風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

『徒然草』を音読してみた (連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第23話)

2011年04月30日 10時16分09秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 
 一年ほど前、吉田兼好の『徒然草』を初めから最後まで通して読んだ。
『徒然草』は学校の授業で読んだ程度だったから、一度全部読んでみたかった。昔習った教科書には、お祝いの宴席で鼎《かなえ》をかぶって抜けなくなってしまったという仁和寺の法師の話が載っていて面白かった。隠者という生き方にも惹かれるものがある。デカルト曰く、「よく隠れるものはよく生きる」。洋の東西を問わず、「さわがしい世間から隠れる」という生き方にはなにか共通するものがあるのだろう。人生にとって大切なことが書いてありそうだ。
 なんとなく岩波文庫版の『徒然草』を買って中国へ持ってきたのだけど、読みはじめてから、ちょっと失敗したかなと思った。なにせ簡単な注釈だけで現代語訳がない。受験勉強以来、ほとんど古文に触れていないから、単語や文法などはとうに忘れてしまっている。なかなか意味を読み取れない。もどかしい限りだ。おまけに、読んでいてもどうもしっくりこなかった。目が文字のうわっつらをすべるようで、言葉が頭のなかへ飛びこんでくれない。
 はたと思い当たって、声に出して読んでみた。さいわい、『徒然草』の章はどれも短いから、すぐに読み返せる。
 一度目はかなりつっかえた。語釈を見て意味を確かめなくてはいけない単語もいろいろあるから、立ち止まってばかりいる。だけど不思議なもので、同じ文章を二度三度と音読しているうちになんとなく意味がわかるようになった。なぜか心にすとんと落ちる。理屈で理解するのではなく、ただ意味を感じるのだ。
 物の本によれば、ヨーロッパで黙読が始まったのは十二、三世紀頃のことらしい。それまでは読書といえば音読するのが当たり前だったそうだ。一冊の本をすべて音読するのはけっこう体力を使うから、読書はいい運動になったのだとか。あごの筋肉と肺活量が鍛えられそうだ。
 ところで、古代中国の書物は句読点がついていないうえに改行もしなかった。たとえば、

 先帝創業未半而中道崩殂今天下三分益州疲弊此誠危急存亡之秋也……(三国志・諸葛亮伝・出師の表)

 といった具合に漢字がずらずら並んでいるだけだから、どこでセンテンスが終わって、どこで始まるのかも定かではない。現在出版されている『史記』や『論語』といった古典の本には句読点がついているけど、それはすべて現代になってつけられたものなのだとか。中国で留学している時に先生からそんな話を聞き、僕は驚いてしまった。
「先生、それじゃ昔の人はどうしていたんですか? だって、どう読めばいいのかぜんぜんわからないでしょう?」
 僕は先生に質問した。さいわいというか、僕が通っていた学校は、大学というよりも塾みたいなところだった。教室も小さくて人数も少なかったから質問しやすかった。
「音読してたのよ」
 先生は言った。
「それでわかるんですか?」
「そうよ。声に出して読んでみれば、どこでどう文章が切れるのかなんて、自然にわかるものなのよ。昔の人はみんな音読していたから、句読点も改行も必要なかったの」
 僕は中国語の古文を読めないので、そんなものなのかなと思っただけだったのだけど、毎朝学校の庭を通るたび、若い学生たちが立ったまま英語の教科書を開いて朗々と音読している姿を見ていたから、中国には音読の伝統がいまだに残っているような気がした。
「中国の学生は、朝音読するのが好きなんだね」
 と、なにげなく地元の友人に言ったら、
「だって、晴れた朝に朗読するのは気持ちいいでしょ。空気だってさわやかだし、気分が晴れやかになるわよ」
 という答えが返ってきた。たしかに、みんな気持ちよさそうに音読していた。
 いつから日本で黙読が始まったのかは知らないけど、ほかの国と同じように昔はみんな音読していたのだろう。当然、書き手も音読されることを前提に書いているから、音読した時の文章のリズム感といったものにも気を配ったのかもしれない。黙読を前提にした文章と音読を前提にした文章では、文章のリズムやテンポがぜんぜん違うと感じた。『徒然草』は音読が合う。というよりも、音読しかできない書物なのかもしれない。少しずつ音読してじっくり味わった。含蓄のある話や興味深い話がいろいろあって面白かった。学校の教科書には載っていない大切なことが書いてある「人生の教科書」とでも呼びたくなるような、じつに味わい深いエッセイだ。
 僕は、『徒然草』の最終章が大好きだ。

 八つになりし年、父に問いて云《い》はく、「仏は如何《いか》なるものにか候《さうら》ふらん」と云う。父が云はく、「仏には、人の成りたるなり」と。また問ふ、「人は何として仏には成り候《さうら》ふやらん」と。父また、「仏の教《をしえ》によりて成るなり」と答ふ。また問ふ、「教《をし》へ候ひける仏をば、何が教《をし》へ候ひける」と。また答ふ、「それもまた、先の仏の教によりて成り給ふなり」と。また問ふ、「その教へ始め候ひける、第一の仏は、如何なる仏にか候ひける」と云う時、父、「空よりや降りけん。土よりや湧きけん」と言いて笑ふ。「問ひ詰められて、え答へずなり侍《はんべ》りつ」と。諸人《しょにん》に語りて興じき。

 わかりやすく噛み砕いて現代語訳するとだいたい次のようになる。

 八つの頃、父に、
「お釈迦様はどういうものなのでございましょうか」
 と訊ねた。
「お釈迦様はもともと人だったのだけど、仏になったのだよ」
 父はこう答えたので、私はまた訊いた。
「どうやって仏になったのでしょうか」
「お釈迦様の先生だった仏の教えを勉強して仏になったのだよ」
「そのお釈迦様に教えた先生はどうやって仏になったのでございますか」
「それもまた、先生の先生だった仏の教えを勉強したのだよ」
「それでは、仏の教えを始めたいちばん最初の仏はどういった仏なのでございましょうか」
「さてさてどうなのだろうねえ。空から降ってきたのだろうか。それとも、地面から湧いてきたのだろうか。私もよくわらかないねえ」
 と言って、父は笑った。
「こんなふうに問い詰められて、答えられなくなってしまいましたよ」
 父は、このことをいろんな人に楽しく語ったそうだ。

 兼好法師は子供の頃から好奇心が強くて、様々なことに疑問を持つ人だったようだ。子供の「なぜなぜ」質問に丁寧に答える父親の姿にも好感を覚える。ほほえましい親子の会話だ。兼好法師の父親が幼い彼の頭をなでながら楽しげに笑う姿が目に浮かぶ。
『徒然草』は何度読み返しても飽きのこない文章が多い。時折、『徒然草』のページを適当に開いてみては、珠玉の随筆を声に出して味わっている。そのたびに、大切ななにかが体に染みこんでいくようで心地よい。



 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第23話として投稿しました。『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
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『西門豹』 (エピローグ)

2011年04月29日 06時24分55秒 | 歴史小説『西門豹』(完結済み、全12話)
 
