風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

なにげない夜に吹く風に

2018年03月31日 19時30分45秒 | 詩集

 なにげない夜
 小川のほとりを
 ぶらぶら歩く
 なにげない夜の
 さりげない風
 ねむたげな柳を
 そっと揺らして

 まっすぐ家へ
 帰りたくない気分だから
 こんな気持ちを
 持って帰りたくないから
 汚れた空に
 ひっそり息づく
 薄い星を見上げる

 風よ
 風よ
 僕の心を
 吹き抜けておくれ
 僕の心を
 洗っておくれ

  嘘やいつわり
  邪険な想いは
  軽いうちに
  振り払ったほうがいい
  心にこびりつく前に
  拭き取ったほうがいい

  誰かの期待だとか
  誰かの憎しみだとか
  自分の欲だとか
  自分の怨みだとか
  そんなつまらないことは
  どうでもよくて

  願うことは
  たわいもないこと
  きれいに笑って
  きれいに暮らしたい
  心安らかに
  生きてゆきたい
  ただそれだけ

 なにも思わず
 なにも考えず
 よけいなものを
 心から追い払う
 ただ風を感じて
 なにげない夜に吹く
 さりげない風を感じて

 風よ
 風よ
 僕の心を
 清めておくれ
 心ほのかに
 澄みわたるまで
 風に吹かれて歩きたい

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春の光を浴びて

2018年03月28日 07時45分45秒 | 詩集

 菜の花畑の
 向こうに光る海
 あなたの肩にもたれ
 見つめてる

 海から吹き寄せる
 やさしい潮風は
 恋の香り
 あたたかくて
 夢心地

  あゝ 春の光を浴びて
  あなたと生きる
  愛してる
  いついつまでも
  こころがゆらゆらり


 沖行く船に
 こころをのせてみる
 微笑む波にたゆたい
 どこまでも

 かもめが舞い上がる
 楽しく踊ってる
 あなたは
 口ずさむ
 恋の歌

  あゝ 春の光を浴びて
  あなたと生きる
  愛してる
  いついつまでも
  こころがゆらゆらり


 菜の花畑の
 向こうにしあわせが
 住んでいる いつの日にか
 行きたいな

 あなたと見る夢を
 胸にときめかせ
 弾む気持ち
 流れゆく
 白い雲

  あゝ 春の光を浴びて
  あなたと生きる
  愛してる
  いついつまでも
  こころがゆらゆらり

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桜が咲いたら

2018年03月21日 06時15分15秒 | 詩集

 あたたかな陽射しが
 桜のつぼみを
 おだやかに照らす
 陽だまりのなか

 ふたり肩を抱けば
 夢がよみがえる
 過ぎた冬の日々の
 幻が消える

  君のひとみが
  春風に輝く
  きれいだよ
  とてもきれいだよ


 桜が咲いたら
 花びら集めて
 君の黒い髪に
 飾ってあげよう

 めぐる季節のなかで
 落とした心
 春の風がそっと
 届けてくれたよ

  君のほほが
  ときめきに色づく
  きれいだよ
  とてもきれいだよ


  僕らはかならず
  倖せになれるさ
  悩まないで
  悲しまないで

  君のひとみが
  春風に輝く
  きれいだよ
  とてもきれいだよ

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暗い夜よ

2018年03月19日 22時15分15秒 | 詩集

 暗い夜よ
 大きく開け
 悲しみの星よ
 砕け散れ

 夜露に濡れた草
 立ち尽くし
 時がとまったように
 ただ立ち尽くし
 悪い夢をじっとこらえる

 語る言葉が
 見つからない痛々しさ
 だれもがみな
 神様に愛されて
 この世に
 生を享けたはずなのに

 流れる星に
 悲しみをよせても
 言うに言えない想いは
 風に渦巻き
 からからとまわるだけ

 人が人を苦しめる
 この世の定め
 苦しめる人もまた
 神様に見送られて
 この世へ
 生まれ落ちたはずなのに

 なぜ
 夜を渡る月に
 そう問いかけても
 消えそうにもない沈黙が
 さやかな光を
 のみこんでしまう

 暗い夜よ
 大きく開け
 悲しみの星よ
 砕け散ってしまえ

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資料写真の前衛的な縦横比率変更、あるいは近代的リアリズムの不成立?(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第385話)

