風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

戦記小説『祝福を遠くはなれて』第3話『祝福を遠くはなれて』

2011年05月08日 12時09分02秒 | 戦記小説『祝福を遠くはなれて』(完結)

 火災はしずまりつつあった。破れた飛行甲板から噴き出る煙がわずかに減った。格納庫にある艦載機の撤去作業は完了し、フライトデッキの後部には、F6FヘルキャットやTBFアベンジャーなどの傷ついた艦載機が並んでいる。航空機への誘爆の危険はなくなった。
 しかし、最後まで気を緩めるわけにはいかない。戦いを経験したことのない人間にはなかなか理解できないことだが、戦場心理は人を恐慌の渦へ突き落とす。とりわけ、カミカゼ攻撃を受けると心が焼け焦げるように麻痺して、周章狼狽《しゅうしょうろうばい》する者が多い。カミカゼはその破壊力以上に心理的ダメージが大きすぎるのだ。異常なストレスを受ければ、平常心を保ったまま冷静に行動することはむずかしい。通常なら考えられないようなささいな手違いや見落としから、艦を沈没へと導く致命的な誘爆を招かないとも限らない。艦長は各部署に対して異常がないかもう一度点検するよう、とくに、ガソリンが漏れていないか、気化したガソリンの異臭がしないかどうか念入りに調べるようあらためて命じた。
 タイラー艦長は、厳かな縦皺を眉間に刻んだまま飛行甲板を睨み続けた。やがて、煙は途切れとぎれになり、炭酸の気が抜けるように白い水蒸気が一筋流れたかと思うと、ぱったりやんだ。伝令が消火作業を終えたことを告げにきた。
「ブリッジへ戻るよう、副長に伝えてくれ」
 タイラー艦長は伝令に言った。
 今のところ、死者十二名、負傷者二十七名、行方不明八名との報告が入っていた。まだすべてを確認したわけではないので、今後、死傷者数は若干増えるだろうが、それでも爆発の規模に比べればごく少なくてすんだ。カミカゼが命中した場合のことを考え、飛行甲板と格納庫からパイロットや整備員を避難させておいたのが功を奏したようだ。最悪の事態を想定して極力リスクを減らすのがダメージ・コントロールの鍵だった。
 各部署から異常なしとの報告が入る。
 これでダメージ・コントロール作業はほぼ完了した。タイラー艦長は小さく息をつき、ポケットから丁寧に折りたたんだハンカチを出して首筋に流れる汗を拭った。どうにか、エンタープライズを守りきった。艦を救うために奮闘した乗組員を誇りに思い、感謝の念が胸ににじむ。
 ただ、黒く焼けただれた格納庫を見つめていると、底冷えするようなやりきれなさが体全身に粘ついて離れてくれない。逃れられない息苦しさに喉を締め上げられる。カミカゼを生み出したのは、日本人だけでもなければ、アメリカ人だけでもない。ほからなぬ人間の存在そのものだ。その闇は深い。
 文明は社会を豊かにし、人間を幸福にするために営々たる努力によって築き上げられたのではなかったのか? 文明とは、自然に翻弄される人間の弱さを救済するためのものではなかったのか? それがこのような自殺攻撃と大量殺戮《たいりょうさつりく》を生み出すのは、なぜだ? このような現象を引き起こす人間の文明にはなにか根本的な誤謬《ごびゅう》と倒錯《とうさく》があるのではないだろうか? いや、そもそも、これが原罪から免れない人間という存在の愚かさであり、人間の限界なのだろうか? 罪深さの証明なのだろうか?
 はてしない疑問が艦長の心に渦巻く。
 自分もまたこのような現象を生み出した人類の一員であることに軽い眩暈《めまい》を覚え、艦長はハンカチをぎゅっと握り締めた。
 ブリッジへ戻った副長に、被害箇所の応急修理、喪失した艦載機のリストアップ、残った航空機の点検と整備、遺体の収容、戦死者の遺族への報告などの作業を行なうよう指示し、独り医療室《シック・ベイ》へ赴いた。切ったこめかみの手当てがまだだった。
 医療室は怪我人であふれかえっていた。どのベッドにも負傷兵が横たわり、床にも負傷者が寝かされている。焼けた人間の肉の匂いと消毒薬の匂いが入り混じり、むせかえるようだ。起き上がって敬礼しようとする兵もいたが、タイラー艦長は「そのまま」と言って手で制した。
「先生、やめてくれよ。腕をぶった切るなんてあんまりじゃねえか」
 若い兵士の叫び声が響いた。間仕切りの薄いカーテンを透かして白衣を着た医師の後姿が見える。向こうのベッドに声を上げた負傷兵が横たわっているのだろう。開け放った窓から入る潮風に、白いカーテンが激しく波立っている。
「こうするしかないんだ。切断しなければ、壊疽《えそ》が広がって死んでしまう」
 ドクターの声は厳しい。
「家へ帰ったらキャシディになんて言えばいいんだ。ハイ、ハニー、俺は腕を一本失ったよってか。あんまりだぜ」
「死んでしまっては元も子もないだろう。君のキャシディにも会えなくなるんだ。今ならまだ間に合う」
「俺は家具職人なんだよ。腕のない家具職人なんて洒落にならないぜ。教えてくれよ。いったい、キャシディをどうやって養えばいいんだい?」
「傷痍《しょうい》軍人恩給が出る。診断書と証明書を書いてあげるから、大切に保管しておくんだ。生活は心配しなくていい」
