風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

空飛ぶクジラはやさしく唄う 最終話

2012年11月19日 07時25分44秒 | 恋愛小説『空飛ぶクジラはやさしく唄う』
 
空飛ぶクジラはやさしく唄う


   
 白い紙飛行機が病室の窓から冷たく晴れた空へ滑り出す。
「つかまえてごらん」
 僕は、病棟の下で待ち構えている男の子へ声をかけた。シアトル・マリナーズのスタジアムジャンパーを羽織った男の子ははしゃぎ声をあげ、三階からゆっくり舞い落ちる紙飛行機を追いかける。紙飛行機はやがてかくんと機首を下げ、滑り台をすべるようにして中庭のベンチへ落ちた。白い翼を拾った男の子は嬉しそうに僕を見上げ、
「おにいちゃん、ありがとう」
 と、無邪気な声を響かせた。
「じゃあね」
 僕は手を振った。男の子は手を振り返し、中庭の向こうの建物へ消えていった。
 さっとカーテンを引く音が鳴る。パジャマから服へ着替えた遥がベッドの縁に腰かけ、濃紺の靴下を履いた。
 過労による貧血という診断が下り、念のために一日だけ入院することになった。点滴を打ったおかげで血色はずいぶんよくなったのだけど、表情は冴えないままだ。遥は心の内を見つめ、ずっと物思いにふけっている。やり場のない怒りをこらえようとしてか、目尻がかすかに吊りあがる。白い肌が冷たく燃え、能面のように透き通った。
「行こうか」
 僕は、遥の着替えをつめたボストンバッグを持った。
 エレベーターで一階へ降り、中庭へ出た。消毒液の匂いから解き放たれ、やわらかい光がふたりをぬぐう。遥は、ふと立ちくらみをした。
「先生のところへ行こうよ。もう一度診てもらおう」
 僕は言った。
「いいのよ。貧血じゃないの。心が石になってしまったみたいだから――」
 遥は、さまよい疲れたようにつぶやく。
「ベンチで休もう」
 僕たちは、さっき紙飛行機が舞い落ちた中庭のベンチに腰をおろした。高くそびえる銀杏《いちょう》はすっかり木の葉を落とし、丸裸の枝を肌寒い風にさらしている。僕はコートを脱ぎ、遥の肩にかけた。
「お父さんのことを考えているの?」
 僕は訊いた。遥は唇を結び、小さく鼻を鳴らす。
「なにを思っているのか、話してよ」
 そう言っても、遥は黙ったままだ。
「たぶん、お父さんはもう現れないよ。刑事さんがきちんと念を押しておいてくれたし、今度あんなことをしでかしたら、どうなるかわかって――」
「それはいいのよ。わたしが考えているのはそんなことじゃないの」
 遥は、珍しくいらだたしそうにさえぎった。
「それじゃ、なにを考えているの?」
「わたしね、ほんとうはあの人を罰したくてしょうがなかったの。懲らしめてやりたくて、しかたなかったの。わたしが訴えれば、あの人はなにもかも失うわ。復讐したかったのよ」
「そう思って当然だよ。あんなことをされたんだから。僕だってそう思ったもん」
「あの人が刑務所へ入ったところを想像しただけでも、胸がすっとしたわ。楽しくてしょうがなかった。でもね、罰したいっていう気持ちも、やっぱり欲望なのよ。たぶん、一つ罰したら、もっともっとって求めてしまうと思うの。人を懲らしめたいっていう気持ちに切りなんてないのよ。わたしにだれかを断罪する資格なんてないのに――。
 警察沙汰にしたらお姉ちゃんが困るかもしれないっていったのは、あきらめる理由がほしかったからなのよ。――お姉ちゃんがわたしの気持ちをわかってくれたことはほんとうに嬉しかったんだけど、懲らしめたいっていう気持ちでこりかたまりそうな自分が怖かった。だから、お姉ちゃんと話した後、ずっと聖書を読んでお祈りしていたの。あの人を罰したいだなんて、そんなことばかり考えるわたしを救ってくださいって」
「そうだったんだ」
「間違ったことはしたくないもの。なにも考えないで、自分の気持ちのままに動いたほうがよっぽど楽だけど、でも、それじゃいけないのよね。あの人とおんなじになってしまうわ」
「立派だったと思うよ」
「でも、うまくいかなった。わたしなりに真剣に考えて、精一杯の気持ちで許したかったのに、あの人はわかってくれなかった。ほんのすこしでもいいから、わたしの思いをわかろうとしてくれたら、すこしは救われたかもしれないけど」
 遥はうつむいた。大きな瞳が小刻みに震える。深い虚無感と挫折感にとらわれたまなざしだった。
「残念だったけど、しょうがないって割り切るしかないよ。善意が相手に通じるとは限らないしさ。昨日も言ったけど、わかってもらえなくてもともとだから」
「頭ではわかっているんだけど、どうしても割り切れないのよ。いつかわかってくれるって信じられたらいいのに」
「あんまり考えすぎるのはよくないよ。遥は間違ったことはしなかったんだから、自分に自信を持っていいと思うよ」
「そんなの、もてないわ。なんだか、わからなくなってしまった」
 遥はやるせなく首を振った。
「疲れているだけだよ」
 僕は遥の肩を抱いた。だけど、遥は僕の手をそっとはずしてしまう。誰にも触れてほしくないのだろう。ふたりは無言で家路についた。

