風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

空飛ぶクジラはやさしく唄う 第4話

2011年12月19日 07時35分15秒 | 恋愛小説『空飛ぶクジラはやさしく唄う』

 あの頃、君の背中が僕の支えだった



 いつの間にか、コーヒーが運ばれていた。
 ミルクをすこし入れて一口飲むと、とりとめもなく中三の頃のことが脳裡に甦った。
 一学期の半ばに席替えがあって、ふたりの席は離ればなれになってしまった。授業中に一緒にプリントを見たり、消しゴムのやりとりをしたりすることも、遥の透明な香りにつつまれることもなくなってさびしかったけど、それでも通路をはさんで二つ斜め後ろの位置だったから、黒板を見れば自然と遥の後ろ姿が目に入った。
 白いブラウスにブラジャーの線がくっきり浮かびあがった遥の細い背中。脆いクリスタルのように輝いて、僕の目にはまぶしかった。ブラウスのしたに着こんだ体操服のゼッケンが見えたこともあれば、体操服姿に濃紺のスクール水着が透けていたこともあった。遥は板書をノートへ写し終えると軽く首を振って頰にかかった髪を払う癖があるのだけど、振り払った髪に光がこぼれるのを見てはなんともいえない想いが胸にこみあげ、僕は誰にもさとられないようこっそりため息をついた。
 あの頃、そんな遥の背中が僕の心の支えになってくれた。
 中学三年生になってから、僕の生れ落ちた家庭は壊れ続けた。
 二つ年下の弟が不登校になり、どうすればよいのかわからなくなった母親は一日中ヒステリーを起こし、会社で左遷された父親は父親で、酒びたりになって家にいる時はいつもアルコールの臭いをまき散らした。
 僕は食事以外は勉強部屋に閉じこもったまま、なるべく家族とかかわらないようにした。とりわけ、母親が僕へ向けるヒステリーがたまらなかった。母親はなんでもないことで理不尽な怒りを爆発させ、ひどく当たり散らした。心を金槌で叩かれるようでつらかったけど、いくらそれを訴えてみたところで、いくら反抗してみたところで、僕の話に耳を傾けようとはいっさいしてくれなかった。母親はみみず腫れにはれあがったエゴがずきずき痛むようで、僕の胸のうちなど歯牙にもかけず、むしろ自分の怒りをたぎらせるだけだった。弟よりも母親のほうが荒れていたのかもしれない。父親は家へは寝に帰ってくればいいという態度を変えず、自分の家庭をホテルくらいにしか思っていなかったようだ。そんな家族がよい方向へ向かうわけもない。僕にとって、家庭は出口の見えない地獄へと変わり果てていた。
 家が火事になる夢を見てよくうなされた。誰もいない家で煙にまかれる場面から目覚めると、僕はかならず金縛りにあっていた。息苦しさと身動きのとれない体に耐えながらまっくらな天井を見つめ、歴史の教科書に載っている平安朝や鎌倉時代の地獄絵図にはどうして一つ屋根の下に暮らす人間がたがいに苦しめあう「家族地獄」が描かれていないのだろうと、ぼんやり不思議に思った。幼い頃は、父も母もほがらかで楽しかったのだけど。
 でも、家でどんな嫌なことがあっても、心が割れそうになっても、翌朝登校して遥の背中を一目見れば、僕の心は洗われた。彼女と言葉を交わせば、「おはよう」の一言だけでも、たわいもない話題でも心がなごみ、心にのしかかった重圧をすべて忘れることができた。
「遥がいたから、ここまでやってこられたんだよな」
 僕はひとりごちた。
 自分のつらさから逃れるために、僕は遥を利用していたことになるのだろうか。自分が生き延びるために遥をいいようにしていたのだろうか。
 たしかに、僕には遥が必要だった。
 必要ということは、相手を利用して自分のために役立てたり、自分の欲望を満たしたいということなのだろう。だけど、誰かが支えになってくれなければ、吹きさらしの荒野でしかないこの世を生きていかれない。自分の家族さえも信頼できない酷薄な人間関係のなかで、すっかりすりきれてしまう。