2018年03月16日 07時15分15秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 中国人スタッフから上がってくる資料に写真が貼りつけてあると、たいていの場合、写真の縦横比率を思いっきり変更してある。普通の写真で撮影したのにまるで魚眼レンズで撮影したようにビヨーンと横へ伸びていたり、縦に伸ばし過ぎて人間がマッチ棒のように細長くなっていたりする。とてもへんてこりん写真だ。見ていてなんだか落ち着かない。
 以前は、写真は自然に見えるように比率をあまり変えてはいけないといちいち指導していたのだけど、十人いればほぼ十人が縦横比率を前衛芸術的に変更してくるうえに、何度言ってもなおらないので、僕は白旗をあげてその指導をあきらめてしまった。僕自身が資料を作る時は、そのビヨーンと伸びた写真を自然に見えるくらいの比率になおしてパワーポイントやエクセルへ貼りつける。
 中国人がなぜこんなことをするのかといえば、どうも写真の中身よりも、写真の枠の大小をそろえることを優先させるからのようだ。
「この写真はおかしくない? だって、この人は団子みたいにまんまるくなってるじゃない?」
 と僕が問いかけても、
「こうしないと枠がそろわないから」
 たいていの中国人スタッフは首をひねり、そう答える。
「見ていて不自然でしょ。気持ち悪くない?」
 僕が質問を続けると、
 ――あんまり気にならないけど。
 というふうに困惑したように首をかしげる。
「このパワーポイントの資料は二〇枚あるよね。たしかにきれいに枠がそろっているけど、二〇枚分の写真の枠をそろえるのは大変だし、むりにそろえる必要はないよ。ほら、こんなふうにして写真がきれいに見えるようにしてみたら」
 僕はパソコンの画面をいじりながらパワーポイントに貼りつけてある写真の枠の大小を変えて――枠の縦横比率と同時に写真の縦横比率も変わる――写真が自然に見えるようにしてみると、
「これでは枠がそろわないから、おかしくなってしまう。きれいに見えない」
 と中国人スタッフは慌てる。
「うーん」
 僕はうなってしまった。
 彼らにとってなによりも大切なのは、全ページの枠がそろっていて、パッと見で「きれいそう」に見えることなのだ。そうしてよい第一印象を与えることがだいじで、写真自体の見栄えは二の次になってしまう。
 僕にしてみれば、縦横に異常に長くなった写真は見るにたえないものなのだけど、彼らはまったくといっていいほど気にならない。
 おそらく、こういうことなのだろう。
 僕は自然主義リアリズムの視座で写真を見ている。ほとんどの日本人は自然主義リアリズムの考え方で写真を見る。だから、写真が自然に見えることが最優先になり、枠の大小をそろえることには気を払わない。しかし、中国人――すくなくとも僕が今仕事場で接している中国人たち――は「自然主義リアリズム」の視座がないので、写真が自然に見えるかどうかには気を払わない。彼らには「自然主義リアリズム」などよりももっと大切な考え方や原理ドグマがあり、それに従えば、写真の縦横比率をゆがめてでも枠をそろえるほうが切実なこととなる。ただ、彼らのその考え方や原理ドグマがなになのかは、僕はいまだによくわからない。
 もちろん、これはどちらがいいとかわるいとかの問題ではなくて、考え方が違うということだけなのだけど。



(2016年12月15日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第385話として投稿しました。
 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/

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いくつになっても Happy Valentine

2018年03月14日 07時30分45秒 | 詩集

 結婚式のこと
 いまでも
 あざやかに覚えている
 カリフォルニアの
 明るい陽射し
 清楚な教会のなか
 燕尾服を着た僕は
 花嫁衣裳の君を迎えた

 牧師さんが
 ユーモアたっぷりに
 話してくれたよね
 奥さんが
 もう聞き飽きたと言っても
 必ず毎日
 愛しているって
 言いなさいと

 だから僕は
 毎日繰り返し
 君に言うんだ
 奥さんはかわいいよ
 素敵だよ
 大好き
 大好き
 愛してるって

 どんなときでも
 祝福の花束を胸にかかえて
 どんなときでも
 心を通い合わせて
 いつでもどこでも
 いっぱいキスをして
 君が逃げたりしたら
 追いかけて抱きしめる

