風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

空飛ぶクジラはやさしく唄う 最終話

2012年11月19日 07時25分44秒 | 恋愛小説『空飛ぶクジラはやさしく唄う』
 
空飛ぶクジラはやさしく唄う


   
 白い紙飛行機が病室の窓から冷たく晴れた空へ滑り出す。
「つかまえてごらん」
 僕は、病棟の下で待ち構えている男の子へ声をかけた。シアトル・マリナーズのスタジアムジャンパーを羽織った男の子ははしゃぎ声をあげ、三階からゆっくり舞い落ちる紙飛行機を追いかける。紙飛行機はやがてかくんと機首を下げ、滑り台をすべるようにして中庭のベンチへ落ちた。白い翼を拾った男の子は嬉しそうに僕を見上げ、
「おにいちゃん、ありがとう」
 と、無邪気な声を響かせた。
「じゃあね」
 僕は手を振った。男の子は手を振り返し、中庭の向こうの建物へ消えていった。
 さっとカーテンを引く音が鳴る。パジャマから服へ着替えた遥がベッドの縁に腰かけ、濃紺の靴下を履いた。
 過労による貧血という診断が下り、念のために一日だけ入院することになった。点滴を打ったおかげで血色はずいぶんよくなったのだけど、表情は冴えないままだ。遥は心の内を見つめ、ずっと物思いにふけっている。やり場のない怒りをこらえようとしてか、目尻がかすかに吊りあがる。白い肌が冷たく燃え、能面のように透き通った。
「行こうか」
 僕は、遥の着替えをつめたボストンバッグを持った。
 エレベーターで一階へ降り、中庭へ出た。消毒液の匂いから解き放たれ、やわらかい光がふたりをぬぐう。遥は、ふと立ちくらみをした。
「先生のところへ行こうよ。もう一度診てもらおう」
 僕は言った。
「いいのよ。貧血じゃないの。心が石になってしまったみたいだから――」
 遥は、さまよい疲れたようにつぶやく。
「ベンチで休もう」
 僕たちは、さっき紙飛行機が舞い落ちた中庭のベンチに腰をおろした。高くそびえる銀杏《いちょう》はすっかり木の葉を落とし、丸裸の枝を肌寒い風にさらしている。僕はコートを脱ぎ、遥の肩にかけた。
「お父さんのことを考えているの?」
 僕は訊いた。遥は唇を結び、小さく鼻を鳴らす。
「なにを思っているのか、話してよ」
 そう言っても、遥は黙ったままだ。
「たぶん、お父さんはもう現れないよ。刑事さんがきちんと念を押しておいてくれたし、今度あんなことをしでかしたら、どうなるかわかって――」
「それはいいのよ。わたしが考えているのはそんなことじゃないの」
 遥は、珍しくいらだたしそうにさえぎった。
「それじゃ、なにを考えているの?」
「わたしね、ほんとうはあの人を罰したくてしょうがなかったの。懲らしめてやりたくて、しかたなかったの。わたしが訴えれば、あの人はなにもかも失うわ。復讐したかったのよ」
「そう思って当然だよ。あんなことをされたんだから。僕だってそう思ったもん」
「あの人が刑務所へ入ったところを想像しただけでも、胸がすっとしたわ。楽しくてしょうがなかった。でもね、罰したいっていう気持ちも、やっぱり欲望なのよ。たぶん、一つ罰したら、もっともっとって求めてしまうと思うの。人を懲らしめたいっていう気持ちに切りなんてないのよ。わたしにだれかを断罪する資格なんてないのに――。
 警察沙汰にしたらお姉ちゃんが困るかもしれないっていったのは、あきらめる理由がほしかったからなのよ。――お姉ちゃんがわたしの気持ちをわかってくれたことはほんとうに嬉しかったんだけど、懲らしめたいっていう気持ちでこりかたまりそうな自分が怖かった。だから、お姉ちゃんと話した後、ずっと聖書を読んでお祈りしていたの。あの人を罰したいだなんて、そんなことばかり考えるわたしを救ってくださいって」
「そうだったんだ」
「間違ったことはしたくないもの。なにも考えないで、自分の気持ちのままに動いたほうがよっぽど楽だけど、でも、それじゃいけないのよね。あの人とおんなじになってしまうわ」
「立派だったと思うよ」
「でも、うまくいかなった。わたしなりに真剣に考えて、精一杯の気持ちで許したかったのに、あの人はわかってくれなかった。ほんのすこしでもいいから、わたしの思いをわかろうとしてくれたら、すこしは救われたかもしれないけど」
 遥はうつむいた。大きな瞳が小刻みに震える。深い虚無感と挫折感にとらわれたまなざしだった。
「残念だったけど、しょうがないって割り切るしかないよ。善意が相手に通じるとは限らないしさ。昨日も言ったけど、わかってもらえなくてもともとだから」
「頭ではわかっているんだけど、どうしても割り切れないのよ。いつかわかってくれるって信じられたらいいのに」
「あんまり考えすぎるのはよくないよ。遥は間違ったことはしなかったんだから、自分に自信を持っていいと思うよ」
「そんなの、もてないわ。なんだか、わからなくなってしまった」
 遥はやるせなく首を振った。
「疲れているだけだよ」
 僕は遥の肩を抱いた。だけど、遥は僕の手をそっとはずしてしまう。誰にも触れてほしくないのだろう。ふたりは無言で家路についた。