「そんな診断書がなんになるんだよ。俺の腕がなくなっちまったなんて証明して欲しくなんかねえよ。あんた、医者だろ。俺の腕くらい治してくれよ。な、頼むからさ」
「すまないが、家具を直すようにはいかないんだ」
「くそっ、カミカゼの野郎。ばか鳥が俺をこんな目に遭わせやがって。みじめったらありゃしねえ」
 兵のすすり泣きが聞こえる。タイラー艦長はやりきれない面持ちになり、じっと床を見つめた。対空防御のつめが甘かったばかりに、また一人、若者の人生を狂わせてしまった。その責めは彼自身にあると識《し》っていた。
 腕利きの衛生兵に切れたこめかみを二針縫ってもらい、艦長は医療室を出た。通路の角を曲がると、防水ハッチの脇にパイロット服を着た青年が膝を抱えてうずくまっている。
「君、具合が悪いのか」
 タイラー艦長は青年の肩を揺さぶった。
「艦長」
 若いパイロットはかすれた声で言い、うつろな顔をあげる。見たところ、配属されたばかりの新兵のようだ。キャッチャーのプロテクターが似合いそうなしっかりとした体つきのたくましい若者だが、目許にまだ幼さとあどけなさが残っている。小刻みに揺れるまなざしが怯え、脂汗を浮かべた顔は悪霊に魅入られた人間のように蒼ざめていた。
「とにかく医療室へ行こう」
 艦長は若いパイロットの脇を取った。青年はいったん立ち上がったものの、すぐに壁によりかかり、崩れ落ちた。
「どこも怪我をしていませんから、大丈夫です。ただ――」
 そこまで言って若いパイロットは喉をつまらせ、苦しそうに息をあえがせる。
「ここにいては邪魔になる。さあ、立つんだ」
 タイラー艦長は彼の手を握って引き上げた。
 若いパイロットは、いわゆるカミカゼ・シンドロームにかかっていた。自殺攻撃を目の当たりにして、恐怖のあまりパニックに陥る症状のことだ。戦場経験の浅い新兵に多い。カミカゼが兵の魂を深い闇の深淵へ道連れにしてしまうのだった。
 彼を連れてパイロット控室へ入った。航空隊の誰かに預けようと思ったのだが、パイロットたちは全員出払っており、教室ほどの広さの部屋には誰もいない。爆発の衝撃で倒れたパイプ椅子が乱雑に折り重なり、スチール製のロッカーが倒れていた。黒板には「各自、愛機をチェック」と白いチョークで殴り書きしてある。艦長はパイプ椅子を二つ並べ、彼を坐らせた。
「名前は?」
 自分も椅子に腰掛けながらタイラー艦長は訊いた。
「ウィル・スティーブンスです」
「戦場は初めてか」
「一週間前にきたばかりです。――今日、初めて人を殺しました」
 顔をゆがめたウィルは救いを求めるようにして視線を宙へ走らせ、音を立てて息を吸いこむ。
「空中戦でか」
「夢中になってカミカゼを追いかけているうちに、僕の撃った弾が当たってしまったんです。十三ミリ弾が命中するまでは当たってくれと念じていましたが、いざ命中してしまうと、自分がやってしまったことの恐ろしさに気づいて愕然《がくぜん》としました。――カミカゼには人が乗っています。煙を吐いて墜落する相手を見ながら、頼むから機首を立て直して逃げていってくれと祈りました。せめて、パイロットだけでも脱出してパラシュートを開いてくれと。――ですが、ゼロ戦はきり揉みになったまま海へ激突して、白い泡になってしまいました」
「誰もが経験することだよ。私も初めて敵を撃墜した時は、後味が悪かった。だが、慣れるよりほかない。君もそのうち慣れる」
「こんなことに慣れてもいいのでしょうか。でも、慣れなくてはいけないのですね」
「軍人だからな」
「弾丸を撃ち尽くして、補給に戻ってきたら、あのカミカゼが突っこんできました。この一週間というもの怖い思いばかりでした。戦場は恐ろしいところですね。僕は、ほんとうに死ぬのが怖くてたまりせん。でも、カミカゼは自爆しにやってきたんです。そんなに平気で命を捨てられるものなのでしょうか」
「死ねと言われて、喜んで死ぬ人間なんてどこにもいない。きっと、カミカゼの若者も、出撃するまで心の整理がつかずに苦しんだのだと思う」
「それでも、自殺攻撃するなんて……。僕には理解できません。艦長は自殺する人間をどう思われますか?」
「いけないことだ。我々は神によって命を与えられた。どんなに苦しくても自分の生命をまっとうするのが人間に課せられた義務だからね。神が自殺を禁じられている」
「そうですよね。私も幼い頃からそう聞いて育ちました。でも、カミカゼは自殺します」
「正確にいえば、自殺させられるのだよ。あの攻撃は軍の上層部が命令している」
「カミカゼのパイロットはボランティアだという噂を聞きましたが」
「一応、そういう体裁にはなっているが、実際はほとんど強制らしい。複数の捕虜から得た情報だから、まず間違いないだろう」
 他人の自殺は自分という存在の根源に不安を投げかける。それがカミカゼとなれば、なおさらだろう。ウィルは、自分が抱えこんでしまった不安を解消する術を見つけられずに、もがいている。必死になって答えを探っているのは、タイラー艦長も同じだ。ただ、年の功でそれが表へ現れるのを抑えているだけだった。
「僕は、オクラホマの貧しい農家の息子です。参考書一冊買うのにも苦労する絵に描いたような貧乏な家なんです。航空隊へ入れば大学の奨学金が貰えると聞いて志願しました。勉強していい仕事につきたいけど、大学の学費なんて出してもらえませんから。カミカゼのパイロットは、あんなことをしてなにか得られるものがあるのでしょうか」
