風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

帰郷

2014年02月26日 07時45分45秒 | 短編小説
 
 雪解けがもう始まっていた。
 薄ぼんやりとした夕陽が低い山並みの向こうへ落ちる。紅く染まっていた田畑の雪は、灰を撒き散らしたように色を変える。レールを踏みしめる車輪の音がリズミカルに響き、踏み切りの警報機が乾いた音を立てながら車窓を流れた。
 僕は新庄発秋田行きの普通列車に乗っていた。赤い電気機関車が牽引する四両編成の客車列車だ。乗客たちはほとんど眠っているかのようで、青いボックスシートが並んだ車内は静かだった。
 僕は曇った窓ガラスを手で拭い、ぼんやり外を眺めた。あてのある旅でも、誰かを訪ねるための旅でもなかった。東京で暮らしているうちにどうしようもなく窮屈な気分になってしまったから、列車に乗ってどこか遠くへ行きたくなった。ただそれだけのことだ。今朝、上野発の始発列車に乗り、鈍行を乗り継いでここまでやってきた。
 僕の真向かいには三十過ぎくらいの男が坐っていた。男はずっと目を瞑っていたが、時々鼻を鳴らしたりするので眠っているわけではなさそうだった。丸い顔にがっちりとした体つきをしている。屋外で体を使う仕事をしているのだろう。顔は日焼けして、節くれ立った手は荒れていた。僕の隣には老眼鏡をかけた五十がらみの女性が坐り、手を休めることなく編み物をしていた。翡翠色のマフラーが彼女の膝元ですこしずつ伸びた。
 このあたりの雪がすっかり解ける頃、僕は卒業する。だが、まだ就職は決まっていない。さしあたって今のアルバイトを続けることになりそうだ。無名の業界雑誌を発行している小さな出版社で雑用係りをしていた。資料収集のために図書館へ出かけたり、新聞社のライブラリイへ行って写真を借りたり、図表のデータをそろえたり、文字校正をしたりと簡単な仕事だ。たまに編集長の気が向いた時には、小さな原稿を書かせてもらえた。一か月間フルで働いてもたいした稼ぎにはならない。身分もアルバイトだから不安定だ。会社の経営もうまくいっていないようで雑誌の発行部数も伸び悩んでいるから、いつ首を切られてもおかしくない。経済的にもきついし、精神的にもなかなか落ち着かないのだけど、とはいえ、仕事自体は気に入っていた。いつか責任を与えてもらって、取材へ出かけたり、自分自身の手でひとつの記事を編集できるようになりたかった。
 親は卒業したら里へ帰ってこいと言う。だが、帰りたくはなかった。帰ったところで目ぼしい就職先があるわけでも、親が就職の斡旋をしてくれるわけでもない。子供がそばにいなければさびしいから、というだけの話だ。延々と続く母親の愚痴を聞かされるのは、ごめんだ。気分が滅入って、気力が吸い取られてしまう。母親がよく通っている占い師の御宣託をもとに「あなたはこれだからだめだ」と断罪されるのも、もううんざりだ。母親は、僕の幼い頃に父親と義母――つまり僕の祖母――から手ひどくいびられ、心を圧(お)し潰されてしまった。それ以来、常になにかに苛立ち、終わることのない怒りを発散させている。占いによってすべてを解釈しようとするだけで、自分の頭を使って目の前の現実を考えようとはしない。浅く狂っていると思うが、今更、どうすることもできない。家にいると針のむしろに坐っているようなやり場のない気分にさせられる。どうにも折り合いのつけようがなかった。
 僕になにかができるとはとても思えない。自分のことは、あまり信用していない。それでも、ささやかでかまわないから、自分の人生は自分の手作りで生きたかった。
 通路のドアがゆっくり開く。
 初老の車掌が現れ、帽子を取って深くお辞儀する。
「毎度ご乗車ありがとうございます」
 と礼を述べた後、
「ただいまより、車内検札を始めます」