 中三の夏休みも終わりかけの頃、模擬試験の会場でばったり遥と出会った。試験が終わってから、僕は遥を誘って河川敷の公園へ行った。
 堤防の芝生に自転車を横倒しに置き、遥と並んで坐った。学校の外で二人きりになって話をするのは初めてだったから、僕はどうしていいのかわからず、これもデートのうちに入るのかな、なんて考えながらやたらと芝をむしった。心があふれそうで、心が溶けてしまいそうだった。
 ポスターカラーで塗ったような青空に入道雲がどこまでもそびえる。誰かが練習しているサックスの音が流れ、野球用のグランドでは子供たちがフリスビーを追いかけていた。二両編成の電車ががたごとと音を立てて赤錆色の鉄橋をゆっくり渡る。
 横目で遥の姿を盗み見ると、遥は気持ちよさそうに目を細め、雲を眺めている。素敵な二重まぶた。すっと筆をおろして描いたような小さな鼻の稜線。真綿のように純白なやわらかい頰にうっすらとりんご色がさしている。遥のなにもかもが透き通っていた。胸がきゅんとした。
 ふと、彼女の肩に赤蜻蛉《あかとんぼ》が無邪気にとまる。
「天草、じっとしてて」
「なに?」
 遥は、手でかかえた膝をすくめる。
「赤とんぼ」
 僕はとんぼの目の前で指回しをした。じっとしたまま動かないとんぼの後ろからそっと左手をまわし、人差し指と中指で尾を挟んだ。とんぼは赤い体を折り曲げて逃げ出そうとしたけど、もう遅い。
「トンボ葉巻」
 僕はとんぼの尾を自分の唇に当て、煙を吐くまねをした。とんぼの体が葉巻のようで、広げた羽が煙のように見えるから、僕の田舎ではそう呼んでいた。
「瀬戸君、上手ね」
 遥は静かに微笑み、頰にかかった髪を人差し指で耳の後ろへくるりとたたんだ。
「翅《はね》を持ってごらんよ」
「怖いわ」
「怖くなんかないよ」
「だって、折ったらかわいそうじゃない」
「卵を摑むように上からそっと持てば、大丈夫だよ」
「上手にできそうもないわ」
「それじゃ、尾っぽを摑んでごらん。いちばん後ろを持ったら、翅に触らなくてすむから」
 遥は赤とんぼの顔を覗きこみ、
「ちょっとの間だけ、許してね」
 と、とんぼに断って尾をつまんだ。
 囚われの身になっていても、とんぼは翅を奮《ふる》わせる。
「生きているのね。だから、羽ばたこうとするのね」
 澄んだ声を響かせた遥は、やさしい瞳になった。
「自由にしてあげようか」僕は言った。
「そうしましょ。あんまり人間に捕まっているとトラウマになっちゃうわ」
「天草はやさしいんだね」
「誰かを傷つけたくないだけよ。――さあ、飛んで」
 遥は手を離した。
 赤とんぼは風に舞い上がる。僕たちはいっしょに空を見上げた。とんぼの姿が青い風へ溶けると、遥は飛び切りの笑顔になった。
 もっと遥と仲良くなりたい。
 遥が見つめている先になにがあるのかを知りたい。
 芝生の上を転げまわって叫びたくなった。
 それから、僕はその一心で一生懸命しゃべった。
 僕がほとんど話していたけど、遥はくすくす笑いながら楽しそうに僕の話を聞いてくれた。どれくらい時間が経っただろう。あっという間のようだったけど、ふと気がつくと、川辺に密生した葦が夕焼け色へ変わっていた。すこしばかり、人をさみしくさせる色だった。
「そろそろ帰ろうか」
 そう言った僕は、思わず暗いため息をついてしまった。
「瀬戸君、どうしたの?」
 遥が心配そうな顔をする。
「ちょっとね。――家へ帰るのかと思うと、気が重くてさ」
 家のドアを開ける時ほど、憂鬱なことはなかった。僕が家のことをかいつまんで話すと、
「そうなの。瀬戸君のお家も大変なのね。――じつは、わたしも家へ帰りたくないのよ」
 と、遥はやるせなさそうに暮れなずむ川面を見つめ、自分の家庭のことを話し出した。
 彼女の両親は、小学校三年生の時に離婚した。
