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風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

寿司は握れるのか?(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第362話)

2017年07月26日 06時45分45秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 アメリカへ移住した家内の姉夫婦とその娘が上海へ里帰りして我が家に滞在している。今は、僕、家内、お義母さん、義姉夫婦、家内の姪の六人で暮らしている。僕以外はみんな上海人だから、家のなかは上海語が飛び交う。にぎやかだ。あまりにもうるさいので喧嘩でも始まったのかとリビングまで様子を見に出たら、みんな興奮しておしゃべりに興じていることが何度もあった。とにかく、みんな大声でよくしゃべる。
 一緒に食事をしていた時、義兄が、
「君は寿司を握れるのか?」
 と訊いてきた。日本人なのだから、当然できるだろうというような尋ね方だった。
「うーん、寿司を握ったことはないなあ。巻き寿司なら作ったことはあるけど」
 なぜこんなことをいきなり訊くのだろうといぶかしく思いながら僕は答えた。
「そうか。もし寿司を握れるのだったら、知り合いがサンフランシスコでスシ・バーをやっているから紹介してあげようと思ったのだけどな」
 義兄は残念だなという風に腕を組んで首をかしげる。
 どうも義兄は僕たち夫婦とお義母さんをアメリカへ呼び寄せたがっている。アメリには中国人が大勢住んでいるけど、みんなこんなふうにして呼び寄せられるのだろうなと思った。
 僕のアメリカでの就職先まで心配してくれるのはありがたいのだが、サンフランシスコで寿司職人をやるという人生は考えたことがない。英語の話せない僕がアメリカに住むということを考えたこともなければ、恐ろしく手先の不器用な僕が寿司職人になるということも考えたことがない。ましてや、その二つを結び付けて人生設計をするなどとは、まったくの想定外だ。サンフランシスコで寿司職人をするよりも、異世界へ転生して勇者になるほうがまだ現実的な気がする。外人や華僑相手に寿司を握って家族を養えるのなら、それはそれで悪くないのかもしれないけど。
 僕が返事に困っていると、
「寿司なんて習えばすぐに握れるようになるわよ」
 と、義姉と家内がフォローを入れる。「日本人のくせに寿司を握れないというみっともなさ」をカバーするかのような言い方だった。日本人なのだから、すこし練習すればすぐに覚えるわよというような。そんなフォローはいらない。角度の違うフォローだ。中国人だからといって、みんながみんなラーメンを打てるわけではないだろうに。
 藪から棒にアメリカで寿司職人をさせられそうになっていささか焦ったのだけど、「日本の代表的な料理は寿司。だから、日本人はみんな寿司を握れて当然」という目で見られることもあるのだな、とひとつ勉強になった。




(2016年7月18日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第362話として投稿しました。
 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/


満員バスの切符リレー in成都(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第360話)

2017年07月11日 07時30分15秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 二〇〇一年に初めて四川省成都へ行った。
 当時の成都はまだ地下鉄もなくて、市内を移動する際はすべてバスを使った。バスの料金は一元だった。当時のバスは大部分がエアコンなしだった。ごくまれにエアコンのついたバスがくるのだけど、そのバスの料金は二元だ。ピカピカの新しい空調付きバスがやってきたら、乗らずにそのまま見送って、エアコンなしのバスがくるのを待ったりした。そのバスは、夏でもないからクーラーを動かしていないのに、屋根にエアコンの機械を載せているというだけで二元も取る。サービスを提供していないのに二倍の料金とは理不尽だ。夏の暑いときなら喜んで乗ったかもしれないけど。
 もしかしたら今はワンマンバスになっているのかもしれないけど、当時はすべてのバスに車掌が乗車していて、その車掌から切符を買う決まりだった。昼間の空いている時は楽に切符を買えるけど、ラッシュ時だとそうもいかない。なにしろ、すし詰めのバスだ。車掌のところまでとても行けない。車掌も身動きが取れない。
 バスに乗った乗客は一元札を出して、隣の人へ渡す。すると、乗客たちは車掌のもとまで次から次へと一元札を手渡しでリレーする。お金を受け取った車掌が切符を出すと、また乗客がその切符をリレーしてお金を出した人に渡す。僕も一元札を高く掲げて隣の人へ渡してみると、吊革の当たりに次々と手が伸びて一元札が向こうへ渡っていく。ほどなく、ぺらぱらの小さな紙に印刷された切符が「ほら、おまえさんのだよ」という感じでやってくる。首をあげてリレーを見物しているとなんだか楽しかった。
 バスの定期券を持っている人は、切符を買う必要がないから、お金も渡さない。満員バスのなかでは車掌が全員の定期券を確認することはできないから、乗客も車掌へ定期券を見せない。定期券乗客のふりをして、切符を買わずにタダ乗りしようと思えばできる。案の定、当時知り合った四川人の若者のなかには、毎回、ちゃっかりタダ乗りしている人もいたりした。