 五年後、西門豹は中止していた河伯祭を復活させた。
 もちろん、民から費用を徴収せず、規模も縮小させ、人身御供も取りやめさせた。だが、会場の賑わいは五年前と変わらない。西門豹は、屋台と人ごみの中をそぞろ歩きした。五年前は大事を前に控えて祭りを楽しむどころではなかったが、今回はその雰囲気を存分に味わった。なにより、人々の愉《たの》し気な姿が心地良かった。
 あの後、大々的な治水工事を行ない、堅牢《けんろう》な堤が完成した。民を苦しめた洪水はここ二年起きていない。十二本の灌漑《かんがい》用水を整備して黄河から水を引き入れ、死んだ荒地は郁々《いくいく》と緑なす小麦畑へ生まれ変わった。民の生活は大幅に向上し、都へ上納した税も増えて国庫に貢献した。抜擢してくれた文侯の期待に、見事に応えた。
 彩を忘れたことは一日もない。
 自宅に彩を祀り、朝と夕べに祈りを捧げた。
 時折、同じ夢を見る。
 黄河の底の龍宮を訪れ、庭先の亭《ちん》で彩と世間話をして帰る。そんなたわいもない夢だ。彩が見せる微笑みは、まろやかな幸せを手に入れた若妻のそれだった。満ち足りて欠けるところがない。
 夢を見るたび、西門豹はただ嬉しかった。それがおそらく真実だろうと思った。その「真実」が長い治水事業の中で困難に直面した時、心の支えになった。
 人波を縫って李駿がやってくる。李駿は以前この町へ連れてきた彼女と婚礼を挙げ、一児の父になっていた。もうすぐ二人目が生まれる。
 久闊《きゅうかつ》を叙《じょ》した後、
「お前の父君の言付けを預かってきたよ」
 と、李駿が切り出した。休暇を取って都へ戻り、結納を上げろという。
 許嫁は三年前に親が決めた。会ったことはないが美人との評判は聞いている。相手の家は宰相の親戚だ。悪くない。だが、西門豹は仕事を口実に春節《しゅんせつ》(中国の正月)にも都へ帰らず、避けていた。
「そうだな。いい区切りかもしれない。結婚するか」
 西門豹は、昔より一層、精悍《せいかん》に見える頬に掌を当てて頷いた。
「区切りってなんだよ」
「ここでの仕事も一通り目処がついた。そろそろ踏ん切りをつけて、人生の次の段階へ進む時かもしれない」
 西門豹は会場を見渡し、ふっと優し気な微笑みを浮かべる。
「河伯祭も始めたことだしな」
 彩にしてあげられることはすべてした。なにもかもが終わったような気さえもした。
 ――断ち切れない想いも、思い出に変える潮時なのだろう。
 腕を組んで下を向き、子供が遊ぶようにして足元の小石を転がした。
「あれだけ苦労してやめさせたのに、どうしてまたやるんだよ」
 西門豹の想いを知らない李駿は不思議そうに言う。彩との件は李駿にも誰にも告げていない。自分だけのものにしておきたかった。
「民は龍神を信じている」
「だからといって迷信を認めるなんて、俺にはわからないよ」
「龍神を祀《まつ》って民の気持ちが落ち着くなら、結構なことではないか」
「もしかして、お前も河伯を信じているのか」
「信じている」
 西門豹は、あの夜巫女の村で出会った龍神を想い起こした。今も黄河の中から厳しい視線で見られている気がする。
「人間は神々を信じて、その神々に見つめられていたほうがいい。心が安らぐうえに、謙虚な気持ちになって己の限界を考えるようになるからな。この世に人間しかいないと思えば、人は思い上がって自分が神になったつもりになり、勝手放題をやりだす。正しいことと誤ったことの区別がつかなくなって、愚かさに歯止めがかからなくなる」
 滔々《とうとう》と流れる黄河を見つめた。
 黄色い濁流は、夏の光を浴びてひたすらにほとばしる。
 水辺で餌を探していた白鷺の群れが、一斉に宙へ羽ばたいた。



 了



 この小説は中国の歴史書である『史記』列伝に題材をとりました。最後までお付き合いくださいまして、ありがとうございます。

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その気もないのに自己推薦されてもなあ (連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第22話)

2011年04月28日 06時39分10秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 
 前回の話の続き。
「それじゃ、僕にも誰かいい子を紹介してよ」
 僕は逆襲に出た。いろいろ条件をつけて困らせてやろう。むちゃな要求を出そうとしたとたん、彼女はフフフと不敵に笑う。
「わたしはどう?」
「え?」
 勝ち誇ったようなまなざしをした彼女を見て、僕は目が点になった。
「だから自己推薦するわ。わたし自身を紹介するのよ。どう?」
「あのさ、僕は君がさっきいった条件にはまったく当てはまらなんだけど。だいいち、イケメンじゃないだろ」
「格好いいと思うわよ」
 ゴマをするなら別の人にしてくれと言いたかったけど、やめておいた。
「僕は料理を作ってもらいたいし、家事だってできるだけやって欲しいんだよ」
「それで」
 おいおい、都合の悪いところは素通りか?
「その人だけを見るだなんてできないかもよ。僕は本を読む時間と書きものをする時間がほしいんだ。けっこう時間がかかるんだよ。それに、小説を書いているとほかのことはかまっていられなくなるから、彼女のことなんてほったらかしになりがちだし」
「いいわよ。わたしだって、ずっといっしょにいると気づまりだもん」
「さっき言ってたこととぜんぜん違うんだけどさ。君が僕を追いかける気なんてさらさらないんだろ」
「どうかな」
 彼女はとぼけてみせる。なんだかずるいなあ。見え透いているからかわいいものなんだけど。
「その気もないくせに、どうして自分を推薦したりするんだよ」
「だって、いろんな人に追いかけられていたほうがいいでしょ」
 彼女はアハハとほがらかに笑う。白馬の王子様に取り囲まれた自分の姿を想像して、ルンルン気分になっている。
 そりゃ、誰だって、追いかけてくれる人が多かったら気分いいだろうけどねえ。




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『西門豹』 (第5章 -2)

2011年04月24日 08時39分55秒 | 歴史小説『西門豹』(完結済み、全12話)
 