 それから二日間、遥はひと言も口を利かなかった。
 自分の殻に閉じこもってしまい、なにも言おうとしない。僕がなにかの拍子に物音を立てると、遥は頭がずきずき痛むように顔をしかめ、暗い目をして塞ぎこんだ。慰めの言葉をかけようとしても、遥は背中を向けて僕を避けてしまう。僕は、どうすればいいのかわからなかった。遥は学校もアルバイトも休み、買い物以外はずっと部屋にこもりっきりだった。
 オカマさんに話を聞いてもらいたくて連絡をとってみたのだけど、彼は忙しそうだった。年末が近づいているのに、勤め先の美容院はまだ人手が足りないままのようだ。いつもは朗らかな彼も元気がなく、喉を痛めたとかで声がしわがれていた。僕は、「また連絡します」とだけ言って電話を切るよりほかなかった。
「ただいま」
 いつものように学校から帰り、ふたりの家のドアを開けた。部屋には灯りがついていない。まだ六時前だけど、あたりはもう真っ暗で部屋も暗かった。僕は、近所の弁当屋で買ったかぼちゃコロッケと春雨サラダを手に提げていた。遥は疲れているから、料理を作る手間を省いてあげたかった。
 遥は出かけたのだろうか。惣菜を買って帰ると携帯のメールを送っておいたから、スーパーへは行かなくていいはずだ。どこへ行ったのだろう? 僕は不思議に思いながら、壁のスイッチを入れた。
 蛍光灯はすぐに灯らない。端っこがオレンジ色に変色しているから、もう寿命なのだろう。からからと乾いた音を立て、咳きこむように何回か明滅した後、ようやく明るくなった。カーペットにぺたりと坐りこんだ遥が、呆けた顔で天井を見上げていた。
「遥、どうしたの」
 僕は肩を揺さぶった。遥の瞳から涙がこぼれる。遥の目はどこかを見ているようで、どこも見ていない。
「なにがあったの?」
「ゆうちゃん――」
 遥は、放心したままかすかに聞き取れるほどの声で言う。
「黙ってたら、わからないよ。話してよ。また、お父さんがきたの?」
「違うわ」
「いったいどうしたの?」
「わたし、ほんとに、わからなくなったの。――わたしはなにをやっているんだろう? やっぱり、求めたりしたらいけないのよ。愛してほしいとか、わかってほしいとか、そんなふうに求めたりしたらだめなのよ」
「誰でもそう思うものだよ。すこしずつ慣れようねってこの前に話しただろ」
「そうだけど、やっぱりだめなのよ。求めたら、この始末だもの。きっと罰《ばち》が当たったんだわ」
「そんなことないよ」
「心がぐちゃぐちゃになってしまったの。どうしたらいいのかわからない」
 遥は頭をかきむしる。
「落ち着こうよ」
「そんなことできない」
「明日、いっしょに心療内科へ行こう。お医者さんに相談してみようよ」
「いやよ。お母さんといっしょになるのはごめんだわ。心療内科なんかへ行ったら、抗鬱剤を処方されてしまうわ。あれは麻薬なのよ。一度あんなものを飲み始めたら、一生飲み続けないといけなくなって、薬漬けにされてしまうわ。麻薬中毒にされるのとおなじだもの。心療内科の先生なんて白衣を着た麻薬の売人よ。患者の弱みにつけこんで、危ない薬ばっかり売りつけるのよ」
「そんなことないよ」
「わたしのお母さんは、十年以上も薬を飲み続けているのにぜんぜん治らないのよ」
「そんなことを言ったって、このままじゃどうしようもないだろ」
「どうしようもなくても、薬だけは飲みたくないわ。お母さんみたいに、入退院を繰り返すことになってしまうもの。薬だけは絶対にいや」
「それじゃ、どうすればいいんだよ」
「わからない。今は、砂のなかに埋まっているような感じがする。身動きがとれなくて、息苦しくて、はい上がろうにも、はい上がれないの。このまま窒息してしまいそう。死んだほうが楽なのかもしれない」
「そんなことを言わないでよ。今までなんのためにがんばってきたんだよ」
「がんばらないほうがよかったのかもしれない。なにをやっても、どうせむだなのよ」
「そんなことないってば」
「ゆうちゃんになにがわかるのよ」
 遥は顔をおおって泣き始めた。
「僕は遥のことをわかっているつもりだよ」
「つもりでしょ。ほんとうのことはわからないのよ」
「そんな」
 僕は返す言葉を失った。
 今まで何度か喧嘩をしたこともあるけど、遥がこんなことを口走ったのは初めてだった。中三の時に出会ってから、今まで一度も言ったことのない言葉だった。僕たちはいつもわかりあおうとしてきた。それだけが僕たちの命綱だった。
「ゆうちゃんは、わたしのことなんてなんにもわかっていないのよ。やさしそうなふりなんてしないでよ」
「とにかく、落ち着こうよ」
「だから、できないっていっているじゃない。もうなにも話さないで」
 遥はヒステリックな叫び声を上げ、床にうずくまる。遥は、これまでにないほど激しく混乱している。すこし冷静になれるまで、時間が必要なのだろう。気分さえ鎮まれば、遥もいつものように落ち着いて話すだろうから。父親にまったくわかってもらえなくて、ひどく傷ついてしまったのだ。むりもない。
 僕は腫れ物に触るように遥をそっとしておいた。そのうち気分が上向くだろうと待ったのだけど、いつまでたっても塞ぎこんだままだ。死んだ愛が遥の心のなかで腐り始め、そのなかで立ちすくんでいるのかもしれない。遥は泥沼にはまりこみ、なす術もなく沈みゆく人のようだった。
 どうすることもできないまま、一週間ばかりが過ぎた。
 遥は食事もろくにとらず、見るみる間に痩せこけた。頰がげっそりして、蒼白い顔に目ばかりが痛々しくぎらつく。まるで、追いつめられた手負いの獣のようだ。いらだちを隠さなかったのは、あの時の一回切りだけだけど、遥はよそよそしく僕を避けた。夜は床に布団を敷き、別々に寝た。僕は、遥の他人行儀な態度が悲しかった。なんでもいいから、ぶつかってきてほしかった。そうしてさえくれれば、いくらでも抱きとめようがあるのに。