(2016年7月16日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第360話として投稿しました。
 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/


経済技術開発区の企業誘致説明会(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第358話)

2017年06月27日 07時30分15秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

中国経済がイケイケドンドンだったころの話です


 中国のとある経済技術開発区の企業誘致説明会に出たことがあった。経済技術開発区とは外資と技術の導入を目的に作った工業団地のことだ。経済技術開発区は中国の各地に設置され、多数の企業が工場を建てている。広州の東側にある経済技術開発区では、そこだけでも三十数社の日系企業が集まっていたりする。
 僕が出席したのは、広西チワン自治州の経済技術開発区の説明会だった。広西チワン自治州は広東省の西側にあり、そのまた西はもうベトナムだ。部長さんが出席する予定だったのだが、急遽予定が入ったため、代理で僕が派遣された。様子を見てこいとのことだった。
 説明会の会場は広州の花園ホテルだった。広州でも老舗の五つ星ホテルだ。実を言うと、僕はそのホテルの採用面接に行ったことがある。日本人客も結構いるので、日本人のホテルマンを募集していたのだ。待遇は少し低いが、ホテルの部屋を無償で提供してくれ、朝と晩の賄いもついている。
「五つ星ホテルに住むなんてなかなかできないわよ。福利厚生はばっちりだと思うわ」
 面接官だった中国人女性マネージャーからこんなふうに誘われたのだけど断った。当時は広州のスラム街に住んで貧乏暮らしをしていたので、五つ星ホテルに住めると言われてもぴんとこなかった。
 午後四時の開始予定時刻前にホテルの会議室に入った。日系企業向けの説明会だったため、会場には日本人の企業関係者が集まった。
 ところが、時間になっても始まらない。遅れるというアナウンスすらない。四時二十分くらいになってようやく「主催者が遅れているので待ってください」とアナウンスがあった。やらなければならない仕事はいくらでもあるので、僕はノートパソコンを開けてぱちぱちとキーボードを叩きながら資料の翻訳などをした。それでも待てど暮らせど始まる様子がない。
 午後五時過ぎ――開始予定から一時間以上も経ってようやく主催者が現れた。開発区の責任者のおじさんと開発区のある市の女性市長の二人が挨拶を始める。おじさんは車が渋滞にあって遅れたと言い訳した。
「いい加減だな」
 僕は心のなかで首をひねった。ほんとうに車が渋滞したとしても、一時間も遅刻するのはひどい。
 女性市長が挨拶をしてその市の紹介をした後、日本の大手商社の日本人部長が説明を始めた。日系企業の誘致にはその大手商社もかんでいるようだ。南シナ海に面しているので、東南アジアとの貿易にはいいロケーションでこれから発展に期待できるなどと説明する。その後は、責任者のおじさんがその開発区の沿革や自治州の政府をあげて力を入れているなどと一通りの説明をした。
 その開発区は日系企業が少なく、僕の勤め先にとって進出するメリットはあまりなさそうだ。様子がわかったので六時になったら会場を抜け出ようと思った。ちょうど週末で、夜はプライベートの予定が入っていた。一時間も遅れて始まり、しかも用のない説明会に最後まで付き合う必要はない。
 終了予定時刻の五時四十分になった。あと四五十分は続くのだろうなと思っていたら、おじさんは突如、直立不動の姿勢になり、
「時間になりましたので、これにて説明を終了いたします。隣の部屋に食事を用意してございます。市長がおもてなしを致します。宴席は六時から始めたいと思いますので、皆さまふるってご参加ください」
 とのたまった。
 一時間も遅れて始め、時間通りぴったり終わるのには驚かされた。そもそも、メインは夜の会食で、説明会は宴会のイントロダクションにすぎないのだろう。向こうは会食の席で人間関係を作り、開発区へ進出しそうな企業を引っ張りこもうという算段なのだ。コネクション重視の中国らしい。もちろん、宴席は出なかった。
 会場を出る時、パンフレットとお土産の入った紙袋を受け取った。丈夫そうなしっかりした陶器のコップが入っていたので、事務所で使わせてもらうことにした。ある時、中国人の同僚がそのコップを見て、
「いいコップを使っているねえ」
 と感心したように言う。
 なんでも、そのコップは何年も使い続けているうちにお茶の味が陶器へしみこみ、しまいにはお湯を注いだだけでお茶の味が出るようにできた陶器なのだそうだ。とても高級な品なのだとか。お土産にそんな高価なものを配るくらいだから、開発区のおじさんたちはよほど接待に力を入れていたのだろう。コップはお茶の味がでるようになる前に、事務所の引っ越しの時にどこかへ行ってしまった。