「ない。感謝状くらいのものだろうな」
「では、なぜ、あんなことを」
「国を守りたい、ふるさとを守りたい、愛する人を守りたいと思っているのだよ。そんな思いは君にだってあるだろう」
「それはそうですが」
「強いて言えば、カミカゼは己を捨てて他者を助けるということになる。誰だって自分がいちばんかわいい。なんだかんだといって自分のことしか考えていないのが人間かもしれない。そんな利己心を超越して、自分を犠牲にして他人を救うという行為は、おそらく、人間の道徳としてはいちばん崇高なものだろうね。美徳の発露《はつろ》と呼べなくもない」
「でも、日本軍の提督が死ねと命令しているんですよね」
「そのとおりだ。若者の純粋な気持ちと命を利用しているのだよ」
「ますますわかりません。日本人は皆殺しにすべきだと息巻く先輩もいます。悪魔の手下はやはり悪魔ではないでしょうか。カミカゼが悪魔に思えてきます」
「同じ人間だ。悪魔などではないのだよ。今日、我々の艦に体当たりした彼も、戦争さえなければ、君と学舎《まなびや》で机を並べていたかもしれない。クリスマス・カードを交換する仲になっていたかもしれない。つらい時に助け合う親友になっていたかもしれない。胸襟《きょうきん》を開いて話せば、わかりあえるはずの同じ人間だ」
 タイラー艦長はウィルの肩を叩いた。若いパイロットは目にうっすら涙をためてうなずく。今の彼に理解できるかどうかはわからないが、いつかきっとわかってくれる日がくるだろうと信じた。
 パイロットが三人、連れ立って控室へ入ってきた。ウィルの姿を認めると、彼らは歓声をあげてウィルへ駆け寄る。新米パイロットは行方不明者リストに載っており、戦友たちはずっと探していたようだ。頭をくしゃくしゃにされたウィルは、泣き笑いの顔でなんども嬉しそうにうなずく。生死をわける戦場では、このような友情こそが心の命綱だった。タイラー艦長はあとを任せて部屋を出た。
 狭い通路を歩き、すれ違う水兵たちと敬礼を交わしながらタイラー艦長は考え続けた。ウィルに言わなかったことがある。それは、艦長である自分は、時と場合によっては部下に死を命じることがあるということだ。エンタープライズを守るためには、誰かの命を切り捨てなければならないこともある。少数の犠牲で艦の危機を救い、大勢の乗組員の命を助けられるとしたら、もうすぐ爆発するとわかっている箇所へその者たちを派遣して作業にあたらせることもためらわないだろう。いや、ためらってはいけないのだ。たとえ、良心の痛みを感じたとしても。
 もちろん、危機管理と組織的な自殺攻撃は性質の異なるものだが、そこに働く原理は同じといってよい。全体を守るためには、いつも誰かが犠牲になる。そして、誰かに犠牲を強いる指揮官がいる。人の命を踏みつけにする者は地獄へ落ちて当然だろう。だが、自分が地獄へ落ちる身と覚悟してエンタープライズを守ること。それが艦長に与えられた任務だった。その矛盾に限度いっぱいにまで耐えること。それこそが艦長としての責任だった。それは、戦争という憎しみに操られる人間の悲しい定めなのかもしれない。
 ブリッジでは応急修理が始まっていた。工作班が天井へあがり、切れた配線をつなぎなおしている。
「艦長、カミカゼのパイロットなのですが、遺体の一部を収容しました。遺品もあります。トミ・ザイ、これが彼の名前のようです」
 副長が待ちかねたように報告した。
「我が艦の戦死者を水葬する時に、いっしょに手厚く葬ってやってくれ」
「お言葉ですが、カミカゼに突っこまれたのは、これで二度目です。我が艦の乗組員と一緒に葬るのは気が進みません。兵をまとめるためにも、やめたほうがよろしいのではないでしょうか」
「彼は軍人として立派に任務を果たした。味方がすべて撃墜されるという過酷な状況下でひとりチャンスをうかがい、たった一人で一瞬のうちに我が艦を大破させたのだよ。彼はベストを尽くして、ベストの戦果をあげた。まさに軍人の鑑といっていい。そんな彼を丁重に葬るのは礼儀ではないかね」
「ですが――」
 エンジンの爆音が上空に響く。
 タイラー艦長は眉を吊り上げ、空を見上げた。
 エンタープライズ艦載の偵察機が帰ってきた。SDBドーントレスだ。偵察機はバンク(翼を左右に揺らして合図を送ること)すると、エンタープライズの周囲を一周して友軍の空母を目指す。つい先ほど、激しい戦闘が行なわれていた空はなにごともなかったかのようにあざやかで、麗しい紺碧に染まっている。
「カミカゼのパイロットも、神が創造した人間であることにかわりないのだよ」
 タイラー艦長は、よく透きとおるたしかな声で言った。
 一瞬ごとに創造されるこの世界で、人類はいつか自らの愚かさを克服し、ともにわかりあえる日がくるだろう。愛をわかちあう日がやってくることだろう。戦いのさなかに身をおいているとはいえ、祝福の日へ向かって進むために、今ここでできることから、手の届くことからはじめよう。タイラー艦長はライト・ブラウンの瞳に静謐《せいひつ》だが力強いまなざしをたたえ、自分の胸にそっと誓った。