 純白の
 ウェイティングドレスを着た
 君を抱くように
 真心をこめて
 愛し続けたいな
 いつまでも
 Happy Valentine
 いくつになっても
 Happy Valentine




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君が祝福そのものだから

2018年03月07日 09時15分15秒 | 詩集

 不思議だね
 この広い世界の
 別々の一隅に生まれ
 いろんな縁をたどって
 僕たちは巡り合った

 祈り続けていた
 倖せにしたくなる誰かに
 引き合わせてくださいと
 人生に躓いた夜を越え
 眠れない日々を過ごし
 曲がりくねった道
 夕闇を潜り抜けながら
 歩き続け
 やっと君と結ばれた

 こんなにも
 想ってあげられる人が
 この世にいるとは
 思わなかった
 こんなにも
 想ってくれる人が
 この地上にいるだなんて
 想ってもみなかった

 きっと君は
 神さまがくださった
 祝福に違いない
 ひとりぼっちのさみしさを
 味わいつくした後だから
 ふたりのあたたかさが
 ひときわしみじみ
 よくわかる

 君が祝福そのものだから
 僕は君を倖せにする
 風がそっと
 星に寄り添うように
 陽射しがゆったり
 海をつつむように
 君を愛してゆきたいな

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識字の普及から見た中国(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第384話)

2018年03月06日 07時15分15秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 日本において若者がほぼ読み書きできるようになったは一九二五年頃と思われる。日本の識字率は地域によって差が激しかったから、それよりももっと前に若者がほぼ読み書きできるようになっていた地域があったかもしれないが、日本全国でそのようになったのはだいたい大正時代の終わりから昭和のはじめくらいと見ていいのだろう。今から九十年ほど前のことである。今ではほぼ百パーセント。識字率の調査もその必要がないと行われなくなったほどだ。
 大陸中国の識字率は、一九七〇年で約五十パーセントだった。人民の半分は読み書きできなかったことになる。それが一九八〇年には七十パーセントへ上がり、一九九〇年には八十パーセント、二〇〇〇年には九十パーセントを越えた。今では約九十五パーセントくらいだという。このデータがどこまで正確なのかはわからないが、この数値からみれば、若者がほぼ読み書きできるようになったのは一九九〇年くらいのこととみていいのだろう。今から四半世紀前のことだ。日本より六十五年ほど遅れて識字が普及したことになる。
 僕は、これまでに中国で読み書きのできない人に何人も出会ったことがある。自分の名前を書けない人すらいた。そんな人たちは、文字を書く必要のない安い単純労働で働いている。農村で育ち、子供の頃から農作業の手伝いや家で子守りをして学校へ行かせてもらえなかったケースが多い。
 広大な土地に十何億人もの人間がひしめいている国で識字を普及させるのは並大抵のプロジェクトではないと思うが、中国で識字の普及が遅れた原因には文化大革命も挙げられる。
 一九六七年から一九七七年までの約十年間、中国は文化大革命が行われた。この時代は知識が悪とされ、ろくな学校教育が行われなかった。中学生以上は「知識分子」とみなされ、生徒は思想改造のために農村へ送られて強制労働に従事した。
 一九九〇年に識字率が約八十パーセントに達して若者がほぼ読み書きできるようになったのは、一九七八年あたりに学校が再開されて、子供が学校でまともな教育を受けられるようになったからだろう。
 もちろん、いわゆる文革世代のすべての人たちが読み書きできないわけではない。むしろ読み書きできる人のほうが多いのだが、この世代の人たちに話を聞くと、
「自分たちはろくに教育を受けなかったせいで学がない。小学生程度の知識しかなくてむずかしいことはわからないから、いい仕事には就けない」
 と自嘲気味に嘆いたりすることがわりとある。実際、文革世代の子供で高等教育を受けた人たちが、中国にとっては新しい産業で専門知識を必要とする仕事に就き、親の何倍もの収入を稼ぐケースが多数あった。ともあれ、教育によって人生が変わることをまざまざと実感しているのが文革世代ということになりそうだ。
 産業の発展には識字の普及が欠かせない。マニュアルを読んだり、書類を作成しなけば仕事にならない。識字率が低いままで産業革命に成功した国はない。中国が世界の工場となってここまで経済発展できたのも、高い識字率があってこそだ。
 ただ、識字が普及したからといってすぐに近代的な仕事をしっかりこなせるようになるかといえば、そういうわけでもなさそうだ。
 中国で仕事をしていると中国人スタッフの事務処理能力の低さに難儀させられてしまうことがしばしばある。几帳面すぎる日本人とは違って、よくも悪くも大雑把な中国人の国民性もあるのだろうが、簡単な処理や確認がいつまでたってもできなかったりする。要するに基礎力が低いのだ。基礎ができていないから、応用力も乏しい。創意工夫が求められる新しい業務になると立ち尽くしてしまい、にっちもさっちも動かなくなることもしばしばだ。
 読み書きができるようになって知識を身に着けた世代が子供を育てて、その子供にさらに知識を身に着けさせる。このサイクルを三世代、四世代と繰り返さなければ、人民が全体的に基礎力を身に着けるという状態にはならないのかもしれない。中国の西欧近代化は始まってからまだ四半世紀しかたっていない。国全体が成熟するまでには、おそらく数十年という単位の時間でまだまだ時間がかかるのだろう。