(2016年6月30日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第358話として投稿しました。
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ぶりっ子甘えん坊作戦(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第356話)

2017年06月13日 07時30分15秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 家内の親戚の集まりに出た。おじさんの還暦を祝うために、上海郊外のレストランに集まってみんなで食事したのである。ただ、食事して祝いの言葉をかけるだけなので、日本のように赤いちゃんちゃんこを着せたりすることはない。
 僕の隣には、家内の従弟の夫婦が坐った。三十歳過ぎの彼らは結婚して六年ほどになる。子供はまだいない。
 彼らは先月沖縄旅行をしたとのことで、食事しながら日本のことなどを話をしたのだが、途中から家内の従弟の嫁の様子がどうもおかしくなった。
「わたしは日本が大好きだわ。だって清潔だもの。あと二十回くらいは日本へ行きたいかなあ」
 などと華やいだ声でいい、しなをつくって家内の従弟の腕を取って甘えたりする。それから、彼女は恋愛を始めたばかりの十代の女の子のように甘え続けた。家内の従弟はにこにことほほえんではなにごとかを彼女へささやきかける。
 しあわせそうなのは結構なのだが、隣でべたべたされるとこちらは困ってしまう。傍目からみれば、彼女はかわい子ぶりっ子しているようにしかみえない。取り敢えず、見て見ないふりをすることにした。ふたりだけのラブラブなオーラでつつまれているので、話しかけようにも話しかけられない。
 還暦祝いが終わって家へ帰った後、
「あの二人はえらく仲がいいんだね。結婚してずいぶん経つのにさ」
 と僕が家内に言うと、
「あれはね、彼女の作戦なのよ」
 家内は目を光らせる。
「どういうこと?」
「ああやってかわいいふりして甘えたおして、旦那に言うことを聞かせるのよ」
「へえ」
「最近の若い夫婦はそういうのが多いのよ。上海人の旦那さんは奥さんを大切にするから、ああやって甘えられるとなんでも言うことを聞いてしまうの」
「なるほどね」
「だってきつい物の言い方をしたら、言うことを聞いてくれるとは限らないじゃない。だから、じゃれて甘えて旦那をいい気持ちにさせて、自分の要求を通すのよ。彼女は巨乳でしょ。だから、家のなかでは従弟の腕にぎゅっと胸を押しあてて『お皿洗って♡』なんて言うらしいわよ。それで、いつも従弟は『僕がやるからいいよ』ってご機嫌で返事しちゃったりするのよ。それもしょっちゅうだって」
「うまいなあ」
 僕もそんなことをされたら「僕が洗うから」と言ってしまいそうだけど、毎回のようにやられてはかなわない。
 上海の女の子はしたたかだ。それにしても、上海の男は本当に奥さんに弱い。


(2016年5月11日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第356話として投稿しました。
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蛇口からぼうふらが飛び出た日にゃ(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第355話)