「だいじな話があるの」
 遥がぽつりと言った。僕は要らないプリントの裏にмороз(マローズ・酷寒)と書いてた手をとめ、鉛筆を置いた。明日、ロシア語の単語テストがあるから、机に向かって暗記していた。窓の外は木枯らしが吹き、どんより曇っている。廃品回収車の間延びしたテープ音声が風に乗って途切れとぎれに聞こえてくる。
「なに?」
 僕は遥に向き直った。遥はゆうべ、オカマさんにデザインしてもらった髪型を元へ戻した。愛らしくぴょんと跳ねていた髪にストレートパーマを当て直し、前髪もきちんと切りそろえている。昨日、遥が家へ帰ってきた時、僕は髪型のことを言ったのだけど、遥はなにも言わず、申し訳なさそうに顔を伏せただけだった。
「わたしね、自分のことがよくわからなくなってしまったの」
「ゆっくりいこうよ。あせることなんてないんだから」
「ゆうちゃんはわたしのことを一生懸命考えてくれているのに、ひどいことを言ったりして、ごめんなさい」
「いいんだよ。べつに気にしてないから。遥が苦しいのはよくわかっているし」
「考えれば考えるほど、自分のことがわからなくなってしまったわ。なんのために生きているのか、自分のほんとうの気持ちがなんなのか、さっぱりわからないの。虚しくてやりきれなくて、息がつまりそうで、ただそれだけ。――わたしは自分のことなんてなんにも知らない。――だから、ゆうちゃんのこともよくわからないの。――自分のことを知らない人は、ほんとうに誰かを愛することなんてできないのよ。だから――」
 遥は言葉を詰まらせた。
「だから、なに――」
 僕は、冷たい風が胸に吹き抜けるのを感じた。
「これ以上、迷惑をかけられないわ。――だから、別れてほしいの」
 遥はつらそうに肩を震わせる。
 僕はじっと遥を見つめた。いろんな想いが泡のように浮かんでは、言葉にならないまま消える。心のともし火をふっと吹き消されてしまったようだ。僕にとって、遥との愛はオリンピックの聖火のようなものだった。僕たちは約束の地へ向かって走る聖火ランナーのはずだった。たとえつらいことに出くわしたとしても、今まで大切に守ってきたものをかき消してしまうだなんて、一度も考えたことがなかった。指先から、つま先から、力が抜ける。
「本気で言ってるの?」
「わたしは真剣よ。だって、ゆうちゃんに面倒ばかりかけているし、そう思うと心苦しくてしょうがないの。ゆうちゃんはもっと幸せになっていいのよ。そうなるべきなんだわ。わたしなんかがそばにいたら足手まといだもの」
「足手まといだなんて、僕は遥のことをそんなふうに思っていないよ。遥を幸せにしたいし、遥とじゃなきゃ、幸せになれないんだよ」
「どうして? わたしと付き合っていいことなんてないでしょ。楽しいことなんてないもの」
「僕は、こうして遥といっしょに暮しているから幸せなんだよ」
「ごめんなさい。――自分のことがわからなくなったら、ゆうちゃんへの愛情も消えてしまったの。今は、ゆうちゃんが赤の他人に思えてしょうがないのよ。いっしょにいるのも、なんだか苦痛だし、――窮屈だし」
 遥は言いにくそうに話し、目をそらす。
 僕は部屋を見渡した。
 ふたりで暮してきた狭いワンルームがなぜかがらんとして見える。ファッションケースの上に飾ったトトロとネコバスの人形も、本棚の隅に飾った陶製の回転木馬のオルゴールも息づかいをやめ、この部屋をつつんでいたあたたかい雰囲気もどこかへ消えてしまった。まるで誰も遊びにこない遊園地にいるようで、さびしい。
「暗いね」
 僕は立ち上がって蛍光灯のスイッチを入れたのだけど、とうとう切れてしまった。スイッチを入れなおしても、明かりがついてくれない。
「散歩に行ってくる」
 僕はそのまま部屋を飛び出した。
 すこしだけ家の近所をぶらついて気持ちを落ち着かせるつもりが、いつの間に電車に乗っていた。どこでどう乗り換えたのかもわからないけど、気がつくと荒川の堤防に立っていた。万力で締めつけられたような心の痛みを感じたから、無意識のうちにだだっ広い場所を求めたのかもしれない。
 ゆっくり流れる川は曇り空を映して鈍色に染まっていた。枯れたすすきが土手に揺れ、サッカーのユニホームを着た少年たちが河川敷のグランドで練習に励んでいる。僕は堤防の上をとぼとぼ歩き、適当なところで土手の斜面に腰かけた。
 ひょっとしたらとは考えていたけど、まさかほんとうに遥があんなことを言い出すとは思いも寄らなかった。今から思えば、遥のよそよそしさと冷たさはそのシグナルだったのだろうけど。
 今まで遥とふたりで幸せになろうと思ってがんばってきたのに、いきなりあんなことを言われても、すぐには納得できない。今までの努力は何だったのだろう。中三の頃から、僕たちは青春のすべてを注いでわかりあおうとしてきたはずなのに。
 僕は重たい空を見上げた。
 世界の果てまでおおった厚い雲はじれったそうに震え、今にも泣き出しそうだ。そういえば、遥とふたりで地元の土手へよく通っていた頃、雨に降られたことがあった。
 ちょうど、今と同じ冬の初めだった。休みの日に土手で落ち合っては、お互いに本を貸し借りした。あの日、僕はジッドの『狭き門』を遥へ返して、ドストエフスキーの『貧しき人々』を貸したのだったと思う。話しこんでいるうちに突然土砂降りの雨が降り出したから、僕たちは悲鳴をあげ、あわてて鉄橋の下へ駆けこんだ。ほっと一息ついたと思ったら、今度は電車が通り、大粒の滴をばらばらと振り落として行った。びっくりした僕たちはなにを思ったのか、雨へ飛び出してしまった。なんだかおかしくて、くすくす笑った。愉快そうな遥を見ているだけで、僕はなにもかもが満たされた。ほかのものなど、なにも要らなかった。
 むりに引き留めようとするよりも、あっさり別れてあげたほうがいいのだろう。
 遥の横顔は苦しげだった。遥は、僕を裏切ってしまったと自分を責めている。そんな遥は見たくもない。楽にしてあげたい。
 遥の気分がすっきりして、それで人生をやり直せるのなら、別れたほうがいいに決まっている。こんがらかってしまった糸の結び目は、切ってしまうよりほかにどうしようもない時がある。それが愛なのかどうかはわからないけど、やさしさなのかはわからないけど、今はそうするしかないのだろう。
 遥はきまぐれでものを言う女の子ではない。遥が別れたいと言ったのはよほどの理由があるからだ。もしかしたら、僕が一所懸命支えようとしたのが、かえって重荷になったのかもしれない。遥の言った通り、僕は遥のことをわかったつもりになっていただけなのかもしれない。
 僕は川岸まで駆け、あたりに転がっている石を手当たり次第、川面へ投げこんだ。石は、荒川のごく表面だけを跳ね飛ばしてすぐに沈んでしまう。石を投げつけたところで、川の流れが変わるはずもなければ、堰きとめられるはずもない。だけど、そうせずにはいられなかった。何度もなんども、息が切れても投げ続けた。