 それから二日間、遥はひと言も口を利かなかった。
 自分の殻に閉じこもってしまい、なにも言おうとしない。僕がなにかの拍子に物音を立てると、遥は頭がずきずき痛むように顔をしかめ、暗い目をして塞ぎこんだ。慰めの言葉をかけようとしても、遥は背中を向けて僕を避けてしまう。僕は、どうすればいいのかわからなかった。遥は学校もアルバイトも休み、買い物以外はずっと部屋にこもりっきりだった。
 オカマさんに話を聞いてもらいたくて連絡をとってみたのだけど、彼は忙しそうだった。年末が近づいているのに、勤め先の美容院はまだ人手が足りないままのようだ。いつもは朗らかな彼も元気がなく、喉を痛めたとかで声がしわがれていた。僕は、「また連絡します」とだけ言って電話を切るよりほかなかった。
「ただいま」
 いつものように学校から帰り、ふたりの家のドアを開けた。部屋には灯りがついていない。まだ六時前だけど、あたりはもう真っ暗で部屋も暗かった。僕は、近所の弁当屋で買ったかぼちゃコロッケと春雨サラダを手に提げていた。遥は疲れているから、料理を作る手間を省いてあげたかった。
 遥は出かけたのだろうか。惣菜を買って帰ると携帯のメールを送っておいたから、スーパーへは行かなくていいはずだ。どこへ行ったのだろう? 僕は不思議に思いながら、壁のスイッチを入れた。
 蛍光灯はすぐに灯らない。端っこがオレンジ色に変色しているから、もう寿命なのだろう。からからと乾いた音を立て、咳きこむように何回か明滅した後、ようやく明るくなった。カーペットにぺたりと坐りこんだ遥が、呆けた顔で天井を見上げていた。
「遥、どうしたの」
 僕は肩を揺さぶった。遥の瞳から涙がこぼれる。遥の目はどこかを見ているようで、どこも見ていない。
「なにがあったの?」
「ゆうちゃん――」
 遥は、放心したままかすかに聞き取れるほどの声で言う。
「黙ってたら、わからないよ。話してよ。また、お父さんがきたの?」
「違うわ」
「いったいどうしたの?」
「わたし、ほんとに、わからなくなったの。――わたしはなにをやっているんだろう? やっぱり、求めたりしたらいけないのよ。愛してほしいとか、わかってほしいとか、そんなふうに求めたりしたらだめなのよ」
「誰でもそう思うものだよ。すこしずつ慣れようねってこの前に話しただろ」
「そうだけど、やっぱりだめなのよ。求めたら、この始末だもの。きっと罰《ばち》が当たったんだわ」
「そんなことないよ」
「心がぐちゃぐちゃになってしまったの。どうしたらいいのかわからない」
 遥は頭をかきむしる。
「落ち着こうよ」
「そんなことできない」
「明日、いっしょに心療内科へ行こう。お医者さんに相談してみようよ」
「いやよ。お母さんといっしょになるのはごめんだわ。心療内科なんかへ行ったら、抗鬱剤を処方されてしまうわ。あれは麻薬なのよ。一度あんなものを飲み始めたら、一生飲み続けないといけなくなって、薬漬けにされてしまうわ。麻薬中毒にされるのとおなじだもの。心療内科の先生なんて白衣を着た麻薬の売人よ。患者の弱みにつけこんで、危ない薬ばっかり売りつけるのよ」
「そんなことないよ」
「わたしのお母さんは、十年以上も薬を飲み続けているのにぜんぜん治らないのよ」
「そんなことを言ったって、このままじゃどうしようもないだろ」
「どうしようもなくても、薬だけは飲みたくないわ。お母さんみたいに、入退院を繰り返すことになってしまうもの。薬だけは絶対にいや」
「それじゃ、どうすればいいんだよ」
「わからない。今は、砂のなかに埋まっているような感じがする。身動きがとれなくて、息苦しくて、はい上がろうにも、はい上がれないの。このまま窒息してしまいそう。死んだほうが楽なのかもしれない」
「そんなことを言わないでよ。今までなんのためにがんばってきたんだよ」
「がんばらないほうがよかったのかもしれない。なにをやっても、どうせむだなのよ」
「そんなことないってば」
「ゆうちゃんになにがわかるのよ」
 遥は顔をおおって泣き始めた。
「僕は遥のことをわかっているつもりだよ」
「つもりでしょ。ほんとうのことはわからないのよ」
「そんな」
 僕は返す言葉を失った。
 今まで何度か喧嘩をしたこともあるけど、遥がこんなことを口走ったのは初めてだった。中三の時に出会ってから、今まで一度も言ったことのない言葉だった。僕たちはいつもわかりあおうとしてきた。それだけが僕たちの命綱だった。
「ゆうちゃんは、わたしのことなんてなんにもわかっていないのよ。やさしそうなふりなんてしないでよ」
「とにかく、落ち着こうよ」
「だから、できないっていっているじゃない。もうなにも話さないで」
 遥はヒステリックな叫び声を上げ、床にうずくまる。遥は、これまでにないほど激しく混乱している。すこし冷静になれるまで、時間が必要なのだろう。気分さえ鎮まれば、遥もいつものように落ち着いて話すだろうから。父親にまったくわかってもらえなくて、ひどく傷ついてしまったのだ。むりもない。
 僕は腫れ物に触るように遥をそっとしておいた。そのうち気分が上向くだろうと待ったのだけど、いつまでたっても塞ぎこんだままだ。死んだ愛が遥の心のなかで腐り始め、そのなかで立ちすくんでいるのかもしれない。遥は泥沼にはまりこみ、なす術もなく沈みゆく人のようだった。
 どうすることもできないまま、一週間ばかりが過ぎた。
 遥は食事もろくにとらず、見るみる間に痩せこけた。頰がげっそりして、蒼白い顔に目ばかりが痛々しくぎらつく。まるで、追いつめられた手負いの獣のようだ。いらだちを隠さなかったのは、あの時の一回切りだけだけど、遥はよそよそしく僕を避けた。夜は床に布団を敷き、別々に寝た。僕は、遥の他人行儀な態度が悲しかった。なんでもいいから、ぶつかってきてほしかった。そうしてさえくれれば、いくらでも抱きとめようがあるのに。

