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風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

車庫証明制度がないと(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第374話)

2017年09月19日 06時45分45秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 中国では開発業者が十数棟のマンションを一挙に建て、周囲をぐるりと塀で囲み、出入り口には警備員を置いて管理しているところがよくある。このようなマンション群を中国語では「小区」と呼ぶ。僕も上海郊外のとある小区に住んでいる。
 夕方になれば小区のなかは車があふれかえる。駐車場はすでにいっぱいになり、小区のなかの道路脇は車がびっしり並んでとまっている。固定駐車場の数が限られていてまったく足りないので、後は道路脇のスペースの奪い合いになる。止めるところがないものだから、歩道に突っ込んでとめたり(通行人は歩道へ入れなくなる)、道幅の広いところでは、なんと道のど真ん中に止めたりする車もあった。道路の真ん中に駐車するのは、駐車場から出てくる車の邪魔にならないようにして、かつ、他の車が通路を通れるようにするための苦肉の策だ。もちろん、危ない。
 ゴミ捨て場の前に駐車しているものだからゴミ出しができなくなるわ、人が歩道へ入れなくなるわで困っていたのだけど、ようやくのことでゴミ捨て場の前や、歩道の前や、道路の真ん中といったところに柵が立ち、そこは車が駐車できなくなった。生活に支障がでなくなった。
 どうしてこんなことになるのかといえば、車庫証明がいらないからだ。中国には、日本のような車庫証明制度がない。駐車場を確保しなくても車を買える。それで、車庫の手配をせずに車を買ってしまうものだから、車が路上にあふれかえってしまうことになる。日本ではよく空き地を駐車場にして貸し出しているけど、上海ではそのような駐車場をあまりみかけない。家内は、以前、二年間ほど車を運転していたけど、駐車スペースの奪い合いが面倒くさくて車を手放した。帰りが少しでも遅くなると小区のなかはもう車でいっぱいになっていて、車をとめられないために、家を目の前にして帰宅できないことが何度もあった。
 上海に限らず、中国の大都市はどこも似た状況のようだ。僕が以前住んでいた広州の小区も、なかは車であふれかえり、歩きにくくて困ったものだった。出られなくなって、はやくどけてくれとクラクションを鳴らし続ける車がいたりもした。
 車庫証明制度はそれはそれで面倒だけど、やはりあったほうがいい制度だと思う。


(2016年8月29日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第374話として投稿しました。
 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/


のんびりカップル(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第373話)

2017年09月16日 06時45分45秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 たまたま、中国国内の旅先であるカップルと知り合い、一緒に食事したことがある。
 育ちのよさそうな北京人の男性とやさしそうな日本人女性のカップルだった。男性は三十歳をちょっと過ぎたくらい。女性は二十代後半だった。
 レストランへ入り唐辛子でスープが真っ赤になった四川火鍋の注文を始めたのだが、どうも二人の様子がおかしい。鍋のなかへなにを入れるのかが決まらない。二人でなにごとかを話しているのだが、ちぐはぐなのだ。
 メニューを開いてずいぶん経ってから、
「あ、キノコのことね」
 と女性が言い、
「わたしは中国語がわからないし、彼も日本語ができないから、ひとつのことを理解するのにとても時間がかかるの」
 と照れくさそうにうつむいた。
 男性は北京でインテリアデザインの設計をしていて、彼女はその彼の家で一緒に暮らしているのだそうだ。時々、彼のお母さんがやってくるので、一緒に料理を作ったりするのだとか。
 彼の母親とやり取りしないといけないとなると、さすがに言葉なしではしんどいだろうなと思うのだけど、たぶん、彼女は非常におっとりした人なのだろう。
「言葉を覚えなきゃいけないと思うけど、なかなか覚えられなくて。覚えないといけないのよね」
 と言っていた。日本人と中国人の場合、筆談をして漢字を書けばある程度意思疎通できるはずだけど、それをする気もないようだった。
 言葉の通じない二人だけど、とても仲睦まじそうだった。彼女は大切にしてもらって満ち足りた様子だ。彼は彼で、好きな彼女がそばにいてくれればそれでいいというふうに、温かく彼女を見守っている。注文するときも、「君の好きなものでいいよ」という感じだった。
 どうしてカップルになったのか訊きそびれてしまったのだけど、きっと素敵な出会い方をしたのだろうな。
 愛は言葉を超える?


(2016年8月27日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第373話として投稿しました。
 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/


ワ族の村を訪ねて ~雲南辺境紀行(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第372話)