2017年06月06日 07時30分15秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 雲南省昆明で留学していた頃、通っていた大学の教職員用アパートに住んでいた。大学が六階建てのマンションを何棟も建て、それを教職員へ分配したものだ。間取りは2LDKや3LDKが多かった。教職員用アパートにはすでに退職した方が郷里へ帰ったりして貸し出している部屋がある。外国人留学生の宿舎もあったのだけど、それを借りた方が半分くらいの値段で済んだ。
 ある時、下痢が何日も続いた。変なものを食べたわけでもないのにおかしい。薬を飲んでも治らない。お粥だけの食事にしても治らない。どうしてだろうと首をひねった。
 そんなある朝、歯を磨こうとして蛇口をひねってガラスコップに水を入れると、水のなかに小さななにかが動いているのを見つけた。目を凝らしてみると、一、二ミリの細長い虫がくねくねといくつも泳いでいる。
「ぼうふらやん」
 僕は唖然とした。
 生水を直接そのまま飲むことはないけど、うがいした水が胃のなかへ入ったりはする。それで活きたぼうふらをそのまま飲み込んでしまったのだろう。道理でお腹の具合が悪くなるわけだ。
 授業が終わった後、水道局へ連絡して係員にきてもらった。事情を話すと、アパートの貯水槽の問題だろうから、まずそれを見るべきだという。水道局の職員が学校の教職員宿舎の管理事務所の担当者を呼び、いっしょに貯水槽を見ることになった。
 管理事務所のおじさんはぷんぷん怒っている。宿舎の管理事務所を飛び越していきなり水道局を呼んだものだから、おじさんの面子は丸潰れだ。でも、彼の面子なんてかまってられない。
 屋上へ出て貯水槽を見た。僕はてっきり鉄製のタンクが置いてあるものだとばかり思っていたのだけど、貯水槽はコンクリートで作ったプールだった。コンクリートの蓋がしてあるのだけど、その一部が壊れ、水面が露出している。蓋の壊れたまわりには蚊がぶんぶん飛んでいた。貯水槽はぼうふらの水溜りと化していたのだ。きれいな水のプールなんて、絶好の住処だから、卵を産み付けたくもなるだろう。それにしても、きちんと蓋をしないと、雨水が入ってしまうのだけどな。
 半年に一度、貯水槽の掃除をしなければいけないのだが、それもやっていなかったらしい。掃除しないものだから、ぼうふらが繁殖するままになった。水道局の職員にいろいろ注意され、管理事務所のおじさんはぽりぽり頭を掻きだした。最後は、悪かったねという感じで笑ってごまかして帰って行った。
 その翌々日、貯水槽は掃除され、ぼうふらは出なくなった。僕は虫下しを飲んで胃腸を掃除した。ほっと一安心だ。ただ、貯水槽の実態を見てしまった以上、水道水を煮炊きには使えない。十九リットル入り飲料水の特大ボトルとそれ専用の機械を買ってきて、炊事の時はそれを使うことにした。湯冷ましを飲むこともやめた。飲料水の特大ボトルは電話すれば新しいのを持ってきてくれる。ただ、歯磨きや洗顔に飲料水を使うのはあまりにもったいなくて水道水を使ったけど。
 まさか蛇口からぼうふらが出るとは思わなかった。


(2016年5月8日発表)
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昔物語 ~八十年代半ばから九十年代初めの上海にて(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第354話)