 とまた頭を下げた。車掌のアクセントはこの地方の訛りがかすかに香った。人の心を落ち着けるのんびやかさがあった。
 車掌は順番に検札し、切符を発券やら乗り越しの精算をすませる。
 僕は手慣れた仕草で仕事をこなす車掌にいささかの羨望を覚えずにはいられなかった。落ち着いた仕事を手に入れれば、落ち着いた暮らしが手に入り、落ち着いた倖せを得ることができるのだろうか。
 二年ほど一緒に暮した恋人は、先月、彼女の故郷へ帰った。僕に内緒で見合いをしたようだ。突然、別れを切り出した彼女は「チャンスだから」と何度も繰り返し言った。地元の名士の家との縁談がまとまったようだった。いい暮らしができるのなら、それも悪くない。ただ、二度と彼女とかかわりになろうとは思わない。忘れ物があるのから宅配便で送ってほしいと手紙が届いたが、そのままくずかごへ捨てた。それは僕のエゴイズムだとわかっているけど。
 車掌がそばにきた。
 向かいの男が小さな切符を渡す。車掌の顔が険しくなり、
「上野……」
 と、くぐもった声でつぶやいた。
 車掌が彼へ話しかける。カーブに差しかかった客車は軋み、車掌の声をかき消す。男が黙って頷くと、車掌は困惑にした深い皺を眦(まなじり)に刻みながら今度は彼の耳元へ口をあて何事かをささやいた。男はやはり表情を変えず、無言のまま頷いた。
「帰りたかったのけ――」
 車掌はやるせなく首を振った。僕の隣の女性が放心したように編み物の手をとめる。だが、彼女はずり落ち気味になった老眼鏡を手の甲で押し上げるとすぐに続きを編み始めた。
「あんただけが悪いわけじゃないんだけどな」
 そう言った車掌の顔には怒りも憎しみもなかった。ただ悔しさだけを謹厳な顔に浮かべている。なにが悔しいのだろう? キセルを見つけてしまった自分だろうか。それとも、男にキセルをさせてしまったこの世の理不尽に対してだろうか。たしかに、男は不幸に違いない。そんな男をキセル犯として告発しなければならない車掌も不運には違いなかった。帽子の庇に手をあてて哀しげにじっと視線を落とした車掌は、さっと踵を返した。
 おそらく、男は上野でいちばん安い切符を買い、ここまで列車を乗り継いできたのだろう。トイレにこもってやり過ごすこともできただろうに、素直に切符を見せた男が不思議だった。もうどうにでもなれとやけになったのだろうか。もしかしたら見逃してもらえるかもしれないと、心の片隅で期待していたのだろうか。それとも、なにがなんでもふるさとへ帰り着き、幼い頃の思い出たちと膝を交えて話をしてみたかったのだろうか? 置き去りにしていったわだかまりと和解したかったのだろうか?
 列車は、一つまたひとつと無人駅に停まっては出発する。男はじっと眼を閉じたままみじろぎもしない。運命というものがもしあるとすれば、それに身を任せるよりほかないと観念しているようだ。周囲の乗客はなにもなかったように静かだった。誰一人として、彼を見つめたりするものはいない。あるいは、同情のこもったやさしい沈黙だったのかもしれない。夜の帳が車窓に幕をおろした。
 やがて車掌が引き返してきた。列車は煌々と灯りのともった大曲駅へ滑りこむ。このあたりでは比較的大きな駅だった。鉄道警察の腕章を巻いた男が二人、プラットホームの真ん中あたりで直立不動の姿勢をとって列車を迎えた。
 車掌が男の肩を叩く。
 男は疲れたように立ち上がり、車掌に付き添われながら汽車をおりた。僕はさきほどまで男が坐っていた席に場所を移した。初老の女性はうつむいたまま編み物を続けている。
 ひゅっと鋭く笛が鳴った。
 客車が揺れ、定刻通りに出発する。
 薄緑色に塗ったホームの柱が窓の外でゆっくり動く。鉄道警察に両脇を抱えられた男の後ろ姿が瞬く間に後ろへ流れ去る。
「帰りたかったのけ――」
 車掌の言葉がやさしくむなしく耳の底で甦った。