2017年09月02日 06時45分45秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 雲南省の昆明で留学していた頃、ワ族という少数民族の村を訪ねてを旅したことがある。二〇〇五年五月のことだ。
 昆明から寝台バスに十七時間ほど乗り、ミャンマーと国境を接する滄源そうげんという名の町へ行った。この町はワ族の自治県になっている。ワ族はクメール民族(カンボジア人)と同じ系統の民族だ。濃い褐色の肌をしている。
 滄源は辺境の小さな田舎町だから、乗り合いタクシーがたくさん走っている。僕は乗り合いタクシーが集まっているところへ行き、お目当てのワ族の村までどう行けばいいのかを地元のおじさんに聞いた。おじさんは行き方を教えてくれた後、どこから来たのかと訊く。日本からだと答えると、おじさんは感心したようにうなずき、
「中華人民共和国へようこそ」
 と握手を求めてきた。日本人などほとんどくることがないだろうから、おじさんは日本人に会うのははじめてなのだろう。嬉しそうニコニコしていた。
 タクシーの運転手と値段を交渉して郊外のワ族の村の近くまで乗った。
 ワ族の村は車で十五分ほどのところにあった。盆地をぐるりと囲む山の谷合にある。
 滄源はワ族の自治県になっているが、滄源の支配的な民族は、実はタイ族(タイ人と同じ民族)だ。タイ族が盆地の真ん中、つまり稲作に最も適した場所を占めているため、米の収穫がいちばん多くて経済力がある。その経済力をバックにして周辺の民族に対して優位に立つ。ワ族は谷合や山の中に集落を築き、米の収穫はそれほど期待できず、貧しいままとなる。雲南省には二十五の少数民族がいるが、その少数民族同士のなかにもヒエラルキーがあったりする。
 もっとも、タイ族が優位に立ったのは、平野での稲作には欠かせない灌漑技術を持っていたからだそうだ。灌漑技術についていえば、谷合に棚田を作るのがいちばんやりやすい。山から流れてくる水を棚田に引き入れ、それを下へ落としてやれば給水も排水もうまくいく。これに対して、平野では川から平地へ水を引くため複雑な技術がいる。タイ人はこの技術を以て、誰も切り拓かなかった平地の湿地帯へ入り込み、きれいな水田を作って比較的優勢な経済力を手に入れた。
 サトウキビ畑のなかのあぜ道を通り、村を目指した。村の前を流れる川では幼い子供たちが川へ入って遊んでいた。水しぶきをあげてはしゃいでいる。あぜ道が細くなり、僕の背丈よりも高いサトウキビのなかを進む。突然、サトウキビのなかで茣蓙を敷いて弁当を食べている農家の家族に出くわした。僕はびっくりした。
「你好ニイハオ!」
 僕が言うと、農家のおばちゃんが笑いながら、
「御飯!」
 と言って茶碗を箸で叩く。食べていけという誘いのようだったけど、「ありがとう。もう食べたから」と言って道を急いだ。それにしても、かなりおおらかだ。勝手に人の畑へ入ったら、ふつうは怒りそうなものだけど。
 橋を渡り、ゆるやかな坂道を上る。穏やかな勾配に作られた棚田にはサトウキビが植えてある。その棚田のうえにワ族の集落があった。
 ワ族は高床式の家に住むと本に書いてあったので、木の葉で屋根を葺いた木造の古びた家を想像していたのだけど、コンクリートブロックで壁を作り小豆色のスレート屋根を葺いたぴかぴかの新築の家ばかり並んでいた。高床式ではなく、平土間づくりだ。田舎の村なのに、まるで開発したての郊外の住宅地のように新築の家がずらりとならんでいる。なんだか不思議な感じだった。
 村の外れの階段をすこしばかり登ると、崖の壁にお目当ての壁画があった。
 滄源壁画と呼ばれるこの壁画は、三千年前、この村に住んでいた人たちが描いたものだ。祭りや踊りの様子、猿、猪、鹿、象、虎といった様々な動物、弓を引きながら狩猟する模様、人が水牛を引っ張っている姿などが素朴なタッチで描かれている。
 滄源壁画が滄源以外の人々に知られるようになったのは、ベトナム戦争の時だった。中国は北ベトナム支援のために軍隊を送ったのだが、その兵士のなかに村人がいた。お前はどこから来たのだと上官に問われた兵士は、
「滄源の壁画の村から来ました」
 と答えた。このことがきっかけとなり、滄源壁画の調査が行われ、村以外の人々にも知られるようになった。
 崖の前に渡した橋からゆっくり壁画を眺めた。
 三千年も昔の生活はいったいどんのようなものだったのだろうと想像してみる。村とその周辺で生活のすべてが完結してしまう小さな世界。その小さな世界から抜け出して外の世界へ飛び出すことなど考えることもなく過ごす一生。だが、アニミズムを通じて見えない大きな世界へつながっていたのだろう。星空がよく見えるぶんだけ、かえっていろんなことが見えていたのかもしれない。
 壁画村の村人たちは、自分たちは三千年前に壁画を描いた人たちの末裔だと素朴に信じている。しかし、単純に今の村人が壁画を描いた人々の子孫だとは言えない。もしかすると、壁画を描いた村人たちはその後、谷間の村を捨ててどこかへ移住してしまったかもしれないし、戦争や疫病で全滅してしまったかもしれない。今の村人たちは、その昔廃村となった今の村へ入植した可能性も大いに考えられる。壁画を描いた村人と今の村人とのつながりは、今後の研究が待たれるところだ。
 壁画を見終えた僕は村へ戻り、ぐるっと一周してみた。村の男たちがおしゃべりしていたので話しかけ、村の暮らしを聞いてみた。今、サトウキビを植えている田んぼはもうすぐ収穫となり、その後、米を植える。もち米の稲も植えるという。
 男の一人が古風なライフルを持っていた。第二次世界大戦のその前から伝わるイギリス製の鉄砲だそうだ。森へ一週間ほど入って狩猟することもあり、野生の猪や鹿や鳥などをとってくるのだとか。
 話しているうちに、どういうわけか元村長の家に招かれた。村で栽培したお茶を御馳走になる。元村長のおじさんは小柄で痩せた五十代半ばくらいの方だった。今は、息子さんが村長をしているという。
「息子には村長なんて苦労が多いだけだからやめとけって言ったんだけど、本人は張り切ってやってるんだよ」
 元村長のおじさんはそうぼやく。地方政府や各種の行政機関との折衝は骨が折れて大変なのだとか。日本でも大変な仕事だけど、中国ならなおさらしんどそうだ。
 僕は思い切って首狩りの習俗について、元村長さんに尋ねてみた。実は、ワ族は首狩りという恐ろしい風習を持つ民族だった。人間の首を狩るのだ。周囲の他の民族からは恐ろしがられていたわけだけど、さすがに残酷だということで、共産党が中国を支配した後、政府が強制的にやめさせた。元村長さんが生まれたのは一九五〇年前後だろう。幼い頃のことだから覚えていないか、物心がついたころにはもう廃止になっていたのだろうなと思ったのだが、
「首狩りは楽しかったよ」
 と元村長さんの目が輝いた。
「田植えの前にその前の広場で首狩りをやるんだ。人間の首を切ると血が吹き飛ぶ。血潮が高く上がれば上がるほど、その年は豊作になるんだ」
 話を聞いて、首狩りは祝祭だったとわかった。
 年に一度の楽しいお祭り。
 大人も子供もみんな楽しみにしている。
 村人が広場に集まり、豊作祈願の儀式を行なう。そのクライマックスが首狩りだったのだろう。そこには、人間の首を狩ることの罪悪感などはない。神様へ生贄を捧げるのだ。うまく首が狩れたなら、それでめでたし。祭りの酒もうまくなるというものだ。ぎょっとする話ではあるけれど、彼らには、彼らなりの世界の理解のしかたがあり、そのなかですこしでもしあわせになろうとしただけのことだ。
 ただ、僕はてっきり新中国の成立(1949年)後すぐに首狩りを廃止したのだとばかり思っていたけど、元村長の話からすると、解放後しばらくは続いていたようだ。
 おいとまをした時、元村長は表まで送ってくれた。彼はひゅうと口笛を吹き、
「若い頃は、夜になるとこうやって合図して、娘っこを外へ連れ出したもんだよ」
 と嬉しそうに笑う。元村長も若い頃はご盛んだったのだろう。どうやら自由恋愛の風習のようだ。僕は元村長に礼を言って村を出た。
 村外れの山の中腹に一軒だけぽつんと建っている家があった。僕はその家を目指して山道を登った。急な斜面に段々畑を作ってナスやキュウリといった野菜や茶を植えている。赤ん坊を負ぶった若いワ族の夫婦が農作業をしていたので、「ニーハオ」と挨拶をすると笑顔で応えてくれた。「子供は何か月なの?」と話しかけ、すこし立ち話をした。斜面の痩せた畑を耕していたのでは暮らしは楽ではないだろう。どうしてこんな離れたところに一軒だけ家があるのか訊いてみたかったけど、さすがにはばかられた。
「照葉樹林文化論」という学説がある。
 西日本から台湾及び長江の南側、貴州省、雲南省、ミャンマー、インド北部のアッサム地方、ブータンにかけては照葉樹林帯が連なっており、この一帯には、同一起源の似たような文化があるという議論だ。似たような文化とは、たとえば、納豆などの発酵食品の利用、茶の栽培、モチ米などのモチ種を好むこと、歌垣、漆器作成などがあげられる。
 このワ族の村も「照葉樹林文化」のなかに入るのだろう。風景は日本の農村とそれほど変わらないような気がする。山間に村があって水田がある。もち米も茶も栽培している。このワ族の村に限らず、雲南省には懐かしさを誘う風景が多い。「照葉樹林文化」は壮大な仮説といったもので、はっきり論証できたものではないけど、たぶんそうなんだろうな、そうだといいなとうなずきたくなるものがある。あとで調べてみると、日本でも、古代には同じような首狩り祭りが行なわれていたとする研究者もいた。将来的に照葉樹林文化の解明が進めば、首狩りも共通文化の一つとされるようになるのだろうか?