2017年05月30日 07時30分15秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 散歩がてら、上海人の家内が通っていた母校跡地まで連れて行ってもらった。母校跡地は閑静な住宅街のなかにあった。周囲には租界時代風の洋風アパートがたくさん残っている。静かでよいところだ。
 彼女は上海市内の延安西路付近にあった交通運輸学校へ通っていた。入学したのは一九八〇年代半ばのことだ。中国はまだ発展していなくて、今のように自動車が街にあふれるわけでもなく、人民の主な乗り物は自転車だった。家に電話のある家庭は稀だった。
 交通運輸学校は、「中専」に種別される学校だ。日本で言えば高専に相当する。大学進学率の低かった当時は、中専が人気だった。職業訓練を受けられるので就職しやすい。普通科高校よりも、中専を選ぶ人のほうが多かったほどだ。その学校は、交通科、運輸科、発動機科、財務科といったコースが設けられ、発動機科の学生がエンジンについて学ぶための小工場まだあったそうだ。家内は財務科に入学した。四年制の学校だったので、最初の一年間は学校内の寮に住み込み、後の三年間は自宅からバスで片道一時間かけて通った。
 学費は無料。無料どころか、生徒には毎月二十一・五元の生活費が支給された。当時、工場の工員の初任給は約三十六元だから、その六割ほどになる。月々の食費が十五元ほどで、それを差し引いても手元には六、七元が残る。ちなみに、街角の売店で売っている安いアイスが二角(角は元の十分の一の単位)だった。
 学校には大きな図書館があり、バスケットボール用の体育館もあった。体育館の天上にはミラーボールが取り付けてあって、夜は体育館がダンスホールに早変わりして学生達が社交ダンスを踊ったりしたのだとか。家内が入学した当時、十四階建ての高層校舎が建築中で、家内が通っている間に完成した。そんな高い建物はまだ少なかった時代だ。よほど財政が豊かな学校だったらしい。
 家内は、簿記や会計などを習いながら楽しく過ごした。先生はみな大学の教授でレベルは高かった。改革開放が始まって数年後の時代だったから若い先生が多く、先生方といろいろおしゃべりも楽しんだようだ。学校の前には立体交差のトンネルがあって、外国から来賓がくると、その車は必ず前を通る。交通運輸学校の学生は毎回駆り出され、小旗を振りながら来賓を歓迎したのだとか。
 毎朝、バスのなかで席を取って待ち、家内がくると席を譲れってくれる男子生徒がいた。彼は席を譲ることで愛情を表現していたのに、彼女はただ当然のように席に坐るだけで彼には話しかけなかった。彼も彼女へ話かけることはしなかった。その男子生徒はけっこうハンサムなのであこがれている女子生徒は多かったそうだ。家内は悪い気はしなかったものの、恥ずかしく話しかけられず、淡い恋心はそのうちそのまま終わってしまった。
 彼とは別の男子生徒が、「ジュースをおごってあげる」とモーションをかけてきて、彼女はいつも売店でジュースをおごってもらっていた。だが、毎回ジュースを飲み干すと「バイバイ」と言って彼を置き去りにしてさっさと家へ帰ってしまった。こちらは彼が子供に見えて相手にする気になれなかったのだそうだ。何度もジュースをおごってもらいながら話もしないとはいささかひどいけど、家内は三人姉妹の末っ子なので、ちゃっかりしているのかもしれない。ラブレターをもらったこともあるが、名前が書いていなかったのでそのまま放置して相手にしなかったという。
 二年生の時、クラスで事件が起きた。
 クラスメイトの女の子が付き合っていた二年先輩の彼氏と喧嘩をした。彼女は学校でも評判の美人だったそうだが、もう彼氏と別れたい気分になっていたようだ。彼はむっとしてむりやり彼女の手を引こうとした。二人は言い争いになった。
 早速、美女の母親が学校へ呼び出された。まだ保守的な時代なので、男女交際が明るみに出ると周囲の目は厳しくなる。美女の母親は先生と話しているうちに気を失って倒れてしまい、彼氏の親も呼び出されこっぴどく叱られた。美人は一週間学校を休んだ。すっかりしょげてしまった彼女は、それから長い間誰とも口をきかなかったが、スキャンダルの記憶が薄れるにつれ徐々に元気になった。
 家内は誰と恋をすることもなく、言い寄って来る男子につれなくしながら恋愛小説を読みふけり、そこそこに勉強してごく平凡に卒業した。
 卒業する際、学校から職業分配を受けて就職した。中国では一九九〇年代後半まで職業分配の制度があり、学校が卒業生の就職先を割り振った。職業選択の自由はなく、学生は学校の割り当てに従わなくてはならない。僕が雲南省で留学していた時、漢語コースの先生はみな職業分配によって先生になった人たちばかりだった。学校から先生になりなさいと命じられて先生になったのだ。
 ただし、この職業分配はコネがものを言う。親や親戚が共産党の幹部だったりするといい職場が分配された。交通運輸学校の生徒は交通局幹部の子女が多く、彼らは街中にオフィスを構えたいい就職先があてがわれたが、家内は下町のごく普通の家庭に育ったのでいいコネなどあるはずもない。就職先は町はずれの国営企業の工場の財務部だった。
 彼女はこの職場が退屈でしかたなかったそうだ。給与計算と決算の時は忙しいが、それ以外はあまり仕事がなく、暇を持て余した。
 その頃、中国は改革開放の好景気に沸きかえっていた。外へ出ればいくらでもチャンスがある。このまま工場の財務部で退屈な仕事を続けたくないと思った彼女は、就職してから二年後に工場を辞めた。ただし、学校は生徒を送り込む際、四〇〇〇元の手数料を工場へ支払っている。労働契約には最低四年間は勤務する義務が盛り込まれていた。二年間勤めたので、違約金としてその半分を学校へ払わなくてはならない。両親が当時の彼女の半年分の給料にあたるそのお金を工面して、家内は自由になった。
 交通運輸学校は数年前、上海市の郊外へ移転した。跡地には高層マンションが建ち並んでいる。これも時代の流れなのだろう。その周りをぶらぶら歩きながら、家内の青春時代の話をいろいろと聞き、僕たちは地下鉄に乗って帰った。



