風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

昔物語 ~八十年代半ばから九十年代初めの上海にて(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第354話)

2017年05月30日 07時30分15秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 散歩がてら、上海人の家内が通っていた母校跡地まで連れて行ってもらった。母校跡地は閑静な住宅街のなかにあった。周囲には租界時代風の洋風アパートがたくさん残っている。静かでよいところだ。
 彼女は上海市内の延安西路付近にあった交通運輸学校へ通っていた。入学したのは一九八〇年代半ばのことだ。中国はまだ発展していなくて、今のように自動車が街にあふれるわけでもなく、人民の主な乗り物は自転車だった。家に電話のある家庭は稀だった。
 交通運輸学校は、「中専」に種別される学校だ。日本で言えば高専に相当する。大学進学率の低かった当時は、中専が人気だった。職業訓練を受けられるので就職しやすい。普通科高校よりも、中専を選ぶ人のほうが多かったほどだ。その学校は、交通科、運輸科、発動機科、財務科といったコースが設けられ、発動機科の学生がエンジンについて学ぶための小工場まだあったそうだ。家内は財務科に入学した。四年制の学校だったので、最初の一年間は学校内の寮に住み込み、後の三年間は自宅からバスで片道一時間かけて通った。
 学費は無料。無料どころか、生徒には毎月二十一・五元の生活費が支給された。当時、工場の工員の初任給は約三十六元だから、その六割ほどになる。月々の食費が十五元ほどで、それを差し引いても手元には六、七元が残る。ちなみに、街角の売店で売っている安いアイスが二角(角は元の十分の一の単位)だった。
 学校には大きな図書館があり、バスケットボール用の体育館もあった。体育館の天上にはミラーボールが取り付けてあって、夜は体育館がダンスホールに早変わりして学生達が社交ダンスを踊ったりしたのだとか。家内が入学した当時、十四階建ての高層校舎が建築中で、家内が通っている間に完成した。そんな高い建物はまだ少なかった時代だ。よほど財政が豊かな学校だったらしい。
 家内は、簿記や会計などを習いながら楽しく過ごした。先生はみな大学の教授でレベルは高かった。改革開放が始まって数年後の時代だったから若い先生が多く、先生方といろいろおしゃべりも楽しんだようだ。学校の前には立体交差のトンネルがあって、外国から来賓がくると、その車は必ず前を通る。交通運輸学校の学生は毎回駆り出され、小旗を振りながら来賓を歓迎したのだとか。
 毎朝、バスのなかで席を取って待ち、家内がくると席を譲れってくれる男子生徒がいた。彼は席を譲ることで愛情を表現していたのに、彼女はただ当然のように席に坐るだけで彼には話しかけなかった。彼も彼女へ話かけることはしなかった。その男子生徒はけっこうハンサムなのであこがれている女子生徒は多かったそうだ。家内は悪い気はしなかったものの、恥ずかしく話しかけられず、淡い恋心はそのうちそのまま終わってしまった。
 彼とは別の男子生徒が、「ジュースをおごってあげる」とモーションをかけてきて、彼女はいつも売店でジュースをおごってもらっていた。だが、毎回ジュースを飲み干すと「バイバイ」と言って彼を置き去りにしてさっさと家へ帰ってしまった。こちらは彼が子供に見えて相手にする気になれなかったのだそうだ。何度もジュースをおごってもらいながら話もしないとはいささかひどいけど、家内は三人姉妹の末っ子なので、ちゃっかりしているのかもしれない。ラブレターをもらったこともあるが、名前が書いていなかったのでそのまま放置して相手にしなかったという。
 二年生の時、クラスで事件が起きた。
 クラスメイトの女の子が付き合っていた二年先輩の彼氏と喧嘩をした。彼女は学校でも評判の美人だったそうだが、もう彼氏と別れたい気分になっていたようだ。彼はむっとしてむりやり彼女の手を引こうとした。二人は言い争いになった。
 早速、美女の母親が学校へ呼び出された。まだ保守的な時代なので、男女交際が明るみに出ると周囲の目は厳しくなる。美女の母親は先生と話しているうちに気を失って倒れてしまい、彼氏の親も呼び出されこっぴどく叱られた。美人は一週間学校を休んだ。すっかりしょげてしまった彼女は、それから長い間誰とも口をきかなかったが、スキャンダルの記憶が薄れるにつれ徐々に元気になった。
 家内は誰と恋をすることもなく、言い寄って来る男子につれなくしながら恋愛小説を読みふけり、そこそこに勉強してごく平凡に卒業した。
 卒業する際、学校から職業分配を受けて就職した。中国では一九九〇年代後半まで職業分配の制度があり、学校が卒業生の就職先を割り振った。職業選択の自由はなく、学生は学校の割り当てに従わなくてはならない。僕が雲南省で留学していた時、漢語コースの先生はみな職業分配によって先生になった人たちばかりだった。学校から先生になりなさいと命じられて先生になったのだ。
 ただし、この職業分配はコネがものを言う。親や親戚が共産党の幹部だったりするといい職場が分配された。交通運輸学校の生徒は交通局幹部の子女が多く、彼らは街中にオフィスを構えたいい就職先があてがわれたが、家内は下町のごく普通の家庭に育ったのでいいコネなどあるはずもない。就職先は町はずれの国営企業の工場の財務部だった。
 彼女はこの職場が退屈でしかたなかったそうだ。給与計算と決算の時は忙しいが、それ以外はあまり仕事がなく、暇を持て余した。
 その頃、中国は改革開放の好景気に沸きかえっていた。外へ出ればいくらでもチャンスがある。このまま工場の財務部で退屈な仕事を続けたくないと思った彼女は、就職してから二年後に工場を辞めた。ただし、学校は生徒を送り込む際、四〇〇〇元の手数料を工場へ支払っている。労働契約には最低四年間は勤務する義務が盛り込まれていた。二年間勤めたので、違約金としてその半分を学校へ払わなくてはならない。両親が当時の彼女の半年分の給料にあたるそのお金を工面して、家内は自由になった。
 交通運輸学校は数年前、上海市の郊外へ移転した。跡地には高層マンションが建ち並んでいる。これも時代の流れなのだろう。その周りをぶらぶら歩きながら、家内の青春時代の話をいろいろと聞き、僕たちは地下鉄に乗って帰った。



