風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

瞳を閉じないで

2020年08月30日 05時30分45秒 | 詩集

 僕たちの愛が
 僕たちのふるさと
 離ればなれだなんて
 考えられない

 家路を急ぐ夕暮れに
 旅路に浮かぶ白い雲に
 君を想う

  生きる意味は
  ふたりでいること
  生きる意味は
  手をつないでいること


 瞳を閉じないで
 僕を見つめて
 なんどでもやさしく
 口づけてあげる

 静かな夜の夢に
 さわやかな朝の陽射しに
 君を想う

  生きる意味は
  愛し合うこと
  生きる意味は
  あたためあうこと


 君の顔(かんばせ)が
 倖せに輝いてくれれば
 もうなにもいらない

  生きる意味は
  ふたりでいること
  生きる意味は
  手をつないでいること
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初めに「道」があった(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第432話)

2020年08月01日 06時05分05秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 中国語訳の聖書を初めてぱらぱらとめくった時、「あれ」と思ったことがあった。
 日本語訳のヨハネ福音書の冒頭には、
「初めに言ことばがあった。言は神と共にあった。言は神であった。」
 と記述してあり、この宇宙が始まる前に「言ことば」があったとしている。
 ところが、中国語訳では次のようになっている。
「太初有道、道与神同在、道就是神」
(天地の開けた初め、道があった。道は神と同じところにあった。道こそが神である)
 日本語訳では「言ことば」としているところが、中国語では「道タオ」になっている。
「言ことば」と「道タオ」ではずいぶんと違う。もちろん中国語の「道」には「言葉」という意味はない。「道タオ」ではなんだか道教のようだ。どうしてこうも違うのだろうと首をひねった。

 日本語訳の「言ことば」はどうやら英訳版聖書の「ワード(Word)」からきたようだ。ただし、もともとのギリシア語聖書では、そこは「ロゴス(logos)」となっている。もしギリシア語の聖書を直訳すれば「初めにロゴスがあった」となる。そして、その「ロゴス」を中国語に訳すと「道タオ」になるのだとか。「道タオ」に「ロゴス(logos)」という意味を当てたのだ。「道」と訳したのは、このほうが中国人にはわかりやすく、受け入れやすかったということもあるのだろう。上海人の奥さんに「キリスト教の『道』ってどういうどういう意味なの? 」と問いかけたら、すぐさま、「神さまが話した言葉よ(道就是神的话语)」という答えが返ってきた。「道」は「言」、「言」は「真理」ということらしい。
 中国語訳の聖書を通して回り道にはなったけど、ひとつ勉強になった。



(2018年10月13日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第432話として投稿しました。
 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ツイッター