「だいじな話があるの」
 遥がぽつりと言った。僕は要らないプリントの裏にмороз(マローズ・酷寒)と書いてた手をとめ、鉛筆を置いた。明日、ロシア語の単語テストがあるから、机に向かって暗記していた。窓の外は木枯らしが吹き、どんより曇っている。廃品回収車の間延びしたテープ音声が風に乗って途切れとぎれに聞こえてくる。
「なに?」
 僕は遥に向き直った。遥はゆうべ、オカマさんにデザインしてもらった髪型を元へ戻した。愛らしくぴょんと跳ねていた髪にストレートパーマを当て直し、前髪もきちんと切りそろえている。昨日、遥が家へ帰ってきた時、僕は髪型のことを言ったのだけど、遥はなにも言わず、申し訳なさそうに顔を伏せただけだった。
「わたしね、自分のことがよくわからなくなってしまったの」
「ゆっくりいこうよ。あせることなんてないんだから」
「ゆうちゃんはわたしのことを一生懸命考えてくれているのに、ひどいことを言ったりして、ごめんなさい」
「いいんだよ。べつに気にしてないから。遥が苦しいのはよくわかっているし」
「考えれば考えるほど、自分のことがわからなくなってしまったわ。なんのために生きているのか、自分のほんとうの気持ちがなんなのか、さっぱりわからないの。虚しくてやりきれなくて、息がつまりそうで、ただそれだけ。――わたしは自分のことなんてなんにも知らない。――だから、ゆうちゃんのこともよくわからないの。――自分のことを知らない人は、ほんとうに誰かを愛することなんてできないのよ。だから――」
 遥は言葉を詰まらせた。
「だから、なに――」
 僕は、冷たい風が胸に吹き抜けるのを感じた。
「これ以上、迷惑をかけられないわ。――だから、別れてほしいの」
 遥はつらそうに肩を震わせる。
 僕はじっと遥を見つめた。いろんな想いが泡のように浮かんでは、言葉にならないまま消える。心のともし火をふっと吹き消されてしまったようだ。僕にとって、遥との愛はオリンピックの聖火のようなものだった。僕たちは約束の地へ向かって走る聖火ランナーのはずだった。たとえつらいことに出くわしたとしても、今まで大切に守ってきたものをかき消してしまうだなんて、一度も考えたことがなかった。指先から、つま先から、力が抜ける。
「本気で言ってるの?」
「わたしは真剣よ。だって、ゆうちゃんに面倒ばかりかけているし、そう思うと心苦しくてしょうがないの。ゆうちゃんはもっと幸せになっていいのよ。そうなるべきなんだわ。わたしなんかがそばにいたら足手まといだもの」
「足手まといだなんて、僕は遥のことをそんなふうに思っていないよ。遥を幸せにしたいし、遥とじゃなきゃ、幸せになれないんだよ」
「どうして? わたしと付き合っていいことなんてないでしょ。楽しいことなんてないもの」
「僕は、こうして遥といっしょに暮しているから幸せなんだよ」
「ごめんなさい。――自分のことがわからなくなったら、ゆうちゃんへの愛情も消えてしまったの。今は、ゆうちゃんが赤の他人に思えてしょうがないのよ。いっしょにいるのも、なんだか苦痛だし、――窮屈だし」
 遥は言いにくそうに話し、目をそらす。
 僕は部屋を見渡した。
 ふたりで暮してきた狭いワンルームがなぜかがらんとして見える。ファッションケースの上に飾ったトトロとネコバスの人形も、本棚の隅に飾った陶製の回転木馬のオルゴールも息づかいをやめ、この部屋をつつんでいたあたたかい雰囲気もどこかへ消えてしまった。まるで誰も遊びにこない遊園地にいるようで、さびしい。
「暗いね」
 僕は立ち上がって蛍光灯のスイッチを入れたのだけど、とうとう切れてしまった。スイッチを入れなおしても、明かりがついてくれない。
「散歩に行ってくる」
 僕はそのまま部屋を飛び出した。
 すこしだけ家の近所をぶらついて気持ちを落ち着かせるつもりが、いつの間に電車に乗っていた。どこでどう乗り換えたのかもわからないけど、気がつくと荒川の堤防に立っていた。万力で締めつけられたような心の痛みを感じたから、無意識のうちにだだっ広い場所を求めたのかもしれない。
 ゆっくり流れる川は曇り空を映して鈍色に染まっていた。枯れたすすきが土手に揺れ、サッカーのユニホームを着た少年たちが河川敷のグランドで練習に励んでいる。僕は堤防の上をとぼとぼ歩き、適当なところで土手の斜面に腰かけた。
 ひょっとしたらとは考えていたけど、まさかほんとうに遥があんなことを言い出すとは思いも寄らなかった。今から思えば、遥のよそよそしさと冷たさはそのシグナルだったのだろうけど。
 今まで遥とふたりで幸せになろうと思ってがんばってきたのに、いきなりあんなことを言われても、すぐには納得できない。今までの努力は何だったのだろう。中三の頃から、僕たちは青春のすべてを注いでわかりあおうとしてきたはずなのに。
 僕は重たい空を見上げた。
 世界の果てまでおおった厚い雲はじれったそうに震え、今にも泣き出しそうだ。そういえば、遥とふたりで地元の土手へよく通っていた頃、雨に降られたことがあった。
 ちょうど、今と同じ冬の初めだった。休みの日に土手で落ち合っては、お互いに本を貸し借りした。あの日、僕はジッドの『狭き門』を遥へ返して、ドストエフスキーの『貧しき人々』を貸したのだったと思う。話しこんでいるうちに突然土砂降りの雨が降り出したから、僕たちは悲鳴をあげ、あわてて鉄橋の下へ駆けこんだ。ほっと一息ついたと思ったら、今度は電車が通り、大粒の滴をばらばらと振り落として行った。びっくりした僕たちはなにを思ったのか、雨へ飛び出してしまった。なんだかおかしくて、くすくす笑った。愉快そうな遥を見ているだけで、僕はなにもかもが満たされた。ほかのものなど、なにも要らなかった。
 むりに引き留めようとするよりも、あっさり別れてあげたほうがいいのだろう。
 遥の横顔は苦しげだった。遥は、僕を裏切ってしまったと自分を責めている。そんな遥は見たくもない。楽にしてあげたい。
 遥の気分がすっきりして、それで人生をやり直せるのなら、別れたほうがいいに決まっている。こんがらかってしまった糸の結び目は、切ってしまうよりほかにどうしようもない時がある。それが愛なのかどうかはわからないけど、やさしさなのかはわからないけど、今はそうするしかないのだろう。
 遥はきまぐれでものを言う女の子ではない。遥が別れたいと言ったのはよほどの理由があるからだ。もしかしたら、僕が一所懸命支えようとしたのが、かえって重荷になったのかもしれない。遥の言った通り、僕は遥のことをわかったつもりになっていただけなのかもしれない。
 僕は川岸まで駆け、あたりに転がっている石を手当たり次第、川面へ投げこんだ。石は、荒川のごく表面だけを跳ね飛ばしてすぐに沈んでしまう。石を投げつけたところで、川の流れが変わるはずもなければ、堰きとめられるはずもない。だけど、そうせずにはいられなかった。何度もなんども、息が切れても投げ続けた。