 大学の女子寮に空き部屋があったので、遥はそちらへ移ることになった。
 ふたりで遥の荷物をダンボールにつめ、先に宅配便で送った。遥は薄いカーテンを外し、冬用の厚いカーテンにかけ替えてくれた。
「結局、振り出しに戻ってしまったのね」
 パソコンやデジカメといった宅配便で送れない荷物をまとめながら遥はしんみり言った。最後の荷物は、リュックと紙袋に入れて遥が自分で運ぶ。それが僕たちのお別れだった。
「どういうわけか、今は世の中の人が全部敵に思えてしょうがないの。ゆうちゃんと出会う前もそうだったわ。自分の世界が崩れないように、わたしは必死になって自分の壁を守ろうとしていたの。ゆうちゃんがせっかくその壁を突き崩してくれたのに、また壁を作ることになってしまったわ」
 僕はなにも答えず、パソコンのケーブルを紐でくくった。
「怒ってるの? そうよね。怒って当然よね」
「そんなことないよ」
「それじゃ、どうして黙っているの」
 遥はしょんぼりする。
「早く荷物を片付けなきゃね。寮の職員の人が向こうで待っているんだろ」
 僕は素っ気なく言った。そうでもしないと、遥を引き留めてしまいそうだ。
「そうだけど――」
 遥は洗濯できなかった汚れ物をビニール袋にまとめ、いつか伊勢丹で買ったリュックの底へ入れた。
「楽しかったわ」
 遥は僕を見つめる。僕は遥と目を合わさないようにして束ねたケーブルやマウスを紙袋につめた。
「さあ、できたよ。駅まで送っていくよ」
「ごめんなさい。勝手に出て行くのに、楽しかったなんてわがままよね」
 遥は、部屋の合鍵をちゃぶ台のうえに置き、
「今までありがとう。――ゆうちゃんは幸せになってね」
 と言って立ち上がる。僕は、遥が持とうとした紙袋をひったくるようにして自分の手に提げた。これが遥にしてあげられる最後のことだから。

 僕たちの物語は終わった。
 喫茶店の窓の外は夕暮れだった。買い物客がせわしそうに歩いている。
 僕は丸太造りの壁際まで行き、ふたりで花火大会へ行った時の写真を取り去ろうとした。思い出を取っておきたいからというわけではない。思い出なら胸の中にいくらでもある。遥と過ごした日々は僕の青春そのものだから、色褪せるはずもない。ただ、この店へくるたびに遥との日々を思い出すのは、せつなかった。
 写真に留めた画鋲を外そうとして、ふと迷った。
 ふたりの思い出なのに、ふたりで貼った写真なのに、僕一人で勝手にはがしてしまうのはどうなんだろう?
 憎くて別れたわけじゃない。嫌いになったわけでもない。いろんなことがうまくいかなくて、疲れてしまっただけのことだ。悪いのは僕だ。力が足りなくて、遥を幸せにしてあげられなかった。彼女につらい思いをさせてしまった。
 僕は画鋲から手を離した。
 このままそっとしておこう。
 愛の意味なんてまだわからないけど、いつか笑って話せる日がくるかもしれないから。
 ログハウス風のドアを開け、外へ出た。
 ビルに切り取られた東京の空は茜色に染まっていた。クジラの形をした雲はまだ空に浮かび、夕陽を浴びて黄金色に輝いている。
 僕は立ち止まり、ぼんやりその雲を眺めた。お母さんクジラのようなやさしい雲は、唄っているような、笑っているような。
 今は虚ろな気分だけど、なにかが僕をどこかへ導いてくれるのだろう。どこかへ連れて行ってくれるのだろう。僕は、遥が編んでくれたマフラーを首に巻いた。マフラーに顔をうずめると、遥の透明な香りがかすかに漂った。
 
 

 了

 
※本作は『小説家になろう』サイトへ投稿したものです。
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空飛ぶクジラはやさしく唄う 第17話