(あとがき)
 戦後、ながらくエンタープライズ乗組員の間である畏敬の念をもってトミ・ザイと呼ばれていたカミカゼのパイロットは、筑波第六航空隊隊長の富安中尉であることが判明した。当時の海軍関係者が、富安中尉の搭乗した特攻機の機体の破片を遺族へ返還した。黙祷。



(了)


本作品は以前、「小説家になろう」サイトへ投稿したものです。
アドレスはこちら↓
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当ブログの『祝福を遠くはなれて――エンタープライズ、カミカゼの奇襲を受く』の第1話のアドレスはこちら↓
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戦記小説『祝福を遠くはなれて』第2話『ダメージ・コントロール』

2011年05月07日 14時38分10秒 | 戦記小説『祝福を遠くはなれて』(完結)

「伏せろ」
 タイラー艦長はさっと手を振って叫び、窓の下へ倒れこんだ。
 衝撃を受けたエンタープライズは銛《もり》を刺しこまれた鯨のように軋《きし》りながら前へ沈みこむ。
 爆音が轟《とどろ》く。
 続けざまに打ち鳴らす釣鐘の真下にいるようで、鼓膜ばかりか内臓までも破れてしまいそうだ。
 窓ガラスが一斉に砕け散る。粉々の破片がシャワーとなって降り注ぐ。熱い爆風が渦巻き、ブリッジを荒れ狂った。艦長はしたたか壁へ打ちつけられ、こめかみを切って血を流した。
 まぶしい光がまぶたを貫く。閉じた瞳のなかでなにかの啓示のように光が模様を描き、きらきら輝く。ふと空を見上げると、凧のような金属性の四角い板が上空百二十メートルほどの高さで回転していた。光は、初夏の朝陽が舞い踊る冷たい板に反射して彼の目に届いたのだった。心がじんと痺れる。その光は、自分の信じているものに嘘をついてはいけないと語りかけているようだ。艦長は呆然と見つめながら立ち上がり、フライト・デッキを見下ろした。
 飛行甲板の前部はずたずたに張り裂けていた。噴火口のような大きな穴が開き、まるで火山爆発でもあったかのようにすさまじい勢いで黒煙が噴き出している。前部航空機用エレベーターが跡形もなく消えていた。あの凧のように揚がったのは、どうやら吹き飛ばされたエレベーターらしい。
「被害報告。ダメージ・コントロール」
 タイラー艦長は落ち着き払って指令を下した。
 ダメージ・コントロールとは被害を受けた際の応急処置のことだ。航空母艦は防御力が弱く、艦載機、爆弾、魚雷、航空燃料用ガソリンなどの誘爆を招きやすいことから「卵を入れた籠」とも呼ばれる。つまり、ひとたび命中弾を受ければ卵が次々と割れるようにして甚大《じんだい》な被害を出してしまうのだ。ミッドウェー海戦で沈没した日本海軍の空母がいい例だろう。この欠点を克服するため、イギリスや日本は飛行甲板に厚い装甲を施した空母を建造したが、アメリカ海軍は被害が出るのはしかたないことと割り切り、そのかわりに損害を最小限に食いとめるための方法を徹底的に研究した。この独自のダメージ・コントロール技術のおかげで命拾いした空母は数知れない。
 各部署から矢継ぎ早に被害報告が入る。
 不幸中の幸いというべきか、カミカゼは格納庫内で爆発し、艦の心臓部へは到達しなかった模様だ。格納庫の床部分は主甲板《メイン・デッキ》となっており、比較的厚い装甲を施してある。それが艦を守ってくれた。重要防御区画《バイタル・パート》に被害は出ておらず、機関室、弾薬庫、ガソリン・タンクもともに無事で、今現在のところ航行に支障はない。時速三十ノット(約五十六キロ)の速力は十分に出せる。しかし、格納庫内に収容していた艦載機はことごとく被害を蒙ってしまった。破壊されたものもあれば、爆風で海へ弾き飛ばされたものもある。なかでも厄介なのは、何機かが誘爆したことだ。航空燃料のガソリンは火がつきやすく、ひとたび火に触れれば、飛行機は擦ったマッチのようにあっけなく燃え上がり爆発してしまう。ダメージ・コントロール班がすでに消火活動を始めているが、火災の勢いは強く、鎮火には時間を要する。これ以上の誘爆はなんとしてでも防がねばならない。