 物心のついた頃から家のなかでは諍いが絶えず、遥は身のすくむ思いで、罵り合い、時には摑み合いまでする両親を見ていたそうだ。遥によれば、傲慢な性格の父親はいつも遥の母親を罵倒して虐《いじ》め抜いたのだとか。三つ年上の姉は父親の家へ行き、遥は母親に引き取られたのだが、ほどなくして遥の母が鬱病にかかってしまい、仕事も辞めて入院しなければいけなくなったので、遥はカトリック教会が運営する孤児院へ預けられた。それを知った父親が遥を迎えにきて彼の実家で住むことになったが、母方の祖母がすぐに遥を取り戻しにきた。落ち着く先のない境遇が遥を無口にした。大人同士の醜い争いばかり見させられた遥は、神さま以外はなにも信じないと誓うようになった。
「それで、今はどうしているの?」
 僕は訊いてしまった。遥は大きな瞳を翳《かげ》らせた。
「ごめん。話さなくていいんだよ」
「いいのよ。――一時期、お父さんの家とお母さんの家を行ったりきたりしていたんだけど、今はお母さんとおばあちゃんと三人で暮らしているの。お母さんはしょっちゅう入院しちゃうけど」
「鬱病が治らないの?」
「ぜんぜん」遥は首を振った。「家の事情をよく知らない人は本人のせいだって言うんだけど、病気が長引くのは、おばあちゃんも悪いのよ」
「どうして?」
「おばあちゃんがお母さんのことを責めるの。あなたが鬱病なんかになってしまって、わたしは立つ瀬がないとか言ってね。心の病なんだから、本人にストレスがかかるようなことを言ったりしたら、だめなのにね」
「厳しいんだ」
「違うわ。病気になった娘より、自分のことのほうがかわいいのよ」
「どういうこと?」
「おばあちゃんは、いつでも自分がいちばんでいたい人なのよ。プライドが高いっていうか、見栄っ張りなのね。自分が相手よりうえに立っているっていつでも思いたい人なの。そのためにだったら、平気で嘘をつくし。相手が百円もっているって言ったら、わたしは二百円もっているわっていうような、どうでもいい嘘よ。ほんとはもってなんかいないのに、嘘でもなんでもいいから、負けたくないのよ。自分を低く見られたくないのよ。お弁当の工場でパック詰めなんかして働いていたごく平凡なおばあさんのはずなのに、自分をかわいく思いすぎて、思い上がった嘘つきになっちゃったんだわ。――そんなおばあちゃんにとってみれば、病気になったわたしのお母さんは面汚しでしかないの。娘をそんな病気にした自分はだめな人間だって証明しているようなものだもの。天草さん家《ち》のお母さんは鬱病だって後ろ指を指されたら、いくら見栄を張りたくても、張りようがないわよね。だから、まるで他人みたいにお母さんにきつく当たるの。自分の役に立たないから」
 遥は、恨めしそうに眉をひそめる。
「天草は、おばあちゃんのことが好きじゃないんだ」
「うん。おばあちゃんも孤独な人なんだなって思うけど、やっぱり、自分のことしか考えない人を好きにはなれないわ。おばあちゃんがお母さんを怒鳴りつけたり、出て行けって言ったりするから、お母さんはせっかく退院しても、いつでも病院へ逆戻りよ。おばあちゃんの家を出て、わたしとお母さんと二人で暮らしたいんだけど、ほかに行けるところもないから、しょうがないわね」
「家族って、憎みあうために一緒にいるのかな」
 僕がつぶやくと、
「そうかもしれない」
 と、遥はうなだれた。
 僕たちは駅前のお好み焼き屋で晩御飯を食べ、それから図書館へ行って夜九時の閉館時間になるまで本を読んだ。帰り道、虫のすだく県道を自転車で走った。家が近くなればなるほど、僕たちは言葉少なになった。
 遥が僕と友達になってくれたのも、恋人になってくれたのも、きっと、さびしかったからだと思う。思い上がった言い分かもしれないけど、遥も僕を必要としてくれていたのだろう。お互いに必要だったから、僕たちは見えない糸に導かれるようにして出会い、いっしょに暮らしたのだと、そんな気さえする。もし、遥の信じている神さまがほんとうにいるのなら、その神さまがふたりを引き合わせてくれたようにすら思う。
 ほがらかな笑い声が窓の外から響いた。手をつないで歩くカップルが目の前を横切る。僕は、倖せそうに肩を寄せた後ろ姿をなんとなく目で追った。



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