 いよいよ、河伯祭の当日を迎えた。
 よく晴れた朝だった。
 西門豹も賓客として招かれている。
 礼装した西門豹は、黄河のほとりの式場へ早めに入った。
 木目も真新しい小さな斎宮には橘黄色《たちばなきいろ》と深紅色《ふかべにいろ》の帷《とばり》を張りめぐらし、その前の祭壇には牛肉の塊や酒などを供えてあった。斎宮の脇に、色とりどりの花や幟《のぼり》で美しく飾りつけた筏《いかだ》が置いてある。新婦は筏の椅子に腰掛け、嫁入り道具とともに河へ流される。初めは浮かんでいるが、数十里行くうちに沈んでしまうという。
 三々五々と人が集まり、西門豹は徐粛や他の有力者たちと挨拶を交わした。誰もが、西門豹が河伯祭の開催に尽力したことの謝辞を口にする。心の中で唾を吐きながらも、うわべは愉快そうに振舞った。
 西門豹の瞳が揺らいだ。なにかに耐えるよう鈍く光る。まぎれもない彩の香りが西門豹の胸をくすぐった。
「久し振りだな」
 抑えきれそうもない想いをかろうじて抑え、声をかけた。彩は、なにも言わず会釈する。銀の髪飾りに吊るした翡翠がくるくる回転し、止まったかと思うとまた逆に回り始める。
 ――きれいになった。
 西門豹は素直にそう感じた。彩の顔がまぶしかった。
 大事な儀式を控えた緊張感と大巫女として大切な任務をこなすという責任感が、巫女ゆえの宗教的確信とあいまって内面から分泌する輝きをより強いものにしていた。初夏の陽射しが頬の柔らかい産毛に照り返る。
 初めて出会った時のように、彩は深く澄んだまなざしで西門豹を見た。西門豹の脳裏にあの夜の彩が浮かぶ。粟粒のような乳輪の感触も、汗に濡れた肌の質感も、男の野性を激しく揺さぶった吐息も、まざまざと想い起こした。さらってどこかへ連れ去りたい。永遠に自分のものにしてしまいたい。だが、それはできない。たわいない世間話でよいから一言二言声を交わしたかったが、そうすれば己が崩れてしまいそうでできなかった。彩の瞳を見つめ返し、ただ力強く頷いた。必ず約束を果たすので任せて欲しい、と伝えたかった。
 彩は二度頷く。計画の全貌を打ち明けてはいなかったが、女の勘で西門豹の言いたいことを悟ったようだった。丁寧に辞儀をして西門豹の傍らを通り過ぎる。
 西門豹は振り返り、ぴんと背筋を伸ばした白絹の後姿を見つめた。すべてを失う切なさに心が軋む。思わず目の縁《ふち》をしかめ、どこまでも晴れ渡った空を見上げた。
 もう儀式が始まろうかという頃、約三千人の観衆が集まった。
 縁日の賑わいだった。
 河原には串焼きや菓子を売る屋台が出て、物売りの陽気な声が飛び交う。人々の晴れやかなざわめきが鞠玉のように青い空へこだまする。
 ――頃合いだな。
 西門豹は、土手の上を見遣った。
 矛と盾を持った完全武装の兵が次々と現れ、空色を背景にして一直線に並ぶ。美しい整列だった。指先からつま先まで神経を張りつめた一挙手一投足から、遠目にも訓練と規律の行き届いた部隊だとわかる。隊伍を整えた五十人ばかりの兵隊はリズムよく甲冑の音を響かせながら土手の斜面をくだる。人海を割り、会場まで行進してきた。
 先頭には李駿が立っていた。伊達者の李駿らしく、磨き上げた瀟洒《しょうしゃ》な鎧《よろい》に身を包んでいる。おそらく、代々の家宝の品だろう。兵は、都から連れてくるように頼んでおいた文侯の親衛隊だ。体格に優れ、面魂のよい者を揃えた精鋭だった。李駿は、得意気な顔で西門豹へ向かって頷いてみせる。意外な闖入者《ちんにゅうしゃ》に会場がどよめいた。
 西門豹は、さっと裾を払って立ち上がり、
「彼らは文侯閣下の直属部隊の者だ。閣下直々のご命令で参列する。このように閣下から祝いの品も預かっている」
 と、足元に置いてあった壺を高く掲げ、銀塊を取り出した。熱波のような歓声が沸く。
 すかさず徐粛が立ち、兵に向かってそつなく労をねぎらった。徐粛の顔は満足そうだった。文侯から河伯祭のお墨付きをもらったと思ったようだ。親衛隊は、誰に邪魔されることもなく貴賓席のすぐ後ろに立ち並んだ。
 風が軍旗を殴る。予兆を孕み、ばたばた鳴る。
 ――時が来た。
 西門豹はにこやかな仮面を脱ぎ捨て、式場に集った人々を睥睨《へいげい》した。別の生き物が這《は》うように頬の筋肉が痙攣する。
「新婦が美しいかどうか、確かめさせてもらおう」
 渾身の力をこめ、険しい声を張り上げた。
 会場の後ろでどっと哄笑が沸く。民はやんやの喝采だった。口笛と掛け声が飛び交う。新しい県令が場を盛り上げるために冗談を言ったとしか思っていないらしい。だが、貴賓席に並んだ有力者たちは互いに顔を見合わせ、不審と不平が入り混じったささやきを口々に漏らした。あからさまな軽蔑のまなざしを西門豹へ向ける者もいた。
「いまさら、そのようなことをなさらずともよいでしょう」
 苦笑いした徐粛がおよしなさいと手で抑え、
「どうも県令様は、仕事がこまかすぎるようだ」
 と、周囲を見渡す。余裕綽々《よゆうしゃくしゃく》だった。貴賓席で失笑が漏れる。
 西門豹はさっと手を振った。
 精兵が隣同士で矛《ほこ》を合わせる。死神の怒号にも似た物々しい金属音が人々を打つ。思わず後退った徐粛はうろたえて周囲を見回す。
「い、いけませんぞ。河伯様のばちが当たります」
 徐粛のうわずった声を無視して西門豹は短い階《きざはし》をのぼり、斎宮の扉を開けた。
 削りたての材木の清新な香りが満ちていた。麦藁《むぎわら》で編んだ筵《むしろ》の上に、白粉《おしろい》を塗って紅い花嫁衣裳を着た十六七の娘が坐っている。打ち合わせ通り、器量の落ちる女だった。
「安心しろ。今助ける」
 西門豹は娘の肩を叩いた。だが、娘は魂を抜かれたように、口を半開きにしたまま惚《ほう》け顔で壁を見つめるだけだった。恐怖の日々を送り、なにも考えられないようだ。
 斎宮を出た西門豹は後ろ手に扉を閉め、仁王立ちになった。
「この娘は美貌とは言えない。これでは河伯様を怒らせてしまうだろう。河伯様のめがねにかなう娘を選び直し、儀式は後日執り行ないたい」
 会場がざわめく。何人かの有力者が立ち上がり、西門豹を糾弾《きゅうだん》する。
「西門様、しきたりを守ると誓われたではありませんか。困りますな。本当にばちが当たりますぞ」
 徐粛は、おさまりがつかない風に喚《わめ》き立てる。
 ――ばちが当たるのは貴様だ。
 西門豹は、李駿へ目で合図を送った。兵が貴賓席へ分け入り、罵声を浴びせる有力者を取り押さえた。
 突然、乱暴な喊声《かんせい》が上がる。剣を振りかざしたならず者の一団が式場の脇から乱入してきた。徐粛の手なずけていた者たちだった。
 親衛隊が一列に並び彼らの前へ立ちはだかる。ならず者たちとぶつかった、と思った瞬間、両翼の兵はさっと移動して彼らを取り囲む。さすが精鋭部隊だけあって水際立った動きだった。兵は左手に持った盾で防ぎ、右手の矛を上から打ち下ろす。肉を打つ鈍い音とうめき声が響く。親衛隊は、あっという間に彼らを袋叩きにしてしまった。六人の有力者とならず者たちは西門豹の前へ引き出された。
「私は河伯様を篤《あつ》く敬い、またこの町の行く末を深く思うからこそ、美しい嫁を河伯様へ差し上げたいと申したのだ。本来であれば、逆らった者はこの場で打ち首にいたすところだが、河伯様の御前で殺すのは無礼というもの。よって後日沙汰いたす。引っ立てよ」
 一個分隊が彼らに縄をかけ、会場を後にする。
「三老殿、ご足労だがこのことを河伯様へ伝えに行っていただきたい」
 西門豹は地面にへたりこんだ徐粛の腕を掴んで引き起こし、人々によく聞こえるよう会場を見渡しながら言い放った。糞尿の匂いがする。徐粛の股間が濡れていた。
「どのようにしてですかな」
 徐粛は売られる子豚のように脅えた目であらぬ方を見ながらも、おもねった笑みを忘れずに首をかしげた。突然、徐粛は凄まじい力を振りしぼって西門豹の腕から逃れようとする。徐粛の肩のあたりで絹の裂ける音が鳴る。着物の袖が外れる。ぎりっと異様な音がして徐粛の肩が脱臼した。西門豹はとっさに徐粛のもう片方の腕を握り、軽くひねって徐粛を地面へ転がし、
「参られよ」
 と、鋭く叫んだ。
 徐粛は両手を前へつき、拍子木を続け様に打つような高く乾いた音を立てながら歯を鳴らす。狂ったように額を地面へ叩きつける。叩頭を繰り返すうちに徐粛の額が裂け、どろりとした血が垂れた。血は流れ落ち、老人の目が赤黒く染まる。
 西門豹は徐粛を見下ろした。まぶたが怒りに打ち震える。そのまなざしは、悪魔の化身のような気魄とどこか哀し気な憤りがない交ぜになっていた。
 屈強な兵士が二人、徐粛の両脇を抱えた。
 河は増水期を迎え、黄色い濁流が小気味よくうねりながら走っている。
 兵は徐粛を波打ち際まで引きずり、高々と濁流へ放り投げた。ざぶんと虚しい音がする。手足をばかつかせる姿がしばらく見えていたが、やがて波間に沈んだ。
「三老殿が帰ってくるまで、待つことにしよう」
 西門豹は、黄河へ向かって慇懃《いんぎん》に揖《ゆう》をした。会場は震撼《しんかん》を通り越した静寂に包まれ、物音一つしない。帰ろうとする者もいない。西門豹は組んだ両手を前に掲げ、四十五度腰をかがめ、龍神に敬意を表した姿勢のまま動かなかった。
 不意に、西門豹は巨躯を震わせた。
 閉じたまぶたの裏に黄河の濁流が映る。巫女の村の社殿で龍神と一体になった時と同じ感覚が甦る。水の冷たさも、泥水の肌触りもあの時のものだ。西門豹は意識の中で己が龍になり、流れをさかのぼっていた。
 木の葉のようにもまれる徐粛の体が前から流れてくる。
 口を大きく開け、強く噛む。骨ばった食感が口に広がった。
 赤黒い液体が目の前に噴き出し、河水に溶ける。
 視界の下の縁に揺れる老人の四肢が見え隠れし、骨の砕ける音が頭蓋骨いっぱいに反響する。腐った肉腫《にくしゅ》のような腥《なまぐさ》さが鼻を衝く。骨入りのすり身が食道の壁にぶつかりながらおりてゆく。口の中に、粘つく体液と肉のかすが残った。
 西門豹は獅子鼻の鼻孔をせわしなく広げ、大きく息を吸った。
 すっとした。
 胸のつかえが取れた。
 初夏の空気には、これまでに味わったことのない快感が混じっている。それは己が無限の力を得たようなつきぬける爽やかさだった。だが、その一方で西門豹は突き刺さるような痛みを喉に覚えた。後味の悪さが胸に残る。見えない手に握られるように心臓が圧された。
 ――やむを得ない。他に方法がないのだから。思い切ったことをしなければ、いつまでも与えられた状況を打ち破ることはできない。閉塞感の中で右往左往するだけだ。新しい状況を作り出すのは、己しかいない。
 心の内でつぶやき、ひりつく後悔を打ち消そうとした。
 三十分経った。当然、徐粛は帰ってこない。
「どうも三老殿は河伯様と話しこんでおられるらしい。催促をお願いしたい」
 西門豹は、鄴(ぎょう)で一番の大店の主人を指差した。この町の商業界を牛耳る人物だ。彼は死灰のように顔を蒼褪《あおざ》めさせ、椅子から崩れ落ちる。強気で鳴らした豪商も情けないものだった。兵が黄河へ投げ入れた。
 西門豹は、再び最敬礼の姿勢を執り続けた。
 沈黙の三十分が経過した。
 できれば、ここで切り上げてしまいたかった。
 なすべきことはすべてやり遂げた。そう思いたかった。実際、文侯から命ぜられた治水と開発を実行するためにはもう充分だった。地元の有力者を二人処して県令の権力と権威は確立できた。今後の施策は比較的円滑に運ぶはずだ。助けてくれと泣いた寒村の老人の期待にも、応えられるはずだ。
 だが、約束がある。片想いとはいえ、愛する人との約束がある。
 西門豹は、彩の横顔を見た。
 彩はわずかばかり背伸びして、遠く河面を見つめている。おくれ毛が風になびき、頬骨の上で目まぐるしく揺れながら風の模様を描く。今にも龍神が黄河から飛び出してくるのを待ち望んでいるようだ。
 ――さっき自分が見たのと同じように、彼女にはなにかが見えているのだろうか。
 西門豹は、ふとそんなことを思い、
 ――ここで送り出さなかったらどうなるのだろう。
 とも考えた。
 もし彩を妻に迎え、二人で幸せに暮らせるのならそれに越したことはない。二人の子を育て、平凡な家庭生活の幸福を得られるのなら、満足すぎるほどだ。だが、そんなことをすれば彩の輝きは消えてしまうだろう。この世にたった一つしかない宝石のような輝きは、いくばくも経たないうちにただの石ころへ変わってしまうだろう。彩は、どんな彩であるかを選べない。大巫女となるべくして生まれ、大巫女となるべくして育った。それが彩の宿命で、その宿命が十九歳の彩を形作った。そんな彩から巫女の使命と言葉を奪ってしまえば、彩は彩でなくなってしまう。西門豹が好きになったのは、神々と人間を取り結ぶ巫女としての彩であり、巫女として世俗の人々とともに生きる彩だ。
「誰であれ、人へ嫁ぐことはできません」
 あの夜の彩の言葉が耳の底で響く。
 ――進むべきは光の射す方角だ。その人の理想とする方向だ。彩が彩であるためには、あくまでも巫女でなくてはならない。河伯に寄り添わなくてはならない。そうさせてあげるのが自分の責任というものだろう。
 視線に気づいた彩がふと西門豹へ向く。好きな人だけをただ想い、心ここにあらずといった様子で、あどけなさすら目許に漂っている。彩は西門豹の強いまなざしに驚いたようで、少しばかり首を傾げた。西門豹は彩へ歩み寄り、
「世俗の者は河伯様と話ができないのかもしれない。大巫女殿、すまないが行ってきてくれ」
 と、厳かに彩を見つめた。彩の潤んだ目に、息を凝らした西門豹の顔が映る。瞬間、西門豹の姿が水面を乱すように揺れた。ふっと、彩の瞳が燃え上がる。
 彩の全身から、あの夜と同じ、なにもかもを忘れさせるくるおしい色香が立ち上る。月の光を浴びた紅蓮《ぐれん》の香りに似ていた。妖しく激しいその香りは神だけが放つ香気なのだと、西門豹はようやく気づいた。彩は間違って人間に生まれた神なのだと、ようやく悟った。
「行って参ります」
 一揖した彩は龍の棲む河へ歩む。白絹の長い袖を風にはためかせ、ただ穏やかに、ただ静かに、ひっそりとした喜びに満たされた花嫁のように。
 西門豹は、ほとんど閉じたように目を細めた。まぶたの端に幾筋もの厳しい皺が寄る。くぼんだ眼窩の底に涙がにじんだ。
 取り澄ました彩。熱っぽく語る彩。あどけなく笑う彩。怒る彩。思い出が西門豹の脳裏を駆けめぐる。西門豹は、神が神々の世界へ戻るだけだと自分を諭した。
 黄土色の波が彩の足元を洗う。裳裾《もすそ》が濡れる。
 彩は、きらめく波間へ分け入った。
 長い黒髪が浮き草のように広がったかと思うと、体がふわっと流れに浮く。濡れた絹越しに、横へ広がったたわわな乳房と朱鷺色《ときいろ》の乳首が透ける。波が白い顔を洗う。
 彩はへその下あたりで両手を組み、柔らかく目を閉じた。微笑んでいるようだ。
 不意に、河面が泡立ち、大きく渦を巻く。
 女神が消えた。