 滄源そうげんから乗り合いバスに乗って、次の目的地へ向かった。
 バスといっても大型ではなく、マイクロバスだった。席はすべて地元の人たちで埋まっている。バスは山道を走り続けた。道端で手を挙げる人がいると、バスは止まって客を乗せる。あらかじめ運転手にどこで降りると伝えておけば、そこで止まってくれる。
 山道は舗装されていない土道だから、それほどスピードは上がらない。けっこう揺れた。ひとしきり山のなかを走っては、山のなかの小さな集落を通る。山のなかの集落では中年以上の女性はほとんど民族衣装を着ていた。若い女性はTシャツにジーパンといった姿が多い。男で民族衣装を着ている姿は見かけなかった。ある集落にとまった時、上半身裸のおばあさんがいたのにはびっくりした。あまり気にしていないのかもしれない。
 昼過ぎ、山のなかにある班洪という名の町へ到着した。ワ族の町だ。僕は班洪でバスを降りた。
 班洪は渓谷沿いの中腹にあるとても小さな町だ。土道沿いに小さな商店がいくつか軒を並べ、小学校がある。学校の門のそばに米線(米粉で作った麺)の小さな店があったが、ほかに食べ物を売る店もレストランらしきものもなかった。谷の向こうには緑の山が連なっている。
 とりあえず宿を探そうと思って歩いたのだけど、正式なホテルはなかった。薬局に宿の看板がかかっていたので店主に訊くと泊まれるという。薬局の二階が宿になっていて、ベッドを十台並べただけの相部屋があった。値段は一泊十元(約百五十円)。シャワーもなにもない。ただベッドに寝るだけの宿だった。
 宿に荷物を置き、僕は土道を歩き始めた。この町へ入るすこし手前に高床式の家がずらりと並んだ集落があったので、そこを訪ねたかった。滄源では高床式の家をじっくり見る機会がなかったから、目的を果たしておきたかった。
 乾季のちょうど暑い時期だった。よく晴れている。太陽が眩しい。首筋の汗を拭いながら山道を歩いていると、白いパジェロが猛然と土煙を上げて僕を追い越す。パジェロは不意に止まり、それからバックしてきた。パジェロのなかからよく日焼けした体格のいい男が二人飛び出してきて、僕へ駆け寄る。
「君はいったいここでなにをしているんだ?」
 男は驚いた顔をして僕に問いかけた。男は警察手帳を掲げ、僕に身分証を見せろという。僕はパスポートを渡し、それから留学先の学校の学生証も見せた。
「日本人か」
 二人の私服警官は僕のパスポートを見ながら目をぱちくりさせる。顔立ちからして彼らはワ族のようだった。
「このあたりにワ族の村がたくさんあると聞いて、それで旅行しにきたんだ」
「今は学校の授業があるだろ」
「そうなんだけど、学校の先生には旅行へ行くからと言って許可をもらっておいたよ」
 僕は言った。授業は大事だけど、それだけではつまらない。せっかく留学したのだから、いろんなものを見ておきたい。フィールドワークも大切だ。
「君ね、ここはとても危ないところなんだ」
 私服警官は真剣なまなざしで僕を見つめる。たしかに、こんな辺境の山のなかで旅行者がうろうろしていたら、襲われても仕方ない。中国とミャンマー国境のあたりでは大麻を大量に栽培している。黒社会マフィアも大勢いることだろう。
 私服警官は車で送ってあげるから、滄源の町まで帰ろうという。だけど、せっかくここまできて引き返すわけにもいかない。ほかにも見たいところはたくさんあった。僕は旅行したいからといって断った。
「それにしても、なんでこんな山のなかへきたんだ? なにもないだろ?」
 彼はほんとうに不思議そうだった。
「昔、ここのワ族がイギリスの軍隊を撃退したと本に書いてあったから、どんなところなのか見たかったんだよ」
 十九世紀末期、当時、ミャンマーを植民地にしていたイギリスが国境を越えてこの山の中へ進攻してきたのだった。班洪一帯を支配していたワ族の王様が軍隊を組織して山岳戦を展開。イギリス軍を見事に追い払った。
「ワ族は勇敢な民族だ」
 私服警官の一人がうんうんとうなずく。
「日本軍も追い払ったけどな。ガッハッハ」
 もう一人はそう言って豪快に笑った。
「ところで日本の札を持っているか?」
 私服警官が僕に訊く。
 ――やばいなあ、警官にカツアゲされてしまうかもしれないなあ。
 と思いながら、財布に入れておいた一万円札を見せた。
「この人は誰だ?」
 私服警官は福沢諭吉を指す。
「昔の哲学者だよ。百何十年も前に日本が解放改革をしたとき、日本は近代化すべきだと提唱したんだ」
「そうなのか。これは人民元にするといくらだ」
「六百元くらいかな」
「高いな。もっと細かい札は持っていないか?」
「ないよ」
「両替してもらって、日本の札を記念に持っておきたかったんだけどな。六百元はさすがに出せないな」
 彼は残念そうに首をひねる。
「お兄さん、それは闇両替ってやつだよ。違法行為だよ」と突っ込みを入れたくなったけどやめておいた。僕はたんに珍しい外国の紙幣を見たかっただけだったのだとわかり、ほっと胸をなでおろした。
 私服警官はもう一度、僕に滄源の町まで送るからと誘ってくれたのだけど、やはり僕は断った。彼らはあきらめてパジェロで去っていった。
 そのやり取りでなんだか心がなえてしまった僕は、ワ族の集落へ行くのをやめて宿まで引き返した。