「副長、君が格納庫へ行ってダメージ・コントロールの指揮を直接執ってくれ。損傷のひどい艦載機は海へ投げ捨てろ。使えそうなものは後部へ移して、フライト・デッキへあげるんだ。念のため、ガソリン・タンクと弾薬庫の周囲にダメージ・コントロール要員を待機させるように」
 タイラー艦長は言った
「了解」
 副長は手短に答えてブリッジを出る。
 ここが正念場だ。
 誘爆さえ防ぐことができれば、エンタープライズは生きのびる。もちろん、万が一の場合は、艦とともに沈む覚悟はできていた。そうでなければ、艦長の座を引き受けたりはしなかっただろう。だが、艦と運命をともにするのは責任を取ったということだけであって、任務をまっとうしたことにはならない。艦長としての責務は、艦を守り、乗組員を守り、なんとしてでも生きのびて敵を撃つことだ。
 各部署の状況報告に対してすべて指示を下し、打てるだけの手は打った。友軍へ被害状況を告げて医療班の応援を要請し、爆発の衝撃で海へ投げ出された乗組員がいないかどうか付近を捜索して欲しい旨《むね》を依頼した。一時間ほどすれば帰ってくるだろうエンタープライズ艦載の偵察機も味方の航空母艦が収容してくれる手筈になっている。あとは、これまで幾度も死線を乗り越えた優秀な乗組員を信じ、神に祈るよりほかない。
 艦長は、あらためてブリッジを見渡した。
 鉄屑とガラス片が床に散らかり、足の踏み場がない。天井の板が破れ、千切れた電気コードが垂れ下がっている。ブリッジ要員は、みな多かれ少なかれ傷を負っていた。衛生兵が重傷者を担架で運び出し、軽傷の者にはその場で手当てを施している。血のにじんだ包帯を巻いた操舵手は痛そうな素振りを見せることもなく、持ち場を離れずに舵を握っていた。 
 ブリッジの片隅にミッチャー中将が坐っていた。折りたたみ椅子に浅く腰掛け、やや前かがみの姿勢で腕を組み、じっと耐えるようにして目を閉じている。乱れた髪は埃にまみれ、軍服の肩のあたりが裂けていた。彼の後ろの壁では、エンタープライズの名を刻んだ銅版が傾き、波にあわせて揺れていた。
「提督、手当てはお受けになられましたか」
 タイラー艦長はミッチャー中将へ近寄った。
「かすり傷じゃよ。わしは後でいい。ところで、ビッグE(エンタープライズの愛称)はどうだ? 今度も生き残れそうか?」
 ミッチャー中将はかすかに目を開いた。もともと小柄な体つきで、森に住む小人の賢者を思わせる風貌《ふうぼう》の持ち主だが、激戦続きで疲労と心労が重なったことから、大手術を受けた後の老人のようにやせ細っていた。顔と首筋は皺だらけになり、潮焼けした肌は鉛のように沈んでいる。とはいえ、梟《ふくろう》のようになにかを射抜く目の輝きだけは、なにものも奪うことができずにいた。
「まだ五分五分といったところでしょう。火災がおさまるまでなんとも言えません」
「沈まんよ、このビッグEはな。不思議な幸運に恵まれた艦《ふね》だ」
「助かったとしても、本艦はもはや作戦行動を取ることができません。本土へ引き返して本格的な修理を行なう必要があります。ですので――」
「わしを厄介払いするつもりか」
 ミッチャー中将はふっと少年の顔をのぞかせ、いたずらっぽく笑ってみせる。ふだんは寡黙でめったなことでは自分の感情を表さない提督だが、追いつめられるとユーモアが出た。
「ええ、丁重にですが」
 艦長は穏やかに微笑んだ。窮地に立たされた自分の気を軽くするためにミッチャー中将はこのようなことを言っているのだと知っていた。実際、心の窓をすかして新鮮な空気を入れたようで、いくらか気分が楽になった。
「バンカー・ヒルに続いてビッグEまでカミカゼに大破させられるとはな。わしの乗った船はいつもカミカゼに狙われる。わしは不運を持ちこむ男のようだ。いや、愚痴を言ってすまない。それでは、空母ランドルフへ移るとしよう。あの船の艦長にわしのシーバスを預けておるのでな」
 ミッチャー中将は片目をつぶった。酒豪で鳴らしたミッチャー中将だったが、太平洋戦争が始まってからというもの、きっぱりと酒を断っていた。
「内緒じゃよ。あれやこれやと考えてどうしても寝つけんことがある。神経が逆立ったようで心がざわついて眠れん夜がある。自分の出した指令が間違っておったり、命令につまらん感情がまじっておったりして反省しきりなこともある。そんな時は、一杯だけきゅっとひっかけるのだよ。心が落ち着いてすっと眠りに落ちる」