(エピローグへ続く)


珠江をフェリーで渡ってみた

2011年04月23日 06時58分56秒 | フォト日記

 広東省の省都・広州から香港へ向かって流れる珠江。

 古代から貿易船が行き交い、アヘン戦争の時はイギリス艦隊がこの川をさかのぼってきた。今でもひっきりなしに、貨物船が行き交う。
 ちなみに、下の写真の左側のコンテナを積んでいる船は、珠江の水深が浅くて大型船が入れないために、香港やほかの港で積み替えて、内陸部へ運ぶもの。内陸に位置する広州周辺の川にはいくつもの港がある。



 珠江にはいくつもの大橋が架かっているが、料金が安いことから、自動車専用フェリーはいまでも根強い人気がある。フェリー代は大橋の通行料の約四割。



 フェリーターミナルの近くに高速道路の料金所と同じような料金所があり、そこで料金を払う。車の行列に並び、いざフェリーへ。フェリーの発着所は四か所もあって、ひっきりになしにフェリーが到着しては、乗用車へトラックを満載にして慌しく出発する。







 所要時間は二十分弱。あいにく、天気はすぐれなかったけど、気持ちいい川風が吹いていた。ゆったりした川だから、ほとんど揺れない。広々とした風景が心地いい。日頃、高層ビルに切り取られた空ばかり見ているからだろう。こんな時でもなければ、空は広いんだとなかなか気付けなかったりする。



 下のデッキの船首部分は川面すれすれだった。やんちゃな波が跳ねて、船のなかへ水が飛び散る。思わず飛びのくと、陽に焼けたトラックの運ちゃんと目が合った。
 ――びっくりしたね。
 とたがいに微笑みあった。



キムタクみたいで優しくて自分のことだけを見てくれる人を紹介してくれと言われてもなあ (第21話)

2011年04月22日 06時32分56秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 
 ずいぶん前のことだけど、ある中国人の女の子とおしゃべりしていたら、誰かいい人はいないかという話になった。彼氏がいなくてさびしいそうだ。知り合いの中国人の男の子を紹介してあげるよと言うと彼女ははしゃぐ。好みを訊くと、キムタクがタイプなのだとか。調子づいた彼女は、このほかにも、車を持っていることだとか、自分の欲しいものはなんでも買ってほしいだとか、なんだかんだといろいろ条件を出してくる。
「それはちょっとレベルが高すぎるよ。白馬の王子様だよね。そんな男の子はなかなかいないからねえ。もっと現実的な条件を言ってよ」
 と僕は言った。
 その女の子は二十歳過ぎのごく普通の女の子だ。夢見る年頃なのかもしれない。でも、キムタクみたいな男前をリクエストされても紹介のしようがないではないか。僕は条件を値切ったけど、やはり理想はゆずれないらしい。結局、イケメンで優しくて、自分のことだけを見てくれる人という線にまでしか下がらなかった。恋人募集中の時は、あれこれと理想を思い浮かべるものだからしかたないのかもしれない。
「ハードルが高いなあ。あいにく、知り合いでそういった男の子はいないねえ。ところで、その三つのうちでいちばんだいじなのはなに?」僕は訊いてみた。一つだけなら、条件にあてはまる人がいるだろう。
「イケメン!」
 すかさず元気な答えが返ってくる。
「それじゃ、イケメンだけど、自分だけを見てくれるんじゃなくて、あっちこっちで浮気する人でもいいの?」
「そんなのいやだ」
「優しくなくて、俺の言うことはなんでも聞けっていう人でもいいの? 亭主関白みたいな感じの男の子は?」
「そんなの困る。料理も家事もできて、わたしの身の回りの世話はみんなやってくれる人がいい」
「えっ? 君はなんにもしないの?」
「だって、上海人は料理も家事もみんな男がやってくれるのよ」
「でも、ここは上海じゃないよ」
「そうだけど、だって、わたしは料理も家事もできないもの。家ではなんにもやらないし」
「勉強すればいいじゃない。家事くらい誰だってできるよ」
「そんなのむりよ」
「イケメンはもてるから、けっこう面倒なことになるかもよ。いろんな女の子が追いかけるからね」
「でも、やっぱり、キムタクみたいにスーパー格好いい男がいい。私の希望は三つだけなんだから、ぴったりの人を紹介してよ」
 彼女は目をきらきらさせる。
 うーん。できない。



 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第21話として投稿しました。『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/


『西門豹』 (第5章 -1)

2011年04月21日 07時13分10秒 | 歴史小説『西門豹』(完結済み、全12話)
 