 カップラーメンで夕食を済ませ、町をぶらぶら散歩した。といっても小さな町なので散歩はすぐに終わってしまう。人通りもない。薬局へ戻るとのんきな父さんみたいな顔をした亭主がテレビを見なさいと進めてくれた。薬局の一階にテレビがあり、宿泊客が集まってそれを見ている。僕はプラスチックの小さな腰かけに坐り、テレビを眺めた。
 この宿の宿泊客は道路工事の人夫だった。時々、誰かがたばこを配る。僕もたばこを配った。自分がたばこを吸うときは人にも配るのがこちらの習慣だ。
 薬局のカウンターのなかでは小林幸子みたいな顔をした女将さんが、せっせと帳簿をつけている。のんきな父さんはその横でだらしなく女将さんにもたれかかり、テレビを見続ける。時折、女将さんは「あなたはかわいいわね」といったふうにのんきな父さんの頬をさする。のんきな父さんは「へへへ」とまんざらでもなさそうに笑う。倖せそうなふたりだった。
 九時前に部屋へ戻り、早めに寝ることにした。ベッドは半分くらいしか埋まっていない。真夜中過ぎ、宿泊客ががやがやと入ってきて、残りのベッドが全部埋まった。窓の外を見ると、通りにはトラックが何台もとまっている。トラックの運転手が泊まりにきたのだった。
 真夜中、外のトイレへ行って、ぼんやりと夜空を見上げた。大小さまざまな星が一面にびっしりと輝いている。きれいだ。物音もなにもしない静かな夜だった。
 翌朝、僕はまたバスに乗り、別の少数民族が暮らす町を目指した。