(2016年4月30日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第354話として投稿しました。
 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/


ぽかぽか

2017年05月24日 07時30分15秒 | 詩集

 こもれ陽が
 まぶしいね
 よく晴れた
 いい天気

 お天道さまは
 にこにこ
 青い空が
 唄ってる

 君を抱くと
 いい心地
 ふんわり
 雲を抱くみたい

 ぽかぽか
 ぽかぽか
 芝生に寝転がって
 ふたりでぽかぽか
 現象していようね


 味付けのりの
 封を切って
 しそおにぎりに
 ぺたっとはる

 しあわせなのは
 ふたりでいるから
 おしんこも
 おいしいね

 むつかしいことは
 考えない
 かなしいことも
 今日は思わない

 ぽかぽか
 ぽかぽか
 ふわっと夢見心地
 ふたりでぽかぽか
 現象していようね


 ぽかぽか
 ぽかぽか
 うとうと
 ぽかぽか


鏡のなか

2017年05月17日 07時30分15秒 | 詩集
 わたしの手は
 あたたかいですか
 それとも
 冷たいですか
 あなたの心がわからない

 夕暮れの駅
 人混みのホーム
 送ってくれる
 いつもの帰り道
 手をつないでいるのに
 どうしようもなく
 さみしくて

 あなたの瞳は
 なにを見つめているの?
 心の奥には
 だれが映っているの?
 急行電車が
 すべりこんでくる

 このままでいるのが
 つらいから
 わかれてください
 思わず
 そう言ってしまいそう
 そばにいて
 髪をなでてくれたら
 それだけで幸せなのに

  鏡の小部屋にいるみたい
  どこを向いてもみんな鏡
  なにを見てもみんなわたし
  映っているのはわたしだけ
  なにもかもがゆがんだ
  怖い夢のよう

 わたしの手は
 あたたかいですか
 それとも
 冷たいですか
 またあしたなんて
 とても言えない


三峡下りの死体(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第353話)