 西門豹は、人が変わったように愛想よくなった。
 とりわけ、賄賂を贈りにきた有力者を迎える時は上機嫌に振舞った。
 張敏は西門豹の演技がわざとらしいのでもっと自然にふるまったほうがいいと助言したが、有力者たちは誰も疑わない。目先の利害だけで付和雷同する俗物は、人の本心よりも得られる利益しか目に入らないのだろう。受け取った金品は厳重に封をして、いつでも送り返せるよう蔵へしまった。
 賄賂を取り、便宜を図れば図るほど、市場での西門豹の評判は高まった。西門豹が睨んだ通り、三老の配下が世論を操作していた。つまり、なあなあでうまく付き合うなら居心地よくいさせてあげますよ、ということだ。西門豹は虫酸の走る思いだったが、しばらくの辛抱だと自分をなだめた。
 毎日申《さる》の刻(午後四時)に仕事を切り上げ、一切の面会を謝絶して県庁の裏庭で弓を引いた。息を整え、なにも考えず、的も見ないで弓を引く。一日の中で唯一息を抜ける時間だった。日が暮れる頃にはたっぷり汗をかき、気持ちも発散して傾いだ心の平衡がいくらか元へ戻った。
 だが、それで気持ちがすべてまとまるわけではない。
 彩とは距離を置き、会わなかった。
 一度、彩のほうから会いたいと使いの者をよこしてきたが、西門豹は断った。会えば決心が鈍る。未練に引きずられる。それを恐れた。用件のある時は張敏に竹簡を持たせて連絡を取った。近頃、彩が日毎城内へきては人身御供にする娘を探しているとの消息が耳に入り、一目でよいから姿を見たいと心が疼《うず》いたが、西門豹は己を抑えて見に行かなかった。
 李駿からの書簡が届いた。
 文侯の裁可が下り、万事滞りなく極秘裏に準備を進めているという。文侯は全面的に西門豹を支持し、すべて西門豹の計画通り実行するようお墨付きを与えてくれたとも書いてある。
 喜ぶべきことだが、西門豹はなんの感慨も湧かなかった。ただ事実を確認したにすぎない。
 なにかが思考をとめていた。そして、桎梏《しっこく》となっているなにかを西門豹は明瞭に把握していた。恐ろしい考えが胸をしめつける。だが、わざと自分の心の動きを無視し、あえて考えないよう努めた。
 河伯祭の費用を例年通り徴収した。
 徐粛に求められるまま慣例に従って県庁の役人を派遣した。徐粛は前年より多めに集めたいと言ってきたが、西門豹は三老殿の専管事項なのでこちらが口を挟むことではない、好きなようにされればよいと返事した。市場での西門豹の評判は一層高まった。
 ほどなく人身御供が決まり、その翌日、早速結納式を執り行なうことになった。河伯祭の十二日前だった。徐粛がやってきて、大事な儀式なのでぜひ出席して欲しいと請う。西門豹は、業務の多忙を理由に固辞し続けた。押し問答を繰り返してやっと追い返したと思ったら、徐粛はすぐに催促の使者を寄越してくる。使者は、西門豹が参列しなければ徐粛の面子が立たないと泣き口上を並べ、ついには、西門豹が諾《う》と言わなければ自分は首にされ、家族が路頭に迷うなどと泣き落としにかかる。徐粛が彼にそう言わせているのはわかっていたが、仕方なく参列することにした。
 人身御供は、土間一間、部屋一間の長屋に住む貧しい家の娘だった。
 西門豹は徐粛の配下に案内され、下町の路地へ入った。
 路上に張った天幕に賓客が並んでいる。人をそらさない愛想笑いを浮かべた徐粛が西門豹を迎え入れる。二人の関係は表向き良好だった。少なくとも、徐粛はそう思いこんでいるようだ。西門豹が巫女の村から帰った後、徐粛はすぐに県庁に現れ、「雨降って地固まると申します。これからは仲良くやろうではありませんか」と西門豹の手を握ったものだった。
「西門様、何度も催促して申し訳ありませんでしたな。ですが、我々は仲間です。これからは些細な行事に思われても、どうか面倒くさがらずにぜひ参列していただきたい。儀式に参加すれば、それだけ絆《きずな》が深まります。それでこそ、我々は本当の仲間になれるのですよ」
 徐粛は目尻に皺を寄せ、人懐っこく目配せする。西門豹は軽い微笑みを作り、
「ええ、これからはそういたしましょう。ご忠告感謝します」
 と、頭を下げた。
「そう固くならずともよいではありませんか。今日はめでたい日ですぞ」
 徐粛は、西門豹の肩を叩く。
「ところで、龍神の許嫁はどのような娘なのでしょうか」
 西門豹は訊いた。
「さあ、わかりませんな。人選は彩様にお任せしております。私も今日初めて見るのですよ。どうしてまた」
「なんとなく興味を持ったものですから」
 西門豹は、彩が選んだと聞いて安心した。徐粛が邪魔しないのであれば、彩は打ち合わせ通りことを進められたはずだ。
「毎年、見目良い娘を選ぶことになっております。彩様はしきたりを熟知しておられますから、間違いないでしょう。――なるほど、西門様もそちらに興味があるのですな。いくらでもご紹介しますぞ。そうだ、ちょうどいいお相手がおります。大店の娘で、それは都人形のような雅な顔立ちをしておりましてな、この町で一番の器量良しと評判なのですよ。おまけに瑟《しつ》(琴の一種)がことのほか上手でして、合奏会があるたびに若い衆が押しかけます。彼女を追いかけている者は多いとか。河伯祭が終われば一つ話をしてみましょう。所帯を持ってもいい頃ではありませんかな」
「結構なお話ですが、私はまだ未熟でして妻を娶れるほどではありませんので」
「またまた。なんでしたら、私が都へ行って西門様のご両親を説得しましょう。ご両親もきっと喜んでくださるはずだ。この町の者を娶れば、それだけ結びつきも深くなるというものです。お互いにとっていい話ではありませんか」
 西門豹の渋い顔を知ってから知らずか、徐粛は高笑いする。
「じいじい」
 三つくらいの男の子が走ってきた。徐粛は相好《そうごう》を崩し、立ち上がる。徐粛の孫だった。退屈で迷惑な話から逃れられ、西門豹はほっと胸をなでおろした。徐粛は、高く抱き上げて孫をあやす。男の子ははしゃぎ、
「おひげ」
 と、徐粛のあごひげを軽く引っ張り、無邪気にじゃれる。
「じいじいのおひげが好きか」
 徐粛は目尻を下げ、子供のように笑う。その姿はどこにでもいる好々爺だった。市井《しせい》の老人となんら変わるところがない。この老人はこうして晩年の最後を楽しんでいるのだと、西門豹はふっと感じた。
 のびやかな囃子《はやし》が聞こえる。笛と二胡《にこ》の音が鳴り、鉦《かね》が景気よく響く。
 路地向こうに紅い儀礼服で揃えた楽隊が現れた。楽隊は門を行き過ぎたところで止まり、向きを変えて隊列を整え直す。
 彩が伏し目がちに歩いてきた。
 西門豹は、他の賓客と同じように頭を垂れた。小花模様を散らした白絹の履《くつ》が通り過ぎる。小さな履だった。着物の裾がはだけ、白いくるぶしが陽光を照り返す。あの夜、西門豹がいたわるようにさすったあのくるぶしだった。履は西門豹の前でふと歩みを緩め、ほとんど止まりそうになったかと思うと、意を決したようにまた歩み始めた。
「どうなされました。顔が赤いですぞ。具合でも悪いのですかな」
 徐粛にささやかれ、西門豹はどきりとした。陽に焼けた頬にさした赤味が一層増す。頭が痛み、そっとこめかみを押さえた。
「いささか暑いものですから」
 苦し紛れにそう答えた。
「暑い? 確かに暑いかもしませんな。ですが、大切な儀式の途中ですぞ。辛抱なさっていただきたい。じきに終わります」
「わかっております」
 西門豹は脂汗を垂らした。握りしめた拳が震えていた。
 小巫女の列を追って、四人がかりで舞う龍の灯籠《とうろう》が門をくぐる。荷車を牽いたこぶ牛が止まった。
 牛車は狭い路地いっぱいに連なっている。二十台ほどあるだろうか。どの荷台にも山盛りの荷物を載せ、紅い幕をかけてある。結納の品々だった。名工が制作した家具一式、越《えつ》の国から取り寄せた珊瑚細工などの装飾品、楚の国で産する最上級の絹の反物、青銅貨幣でふくれた麻袋、この町のどんな金持ちでも用意できそうにない様々な品が詰まっている。
 結納が終わり、喜びを祝う囃子が高らかに鳴った。思わず踊りだしたくなるような軽快な拍子だった。
 河伯の許嫁が現れる。
 人身御供はおろしたての紅い綾絹の衣裳を身にまとい、薄い絹布を頭から被っていた。顔も表情もよく見えない。ぎゅっと張りつめた絹の太股あたりに、雨の降るようなしみが浮かぶ。涙が落ちていた。
 西門豹は頬を苦味走らせ、憤慨とも溜息ともつかない息を漏らした。紅いベールの向こうに、彩の白い顔が見え隠れする。心なしか彩の頬はやせたようだ。それがいくぶん、彩を大人びて見せた。西門豹は再び息をついた。
「どうなされました」
 徐粛はうるさく訊いてくる。
「あの年端《としは》も行かない娘が龍神に嫁ぐのかと思うと、空恐ろしい気がします」
 西門豹は、本心を気取られないようとっさに言い繕った。
「恐ろしいと言えば恐ろしいことです。しかしですな、あの娘が嫁がなければ、もっと恐ろしいことが起こるのですぞ」
「重々承知しております。ですから、私もこうして参列しているのです」
「――そういうことですか。水臭い」
 徐粛ははっとした顔をして、西門豹に耳打ちする。
「彩様をご所望なのですな」
 西門豹は、面差しを硬くした。
「まさか」
「お声が高い」
 徐粛は、口に人差し指を当てる。
「我々の仲ですぞ。遠慮なさらずともよいではありませんか」
「そのようなことはありません」
「おせっかいなじじいと思われるかもしれませんが、西門様の嫁探しとあってはおせっかいを焼かずにはおられませんよ。――そうですな。大巫女様を娶るというのは、なにぶん前例のないことですので多少手間がかかるかもしれませんが、やってできないことではございません。なに、彩様を俗人に戻せばいいだけの話ですよ」
「徐粛殿、勘違いなさらないでいただきたい」
 西門豹は、吐き捨てるようにきつく言った。
 徐粛の提案に心が揺れないわけではなかった。彩を手に入れるためなら手段を選んではいられないとも、ふと思った。徐粛と手を結べば、この町でできないことはないだろう。だが、それは自分が許さなかった。ただ、己が許さなかった。
 徐粛に促され、西門豹は立ち上がった。
 不憫な娘はこれから黄河のほとりに建てた斎宮《さいぐう》(斎戒する家)へ移り、彩が毎日通って許嫁の身を祓い清める。西門豹は、徐粛と並んで行列の後についた。徐粛は、しきりに彩を娶らないかと勧める。是が非でも西門豹と地元の女を結び付けたがっているようだ。西門豹はろくに返事もせず、くぼんだ眼窩の底の目を半ば閉じ、瞑想にでもふけるような面持ちでゆっくり歩いた。
「しょうがありませんな。河伯祭の後でまた酒でも飲みましょう」
 徐粛は、機嫌を損ねたのではないかと気懸《きがか》りな風に西門豹の顔を覗きこむ。
「そうしましょう」
 西門豹は、気のない風にぽつりと言った。徐粛は、安心したように下卑《げび》た作り笑いを浮かべる。
 ――河伯祭の後はない。
 厚い唇を真一文字に結んだ西門豹は、獲物を見定めた狩人のような目つきになり、ふっと顔を上げた。