(2016年4月30日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第354話として投稿しました。
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三峡下りの死体(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第353話)

2017年05月07日 07時30分15秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 三峡下りは中国の数ある観光名所のなかでも特に有名なものだ。
 重慶から観光船に乗って長江の上流を下る。三峡の渓谷は長江の両側に険峻な山が連なりとても神秘的だ。
 家内は二十数年前、一九九〇年代の初めに行ったことがあるそうで、とてもきれいでよかったと言っていた。僕は残念ながら、テレビで何度も見て一度行きたいなと思いながらまだ行けないでいる。
 ある時、上海在住の日本人のおじさんたちと一緒に酒を飲んでいて、三峡下りの話題になった。みんな中国に十年以上住んでいる中国通の人たちだった。
 二〇〇五年頃に行ったというSさんは、
「川が汚かったよ。観光客が観光船からカップラーメンのカップだとか、お菓子の袋だとかをぽいぽい捨てるんよ。それで、そのゴミがあちらこちらでぷかぷか浮いてるんだ。武漢あたりでは、長江の魚を名物として出したりするけど、汚い川を見てからというもの、長江の魚がそんなものをえさにしているのかと思うと食べられなくなってしまった」
 という。同じく、その頃に三峡下りの観光船に乗ったというJさんは、
「渓谷の山はきれいでしたけど、川は汚かったですねえ。僕のときもゴミがたくさん浮いていました。死体も流れていたし」
 とうなずく。
「死体? 人間の?」
 僕は目が点になって思わず訊いてしまった。
「人間のですよ。一瞬でしたけど、浮いているのが見えました。観光船はそのままなにもせずに通りすぎてしまいましたけどね」
「それじゃ、俺が喰った長江の魚は、死体を食べた奴かもしれんね」
 Sさんは変なものを食べたかなあという感じだ。
「その可能性はないとはいえませんね」
 Jさんによると、川には死体がときどき浮いているものなのだそうだ。だから、長江に死体が浮いていたとしても別に不思議ではないのだとか。
 三峡下りに抱いていたロマンが壊れてしまった。なんだか。


(2016年4月23日発表)
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或る駐車違反(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第351話)

2017年05月06日 07時30分15秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 上海のとある道端に車が駐車してあった。普通の乗用車だ。フロントガラスには張り紙がしてある。
「警察の同志のみなさん。
 私は子供を幼稚園へ送ってきます。五分で戻ってきます。
 お願いですから駐車禁止違反切符を切らないでください。
 ご理解をお願い致します」
 子供を送ってさっと帰ってくるから大目に見てねという気持ちはわかる。
 しかし、やはり警察は駐車違反切符を切り、フロントガラスに張り付けた。運転免許証と身分証を持っていつまでに警察署へ出頭せよと書いてある。
 警察官はこう張り紙することも忘れなかった。
「私は十分待ったよ



(2016年4月16日発表)
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上海大腸麺を食べに行った(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第350話)