2012年11月18日 18時39分34秒 | 恋愛小説『空飛ぶクジラはやさしく唄う』

許したくないもの、許したいもの



「どうだった? ずいぶん話しこんだようだけど」
 部屋へ帰った僕はさっそく訊いた。
「お姉ちゃんは訴えなさいって勧めてくれたわ」
 遥は、すこしばかり気の晴れた顔をする。
 遥の姉はもう実家を出て、地元の県庁所在地の街で暮しているそうだ。勤め先で知り合った彼氏と同棲中で、来年の夏に結婚する予定なのだとか。
「でもね、お姉ちゃんの彼氏も、彼のご両親も複雑な事情はわかっているから、あの人が裁判にかけられたり牢屋へ入ったりしても大丈夫だって、万が一、婚約がご破算になってもかまわないし、自分のことは気にしなくていいから、ひどいことをされたぶんだけぎゃふんといわせてあげなさいって励ましてくれたの」
「そう、よかったね」
 僕は遥の頭をなでた。遥は涙ぐむ。
「久しぶりだったからつい話しこんじゃったんだけど、お姉ちゃんもあの人がお母さんをいじめたことは許せないみたい。お母さんの仇を討ついい機会じゃないともいってたわ。お姉ちゃんは、あの人からお母さんを取り上げられたんだもの。うらむわよね。それから、自分が家を出て、あの人の相手をまったくしなくなったから、ゆがんだ愛情のはけ口がわたしへむかったのかもしない、わたしがあの人に振り回されるようなことになってごめんってあやまるの。お姉ちゃんせいじゃないのにね」
「遥のことを心配してくれているんだよ」
 そう言いながら、エゴイストの親を持つと、いろんなことが自分の責任のような気にさせられて苦労するなと思わずにはいられなかった。
「お姉ちゃんはわたしが東京へ出てくるとき、あなたは好きなことをして、自分のしあわせをつかみなさいって送り出してくれたんだけど、さっきもその言葉をくりかえしてくれたわ。わたし、すごくうれしかった」
 遥は指で涙をぬぐった。離ればなれの姉でも心は通いあっていた。自分のことを気にかけてくれる家族がいて、遥はさぞ気持ちが楽になっただろう。僕もほっとした。
 ほうじ茶を淹れ、ふたりでいろいろ話し合った。といっても、遥の考えはもう固まっていたから、遥はそれでいいのかどうか僕に確認するだけだ。遥が軽はずみに物事を決めたりする女の子ではないとわかっている。悩みになやんだ末に出した結論なのだから、僕にも異論はない。誰かに答えを求めたり、投げ出したりせず、自分自身で答えを出した遥を誇りに思う。
 お地蔵さんのような刑事に連絡を入れ、警察署へ向かった。
 受付で名前と要件を告げ、制服を着た若い警官に二階へ案内してもらう。着替え用のロッカーがずらりと並んだ廊下の上には、剣道の防具や柔道着が渡したロープに干してあり、男くさい汗の匂いがこもっている。僕はふと、高校の部室を想い起こした。
 換気扇のうなり声が遠く鈍く響く。どこそこでひったくりが発生したので付近のパトカーは急行せよだとか、変死体が見つかったなどという警察無線のアナウンスがスピーカーからひっきりなしに流れる。そんな放送を聞いていると、自分の知らないところでいろんな犯罪が起きていることがわかる。日本中の警察の放送を全部合わせれば、一日にどれくらいの数になるのだろう。目には見えないけど、この世は暴力に覆われているようだ。
 殺風景な事務所の端を通り、その隅にある小さな取調べ室へ入った。ペンキの剥げた壁にかなり古ぼけた木目調のクーラーが取り付けられ、その下に風量を調整するための手回し式ダイヤルがついている。窓の下に銀色のスチーム暖房が置いてあったけど、まだスチームは通っていないようで、コンクリートの部屋は底冷えがした。
 お地蔵顔の刑事と左腕を白布で吊るした遥の父親がスチール机を前にして坐っている。遥のやつれた頰が一瞬ひきつる。男は遥を横目で睨み、あからさまに不貞腐れる。僕と遥はパイプ椅子に坐った。
「それでは、さっそくですが、昨日《さくじつ》発生した件につきまして、瀬戸佑弥さんと天草遥さんの考えをお聞かせ願いたいと存じます」
 刑事はあらたまった口調で言う。遥の父親は傲岸そうに腕を組み、
「私は仕事があるのでね、こんなところから早く出してもらいたいんだが」
 と、ぶっきら棒に吐き捨てた。留置所で一晩過ごしたのだろうか、彼の額には汚れと脂がうっすら浮かんでいた。
「まずは、お二人の話を聞きましょう」
 刑事は男を制し、
「どうぞ、ご遠慮なくおっしゃってください。彼が暴れたりすれば、私が押さえますから。私は小柄ですが、これでも柔道五段ですので」
 と、穏やかだけどどこか凄みのきいた声で言った。
「聞き捨てなりませんな。それではまるで犯罪者扱いでしょ。それに、あばら骨が折れて左腕にひびが入っているのに暴れられるわけがない。私の骨を折ったやつを捕まえてほしいくらいだ。あべこべじゃないか」
 遥の父親は口元に苦味を走らせる。
「あべこべってどういうことですか? あなたは立派な誘拐犯ですよ」
 腹が立った僕は思わず立ち上がった。
「君も落ち着いて。怒鳴りあってもしょうがないから」
 刑事は目で坐りなさいと合図する。僕はしぶしぶうなずき、
「遥、話しなよ」
 と、遥の肩に手を置きながら坐った。
「きのうはびっくりしました」
 遥は震える声で話し始めた。遥が膝のうえで揃えた両手を握りしめるから、僕は彼女の拳にそっと手を重ねた。心の震えなら、僕が受けとめてあげる。
「まさか、むりやりタクシーへ連れこまれたり、あなたが部屋へ押し入ってきたりするとは思いませんでした」
「話をしようと言っただけだ」
 遥の父親は怒った。