(続く)


保守的な数字 (連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第20話)

2011年04月20日 07時35分44秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 
 会議に出ていた時、「保守的な数字」という言葉を耳にした。
 どういうことなのだろうと思って説明を聞いていると、どうやら「控え目な数字」ということらしい。その後、彼は「コンサヴァティブな数字」とも言っていたので、それでぴんときた。
 ネットの辞書を検索してみると、conservativeには、
 1、保守的な、保守主義の
 2、〈評価などが〉控え目な、穏健な、用心深い
 3、〈服装などが〉地味な
 という意味がある。
 はじめは「コンサヴァティブな数字」=「控え目な数字」というつもりで使っていたのだけど、途中から別の訳語の「保守的な」と混同して「保守的な数字」と言うようになったのだろう。ひと口に保守といってもいろいろあるから、保守が控え目とは限らない。自己主張の激しい保守だっていくらでもある。「保守的な言葉」と言われても、なんのことだかぴんとこなかった。でも、言葉は生き物だから、そのうち「保守的な数字」という言い方が普及して市民権を得るかもしれない。
 いいか悪いかは別にして、こんな風にして言葉の意味が変わっていくんだろうな。



 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第20話として投稿しました。『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
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『西門豹』 (第4章 - 2)

2011年04月19日 07時19分43秒 | 歴史小説『西門豹』(完結済み、全12話)
 
