる川を見つめた。陽光を照り返してきらきら光っている。両岸の紅葉はどこから見ても綺麗だ。澄んだ空気の向こうに遠く山なみが見える。
 遥はしゃぼん玉を吹いた。
 青空を映したしゃぼん玉は風に乗ってふわっと舞い上がる。紙吹雪のように空に散らばったかと思うと、薄くなって消えてしまう。
「ほら、あれ」
 遥が指差す。一つだけ割れ残ったしゃぼん玉が、まるで糸でつりさげたように揺れている。
「がんばれ」
 僕が声援を贈ると、遥は微笑む。なんの気負いも悲しみもなく、ただ自然に微笑んでいる。やさしい森の妖精のようだ。
 僕たちはかわるがわるなんどもしゃぼん玉を飛ばしては、中学生の頃に流行った恋の歌をいっしょに口ずさんだ。
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