(2016年8月20日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第372話として投稿しました。
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Tボーンステーキとシーフードリゾット(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第371話)

2017年08月15日 06時45分45秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 イタリアのチンクエテッレへ行ってきた。
 チンクエテッレはイタリア北西部のリヴィエラ海岸沿いの漁村だ。絶壁の海岸沿いに村が点在している。青い海、断崖絶壁、石造りの家並みの取り合わせが美しい。風光明媚なので観光地として人気が高く、夏になると大勢の人が訪れる。
 チンクエテッレの村のひとつに宿を取り、村々を散策した。鉄道が走っていって村巡り用の一日乗り放題券を販売しているのでそれを買い、列車に乗って一駅ごとに移動して村を見て回った。日中、どの駅も観光客でにぎわっていた。
 海辺の漁村もあり、断崖のうえに立った村もある。海辺の風景もきれいだし、崖のうえからの見晴らしもいい。散歩しているだけでとても気持ちいい。どの村も観光客がぞろぞろ歩いていた。
 風景もいいけれど、ここでのいちばんの楽しみは、おいしい料理だ。
 お昼はアサリパスタを頼んだ。アサリもおいしいし、麺のゆで方がちょうどよかった。塩味も利いている。こんなにおいしいパスタはほんとうに十何年振りだなと思いながらぱくついた。
 夕食は、Tボーンステーキとシーフードリゾットを注文した。
 ステーキは五センチほども厚みがあって、肉汁がたっぷり出ている。大きさは両手を広げたくらい。二人前から三人前の分量だ。家内と二人で分け合って食べた。
 シーフードリゾットは、大きな土鍋にエビや貝や貝柱がたっぷり入っている。いい味だ。僕はおいしくいただいたのだが、塩味がききすぎてすこししょっぱく、生米から作るために米がいささか硬い。リゾットは好みがわかれるところかもしれない。
 食後はカプチーノ。イタリアではどこで飲んでもはずれがない。
 たらふく食べたあと、海辺をぶらぶら散策しながら宿へ帰ったのであった。































(2016年8月19日発表)
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フィレンツェのジプシー(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第370話)

2017年08月14日 06時30分15秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 若い頃、フィレンツェへ旅行してジプシーに襲われたことがある。街をぶらぶら歩いていると、道端でたむろしていたジプシー女三人がいきなり「きゃー」と奇声をあげて僕を取り囲んだ。ジプシー女は腕を取ったり、リュックを引っ張ったり、足を触ったりしてくる。
 ――財布をすりにきたな。
 そう思った僕は、「この野郎っ!」と叫びながら、ジプシー女を押しのけて脱出した。さいわい、なにもすられずに済んだ。
 僕の同級生に、イタリアへ結婚旅行しに行ったカップルがいた。イタリアで結婚式を挙げて、そのままイタリアで新婚旅行する。なんともロマンティックな話だ。無事に式を終えてフィレンツェへ行ったのまではよかったのだが、彼らもおなじようにジプシーに襲われた。その時、いきなり襲撃されてわけのわからなくなった同級生は新妻を捨ててひとり脱出し、彼の新妻は自力でジプシーから抜け出した。なにも取られずに、けがもせずに無事だったのだけど、
「あなたは私を守ってくれなかった」
 と、同級生の奥さんはとても悲しそうだった。新婚旅行でそんなことになったらさぞショックだろう。
 フィレンツェは非常に美しい街だけど、ジプシーはいささか厄介だ。僕は周囲を見張りながら家内の手をつないでフィレンツェの街を歩いた。
 フィレンツェはあちらこちらに博物館がある。適当に街をぶらつきながら、何箇所か博物館へ入った。様々な彫像や彫刻が展示してあったけど、僕はいろんな人物を描写したレリーフがいちばん興味深かった。職人を描いたのが多くて、その作業の様子が面白かった。教会もたくさんあるから、通りすがりの教会へ入ったりもした。どの教会もなかは荘厳に飾ってあるので見ごたえがある。大聖堂のすぐそばに建っている塔に登ると、フィレンツェの美しい街並みを一望できた。
 街を歩いていると、白装束の異様な人が歩いている。顔もまっしろに塗りたくって、まるで歩く大理石の彫像のようだ。
 ――ジプシーだ。
 僕は家内の手を引っ張って、彼らの反対側を歩くようにした。白装束もジプシーの作戦だ。そうやって観光客の気を引いて、まずは握手を求める。そして、ハグしたりしながら、お金をねだったり、財布をすったりするのだ。家内には、ジプシーがいかにして悪さするのかをレクチャーしておいたのだけど、家内は陽気な性格の人だから握手してと手を差し出されれば、握手してしまうかもしれない。そうなるとあとが面倒だ。
 そうして何度かジプシーと距離をとるようにした。白装束のジプシーの道の反対側へ行ってほっと息をついた瞬間、目の前に別の白装束が現れた。
 ――うわっ。
 虚を突かれて僕はあせった。
 太っちょのおばちゃんジプシーだ。ジプシーはほほえみながらおどけた仕草で手を差し出す。家内は案の定、面白いなあという感じできゃははと笑う。そのまま握手してしまいそうだ。
 僕は家内の手を引き、ダッシュして逃れようとした。あまりに急ぎ過ぎたので、家内の胸にかけていたサングラスがぽとりと落ちた。ジプシーは落ちたサングラスを指してあははと笑う。僕は急いでサングラスを拾った。
 ジプシーに一本取られてしまった。



