2017年05月05日 07時30分15秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 家内と一緒に上海大腸麺を食べに行った。
 上海市内の老西門付近にある地元では知られた店だそうで、店はきたないが味はうまいという典型的な名物ラーメン店だった。
 大腸麺の店は道路沿いに面した建物の半地下にあった。上海は昔の西洋式建築があちらこちらに残っている。この店が入っている建物も昔風の作りで、道路沿いは半地下式になっていた。その半地下の店舗に中二階を作り、中二階に八席、一階に五席のテーブルを設けている。店はごく狭い。店のなかには「原料の大腸が三〇%値上がりしたので、当店も値上げします」などと大きく張り紙してあったりする。隅のテーブルには、切った豚の大腸が大きなボールに盛ってあった。
 ちょうど昼どきとあって、店は満員だ。店のなかにテーブル待ちと持ち帰り待ちの行列ができていた。
「ここで食べる人は先に席についてね。注文はその後だよ」
 女将さんはぶっきらぼうに言い、スープなし麺をビニール袋に入れて持ち帰りの客をせっせとさばく。僕らは半地下の一階テーブル待ちの行列に着いたのだが、前に数人しかいないのに、なかなか席につけない。二十分ほど並んでようやく坐ることができた。
 テーブルについて、なぜ行列が前へ進まなかったのかわかった。注文しようにも、店員がまともに取り合ってくれないのだ。僕らの十五分ほどまえにテーブルについた女性の二人連れはまだラーメンがきていない。きていないどころか、注文もできていない。ずっと席に座って待ったままだ。
 中二階の席も待たされっぱなしの客が多いと見えて、時々客がおりてきて、
「もうずいぶん待ってるんだけどさあ、いい加減ラーメンを出してくれよ」
 と催促したりする。すると、いかにも頑固そうな丸刈り頭の大将が、俺は忙しいんだというオーラを全開にして、
「最低三十分は待ってもらわないといけないわな。待ちたいなら待てばいいし、待てないんだったら帰ってくれて結構だから」
 とうるさそうに言い、厨房へ引っ込んで大腸麺を作り続ける。
 さすがにぶっきらぼうな女将さんもドン引きな様子で、「あんた、客につっけんどんにしちゃだめよ」とたしなめていた。
「なににするの?」
 ようやくおばちゃんの店員が聞いてくれた。
「大腸麺に烤麬(麬(ふすま・小麦の糠)をスポンジ状にしたもの)を入れてね」
 家内は注文する。けど、それが厨房へ通った様子はない。女将さんはあいかわらず持ち帰りをさばき、店員は忙しそうに大腸麺の碗を中二階へ持っていく。十分ほどして、おばちゃんが、「なんだったっけ?」と再び訊き、
「大腸麺に烤麬を入れてね」
 と、家内は同じ注文を繰り返す。
 それでも、大腸麺はやってこない。家内は「しょうがないわね」と諦め顔で待っている。僕ものんびり待つことにした。
 待っているうちに、おばちゃんが隣の二人連れの女性客に注文を訊いた。女性客はすかさずお金を渡し、おばちゃんが受け取った。すると、一分も経たないうちに大腸麺が二つ出てきた。
 ――なるほど、そういうことなのか。
 僕はようやく合点がいった。
 この店の仕組みでは、店員が注文を聞いただけでは、注文にならない。店員が注文と同時にお金を受け取ってはじめてオーダーが通る。店員がお金を受け取るかどうかは、その時の店員の気分次第。「ずいぶん待っているようだから、そろそろ大腸麺を出してあげなくてはいけないな」という気分になった時、はじめて店員はお金を受け取り、正式にオーダーを通すのだ。
 狭い店の限られたテーブル席なのだから、さっさとラーメンを出して回転を上げたほうが儲かるだろうと思うのだけど、それをいってもしかたないのだろう。
 おばちゃんが三度目に僕らに注文を聞いた時、彼女はお代を受け取った。案の定、すぐに大腸麺が出てきた。
 大きな器いっぱいに中国醤油で甘辛く炒めた豚の大腸と烤夫がのっている。スープは醤油味。おいしい。店に入ってから四十分も待ったから、お腹もじゅうぶん空いている。僕はがっついて食べ、大腸と烤麬を残らず平らげた。家内はさすがに量が多いと三分の一くらい残した。
 食べ終わった僕らと入れ替わりに行列の二人が坐った。さてさて、彼らは正式にオーダーを入れるまで何十分待つことになるのか? 



(2016年4月6日発表)
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太宰治『帰去来』を読んで(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第349話)