「一つお伺いしてもよろしいでしょうか」
 巫女の村の広場を横切りながら、ためらいがちに彩は問いかけた。夜の帳《とばり》が天蓋《てんがい》に降り始め、宵の明星がひときわ明るく輝く。春の夜の肌寒い風が吹いている。西門豹は、その冷たさをかえって爽快に感じた。
「なんでも訊いてくれ」
 ――彩殿といれば、なんでも快いのかもしれない。
 そんなことをふと思い、西門豹は目を瞬《またた》いた。
「西門さまは本当に河伯祭をやめさせるおつもりだったのでしょうか」
「嘘だ」
「よかった。やっぱりそうだったのですね」
 心の重荷から解き放たれたのか、彩ははしゃいだ風に肩を揺らす。
「噂を聞いて妙な気がしました。西門さまがそんな悪いことをなさるかただとは、どうしても思えなかったものですから。西門さまが皆のことを考えてくださっているのは、よくわかっていますもの。実を言うと、今日はどきどきしていたのです。西門さまにもしものことがあったらどうしようって心配でした。三老様も大慌てだったのですよ。怒ってひどいことを言ってしまったけど言い過ぎたって、皆があれほど怒るとは思わなかったって、そうおっしゃっておられました。それで三老様に頼まれて、わたくしは必死で皆を止めようとしたのです。うまくいってほっとしました」
「今日のところはな」
 西門豹は唇を噛んだ。彩は、自分が徐粛の奸計《かんけい》に乗せられているとは思いも寄らないようだ。彩の純真を利用した徐粛が腹立たしかった。
「あら、心配しなくても、もう大丈夫ですわ。西門様がしきたりを守るとおっしゃったのを聞いて、皆大喜びでしたもの。もちろん、わたくしも嬉しかったですわ」
「そのことで話がある。大事なしきたりは守るが、二つ改めたいことがあるのだ。一つは、今日民へ告げた河伯祭の費用徴収をやめること。彩殿だからすべて話そう」
 西門豹は、思い切って三老と有力者たちが行なう搾取について語った。話が進むほど、彩はやるせなく背中を丸め、目を潤ませた。
「先代の大婆さまは五六年前から急に欲深くなられたので、どこかおかしいと感じていたのですが、そんなことになっているとは知りませんでした。皆が苦しんでいるのですね。罪を犯している気がします」
「自分を責めなくていい。黒幕は徐粛だ」
「三老様はやはりよくないかたなのですね。半分本当で半分嘘のような笑い方をするので、どこかなじめないものを感じていました。それに、今日の鎮魂祭だって無理やりでしたし。わたくしは、心の中で河伯さまに謝りながら祈祷を上げていたのです。なにか、わたくしにできることはないでしょうか。皆がかわいそうでなりません」
「彩殿はこのような俗事に関わらないほうがいい。下手をすれば、民が悲しむようなことになるかもしれない。相手は老獪《ろうかい》だ。謀《はかりごと》をめぐらして、大巫女の権威を傷つけ、今日の私のように民が敵に回るように仕向けてこないとも限らない。民は皆、彩殿を慕っている。民にとって、彩殿は希望の星だ。彩殿が民をいたわるからこそ、この町の民はこのような悲惨な状況でもまだ望みを失わないでいられる。民は彩殿にすがるしかない。大巫女が民を失望させるわけにはいかないだろう」
「――そうかもしれません」
 彩は、考えこむようにして頷く。
「おっしゃるとおりですね。わたくしが皆を悲しませてはいけませんね」
 彩は、大巫女の機能と役割をしっかり把握しているようだった。精神的な拠り所になることこそ、最大の使命だ。それは鄴(ぎょう)という小宇宙の大黒柱と言っても過言ではない。とはいえ、口調こそはっきりしているものの、彩の顔にはかげりがあった。浮かない手つきで頬に掌をあてがう。
「彩殿はえらいな」
 西門豹は、励ますつもりで言ったのだがふと気づき、
「いや、すまない。子供扱いしたのではない」
 と、慌てて謝った。巫女の村で育った彩は、大巫女の役目など自然に理解しているはずだった。西門豹よりもずっと肌身にしみて。それが心の核をなすほどに。
「嫌ですわ」
 気にする風もなく彩は言った。
「わたくしはもう大人です。河伯さまがお望みなら、お嫁にだってゆけます」
「お嫁か」
「もう十九ですもの」
「その人身御供だが、むごい風習だと思う。生身の人間を差し出すのはいかがなものだろう。娘の代わりに人形を差し出すところもあると聞く。そうできないものか」
「それはいけません。人形で済ますなんて、身勝手もいいところです。神々を辱めるふるまいです。人はあるがままからいろいろなものを頂戴しているのですから、受け取った分はお返しをしなくてはなりません。妻を差し出すのは当たり前でしょう」
「人身御供になる娘や家族の身になって考えて欲しい。どれだけ嘆き悲しむか」
「わたくしは羨ましいくらいです。できることなら、代わってもらいたいほどです」
 彩のまなじりがかすかに吊り上がる。その表情には、人身御供への嫉妬がない交ぜになっている。西門豹は、説得の方法を考えたうえであたらめて話したほうがよいだろうと感じた。
 社殿《しゃでん》へ上がった。
 彩は、馬と樹木の彫刻を一面に施した重い木の扉を開ける。
 西門豹の肌がこまかく震えた。
 暗闇に濃密な気配が漂う。鬱蒼《うっそう》とした森へ分け入った時に感じるような、蠢くものたちの生々しい息吹と肌に突き刺す厳しい視線を感じる。香草の匂いだろうか。むせかえるほどの清冽《せいれつ》な香りがした。彩は闇の中を歩き、手慣れた様子で火を点《とも》す。
「龍でも出てきそうだな」
 と、西門豹がつぶやいた時、龍神の木像が浮かび上がった。
 頭は高い天井へ届き、力強く肢体《したい》をくねらせている。人を容易に寄せつけない王者の気品がある。燭《ともしび》が揺れ、光と影が龍神の顔に揺らめく。龍の木像は生命を孕んでいるようにさえ見えた。心臓の鼓動まで聞こえてきそうだ。
 一筋の汗が西門豹のこめかみから流れ落ちる。なぜか、動悸《どうき》が早まる。今までに味わったことのない緊張感に胸を締めつけられたが、
「化けて出てくるなら、その時はその時だ」
 と、小刀で掌を切って器へ誓約の血を落とした。彩は、その血を龍神に供える。
「西門さま、始めましょう」
 祭壇の前に彩が坐り、西門豹はそのすぐ真後ろに坐った。彩は低く祝詞を上げだした。
 短い休憩を何度か挟み、深夜におよんだ。
 西門豹は、ただ彩の声明に聴き入った。星まで届きそうな美しい声だった。声明のシャワーが凝り固まった神経の隅々までを解きほぐす。特効薬を入れた薬湯にでも浸かっているようで、今日の屈辱も、心に溜まった澱《おり》も穢れも、きれいさっぱり洗い流してくれる。
 そのうち、のぼせたように頭がぼおっとなり、この世のものとは思えない心地良さが身を包んだ。彩の声が荘厳なあの世の調べのように聞こえる。研ぎ澄まされた感覚が線香の灰の倒れる音まで聞き分ける。西門豹は、眼を閉じたままどこまでも澄んだ清らかな池を想い浮かべ、心の中に描いた水面を見つめた。
 ふと、なにかの前触れのように水面がさざめいた。
 白い閃光が走り、水中から二本の角が生える。棍棒《こんぼう》のような角だった。その内側に馬のような耳がぴんとそそり立ち、あたりの気配を探るように傾く。
 ――来たか。
 西門豹は心の内でつぶやき、気力が全身へ行き渡るよう深く息を吸った。怖くはなかった。驚きもしなかった。会わなければならないような、そんな気がしていた。
 一抱えもありそうな大きなあぶくが浮かんだ、と思う間もなく、ざあっと滝の落ちるような轟音とともに龍が現れた。怒っているのか、脅かしているのか、人くらいなら簡単に突き刺してしまいそうな鋭くとがった歯をむき出しにしている。長く伸びたあごの下から、水がしたたり落ちる。顔も体も銀の鱗で覆われていた。鱗は真夏の白日のように輝き、その質感は硬く、鉄の鎧よりも頑丈そうだ。瞳は赤。強いまなざしは、社殿へ入った時に感じたあの厳しい視線だった。なにものも見逃さないとでも言いた気なその目つきは、神々の王にふさわしい威厳に満ちている。龍はどっしりとした尾を振り、水面を叩きつける。爆薬が炸裂《さくれつ》するようにしぶきが飛び散る。龍の顔が西門豹の鼻先まですっと伸びてきた。
 西門豹は、眉一つ動かさずさっと拳を握った。
 片膝を立てながら張りつめた弓のように素早く右腕を引き、拳の礫を鼻っ面へ殴りつける。
 一瞬、西門豹の頬はひきつけを起こしたように歪んだ。
 銀の鱗は、へこみもしなければかすり傷もつかない。龍神の顔つきもびくともしない。西門豹は落ち着き払って拳を収め、また正座した。
 龍神は、ぶるっと息を吐く。生温かい風が西門豹の顔に吹きつける。龍の息は、宮殿の宝庫にでもしまわれていそうな西域渡来の気高い香木の香りと、生肉を喰い生き血をすする猛獣の強い匂いが入り混じっていた。
 西門豹は、すべてを見通すような赤い眼を無心に見つめ続けた。
 龍は黙して語らない。
 厳しい父のようだった。
 どのくらいそうしていただろうか。
 風に揺れるように、ふわっと龍のひげが動く。柔らかい柳の枝のように波を描く。
 我知らず、西門豹の背筋が反り返った。混じり気のない歓喜が背中を走り抜ける。
 龍は、険しく見つめながらも自分の存在を肯定している。いや、肯定するからこそ見つめるのだ。その視線が混沌《こんとん》とした己の心にまとまりを与え、そうして心の底を支えてくれている。いつか彩が語っていたことの意味をようやく識《し》った。
 龍の姿が赤くぼやけた半透明の光へ変わる。西門豹が見とれているうちに、龍の形をした光は、光の粒の集合体となってDNAのような美しい二重螺旋《にじゅうらせん》の鎖へ変化し、きらきらと神々しい輝きを放ちながらゆっくり回転する。光子の連鎖は徐々に移動して異相の大男を取り囲んだ。
 西門豹はまっすぐ顔を上げ、発作でも起こしたかのようにまぶたを痙攣《けいれん》させる。だが、その表情に苦しみは見られない。むしろ、澄みきった喜びにひたり、なにかへ向かって祈りを捧げているようだ。光はすっと西門豹の体内へ入った。
 河が、森が、山が、空が、ありとあらゆる自然の形象が西門豹の脳裏へなだれこむ。意識は、己が龍であり、龍が己だった。神と人間の二つの精神が融合し、矛盾なく調和していた。不思議で、それでいて自然だった。
 体が浮いた。
 少なくとも、西門豹はそう感じた。
 一直線に舞い上がる。凄まじい速さだ。
 ――ぶつかる。
 下を向いた西門豹は、社殿の床に坐っている自分の体を認めた。肉体という牢獄から解き放たれた西門豹の魂は、龍神と一つになった魂は、森の神々を描いた社殿の天井を通り抜けた。
 全身に気がみなぎる。だが、力が溢れるようで、どこにも力みはない。
 原生林をかすめ、荒野を越え、青白い月が波間に揺れる黄河へ飛びこんだ。
 水は刺すように冷たく、刺すように熱い。それが無上に心地良い。夜空から忍びこむわずかな光が泥水の中で乱れる。埃が舞うようにも、星が瞬くようにも見えた。波の調べが西門豹を優しくつつむ。まるで揺り籠で揺られているような安らかな想いがじわりと胸に広がった。
 激しい泥の流れをさかのぼる。大小の魚が眼前に現れてはさっと流れ去る。河の蛇行に合わせて自然に向きを変える。目の前の視界がほとんどきかないのにもかかわらず、どこがどう曲がっているのか遠い昔から住んでいるように肌で知っていた。
 やがて、河面へ躍り出たかと思うと、しなやかに右旋回して森へ入った。木々の間をすり抜け、自由自在に翔びめぐる。
 真夜中の森は賑やかだった。
 虫たちが交尾の相手を求めてかまびすしく鳴きすだく。それをとかげが貪り食う。むささびやこうもりが樹木を飛び交い、その下の草叢《くさむら》では狼の群れが猪を追いつめる。眠っていた鹿が気配に驚き、慌てて立ち上がる。突然、茂みから虎が躍り出て、鹿の喉笛に咬みつき押し倒す。虎の口が血で染まる。
 死に逝く個体も、生き永らえる個体もいる。だが、全体として森は息づいている。動物も植物も虫も微生物も、喰らい喰らわれ繰り返し生き続ける。一つの命が死に絶えたように思えても、それは錯覚にすぎない。生命は互いに取りこみ取りこまれながら、繰り返し生き続ける。流転を重ね、繰り返し生きる。それが生の本能だ。それが生の本質だ。彩の言うあるがままは流転そのものだと識った。流転する限り、死はない。すべての流転が止まった時初めて、虚無という永遠の死が訪れる。西門豹はどこか安堵感を覚え、その流転を護ることこそが龍の使命だと悟った。
 行く手に、樹齢三千年は下らないと思える柏の大木が立ちはだかる。十人がかりでも取り囲めなさそうな太い幹が伸びている。下草すれすれから直角に向きを変えた西門豹は、幹に沿って上を目指した。枝がしなり、葉が揺れる。葉擦《はず》れが鳴り渡る。
 視界が開けた。
 漆黒の海のような夜空に満天の星が浮かんでいる。
 気流を切り裂き、どこまでも垂直に上昇する。何層にも重なった薄い雲を突き抜ける。ひたすら天の川を目指した。ふと振り返ると、曲がりくねった黄河と黄土平原が遠ざかる。瞬く間に青い地球が遠ざかる。
 星に手が届いた。
 そう思った瞬間、無数の星が一斉に弾けた。
 光が逆巻き、なにも見えない。
 光線が入り乱れ、弾け合い、溶け合う。
 やがて、霧が晴れるように光が薄らいだ。
 ゆっくりと回転する渦巻き状の銀河が広がっている。
 ぽっかりと穴の開いた中心から、いくつもの光の筋がゆるやかな弧を描いて伸びる。長い光の尾が揺れて瞬く。まるで、小川の表面いっぱいにガラス玉を流し、夏の光を当てたようだ。
 深くふかく息を吸った。
 すべての感覚が消え去ってゆく。
 清浄な真理がエネルギーの流れとなって心をほとばしる。あともう少しで、宇宙の奥深くにひっそりとたたずむ最も大切なことを掴めるような気がした。相対性の連鎖を抜け出し、あらゆるものを見渡せそうな、そんな気がした。
 ふと、甘露の滴の落ちる音が響く。
 耳の底で不思議なこだまを残す。
 誰かが呼んでいる。
 西門豹は目を開けた。
 目の前の彩が神がかりになっていた。感極まった恍惚が妖しく鳴る。
 彩は、上半身を折り曲げては激しく跳ね起こす。ぐっしょりとした衣が背中に貼りつき、白い肌が透けていた。濡れ光る長い髪が振り乱れ、汗が飛ぶ。汗の滴が西門豹の唇に張りついた。味は熟れた梅のように甘酸っぱい。
 不意に、血が沸き立つ。
 抑えようもない感情の熱波が全身を駆けめぐる。
 鼻の穴を大きく開いた西門豹は、続け様に音を立てて息を吸った。異様なほどの汗がどっと噴き出て、くぼんだ眼窩の底の目が血走る。
 後ろから彩を抱きしめた。
 火照った温もりが心を満たす。まぎれもなく、宇宙を抱きしめていた。
 まるで焼き鏝を当てたように、一瞬、炎が心の臓を貫く。
 なにもかもが終わった後、西門豹は寝転がった。朦朧《もうろう》とした意識の中、白い龍が天井へ駆け上る様をぼんやり見送った。
 すすり泣きが聞こえる。
 彩は豊満な白い曲線をあらわにしたまましゃがみこみ、顔を覆っていた。散らかった衣を拾い上げ、彩の肩へかけた。彩は、西門豹の胸を拳で叩く。彩の哀しみが胸に響く。
「妻になってくれ」
 西門豹は、そっと抱きしめた。
 大巫女の彩を娶《めと》ろうとすれば、実際上様々な問題が起きることは、容易に想像がついた。築き上げた地位もなにもかも失いかねない。それでもかまわなかった。
「彩殿さえいてくれれば、すべてうまく行く」
「できません」
 彩は、西門豹の胸で頭を振る。
「彩殿を悲しませない」
「わたくしは河伯さまへすべてを捧げた身です。西門さまであれ誰であれ、人へ嫁ぐことはできません」
「苦しいのだろ」
 西門豹は、彩の額にまとわりついた細い髪を指先でかきわけた。彩は、こらえきれないように衣を握りしめ、
「西門さま、どうか、わたくしを河伯さまの許へ送ってください」
 と、震える声で心の切っ先を突きつける。
「わたくしは耐えてきました。ですが、もうこれ以上がまんできません」
 なにも言えず、西門豹は龍神の像を見上げた。木像は、冷ややかに西門豹を見下ろすだけだった。
 強く抱きしめた。離したくない。だが、彩の体は西門豹の心に応えない。空蝉《うつせみ》を抱くようだった。西門豹の腕に抱かれながらも、彩の心はよそを見つめているのがありありとしていた。砂時計の砂が落ちるように心が崩れる。想いの粒が落とし穴へ吸いこまれた後、むなしさだけが残る。
 ――龍神には勝てないか。神から彩殿を奪おうなど、初めから無理だったのだ。素直に負けを認めるしかないな。
「人身御供にでも送れと言うのか」
 つぶやいた瞬間、ある考えが西門豹の脳裏をかすめた。それは行政官としての冷徹な計算だった。彩の希望を叶え、自分の目的も達成できる一石二鳥の計画だった。
「わかった。彩殿を送り届けよう」
 閃いた考えを良心の秤へかける前にそう答えていた。彩はこくりと頷く。
 ――正しいかどうかはわからない。本来なら、そんなことをすれば民が悲しむと言うべきだ。だが、そうするよりほかにない。
 西門豹は、そう自分に言い聞かせた。
 遠雷が鳴る。
 土砂降りの雨の音が寒い社殿に響いた。