 大学の女子寮に空き部屋があったので、遥はそちらへ移ることになった。
 ふたりで遥の荷物をダンボールにつめ、先に宅配便で送った。遥は薄いカーテンを外し、冬用の厚いカーテンにかけ替えてくれた。
「結局、振り出しに戻ってしまったのね」
 パソコンやデジカメといった宅配便で送れない荷物をまとめながら遥はしんみり言った。最後の荷物は、リュックと紙袋に入れて遥が自分で運ぶ。それが僕たちのお別れだった。
「どういうわけか、今は世の中の人が全部敵に思えてしょうがないの。ゆうちゃんと出会う前もそうだったわ。自分の世界が崩れないように、わたしは必死になって自分の壁を守ろうとしていたの。ゆうちゃんがせっかくその壁を突き崩してくれたのに、また壁を作ることになってしまったわ」
 僕はなにも答えず、パソコンのケーブルを紐でくくった。
「怒ってるの? そうよね。怒って当然よね」
「そんなことないよ」
「それじゃ、どうして黙っているの」
 遥はしょんぼりする。
「早く荷物を片付けなきゃね。寮の職員の人が向こうで待っているんだろ」
 僕は素っ気なく言った。そうでもしないと、遥を引き留めてしまいそうだ。
「そうだけど――」
 遥は洗濯できなかった汚れ物をビニール袋にまとめ、いつか伊勢丹で買ったリュックの底へ入れた。
「楽しかったわ」
 遥は僕を見つめる。僕は遥と目を合わさないようにして束ねたケーブルやマウスを紙袋につめた。
「さあ、できたよ。駅まで送っていくよ」
「ごめんなさい。勝手に出て行くのに、楽しかったなんてわがままよね」
 遥は、部屋の合鍵をちゃぶ台のうえに置き、
「今までありがとう。――ゆうちゃんは幸せになってね」
 と言って立ち上がる。僕は、遥が持とうとした紙袋をひったくるようにして自分の手に提げた。これが遥にしてあげられる最後のことだから。