2017年05月07日 07時30分15秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 三峡下りは中国の数ある観光名所のなかでも特に有名なものだ。
 重慶から観光船に乗って長江の上流を下る。三峡の渓谷は長江の両側に険峻な山が連なりとても神秘的だ。
 家内は二十数年前、一九九〇年代の初めに行ったことがあるそうで、とてもきれいでよかったと言っていた。僕は残念ながら、テレビで何度も見て一度行きたいなと思いながらまだ行けないでいる。
 ある時、上海在住の日本人のおじさんたちと一緒に酒を飲んでいて、三峡下りの話題になった。みんな中国に十年以上住んでいる中国通の人たちだった。
 二〇〇五年頃に行ったというSさんは、
「川が汚かったよ。観光客が観光船からカップラーメンのカップだとか、お菓子の袋だとかをぽいぽい捨てるんよ。それで、そのゴミがあちらこちらでぷかぷか浮いてるんだ。武漢あたりでは、長江の魚を名物として出したりするけど、汚い川を見てからというもの、長江の魚がそんなものをえさにしているのかと思うと食べられなくなってしまった」
 という。同じく、その頃に三峡下りの観光船に乗ったというJさんは、
「渓谷の山はきれいでしたけど、川は汚かったですねえ。僕のときもゴミがたくさん浮いていました。死体も流れていたし」
 とうなずく。
「死体? 人間の?」
 僕は目が点になって思わず訊いてしまった。
「人間のですよ。一瞬でしたけど、浮いているのが見えました。観光船はそのままなにもせずに通りすぎてしまいましたけどね」
「それじゃ、俺が喰った長江の魚は、死体を食べた奴かもしれんね」
 Sさんは変なものを食べたかなあという感じだ。
「その可能性はないとはいえませんね」
 Jさんによると、川には死体がときどき浮いているものなのだそうだ。だから、長江に死体が浮いていたとしても別に不思議ではないのだとか。
 三峡下りに抱いていたロマンが壊れてしまった。なんだか。


(2016年4月23日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第353話として投稿しました。
 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
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或る駐車違反(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第351話)

2017年05月06日 07時30分15秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 上海のとある道端に車が駐車してあった。普通の乗用車だ。フロントガラスには張り紙がしてある。
「警察の同志のみなさん。
 私は子供を幼稚園へ送ってきます。五分で戻ってきます。
 お願いですから駐車禁止違反切符を切らないでください。
 ご理解をお願い致します」
 子供を送ってさっと帰ってくるから大目に見てねという気持ちはわかる。
 しかし、やはり警察は駐車違反切符を切り、フロントガラスに張り付けた。運転免許証と身分証を持っていつまでに警察署へ出頭せよと書いてある。
 警察官はこう張り紙することも忘れなかった。
「私は十分待ったよ



(2016年4月16日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第351話として投稿しました。
 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
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上海大腸麺を食べに行った(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第350話)

2017年05月05日 07時30分15秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 家内と一緒に上海大腸麺を食べに行った。
 上海市内の老西門付近にある地元では知られた店だそうで、店はきたないが味はうまいという典型的な名物ラーメン店だった。
 大腸麺の店は道路沿いに面した建物の半地下にあった。上海は昔の西洋式建築があちらこちらに残っている。この店が入っている建物も昔風の作りで、道路沿いは半地下式になっていた。その半地下の店舗に中二階を作り、中二階に八席、一階に五席のテーブルを設けている。店はごく狭い。店のなかには「原料の大腸が三〇%値上がりしたので、当店も値上げします」などと大きく張り紙してあったりする。隅のテーブルには、切った豚の大腸が大きなボールに盛ってあった。
 ちょうど昼どきとあって、店は満員だ。店のなかにテーブル待ちと持ち帰り待ちの行列ができていた。
「ここで食べる人は先に席についてね。注文はその後だよ」
 女将さんはぶっきらぼうに言い、スープなし麺をビニール袋に入れて持ち帰りの客をせっせとさばく。僕らは半地下の一階テーブル待ちの行列に着いたのだが、前に数人しかいないのに、なかなか席につけない。二十分ほど並んでようやく坐ることができた。
 テーブルについて、なぜ行列が前へ進まなかったのかわかった。注文しようにも、店員がまともに取り合ってくれないのだ。僕らの十五分ほどまえにテーブルについた女性の二人連れはまだラーメンがきていない。きていないどころか、注文もできていない。ずっと席に座って待ったままだ。
 中二階の席も待たされっぱなしの客が多いと見えて、時々客がおりてきて、
「もうずいぶん待ってるんだけどさあ、いい加減ラーメンを出してくれよ」
 と催促したりする。すると、いかにも頑固そうな丸刈り頭の大将が、俺は忙しいんだというオーラを全開にして、
「最低三十分は待ってもらわないといけないわな。待ちたいなら待てばいいし、待てないんだったら帰ってくれて結構だから」
 とうるさそうに言い、厨房へ引っ込んで大腸麺を作り続ける。
 さすがにぶっきらぼうな女将さんもドン引きな様子で、「あんた、客につっけんどんにしちゃだめよ」とたしなめていた。
「なににするの?」
 ようやくおばちゃんの店員が聞いてくれた。
「大腸麺に烤麬(麬(ふすま・小麦の糠)をスポンジ状にしたもの)を入れてね」
 家内は注文する。けど、それが厨房へ通った様子はない。女将さんはあいかわらず持ち帰りをさばき、店員は忙しそうに大腸麺の碗を中二階へ持っていく。十分ほどして、おばちゃんが、「なんだったっけ?」と再び訊き、
「大腸麺に烤麬を入れてね」
 と、家内は同じ注文を繰り返す。
 それでも、大腸麺はやってこない。家内は「しょうがないわね」と諦め顔で待っている。僕ものんびり待つことにした。
 待っているうちに、おばちゃんが隣の二人連れの女性客に注文を訊いた。女性客はすかさずお金を渡し、おばちゃんが受け取った。すると、一分も経たないうちに大腸麺が二つ出てきた。
 ――なるほど、そういうことなのか。
 僕はようやく合点がいった。
 この店の仕組みでは、店員が注文を聞いただけでは、注文にならない。店員が注文と同時にお金を受け取ってはじめてオーダーが通る。店員がお金を受け取るかどうかは、その時の店員の気分次第。「ずいぶん待っているようだから、そろそろ大腸麺を出してあげなくてはいけないな」という気分になった時、はじめて店員はお金を受け取り、正式にオーダーを通すのだ。
 狭い店の限られたテーブル席なのだから、さっさとラーメンを出して回転を上げたほうが儲かるだろうと思うのだけど、それをいってもしかたないのだろう。
 おばちゃんが三度目に僕らに注文を聞いた時、彼女はお代を受け取った。案の定、すぐに大腸麺が出てきた。
 大きな器いっぱいに中国醤油で甘辛く炒めた豚の大腸と烤夫がのっている。スープは醤油味。おいしい。店に入ってから四十分も待ったから、お腹もじゅうぶん空いている。僕はがっついて食べ、大腸と烤麬を残らず平らげた。家内はさすがに量が多いと三分の一くらい残した。
 食べ終わった僕らと入れ替わりに行列の二人が坐った。さてさて、彼らは正式にオーダーを入れるまで何十分待つことになるのか? 