(2016年8月15日発表)
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記事の調子のよすぎるウェイター(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第369話)タイトルを入力してください(必須)

2017年08月13日 06時45分45秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 夏休みをとって、家内とふたりでイタリアへ出かけた。
 まずはローマへ行き、コロシアムや古代の市場跡といった遺跡を見て回った。ローマの街の中にはごく当たり前のように帝国時代の遺跡がある。石造りだからそのまま残ってしまうわけだけど、過去と現在が何重にも交錯していてなんとも不思議な空間だった。
 夕方、宿の近くのレストランへ入った。道にテーブルが出してあり、そこで食事する。涼しくて気持ちいい。
 若いウェイターを呼びとめて、イタリアビールにパスタやピザを注文すると、イタリア流イケメンのウェイターは、
「日本人なの?」
 と僕に訊く。そうだよと答えると、
「僕は日本が好きなんだ。僕の飼っている犬の名前は『ジャパン』ていうんだ」
 と悪びれる様子もなく言う。僕はあっけにとられ、そうなんだとだけ返しておいた。そんなことを言ったら、喧嘩になってもおかしくないんだけどな。
 このウェイターは道行く人に、
「フリー・フード」
 と叫びながら客を呼び込んでいた。レストランが「ただ飯を喰わせる」といっても、それでその店に入ってみようかなという気になるわけがないじゃない。
 あれだけ適当なことを言っても生きていけるんだと思うと、ちょっぴり羨ましくもなったのであった。














(2016年8月14日発表)
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豆腐のタイ風チリソースがけ(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第368話)

2017年08月12日 06時45分45秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 家族で上海料理のレストランへ行ったとき、おいしい豆腐料理があった。たぶん、その店の創作料理なのだろうけど、家庭でも簡単に作れるので、上海人の義母が時々作って出してくれる。
 まずはパン粉をフライパンでかりかりに炒める。お好みに合わせて、ガーリックスライスをいっしょに炒めてもいい。豆腐一丁まるごとを皿にのせ、豆腐のうえに炒めたパン粉をのせる。そのうえから、タイ風チリソースをかければできあがり。タイ風チリソースはタイ物産展で買ってきた。
 さっぱりしているし、ぴり辛だから暑い夏は食も進む。ビールをひと缶開けて、つまみにするのもいい。
 なお、レストランでのこの料理の名前は「你没吃过我的豆腐」というものだった。直訳すれば、「あなたはわたしの豆腐を食べたことがないのね」となる。もちろん、この訳は間違いではない。だが、中国語で「吃豆腐(豆腐を食べる)」とは、「おっぱいを触る」という意味の隠語でもある。豆腐のやわらかい感触から乳房を連想するわけだ。
 なので、この料理名は「あなたはわたしのおっぱいを触ったことがないのね」というのが正確な訳になる。なんとも直截な誘惑の言葉だ。豆腐料理にこんなネーミングをつけるのも、上海っ子のユーモアといったところだろうか。







(2016年8月1日発表)
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フランスへ厄介払い(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第366話)

2017年08月10日 01時15分15秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 上海へ里帰りしている家内の姪が友達と遊びに出かけるというので繁華街まで送っていった。我々夫婦はその足で買い物をする予定だった。姪っ子は高校二年生だ。
 タクシーに乗っていると、姪っ子は友達に電話を掛ける。ふだん、家の中で姪っ子は内弁慶全開で騒いでいるのだが、友達へ電話する時は、華やいだかわいらしい声を作る。お人形さんのような声だ。
「あなた、この声をどう思う?」
 家内が訊いてくるので、
「かわいいふりをしてるな」
 と僕は率直に言った。
「あなたはこういうのが好きなんでしょ」
「若かった頃は、かわいいなって思ったよ。だけど、今振り返ってみると、なんだかだまされていたような気がしないでもない。かわいいふりをする裏側を見抜けていなかった」
「女の子はみんなかわいいふりをするものよ」
 姪っ子たちの集合場所へ行くと、彼女の同級生が集まっていた。四五人のグループでいっしょに遊ぶようだ。そのなかに男の子が一人いた。すうっと鼻の通ったいい顔立ちをしている。育ちのよさそうな、勉強のできるおぼっちゃんといった風貌だった。姪っ子を送り届け終え、僕たち夫婦はアイスコーヒーを飲みに行った。
「姪っ子はね、あの男の子と遊ぶのが好きなんだって」
「年頃だから、気になる男の子はいるだろうね。彼氏がいてもおかしくない歳だもの。彼は性格がよさそうだし、付き合ってみればいいんじゃないの?」
「違うのよ。そんなんじゃないわ。彼は男しか好きになれないんだって。完全に女の子の性格なのよ。それで、姪っ子とは気が合うみたい」
「なるほど。そういうことか」
「でもね、あの男の子はとてもかわいそうな子なのよ」
 家内は彼の家庭について語りだした。
 彼の父親は上海市内のとある会社のオーナー社長をしている。商売に成功して、かなりの資産家だ。ところが、彼の父親は中国の成金にありがちな行動を取った。彼の母親と離婚して、若い娘と再婚したのだ。家内によれば、中国の成功した男は、元の妻を捨てて若い娘と再婚したがるものなのだそうだ。どれだけ若い妻を抱えているかが成功者のステータスにもなるのだとか。よくわからない基準だけど、彼らの間ではそうなるのだそうだ。
 父親と再婚した若い娘は彼の異母弟を産んだ。このために、父親にとって彼は不要な存在となってしまった。父親は彼を厄介払いするために、彼をフランスへ留学させることにした。夏休みの終わりには、彼はフランスへ旅立たなくてはならない。
「お前の弟をじっくり育てたいから、お前は邪魔だ。だからフランスへ行っておけ、もう中国へは帰ってくるな、俺の邪魔をするな、ということよ。家も会社も弟のほうに継がせるつもりなのよ」
 家内は言った。
 歴史の本を読んでいると、若い妻を娶り、新しい子供のできた殿様や王様が、前妻の産んだ上の子を厄介払いして、新しい子供のほうに家督を譲る話が手を変え品を変え繰り返し出てくるけど、それとまったくおんなじだなと思った。
 彼は人の羨むようなお金持ちの家に生まれた。恵まれているはずだった。だが、母親は父に捨てられ、父親が必要な時期に、父親にも捨てられた。彼は性同一障害だということだから、普通の人に比べれば生き方がいささかむつかしくなる。それだけに、よけいに父親の支えが必要だろう。
「それが彼の運命ということなんだろうけどねえ」
 話を聞いていて複雑な気持ちになった。フランスへ留学したくてもさせてもらえない人はいくらでもいるし、彼はお金には不自由しないという恵まれた境遇にある。だけど、今の彼が幸か不幸かといえば、決して幸せだとはいえないだろう。姪っ子たちの集合場所で見かけた彼はにこにこ笑っていたけど、心は深く傷ついているはずだ。
 それが彼の運命で、つまりは、彼自身が乗り越えるべき試練だとすれば、彼はその壁を乗り越えるしかないわけなのだけど。普通の男の子が背負うには酷な課題ではあるけれど。
「お金があるのと幸せなのは、まったく別のことなのよ」
 上海人の家内は常々こう口にする。その意味がまたひとつわかった気がした。