「聞いてください。そうでなければ、わたしは帰ります」
 遥は、勁《つよ》いまなざしで父を見据える。男は一瞬、不安そうな光を目に漂わせ、むっと黙りこんだ。
「とても悲しかったです。わたしの気持ちをほんとうに聞いてくれるのだったら、話をしてもいいかなと思いますけど、あなたは自分の都合を押し通そうとするだけだから、話す気にはとてもなれません。
 あなたを訴えるべきかどうか、さんざん悩みました。わたしの考えをいってもあなたは否定するだけでしょうし、大切なゆうちゃんにすごい迷惑をかけてしまったので、もう二度とこんなことをしてもらわないためにも、訴えるべきじゃないかと思いました。たぶん、そうしたほうがいいのでしょう。そうするべきなのでしょう」
 遥は、思いつめた表情でじっとうつむいた。遥の頰が紅潮したかと思うと、波が遠退くようにすっと血の気が引く。リップクリームを塗っただけの唇が紫色に蒼ざめる。遥は垂れた髪を指で耳の裏側にしまい、決心したように顔を上げた。
「ですけど、わたしの信じている神さまは汝の隣人を愛せよとおっしゃいました。あなたもわたしの隣人のひとりです。わたしは神さまを裏切りたくはありません。神さまの前では素直な子でいたいと思います。――あなたを許します。ですから、二度とわたしの前に現れないでください。わたしの暮らしを壊さないでください。お願いします」
 遥は深々と頭を下げた。長い睫毛から涙がはらはらこぼれ、机の上にせつない水玉模様を描く。遥の父親はほっと息をついて安堵の表情を浮かべたかと思うとたちまち激高し、
「親に向かってなんて言い草だ。お前の神さまなんか知るもんか」
 と言い放った。
「親の心、子知らずとは言うけど、親が子供の苦しみを理解してあげないとはねえ」
 お地蔵さんはやれやれと掌で額をこすり、
「あなたは情けないと思わないんですか。自分の娘にこんなことを言わせて、恥ずかしいと思わないんですか。私は刑事である前に一人の人間として、一人の父親として呆れますよ。許せないけど、やっぱり実の父親だから許したい。刑務所送りにして苦しめたくない。彼女はそう思っているんですよ。なぜ、それがわからないんでしょうかねえ。自分の娘の苦衷を察してあげようとは思わないんですか。私にはさっぱりわかりません」
 と、ぼやくように叱り飛ばすように言った。
「遥の前に現れないと約束してもらえますね」
 僕は男に迫った。きちんと言質を取っておきたかった。
「わかったよ。訴えないでおいてもらえるのなら、そうさせていただきます」
 男はそっぽを向き、ばかばかしいとでも言いたげに鼻を鳴らす。
「いい加減な答えでは困ります」
「はいはい、お約束いたします。身を粉にして働いて、自分の小遣いを削って養育費を送ってこのざまか。情けない。自分が情けない。娘も情けない」
「いいですか、約束は約束ですからね。あなたが約束を破ったら、すぐにでも訴えることにします」
 僕は机を叩いた。男は横を向いたまま答えない。
「私が証人になりましょう。お二人さんはなにかあったら連絡しなさい。私がきちんと処理しますから。――お父さん、妙な真似は許しませんよ」
 刑事が助太刀してくれた。
「あなたにお父さんなんて呼ばれる筋合いなんてないんだがね。ま、いいけど」
 遥の父親は皮肉に唇をゆがめる。もしかしたら、こんなふうに強がってみせるのが精一杯なのかもしれない。
「遥、行こう。反省の色もないし、これ以上はむだだから。――刑事さん、お忙しいところをどうもありがとうございました」
 僕は遥の手を牽いて立ち上がり、彼に一礼した。遥は、蒼ざめた顔で父親を見つめている。男は、いらだたしそうに貧乏ゆすりをしたまま遥の顔を見ようともしない。自分が不当な扱いを受けているとしか思っていないようだ。
 ここへ来る前にたぶんこうなるよと言って心の準備をさせておいたのだけど、いざ目の前でそんな態度を取られると、やはりショックを受けたようだ。今度も、遥は父親に裏切られてしまった。傷つけられてしまった。遥の思いとやさしさは通じない。遥と父親の関係はその繰り返しだった。
「いつか、あなたをお父さんと心から呼べる日がくればいいなと思います」
 遥の瞳が揺れる。卒業式で泣く女学生のようだ。これで遥は父親から卒業したのだと思いたかった。
「親だったら、なにか答えてやりなさい」
 お地蔵さんは遥の父親に言った。男は絶対に口を利くものかときっと唇を結ぶ。僕は遥の背中を軽く叩き、取調べ室を出た。
「ゆうちゃん、あれでよかったのよね」
 ふたりは、ひっきりなしに車が流れる国道沿いの歩道を歩いた。車が走る道と人が歩く道を隔てる背の低い常緑樹の植えこみは埃まみれになって汚れている。遥はなんでもないアスファルトの道につまづき、ふらりと体を傾ける。僕は腕を持って支えた。
「あれでいいんだよ。間違ったことはしていないから」
「あの人は、いつかわたしのいったことを理解してくれるかしら」
「わかってくれるといいけどね」
 僕はため息をついた。これでは遥があまりにも可哀想だ。
「遥、わかってもらえなくてもともとだし、いつかわかってもらえると信じるしかないよ」
「そうね。信じることね。信じたいな」
 遥はまたつまづいた。顔色は蒼いままだ。苦しそうな脂汗が額ににじんでいる。
「タクシーで帰ろうか。疲れただろ」
「歩けるわ。そんなの贅沢よ」
「いいから、タクシー代は僕が出すよ。ちょっと待ってて」
 僕は遥の腕を離し、道端へ出て手をあげた。すぐにタクシーがとまり、後部座席の自動ドアが開いた。
「遥、乗るよ」
 振り返ると、遥は歩道に体を投げ出して倒れていた。