(2016年4月6日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第350話として投稿しました。
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太宰治『帰去来』を読んで(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第349話)

2017年05月04日 07時30分15秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 
『帰去来』は、太宰治の中期の作品。結婚をして安定した生活を送っていた頃に発表された。
 題材は、タイトルのとおり帰郷だ。不義理をして義絶状態になっていた郷里の津軽へ知人の助力を得ながら十年ぶりに帰ったときのことを書いている。
 太宰は冒頭で「のほほんと生きてきた」などと書いているが、彼は決してのほほんと生きたわけではない。ままならない自分と格闘し、非合法活動、心中、薬物中毒とすさまじい嵐をくぐってきた。もちろん、破滅型の太宰がたどってきた道は常人であれば許されないことであり、目の前の生活の糧を得るのに懸命な世間の目から見れば、そんな太宰の「道楽」は、おぼっちゃんの「のほほん」ということになるのだが。
 ただ、この「のほほん」は世間にむけた照れ笑いだけではなく、当時の太宰の気分が色濃く表れている。幾多の戦いや葛藤を通り抜けて、ようやく落ち着いた気分になれたのだ。嵐続きの航海の後、よく晴れた凪の海へ出たようなものだったろう。心の平安をようやく手にすることができた。
 心の春に巡り合った太宰に、ある日、ふるさとの使者がやってくる。メッセージは、
「一度帰っておいで」
 だった。
 勘当して義絶状態にはあったが、ふるさとは彼を忘れてはいなかった。いつ里帰りさせるのか、タイミングを見計らっていたようにも思える。無茶苦茶な生活を送ってきた太宰がなんとか生き延びてこられたのも、ふるさとの人々が陰で支えていたからだ、その支えていた人がふるさとへお帰りと誘いにきて、北帰行に同行した。
 不安となつかしさが入り混じった里帰りだが、郷里の津軽に着いた太宰が真っ先に出くわしたのはふるさとの訛りが聞き取れないという事実だった。太宰は裏切りのうしろめたさを抱く。
 ふるさとを離れて出会うのは、自分自身の影にほかならない。ふるさとの懐に抱かれていたのでは、自分自身と出会うことはできない。母の地を離れ、独りぼっちになって初めて、裸の己と向き合うことができる。精神的な意味でへその緒が切れるようなものだ。太宰は、ふるさとの言葉を忘れてしまうほど、東京でよそゆきの言葉を操りながら必死になって自分自身と戦ってきたということなのだろう。
 高校生の頃、初めて太宰を読んだとき、彼の描く羞恥心や照れ笑いや自己否定や懺悔といったものが、心に痛かった。自分のことが書かれているようで身につまされた。だけど、大人になってから読み返してみると、太宰は安直に自分が駄目だと言っているのはないとわかった。太宰は、聖なるものにあこがれた人だった。太宰は聖書をよく読んでいたが、そこに書かれていたことを真摯に受けとめ、自分も純な愛になりたいとあこがれ、でもやはりそうできない自分に失望を覚え、それで自分は駄目だと書いていたのだ。聖なるものにあこがれ、それに躓く日々、それが太宰の格闘だった。
 訛りを忘れていた太宰だが、しばらくするとすべて聞き取れるようになる。ふるさとと太宰を隔てていた膜が破れた。
 太宰は先に父の墓参りをすませ、恐るおそる実家へ入る。だが、太宰の心配は杞憂に終わった。みなそれなりに老いたが、長い間留守にしていた末っ子が帰ってきたという感じであたたかく迎えられる。
 太宰は、母と仲良く歓談するのだが、太宰がいくら説明しても、母は太宰が作家になったことを理解しなかった。てっきり書店を開業したものとばかり思ったのである。そこで太宰は十円紙幣を出して母へ差し出す。一人前に仕事をして稼いでいることをそうして証明したかったのである。安心させたかったのだ。母はそんな太宰を見てクスクス笑う。周囲を困らせてばかりいた甘えたの末っ子が精一杯背伸びして親へお小遣いを渡そうとする姿を見て、かわいくてしかたなかったのだろう。
 ただ、太宰は父代わりの長兄を恐れていた。太宰を勘当したのも長兄だ。勘当の許しはまだ出ていない。長兄と太宰が出くわすことになれば、腹でどう思っているかはともかくとして長兄は「なにしにきたんだ。帰れ」と言わざるを得ない。この帰郷は長兄の留守を狙い、会うべき人に会ったところで、こっそりと帰るように計画したようだ。それで太宰は、実家には泊まらず、親戚の家に泊まり、逃げるようにして東京へ帰ってしまった。
 わずかな滞在だったが、里帰りをするのとしないのとでは大きな差がある。長兄の許しをもらうには、太宰が昔やらかした醜聞スキャンダルはあまりに大きくて、それにはまだ時間がかかりそうだ。それでも、太宰はようやくふるさとと和解することができた。ふるさととの和解――それはままならない自分とすこしは折り合いがついたということでもあった。
 この短編を読み返すたびにあたたかい気持ちになる。