(2016年7月25日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第366話として投稿しました。
 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/


落ちるシャッター(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第364話)

2017年08月07日 06時15分45秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 勤め先では倉庫のシャッターが時々落ちた。
 倉庫の出入口に取り付けたモーター付の自動巻き上げ式のシャッターだ。わりと広い倉庫なのでシャッターが十数台ある。危ないったらありゃしない。ひと巻きのシャッターがまるごと、人の一メートル横にどすんと落ちたこともあった。頭の上に落ちでもしたら、たいへんだ。あんな重いものに人間が耐えられるわけがない。下手をすれば死者が出てしまうかもしれない。
 以前、倉庫のシャッターのメンテナンスは別の部門の別の課長が担当していたのだけど、そいつが悪党でひどいことをしていた。メンテナンスの時期になると、自分の息のかかった業者にメンテナンスをさせる。ところが、その業者はシャッターの点検や修理の技術がない。下からちょっと見上げて、棒でシャッターをつっつき、シャッターの両サイドの溝にグリースを塗ってそれでおしまいだった。料金はかなり高い。そのぶん、業者からキックバックをたっぷりもらっていたに違いない。
 そんなものだから、シャッターは壊れっぱなしだった。ひどいときには、悪党の使っている業者が点検の際に棒でシャッターをつっついて壊してしまい、挙句の果てはその修理代金まで取られそうになったことがあった。悪党にしてみれば、そのほうが都合がいい。壊れれば壊れるほど、修理代のキックバックを得られるからだ。悪党はキックバックをもらうことが目的だから、きちんと修理して使えるようにしようという気はさらさらなかった。
 シャッターは落ちるし、壊れたシャッターは夜、開けっぱなしたままだ。いくら警備員がいるといっても、これでは泥棒にいらっしゃいと言っているようなものだった。あまりにもやばすぎるので、悪党からシャッターメンテナンスの権限を横取りして、僕のチームでメンテナンスすることにした。僕の下には、現場上がりのやんちゃな係長がいる。やんちゃだからゴン太君としておこう。ゴン太君は広東省の海辺の漁村で育った。中学を出てから現場一筋で叩き上げた係長だ。馬力がある。
 ゴン太君がいろいろと業者を探して、シャッター製造工場のメンテナンス部門の担当者にきてもった。新しい業者が点検したところ、あちらこちらで不具合箇所が見つかった。取り付け部分の金具がすっかり錆びてぐらぐらしているところもあれば、溶接が取れてしまったところもある。ひどい位置ずれを起こしているところもある。シャッターの開閉を繰り返すうちに斜めに巻き上がるようになってしまい、そのせいで軸がねじ切れそうになっているものもある。約半分のシャッターに重大な問題があった。予想はしていたけど、かなりひどい。よく今までけが人が出なかったものだ。
「ボス、悪党はほんとにひどいよ」
 ゴン太君はやれやれと首を振る。
「まったくなあ。あいつはキックバックをもらうだけだったからな」
 僕はぼやいた。
「ボス、でもさ、今度の業者は料金は三分の二ですむよ。安いし、ちゃんと仕事をしてくれる」
 ゴン太君が修理の手配をして、シャッターの問題はひとまず解決した。職人気質のゴン太君は仕事がうまくいって満足してた。
 新しい業者に定期的に点検してもらい、まめにメンテナンスすることにした。万が一に備えて、各シャッターの両脇に鉄柵を取りつけ、シャッターが脱落したとしてもその鉄柵で受け止め、地面へ落ちないように対策を施した。
 悪党はそのうち会社を首になり、我々を邪魔することもなくなった。全社に向けて我々の悪口を書いたメールを流されたりして、えらく迷惑したものだった。裏の利権を取り上げられれば、それくらいの仕返しは当然するだろうけど。悪口くらいですんでよかたともいえる。
 シャッターの状態はずいぶんよくなったのだけど、いくらこまめに修理してもやはり故障が出る。案の定、シャッターが脱落して鉄柵で受け止めたこともあった。
「やっぱり、シャッターそのものの質が悪いんだな」
 僕はゴン太君に言った。
「ボス、もう古いもの」
「古いっていってもまだ五年だけどねえ」
「業者は新しいのに交換したほうがいいって言ってるよ」
「そうしたいのはやまやまだけど、経費がかかりすぎるからむつかしいな。会社の認可が下りないよ」
 中国は基本的に「安かろう、悪かろう」で間に合わせる。だから、シャッターも取りつけてから五年しかたっていないのにぼろぼろになって修理が追いつかなくなる。シャッターだけではなく、基本的に建物は五年も経てばかなりぼろぼろになってガタがくる。メンテナンスに手間をかけるのは嫌だから、いい品物を使ってしっかり作っておこうという発想もあまりない。目先のコストが最優先になって、結局「安かろう、悪かろう」の製品を使ってしまう。
 点検するのも手間だし、修理するのも手間がかかる。その分の力をほかに使えば、いろんなことをもっとよくできる。いつまでも「安かろう、悪かろう」路線を続けるわけにもいかないとは思うのだが。