(2016年11月27日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第384話として投稿しました。
 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/

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おばさんの奈良漬け

2018年03月05日 06時45分45秒 | 詩集

 おばさんの奈良漬けは
 こりっと噛んだ瞬間
 唇がぎゅっとすぼんで
 おめめもいっしょに
 きゅっとつむってしまう
 超ウルトラ級の
 塩辛さだった

 どうすれば
 こんなしょっぱい
 奈良漬けを
 漬けられるのかと
 少年の日のぼくは
 びっくりしたのだが
 怖いもの食べたさというか
 しょっぱい
 からい
 と騒ぎながら
 なんとか
 食べきったのだった

 あくる年
 またもやおばさんは
 おやじの郷里から
 手作りの奈良漬けを
 送ってきた
 ぬらぬらと黒光りする
 なんとも蠱惑的な
 瓜の戒名
 奈良漬け
 僕は蛇口をひねり
 じゃーと流れる水で
 残り糠を落とし
 ごしごしと手でしごいて
 水洗いした

 これくらい洗えば
 すこしは塩気も
 抜けるだろうと
 思ったのだが
 敵もさるもの
 不滅の瓜の戒名
 奈良漬け
 うひゃっと
 身をよじらせる
 塩辛さは変わらない

 今から思えば
 少年の日のぼくは
 あの瓜の亡骸へ
 ぎゅぎゅぎゅっと
 しみこんだ
 辛口日本酒の味に
 魅せられていたのだろう
 やみつきになるなと
 子供心に思いながら
 食べてしまったのだった

 おばさんは
 とうに鬼籍へ入られた
 もうあの奈良漬けを
 食べることもない
 はちゃめちゃにしょっぱい
 奈良漬けだったが
 今でもふと
 妙に懐かしくなる
 個性のある
 奈良漬けであった
 ほがらかな
 おばさんの漬けた
 手作りの奈良漬けであった

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冬の風がささやくのは

2018年03月03日 20時15分15秒 | 詩集

 冬の風が
 ささやくよ
 振り返るなと

 手のひらから
 こぼれるのは
 熱の奪われた夢
 それから
 純情にみせかけた
 狡賢い愛

 欠けた虹を
 埋め戻そうとしても
 むださ
 大人になるというのは
 こういうことなのさ

 センチメンタルは
 捨てたほうがいいね
 いくらそいつを
 きれいに描いたところで
 明日へ持っていくことは
 できないのだから

 憎むなら
 どこまでも自分を
 憎めばいい
 情熱だけで
 なんとかなると
 思っている
 不器用な望みを

 もしも
 自分を裏切れば
 今すぐにでも
 楽になる
 それが嫌なら
 詩の心を抱えてゆけ

 木枯らしが
 足にからみつく
 愛は夢
 夢は嘘
 嘘は現実
 重い鎖につながれた
 さすらい人の唄

 冬の風が
 ささやくよ
 お前は愚かだと

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