2017年05月04日 07時30分15秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 
『帰去来』は、太宰治の中期の作品。結婚をして安定した生活を送っていた頃に発表された。
 題材は、タイトルのとおり帰郷だ。不義理をして義絶状態になっていた郷里の津軽へ知人の助力を得ながら十年ぶりに帰ったときのことを書いている。
 太宰は冒頭で「のほほんと生きてきた」などと書いているが、彼は決してのほほんと生きたわけではない。ままならない自分と格闘し、非合法活動、心中、薬物中毒とすさまじい嵐をくぐってきた。もちろん、破滅型の太宰がたどってきた道は常人であれば許されないことであり、目の前の生活の糧を得るのに懸命な世間の目から見れば、そんな太宰の「道楽」は、おぼっちゃんの「のほほん」ということになるのだが。
 ただ、この「のほほん」は世間にむけた照れ笑いだけではなく、当時の太宰の気分が色濃く表れている。幾多の戦いや葛藤を通り抜けて、ようやく落ち着いた気分になれたのだ。嵐続きの航海の後、よく晴れた凪の海へ出たようなものだったろう。心の平安をようやく手にすることができた。
 心の春に巡り合った太宰に、ある日、ふるさとの使者がやってくる。メッセージは、
「一度帰っておいで」
 だった。
 勘当して義絶状態にはあったが、ふるさとは彼を忘れてはいなかった。いつ里帰りさせるのか、タイミングを見計らっていたようにも思える。無茶苦茶な生活を送ってきた太宰がなんとか生き延びてこられたのも、ふるさとの人々が陰で支えていたからだ、その支えていた人がふるさとへお帰りと誘いにきて、北帰行に同行した。
 不安となつかしさが入り混じった里帰りだが、郷里の津軽に着いた太宰が真っ先に出くわしたのはふるさとの訛りが聞き取れないという事実だった。太宰は裏切りのうしろめたさを抱く。
 ふるさとを離れて出会うのは、自分自身の影にほかならない。ふるさとの懐に抱かれていたのでは、自分自身と出会うことはできない。母の地を離れ、独りぼっちになって初めて、裸の己と向き合うことができる。精神的な意味でへその緒が切れるようなものだ。太宰は、ふるさとの言葉を忘れてしまうほど、東京でよそゆきの言葉を操りながら必死になって自分自身と戦ってきたということなのだろう。
 高校生の頃、初めて太宰を読んだとき、彼の描く羞恥心や照れ笑いや自己否定や懺悔といったものが、心に痛かった。自分のことが書かれているようで身につまされた。だけど、大人になってから読み返してみると、太宰は安直に自分が駄目だと言っているのはないとわかった。太宰は、聖なるものにあこがれた人だった。太宰は聖書をよく読んでいたが、そこに書かれていたことを真摯に受けとめ、自分も純な愛になりたいとあこがれ、でもやはりそうできない自分に失望を覚え、それで自分は駄目だと書いていたのだ。聖なるものにあこがれ、それに躓く日々、それが太宰の格闘だった。
 訛りを忘れていた太宰だが、しばらくするとすべて聞き取れるようになる。ふるさとと太宰を隔てていた膜が破れた。
 太宰は先に父の墓参りをすませ、恐るおそる実家へ入る。だが、太宰の心配は杞憂に終わった。みなそれなりに老いたが、長い間留守にしていた末っ子が帰ってきたという感じであたたかく迎えられる。
 太宰は、母と仲良く歓談するのだが、太宰がいくら説明しても、母は太宰が作家になったことを理解しなかった。てっきり書店を開業したものとばかり思ったのである。そこで太宰は十円紙幣を出して母へ差し出す。一人前に仕事をして稼いでいることをそうして証明したかったのである。安心させたかったのだ。母はそんな太宰を見てクスクス笑う。周囲を困らせてばかりいた甘えたの末っ子が精一杯背伸びして親へお小遣いを渡そうとする姿を見て、かわいくてしかたなかったのだろう。
 ただ、太宰は父代わりの長兄を恐れていた。太宰を勘当したのも長兄だ。勘当の許しはまだ出ていない。長兄と太宰が出くわすことになれば、腹でどう思っているかはともかくとして長兄は「なにしにきたんだ。帰れ」と言わざるを得ない。この帰郷は長兄の留守を狙い、会うべき人に会ったところで、こっそりと帰るように計画したようだ。それで太宰は、実家には泊まらず、親戚の家に泊まり、逃げるようにして東京へ帰ってしまった。
 わずかな滞在だったが、里帰りをするのとしないのとでは大きな差がある。長兄の許しをもらうには、太宰が昔やらかした醜聞スキャンダルはあまりに大きくて、それにはまだ時間がかかりそうだ。それでも、太宰はようやくふるさとと和解することができた。ふるさととの和解――それはままならない自分とすこしは折り合いがついたということでもあった。
 この短編を読み返すたびにあたたかい気持ちになる。



(2016年3月27日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第349話として投稿しました。
 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/


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