「激務でいらっしゃいますから」
 タイラー艦長はいたわるように言った。
「戦争が終わったら、お前ともゆっくり酒を酌み交わしたいものじゃな。サンディエゴにスペイン風のいいバーを知っておるんだ。つんとすましているが、さばさばした気持ちのいいマダムがやっておる店だよ。たまに気が向くとギターを爪弾いて歌を聞かせてくれるのじゃが、哀愁のこもったいい歌声なんだ。蒼穹《そうきゅう》の果てにある魂のふるさとへ連れ帰ってくれるようでな」
「その時は、ぜひご相伴させてください。マダムの歌も楽しみですし、提督のお話もいろいろお伺いしたいものです」
「わしの話なんぞつまらんぞ。言葉はいらん。歌を聴いて、ただ飲み明かそう」
「何杯でもお付き合いいたします。――ところで、差し出がましいようですが、今度ばかりは戦艦へ移乗されてはいかがでしょうか」
「お前までそんなことを言うのか」
 ミッチャー中将は聞き飽きたと言いた気に首を振った。
「空母の防御力には限界があります。今回はご無事でいらっしゃいましたが、次もそうとは限りません。戦艦なら安全です。分厚い装甲《アーマー》が提督を守ってくれるでしょう」
「お前は、わしがアメリカ海軍三十三番目のパイロットだったことを忘れておるようだな」
 第一次世界大戦の頃、当時のミッチャー青年は装甲巡洋艦ノースカロライナに配属され、その艦に搭載していた複葉水上機カーチスFのパイロットになった。この時行なわれたカタパルト射出による飛行機発進実験が、今日の艦載機運用の基礎となった。その後、彼は航空畑を歩み、空母ホーネット艦長、ソロモン諸島航空指揮官などの輝かしいキャリアを積むことになる。いわば、アメリカ海軍航空隊の生き証人とも呼べる人物だ。
「忘れてなどおりません。提督が艦載機の黎明《れいめい》時代からご活躍だったことは周知の事実です。ですが、私が戦艦へ移るようにお勧め申し上げるのは、なにも提督御自身だけの安全をおもんばかってのことではありません。提督に万が一のことがあれば、任務部隊《タスク・ホース》の作戦そのものがとまってしまい、任務を遂行できなくなってしまいます。指揮系統の混乱から損害も増えるでしょう。提督の身がたしかであれば、部隊全体が安全でいられるのです」
「お前の言うことは一理ある。それは認めよう。じゃが、わしは絶対に戦艦なんぞには乗らん。わしはパイロットあがりの提督だ。航空隊から離れるわけにはいかん。空母に乗り組み、パイロットたちと同じ船で寝泊りし、同じ空気を吸い、同じ釜の飯を食い、互いにしょっちゅう声を掛け合うことで、パイロットたちがなにを思い、なにを考えておるのかを理解することができる。そうしてはじめて、奴らの気持ちを掴むことができるのじゃよ。兵を掌握できなければ、作戦もへったくれもない。なにごとも成し遂げることはできん。航空隊はわしの人生そのものじゃ。もしパイロットたちと一緒に死ぬことになるのなら、それこそ本望だ」
「提督のお考えはよく理解しております。ですが――」
「わしは空母に乗る。議論の余地はない」
 中将の声は断固としていた。
「承知しました」
 タイラー艦長はこれ以上進言しても彼の考えを変えさせることはできないだろうと思い、引き下がるほかなかった。ミッチャー中将の気持ちがわからないわけではない。タイラー大佐も同じパイロット出身だった。パイロットと生死をともにする。そんな堅い決心と深い愛着がなければ、時には非情な決断を下しながらも機動部隊を統率することなどできないだろう。そして、なにがあってもパイロットを見捨てないというミッチャー中将の確固たる姿勢が、彼らの絶大な信頼を勝ち得ていた。
 艦長はランドルフへ連絡をとり、その旨を中将へ報告した。ランドルフが内火艇《ランチ》を出し、こちらまで迎えにきてくれるという。
「わしは今でも一パイロットに戻れたらと思うことがある」
 提督はぽつりとつぶやいた。
「今は提督なんぞというくそったれな仕事をしておるが、やはり、大空を飛ぶのがいちばんええ。操縦桿《そうじゅうかん》を握れば、ほかのことはすべて忘れて自分が自分でいられる。嫌なことがあったり、悩み事を抱えていても、高い空から地上を見れば、そんなものは吹っ飛んでしまう。くよくよ悩んでいたことがくだらないことに思えてくる。実際、人はつまらんことばかり悩んでいるのだよ。空を飛ぶ時、わしはイカロスになる。それは今の歳になっても変わらん。少年の心へ戻るのじゃよ」