 僕たちの物語は終わった。
 喫茶店の窓の外は夕暮れだった。買い物客がせわしそうに歩いている。
 僕は丸太造りの壁際まで行き、ふたりで花火大会へ行った時の写真を取り去ろうとした。思い出を取っておきたいからというわけではない。思い出なら胸の中にいくらでもある。遥と過ごした日々は僕の青春そのものだから、色褪せるはずもない。ただ、この店へくるたびに遥との日々を思い出すのは、せつなかった。
 写真に留めた画鋲を外そうとして、ふと迷った。
 ふたりの思い出なのに、ふたりで貼った写真なのに、僕一人で勝手にはがしてしまうのはどうなんだろう?
 憎くて別れたわけじゃない。嫌いになったわけでもない。いろんなことがうまくいかなくて、疲れてしまっただけのことだ。悪いのは僕だ。力が足りなくて、遥を幸せにしてあげられなかった。彼女につらい思いをさせてしまった。
 僕は画鋲から手を離した。
 このままそっとしておこう。
 愛の意味なんてまだわからないけど、いつか笑って話せる日がくるかもしれないから。
 ログハウス風のドアを開け、外へ出た。
 ビルに切り取られた東京の空は茜色に染まっていた。クジラの形をした雲はまだ空に浮かび、夕陽を浴びて黄金色に輝いている。
 僕は立ち止まり、ぼんやりその雲を眺めた。お母さんクジラのようなやさしい雲は、唄っているような、笑っているような。
 今は虚ろな気分だけど、なにかが僕をどこかへ導いてくれるのだろう。どこかへ連れて行ってくれるのだろう。僕は、遥が編んでくれたマフラーを首に巻いた。マフラーに顔をうずめると、遥の透明な香りがかすかに漂った。
 
 

 了

 
※本作は『小説家になろう』サイトへ投稿したものです。
 本作のURLはこちら↓
http://ncode.syosetu.com/n0481j/


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