(第5章へ続く)


お金が悪か? 人が悪か? (連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第19話)

2011年04月17日 15時30分17秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 
「お金は悪じゃない!」
 先日、ある人がそう声高に叫ぶのを聞いた。
 彼は金儲けするのは悪いことではないと言いたかったらしい。
 たしかに、お金自体は悪ではない。お金はただの道具だ。紙にインクで一万円などと刷ったり、金属片に十円などと刻み、「とりあえずそれを○○円と仮定して使いましょう」ということに過ぎない。いくら高級な紙や高度な印刷技術を使っていても一万円札そのものに一万円の価値があるわけではない。一万円札はただの紙切れにすぎない。
 そんな道具を善か悪かなどと決め付けること自体が滑稽というものだろう。
 お金に善悪はない。
 善悪は人にある。人の心にある。
 悪い稼ぎ方をすれば、その人が悪いことをしたということだ。
 いい稼ぎ方をすれば、その人がいいことをしたということだ。
 使い方もまたしかり。
 たとえば、包丁で人を刺してしまったとしても、包丁自体が悪いわけではないのと同じだ。悪いのは他人を傷つけた人間だ。
 いちばん怖いのは、「お金は悪ではない」と言いながら、悪い金儲けをしてしまうことではないだろうか。この論理でいくと、お金は悪いものではないから、それを稼いでいる私も悪くない、つまり自分に責任はないということになる。だけど、果たしてほんとうにそうだろうか。そんな言い逃れのような発言は、自分の心と真摯に向かい合った結果だろうか。
 さっきお金に善悪はないと書いたばかりだけれど、ただ、お金には不思議な魔力がある。人の心を狂わせる魔性を秘めている。いちばん身近な凶器かもしれない。だから、心してかかりたい。思えば、漱石の小説にはお金にまつわるどろどろした話がわりと出てくる。漱石は、お金を通じて人の心のダークサイドを描きたかったのかもしれない。
 誤解のないように断っておきたいけど、金儲けを否定しているわけではない。今の世の中の仕組みでは、まさか切符売場やスーパーやレストランで物々交換するわけにもいかないから、お金がないと生活できない。それに、なにをするにしても先立つ物が必要だ。僕だってすこしばかりの経済的な余裕はほしい。もっとも、そう思ってしまうことが僕自身の限界だし、もっと大きく言えば、お金を使った経済の仕組みしか思いつかないのが今の人類の限界なのだろうけど。
 大切なことなので、繰り返し強調しておきたい。
 お金に善悪はない。
 善悪は人にある。お金を稼いだり使ったりする人の心にある。
 自分の心を問わずに、お金やほかのものに責任を押しつけてしまうのはいけないことだ。



 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第19話として投稿しました。『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/


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