 

都江堰の旅 (四川省)

2012年11月17日 07時04分03秒 | フォト日記

 四川省の都江堰(とこうえん)へ行ってきた。都江堰は、成都からバスで一時間ほど行ったところにある

 都江堰は、紀元前三世紀、中国の戦国時代の末期に秦によって建設された堤防。この堤防が完成したことによって、春の雪解け水による洪水が減り、農地が灌漑されて成都平原は肥沃な農地へと生まれ変わった。豊かな穀倉地帯となった蜀(四川省)は「天府之国」と呼ばれるようになった。





 写真の下からのびているのは「魚嘴」。
 これによって、岷江(みんこう)を内江と外江の二つの流れに分ける。
 左側が外江、右側が内江。





 外江。「魚嘴」の水門が閉められており、ほとんど水がなかった。




 内江。こちらは水がとうとうと流れていた。





 宝瓶口。
 右側の流れから用水路へ水を導くように作ってある。
 楼閣は、都江堰を建設した李氷を祀った伏龍観。





 内江はさらに何本もの川に分かれれる。





 食堂の前においてあった食材。





都江堰の公園のなか。静だった。





公園にあったビッグサイズのいちょうの盆栽。








北京標準語と訛り(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第140話)

2012年11月15日 07時15分15秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 
 三年ほど前、広州へやってきた時、広東訛りの中国語(北京標準語)がひどく聞き取りにくくて苦労させられたものだった。僕は雲南省昆明に留学してそこで北京標準語を習ったから、僕の中国語はいささか雲南訛りが入っている。不器用だから発音もうまくない。だから、人のことは言えないのだけど、とにかく広東人は標準語が下手だ。北京標準語で話しかけられているとはわからず、よくよく聞いてみれば相手が標準語を話そうとしていることがわかったこともしばしばだった。ある日本人は、初めて広州へきて会議に参加した時、
「へえ、広東語って案外北京標準語に似てるんだ」
 と思ったそうだけど、よくよく聞いてみれば彼らは標準語で会議しているつもりだったのだとか。きれいな標準語を話す広東人はあまりいない。
 しかも、下手なくせに「自分はちゃんと標準語を話している」と思いこんでいるものだから手を焼く。たぶん、小学校や中学校の先生が訛っていて、彼らの発音を手本にして標準語を勉強したから、それが正しいと信じているのだろう。テレビを観ていると、中年以上の広東人は大学の先生でも標準語をうまく話せない人がけっこういる。
 僕は片言程度しか広東語がわからないのだけど、それでも広東語を聞いていると中国語の一方言だとはとても思えない。まったく別の言語のようにすら思える。一説によれば、北京標準語と広東語の差は、英語とドイツ語以上の開きがあるのだとか。広東人が北京標準語をうまく話せないのもむりのないことなのかもしれない。広東語は、言語学的にいってベトナム語やタイ語のほうが近いんじゃないだろうか。
 ともあれ、こちらに三年ほど住んで、広東訛りの標準語にもずいぶん慣れた。訛りがきつい場合を除いて、言っていることはだいたいわかる。慣れたどころか、広東訛りが僕にもうつっているらしい。この間、久しぶりに雲南省を旅行した時、何回か「広東人ですか?」と訊かれたことがあった。広東人に間違えられるくらい標準語が下手になってしまったんだなあと思うとなんだか悲しかった。こちらで働きはじめてからというもの仕事の専門用語を覚えるほかは標準語の勉強をしなくなったから、そんな僕が悪いんだけどさ。
 逆に、広い中国のなかでどこの人たちが標準語が上手かと言えば、意外なことに東北のいちばん北にある黒龍江省(省都・ハルピン)の人たちだ。雲南で通っていた大学のそばにハルピン人が経営する小さな餃子店があったのだけど、そこの女将が話す標準語はまるで語学学習用のテープを聞いているようで、非常に正確な発音だった。大学の標準語の先生よりもきれいな発音だから腰を抜かしてしまう。なぜハルピンの人たちの発音がきれいなのかといえば、黒龍江省はウイグルやチベットを除いていちばん最近漢民族の入植地(植民地)になったところなので現代の標準語の発音に近いのだとか。これを裏返せば、昔漢民族の植民地になったところほど、現代の標準語の発音とかけはなれてしまうということだ。
 中国語学習者にとって、方言は最大の難関だ。
「たのむからもっと正確な発音で話してくれ」
 と、やるせない気分になることもしょっちゅうある。
 もちろん、訛りを聞き取るのも語学力のうちだけど、そもそも十四億とも十五億ともいわれている人民に同じ言葉で話せというほうがむりなんだろうな。


 

(2011年12月3日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第140話として投稿しました。 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/

乗り合いバスの混み具合にみる経済発展の度合い(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第137話)

2012年11月09日 22時28分59秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 
 経済がほとんど発展していないところへ行けば、バスがめちゃめちゃ混んでいる。
 ラオスの田舎町からバスに乗った時、十九人乗りくらいのマイクロバスに三十人以上、すし詰めになっていた。しかも、その状態のままで三四時間くらい走ったりする。路線によっては、通路に風呂場で使うような小さなプラスティックの椅子が並んであって、それに坐ったこともあった。坐りにくいうえにでこぼこ道を走るので、バスが揺れるたびにプラスティックの椅子が歪んで右へ左へと体が大きく傾き、何度も倒れそうになりながら乗った。親切な地元のラオス人のおじさんが僕の肩をがしっと摑んで支えてくれたりもした。
 バスの需要はあるのだから、もっと走らせればいいのにと思うのだけど、いかんせんバスの台数が足りない、というか、バスを買うお金がない。道も整備されていないので、ちょっとした距離を走るにも時間がかかる。きちんと舗装して整備した道なら一台のバスで一日二往復くらいできるのだけど、土道では一日一往復が関の山だ。時間もかかるし、運転手もぐったりしてしまう。それでバスの本数が少なくなってしまい、混んだバスにみんな乗ることになる。
 経済が発展してくると、バスを買うお金ができるので、新規参入業者が増えてバスの台数が増える。もちろん、経済が発展するにつれて乗客も増えるから、バスを走らせれば、走らせたぶんだけ儲かる。バスは相変わらず混んでいるけど、本数が増えて便利になる。
 発展の過程では制度が整備されていないので、さまざまな抜け道がある。
 中国の場合、中・小型のバスは、個人事業主のバス運転手が多い。バスは自分の持ち物で、バス会社に所属してある路線の業務を請け負う。いわゆる、オーナードライバーだ。運転手の女房が車掌を務める。
 始発のバスターミナルから乗る乗客の切符は、ターミナルの切符売場で販売するのでバス会社が把握できるけど、途中乗車のぶんまでは把握できない。そこで、バスターミナルを少し出たところに乗客が待っていて、車掌と料金を交渉して乗車する。バスターミナルから乗るよりも、安い料金で乗ることができる。もっとも、座席がいつも空いているとは限らないので来るバスが全部満席でけっこう待たされることもしばしばだ。それでも、待った分だけバス代が安くあがる。途中乗車分の収入は、当然、オーナードライバーの実入りとなる。バス会社も黙認していたというか、それがルールだったみたいだけど、ただ事故が起きたときは厄介だ。定員オーバーが発覚すれば、バス会社もドライバーも政府の交通当局や裁判所に責任を問われることになる。
 新規参入が増えすぎると、今度はバスの供給が過剰気味になる。十年前の中国がそんな感じだった。
 オーナードライバーにはノルマがあるから、始発のターミナル駅である程度乗客を乗せなければならない。そこで、出発時間をすぎても発車せずに乗客がくるのを待っていたりする。そうすると次のバスの乗客を取ってしまうことになるので、次のバスも乗客が足りずに出発を延ばす。ひどい場合、次のバスの発車時刻間際になってようやく出発したことがあった。当然、ダイヤが乱れる。
 問題はダイヤの乱れだけではない。
 乗客不足のまま出発することが多くなれば、バス会社の収入が減る。そこで、バス会社は市内で拾った乗客については、郊外のチェックポイントで乗客数を報告させたうえでそのチェックポイントで正規の切符を買わせるようにして、運賃がオーナードライバーの懐へ入るのを防ぐ。到着地近くの郊外のチェックポイントでも乗客数を報告させ、途中乗車して到着地まで行く客については、そこで切符を買わせる。長距離路線の場合、中間の都市のバスターミナルでも同じようにして、正規の切符を買わせるようにする。こうなると車掌の存在意義がなくなるので、かあちゃん車掌が減る。オーナードライバーといっても、自分自身の懐へ直接入る収入が激減するので、ほとんどサラリーマン運転手と変わらない。バスで大儲けした時代は終わりを告げる。
 モータリーゼーション、つまり自家用車の普及が始まれば、マイカーで異動する人が多くなるのでバスの乗客は減り始める。これが今の中国だ。長距離路線の需要はまだまだ旺盛みたいだけど、広州の郊外では座席の空いたバスを見かけるようになった。中国の場合、貧しい農民や出稼ぎ労働者が多くて車を買えない人が多いからバスの役割は今でも大きいけど、そのうち、日本みたいに地方のバスは通勤時間帯以外はけっこう空いているような状態になるのかもしれない。もっとも、春節(中国の旧正月)や十月の国慶節の時は、何億人もの人々が「民族大移動」するから、いくらバスを走らせてもぜんぜん足りないわけだけど。
 経済の発展していない国では、がらがらのバスを走らせる余裕はない。ある程度発展した国でないとできないことだ。需要の少ない時間帯でもバスが走るということは便利さの証でもある。空いたバスをみるたびに、中国もそれなりに発展した国になったんだなあと思う。