(了)


 小説家になろうサイト投稿作品
 2013年2月23日投稿
 http://ncode.syosetu.com/n7388bn/


辞めたいですぅ(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第225話)

2014年02月23日 19時22分49秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 
 職場でおいしい利権を得た場合は別として、中国人の若者は長くても三年くらいで仕事を変える。
 アシスタントのアニメちゃんもそのうち辞めたいと言い出すんだろうなと思っていたけど、とうとう「辞めたいですぅ」と言い出した。
「野鶴さん、早くわたしの代わりのアシスタントを入れてください。わたしが一か月くらいで育てます」
 と、日本料理屋でランチを食べ終わった後、アニメちゃんが切り出した。
「あのな、俺が辞めるまでお前も辞めるなって言っているだろっ。それにな、お前がここまで育つのにどれだけ時間がかかったと思っているんだ。入ってきた時、お前はほんとに子供だったんだからな。わかってるだろ。一か月で別のアシスタントを育てられるはずがないだろう」
「わたしより日本語が上手で優秀な人はいくらでもいますから、大丈夫ですぅ」
 と言って、いかに自分がだめなのかを並べ立てて強調する。
 交代要員を育てるからと言うぶんだけ、ほかの中国人とは違う。普通は、辞めたければ引き継ぎのことなど考えずにさっさと辞めてしまう。気を遣ってくれているんだなとは思うのだけど、辞められては困る。ヘッドロックをかけたりまでして手塩にかけて育てたアシスタントだ。社会人二年生にしてはよく仕事をこなしてくれる。お転婆娘で手間がかかったぶんだけ、かわいがってもいた。大袈裟だけど、彼女がいなくなれば、僕はルパン三世のいなくなった銭形警部のようにへたってしまうかもしれない。
「どうして辞めたいんだ?」
 僕は訊いた。
「わたし、こう見えても可愛いものが好きなんです」
「それは知ってるよ」
「だから、可愛いものに関係があるところで仕事がしたいんですぅ。今の仕事には興味が持てないです」
 そう言う割には大量の仕事をせっせとこなしてくれている。
 ここ二週間ばかり、ほぼ毎日ふたりで会議室に籠もって複雑なプレゼン資料や見積書を作っていた。協力会社への問い合わせや細かいデータの整理はすべてアニメちゃんがやってくれた。やっとのことで仕上げた資料をもとに顧客へのプレゼンを済ませ、業務を任せてもらえる内諾を得てほっとしたその帰り道だった。
「職場環境とか、待遇とか、会社の将来性はどうだ?」
 僕は質問を続けた。
「職場環境は問題ありません。この会社はいい人が多いですから。待遇は……兄妹のなかではいちばん給料が安いです。親戚には大学を出たのにどうしてそんな安い給料で働いているんだって言われます。会社の将来性は――ないですよねぇ」
 たしかに、アニメちゃんのいうことはあたっている。
「まあ、お前の言うとおりだな。給料が安くて会社の将来性もないけど、いい人が多いからわりと働きやすいよな。だから僕もここで働いているんだよ」
「辞めたいですぅ」
「だめ」
「だめといってもだめですっ」
 アニメちゃんは元気よく僕に逆らって、それからしょぼんとした目をする。彼女のしょんぼりさには「辞めてもいいよ」と言ってもらえなくて残念なのにくわえて、「お父さんの言うことは聞かなくてはいけない」といったような感じがすこし入っている。
 お勘定を払う段になってアニメちゃんは財布を出して自分が払おうとした。
「なにしてんだよ」
 僕が言うと、
「いつも野鶴さんにご馳走になってばかりだから、たまにはわたしがご馳走します」
 とアニメちゃんはしおらしく言う。僕に借りを作りたくないのだろう。
「僕が払うよ。おごるのは辞めるとか辞めないとかの話とは関係ないから」
 僕はそう言ってウェイトレスに勘定を渡した。
 もちろん、「会社を辞めちゃだめ」などという権利は僕にはない。自分の人生は自分の生きたいように生きなくてはいけない。彼女の人生は、世界でたった一つだけの道なのだから。
 困った。




(2013年3月2日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第225話として投稿しました。 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/

『七瀬ふたたび』について(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第222話)

2014年02月10日 02時36分37秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 筒井康隆先生の『七瀬ふたたび』を初めて読んだのは中学校三年生の時だった。
 人の心が読めるエスパー火田七瀬のシリーズは『家族八景』が第一部で、『七瀬ふたたび』が第二部。『エディプスの恋人』が第三部なのだけど、僕はなぜか第二部の『七瀬ふたたび』から読んでしまった。
 読み始めてから、たちまちその小説世界に引き込まれてしまった。
 やたらと心理描写がくわしい。素直にすごいなと思いながら読んだ。
 『七瀬ふたたび』を読むまでは人の心が読めるといろいろ便利なんだろうなとぼんやり思っていたのだけど、人の心が読めるとかえって背負い込むものが多くなって苦労するんだなとよくわかった。
 今でも心に残る小説だ。



(2013年2月7日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第222話として投稿しました。 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/

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