「私も、時々同じ思いを抱きます」
 タイラー艦長は深く頷いた。
 古来より、人は大空を飛ぶことを夢見てきた。人類のあこがれといってもいいだろう。さまざまな画家たちが翼の生えた人間を描き、天才ダビンチはヘリコプターや羽ばたき飛行機をデザインした。数々の人間が空に挑んだにもかかわらず、長い間、その夢をかなえることができずにいたが、二十世紀へ入ったばかりの一九〇三年、ライト兄弟がついに初飛行に成功した。タイラー艦長にとって、ライト兄弟は少年時代からの英雄だった。彼は自分がパイロット候補生に選ばれた時、冷静沈着な彼にも似合わず、興奮のあまり叫び声をあげて喜んだものだった。パイロットの任務は肉体を酷使する。死と紙一重の危険な状況に陥ることもしばしばだ。だが、つらいと感じたことがあっても、嫌だと思ったことは一度もなかった。
「なにより、わしはパイロットが好きなんじゃ。飛行機乗りほど気持ちのいい連中はありゃせん。たしかに、気が荒くて、口が悪くて、女にだらしない奴らばっかりだ。しかし、あいつらほど心根が優しくて純粋な奴らはおらん。仲間が危ない目に遭えば、命がけで助けに行く。あいつらの心に混じりっ気がないのは、お前も知っているとおり、大空と風の粒子が心の垢や汚れを吹き飛ばしてくれるからだ。これは世界共通じゃよ」
「同じパイロット同士なら、国家や民族や人種の違いを超えてわかりあえるような気がします」
「そうじゃな。わしは開戦当初の日本軍のパイロットと腹を割って話をしてみたかった。あいつらはただものじゃない。まさに神業じゃったよ。あんな誰にも真似できない磨きのかかった技を持つ連中は、気持ちのいい奴らに決まっておる。戦争なんぞ始まらなければ、きっと仲良くなれたことだろう」
「カミカゼのパイロットもきっといい若者たちなのでしょうね」
「うむ」ミッチャー中将はうつむいた。「まだひよっこじゃが、肚《はら》のすわったいい奴らなんだろうな」
 カミカゼのパイロットは、学徒動員によって初歩の飛行訓練だけを受けた者が多かった。離陸して体当たりするだけなら、みっちり訓練を積むことも、状況に応じた飛行技術を身につける必要もない。空を飛ぶというパイロットだけに与えられた特権を味わうことも、喜びを噛みしめることもない。まさに、死ぬためだけにパイロットになったのだった。
「敵とはいえ、カミカゼの搭乗員になった若者がかわいそうでなりません」
「まったくだ。日本の司令部は相当混乱しておる。絶対に降伏したくないという思いで凝り固まっているのだろうが、あんな作戦とはいえない作戦を立てるようでは、もうおしまいじゃよ」
「提督、カミカゼはいつまで続くとお考えでしょうか?」
 タイラー艦長は訊いた。カミカゼ攻撃が始まった当初こそ、意表をつかれたアメリカ軍は次々と損害を出したものだが、徹底的な対処方法を編み出した今となっては、カミカゼの命中率は非常に低かった。公式な統計はないが、おそらく二、三パーセントにも満たないだろう。特攻に使える飛行機も底をついてきたようで、日本陸海軍はもはや時代遅れとなった旧式機や、はては鈍足の練習機までも繰り出している。これでは撃ち落してくださいといわんばかりだ。だが、日本軍がカミカゼをやめる気配はない。
「やまない風はない。やめさせなければな」
 ミッチャー中将は悲しそうに微笑む。その顔は泣いているようにも見えた。
 ランドルフの内火艇がもうすぐ到着するとの報告が入り、ミッチャー中将は立ち上がった。
「艦長、くれぐれもビッグEを頼んだぞ。無事に本土へ帰してやってくれ」
「ベストを尽くします」
 タイラー艦長は敬礼する。
「死ぬな。これは命令だ。サンディエゴのバーで奢る約束じゃからな」
 ミッチャー中将は目尻に笑い皺を寄せ、わが子を見守る父のようにタイラー艦長を見つめた。
「提督もどうかご無事で」
 タイラー艦長は、老いた父を気遣う息子のようにミッチャー中将のまなざしを見つめ返した。二人とも、生き残る保証はどこにもない。だが、こうして約束を交わしている限り、生き続けられるように感じた。