(2016年3月27日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第349話として投稿しました。
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ご飯に日本酒をかけてさらさらっと(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第348話)

2017年05月03日 07時30分15秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 父方の祖父はお酒が大好きで、無類の日本酒党だった。味よりも量という感じで、安い日本酒をがばがば飲むタイプだった。
 晩年は医者に酒を止められていたのだけど、ある時一緒に電車に乗っていたら、ボックスシートの向かいに坐ったおじさんがワンカップの日本酒を開けてちびちびやりだした。向かいのおじさんはしあわせそうだ。祖父はかっと目を見開き、食い入るようなまなざしで向かいのおじさんのワンカップを見つめ続ける。禁止されているだけに、よけい飲みたかったのだろう。あとで祖父は、「そんなにじろじろ見てはいけません」と祖母にたしなめられた。
 まだお酒も禁止されずに元気だった頃、祖父はお茶漬けのかわり日本酒漬けをやっていた。おちょこの日本酒をさっと御飯にかけ、さらさらっとかきこむのだ。日本酒はもともと米で作ったものだから、御飯とよくあうのだとか。祖父はじつにおいしそうに食べていた。
 大人になってから、一度真似をして日本酒漬けをやってみたのだけど、まあこんなものかなという感じで、とくにおいしいとも思わなかった。僕はお酒に弱いし、それほどお酒が好きというわけでもないからなのだろう。日本酒党の人でなければあのおいしさはわからないのだろうな。


(2016年3月22日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第348話として投稿しました。
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上海散策 ~内山書店跡、魯迅記念館、旧日本租界

2017年05月01日 22時35分15秒 | フォト日記

 上海市の四川北路へ散歩に行ってきた。
 
 



 魯迅と交流のあった内山書店の跡地。書店を残してあるのかと思ったらプレートがあるだけで、今は銀行になっている。






 魯迅記念館。入場無料。
 なかには魯迅の自筆原稿の複製が展覧してあった。達筆だった。



 魯迅記念館のある公園。






 甜爱路。並木がきれい。歩ていると気持ちよかった。










 旧日本租界の建物。昔の建物のなかには今でも人が住んでいる。

 これといってなにかがあるわけでもないけど、昔の洋館を見ながらぶらぶら散歩するにはいいところかもしれない。天気がよくて気持ちよかった。




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