 

(2011年11月12日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第137話として投稿しました。 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/

歌詞で覚えた漢字の使い方(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第136話)

2012年11月06日 07時15分15秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 
 暗いと後ろ指を指されながらも、さだまさしさんの歌をよく聴いていた。
「オフコースだって暗いやん。『さよなら』って連呼するやろ」
 と反論しても、誰も賛同してくれなかった。
 さださんの歌詞の漢字の使い方はちょっと独特だ。

 たとえば、「幸せ」と言う言葉を漢字で表記する時、「倖せ」と人偏をつける。
 いい表現だなと思った。
 人偏のついているほうがあたたかい感じがする。
 そこで調べてみると、人偏の「倖せ」はたとえば「僥倖《ぎょうこう》」といったような思いがけない幸いの時に使われる漢字だとわかった。ふつうの「幸せ」とはちょっとニュアンスが違う。
 考えてみれば、倖せというものは奇蹟なのかもしれない。どこかに落ちているものでもないし、探したまわったからといって見つかるとは限らない。たとえ、手に入れても、いつまでも続くかはわからない。壊れやすいものだ。
 だからこそ、倖せは思いがけないものだし、大切なものなのだとも思う。

 山口百恵さんに提供したヒット曲『秋桜』は、この漢字で「コスモス」と読む。
 コスモスは英語の名前。和名は「秋桜」と書いて「あきざくら」と読んでいた。「秋桜」と書いて、そのままコスモスと読ませたところがミソだ。漢字には熟字訓といって、音読み、訓読みに関係のない読みを与える方法がある。たとえば、「七夕(たなばた)」もそうだし、「二十歳(はたち)」もそうだ。「秋桜」という漢字に英語名の熟字訓を与えたことで、コスモスのイメージがぐっと強くなった。
 熟字訓というものは、大和言葉に漢字をあてはめるものであって、英語の言葉を熟字訓として使うのは日本語の正しい使い方ではない、という反論もあるかもしれないけど、言葉はそもそも生き物だ。世につれて変化する。新しい表現を「発明」するのも表現者の大切な仕事だ。それこそが創意工夫なのだから。

『津軽』という曲には「蕭々(しょうしょう)」という表現がある。
 物寂しい様のことだそうだ。
 漢字を見ただけでもなんだかさびしそうだ。「蕭」はもともとよもぎの一種を表す漢字だったようだ。よもぎがさびしく風に揺れるところから、こんな表現ができたのだろうか?
 辞書には「蕭々と風が吹く」、「雨が蕭々と降る」といった事例が載っている。

「知る」と書くべきところを「識る」という書き方もあるのだとさださんの歌詞からおそわった。一般的には「知る」と書いて十分に通じるのだけれど、「認識した」ということを強調したい場合、「識る」と表現する方法もある。
 厳しい局面に立たされた時や、日常生活の何気ないことでも、はっとおどろいて今まで気づかなかったことに、気づかせられることがある。今まで認識していなかったことを認識させられる時がある。そんなシーンを描く時は「識った」と書きたくなる。

 まだまだほかにもいろいろあるけど、これくらいにしておこう。
 さださんの歌詞を読んでいてわかったのは、漢字には一般的な用法以外にいろんな表現方法があるし、いろんな工夫の仕方があるということだ。
 漢字なんてどうでもいいじゃない、と思う人がいるかもしれない。
 できるだけ漢字を使わずにひらがなにしたほうがいいと考える人もいるだろう。
 人それぞれの考え方だから、自分の好きな方法で書けばいいと思うけど、漢字にしかできない表現がある。ところどころ、漢字を工夫して小説を書くのも面白い。


 

(2011年11月5日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第136話として投稿しました。 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/

雲南の旅2012 ~石屏6

2012年11月04日 04時51分53秒 | フォト日記


 雲南省の南部にある石屏郊外の写真。
 とびらの写真は農家の庭で干していたとうがらし。
 激辛料理の雲南では、農家へ行くとざるに入れたとうがらしをよく見かける。


 

 

 

 とうもろこしとバナナの木


 

 田んぼを見張っている案山子。


 

 畑に成ったとうがらしの実。


 

 三輪バイク。雲南省では「鋼鉄」と呼ばれている。


 

 石屏の町のすぐそばにある異龍湖の水上レストラン。


 


 

 

 道端で売っていた蓮の実。
 そのまま生で食べてもおいしい。



 ※雲南の旅2012シリーズは今回で終了です。

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