(最終話へ続く)

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戦記小説『祝福を遠くはなれて――エンタープライズ、カミカゼの奇襲を受く』第1話『カミカゼ、来る』

2011年05月06日 23時14分06秒 | 戦記小説『祝福を遠くはなれて』(完結)
 
――すべての特攻隊員と特攻作戦の犠牲者へ捧げる。



「カミカゼ一機、本艦を目がけて急降下!」
 伝声管から見張り員の怒号が艦橋へ響いた。
 一瞬、誰もが稲妻に打たれたように立ち尽くす。まるで暗闇から迫りくる死神を発見したような慄《おのの》きと憎しみに震え、本能をむき出しにして神経を苛立たせる。男たちの獣くさい臭いがブリッジに張りつめた。波を蹴立てる艦の揺れが高まった。
 エンタープライズ艦長のタイラー大佐は双眼鏡を手にしたままそっと瞑目《めいもく》し、言葉にできない心の震えのせいで痺れた左手を握り締めた。とがり気味の鋭い顔は、主力艦の艦長にふさわしい重みと磨き上げた知性が調和し、伝統を誇る大学の教授のような、あるいは、古い修道院の学僧のような趣きがある。独特の重厚なカリスマを備えたタイラー艦長は、その場にいるだけでぴりっとした快い緊張感を周囲へもたらし、潮風が海軍士官を鍛えるようにして将兵を溌溂《はつらつ》とさせ、彼らの向上心と能力を引き出した。しかし、連日の激戦から疲労の色を濃くにじませたその顔は、親友の早すぎる死を悼《いた》む人ようにどこか寂し気で、彼の背中は雨に打たれながら土に覆われる棺を見守る葬儀の参列者のようにも見えた。
 カミカゼの攻撃を受けるたび、タイラー艦長は、お前に生きる資格などないと自分の全存在を否定されたような心持ちに襲われた。命がけの相手に狙われるのは、たしかに怖い。相手は初めから死ぬつもりなのだから、適当に追い払って諦めさせることなどできない相談だ。カミカゼは腹に爆弾を抱え、燃料タンクにどっさりガソリンをつめこんだまま突っこんでくる。まともに体当たりを喰らえば大爆発は必定《ひつじょう》だ。だが、カミカゼは死の恐怖以上の戦慄《せんりつ》を人に与える。ひとたびカミカゼに狙われたなら、私が私であることの意味を根こそぎ奪われ、太い釘を打ちこまれたように、心の奥深くがむごたらしく傷つけられてしまう。
 心の隅でなにかが崩れ落ち、それをかろうじて支える自分がいた。しかし、艦長である限り、動揺した姿を部下に見せるわけにはいかない。すぐさま険しい表情へ戻り、
「対空防御」
 と、副長に伝えて窓辺へ寄った。副長が命令を復唱する。全艦にブザーが響く。白いセーラー服の水兵たちが慌しく飛行甲板《フライト・デッキ》を走り抜ける。
 一九四五年五月十四日、午前六時五十一分。
 日本南西部、鹿児島県大隅諸島、種子島東方の沖合い。
 ヨークタウン級航空母艦CV6エンタープライズは、タイコンデロガ級航空母艦CV15ランドルフ、ノースカロライナ級戦艦BB56ワシントンをはじめとした第五十八任務部隊(高速機動部隊)の旗艦として作戦行動中だった。部隊司令官として、マーク・ミッチャー中将が坐乗《ざじょう》している。彼は、ドーリットル空襲、珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦、マリアナ沖海戦など幾多の作戦に参加し、空母部隊の戦術を熟知した百戦錬磨の指揮官だ。タイラー艦長は、以前、副官としてミッチャー中将に仕えたことがあり、すぐれた統率力と人間味を兼ね備えた中将に全幅の信頼を寄せ、心服していた。
 ミッチャー提督の指揮下、第五十八任務部隊は九州南部・沖縄方面に展開し、水上特攻をかけてきた世界最大の戦艦大和を撃沈するなど数々の戦果を上げて士気旺盛だが、カミカゼだけには悩まされた。
 先月、四月十一日には、エンタープライズとアイオワ級戦艦BB63ミズーリが特攻機によって損傷した。ミズーリは小破にすぎなかったが、エンタープライズは飛行甲板を破壊されたため、西太平洋カロリン諸島にあるウルシー泊地へ引き返して浮きドックで修理するはめになった。三日前には、エセックス級航空母艦CV17バンカー・ヒルがわずか三十秒の間にカミカゼ二機の体当たりを受けて大破。沈没は免れたものの、艦載機の誘爆がひどかったこともあって大火災を起こし、約四百名の戦死者を出している。
 この日も、早朝から日本の特攻機が襲来した。
 カミカゼとなった日本海軍の零式艦上戦闘機(ゼロ戦)六機を対空砲火で撃ち落し、直衛戦闘機によって二十機弱を撃墜したのだが、ただ一機だけ取り逃がしてしまった。生き残ったゼロ戦は執拗《しつよう》に追いかけてくる。時折、雲の間から顔をのぞかせてこちらの位置を確認しようとするので、その都度、集中砲火を浴びせかけるのだが、すぐに雲へ隠れてしまう。なかなかすばしっこい。叩き潰そうとしても、両手の間をふらりとすり抜けてしまう蚊のようだ。しかし、相手は蚊などではない。カミカゼだ。油断ならない。
 その一機がついにエンタープライズへ襲いかかってきた。
 エンタープライズのすべての機銃が火を噴き、周囲の空母や護衛艦艇も対空砲火をあげる。機銃にこめた曳光弾が無数の光の筋を曳きながらまぶしいほど澄みわたった空を貫き、投網を投げかけるようにしてあたり一面を埋め尽くす。高角砲の弾薬が上空で炸裂して黒い煙がそこかしこで乱れ咲き、蒼い大空を穢してしまう。狂っているのはカミカゼなのか? それとも我々なのか?
 タイラー艦長はゼロ戦の動きを目で追った。小さな点にしか見えなかった敵は、瞬く間に、目視ではっきりわかるほどの大きさになって迫りくる。相手はたった一機なのだが、弾幕を張ったこちらの弾は一発も当たらない。必殺を期してだろう、特攻機は目標をよく見定めるために急降下から緩降下《かんこうか》へ移ろうとする。だがその時、ゼロ戦の機体がややふらついた。エンタープライズを狙っていた鼻先がわずかに外れ、勢いあまったカミカゼはエンタープライズの真上を行き過ぎる。艦長がほっと胸をなでおろして特攻機の行く手に広がる黝《あおぐろ》い海へ目を走らせた瞬間、
「こちらへ向かってきます!」
 と、見張り員が絶叫した。
 濃緑色の機体に日の丸マークを描いたゼロ戦五十二型は、エンタープライズの進路を阻むようにして左急旋回しながら大きな弧を描く。カミカゼは大空を舞う鷹だった。堂々としていて、それでいて優美だ。白いマフラーを首に巻いたパイロットの姿がくっきり見える。タイラー艦長はその美しさにふっと見とれた。カミカゼは機体をひねりこんだまま背面飛行の状態になり、真正面から突っこんできた。
「面舵《おもかじ》一杯」
 副長のかけ声が響く。操舵手が身をよじらせて思いっきり舵を回す。舵はカラカラと音を立てて糸車のように回転する。
 間に合わない。



(第2話へ続く)

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