(2016年7月21日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第364話として投稿しました。
 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/


人さらいの映像を見ながら(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第363話)

2017年08月01日 01時15分45秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

「ねえ見てよ」
 スマホを持ってきた家内がある動画集を僕に見せた。
 中国の街角には、いたるところに警察(公安)が設置したカメラがあり、派出所へ行くと奥にそのモニター画面がずらりとならんでいるのが見えたりするのだけど、その中国各地の街角の監視カメラの映像をあるテーマに沿って編集したものだった。
 テーマは「人さらい」。
 中国各地で監視カメラがとらえた人さらいの現場が次から次へと流れる。

 人通りの多い白昼の商店街。
 三歳くらいの子供が母親の近くでぶらぶら歩いている。傍にいた中年の男がその子をあやすように手を差し伸べたかと思うと、やおら抱きかかえて連れ去ろうとした。あわてた母親が我が子に飛びつき、男ともみ合いになるが、男は母親を振り払い、その子を抱いたままどこかへ走り去った。

 小さな売店の前でよちよち歩きの子供が一人で遊んでいる。
 乗用車が止まり、ドアを開けて男が飛び出してきた。男は、さっとその子を抱いて車へ連れ込む。車は急発進して走り去る。あっという間のできごとだった。

 住宅街の通り。五十過ぎの初老の女性が赤子を抱いてあやしている。おそらく彼女の孫だろう。丸刈りのいかつい男が近づいたかと思うと、初老の女性の腕から強引に赤子を奪い取ろうとする。初老の女性は必死になって赤子を手放すまいとふんばる。しばらく揉みあいになった後、男はあきらめて走り去った。周囲には何人か人がいたが、傍観するだけだった。

 幼稚園くらいの子供が歩道を一人で歩いている。後ろから二人乗りのスクーターがゆっくり近づく。後ろに坐った男が腕を伸ばして子供の襟を摑んでさっと片手で吊り上げた。子供をさらったスクーターはそのまま走りさった。

 人さらいの動画は十数本あったのだけど、最後まで観ることができなかった。見るに堪えない。小さな子供を持つ親なら背筋が凍りつくような映像だ。
 人さらいはどれも白昼堂々と子供をかっさらおうとする。それもかなり荒っぽい手口だ。鬼畜としか言いようがない。
「今の中国は道徳の底が抜けちゃっているのよ。こんな社会に前途なんてないわ」
 家内はぽつりと言い、
「これでわかったでしょ」
 と僕を見つめる。
「人さらいだらけなんだね。わかったよ」
 僕はうなずいた。
 中国では小学生の通学の際、親か祖父母が必ず送り迎えをする。朝の登校時間になれば小学校の前の道に子供を送りにきた車が押し寄せて渋滞する。下校時間には門の前で家族が子供を待ち受ける。親は仕事をしているから、たいていは小学生の祖父母だ。彼らが必ず付き添って連れ帰る。僕は家内に、「そんな過保護なことをすると子供のためにならないからやらないほうがいい」と言ったことがあった。
「日本だと子供が自分でバスや電車に乗って通学するのが当たり前かもしれないけど、中国でそんなことをしたら、すぐにさらわれてしまうわよ。誰だって子供を失いたくないでしょ」
「まあね。国情が違うってことだね」
 僕は言った。
 身代金目的の誘拐もないわけではないけど、その数は少ない。人さらいは身代金の要求などといったまどろっこしいことをせずに、そのまま子供を売りさばいてしまう。
 赤子の場合は農村へ売る。子供のいない夫婦が買うのだ。とくに男の子は跡継ぎにできるため高く売れる。言葉を覚える前の子供は腕をへし折ったり、足を切ったり、目をえぐったりしてわざと身体障害者にしてしまい、街角で物乞いをさせる。乞食はかなりのいい稼ぎになる。その子は大人になっても、一生物乞いとして生きてゆかなければならない。言葉を覚えた子供は腑分けして臓器を売る。女の子の場合は売春させることもある。
「さらわれた子供を探すために仕事をやめて、食うや食わずの生活をしながら十何年も駆け回っている親だっているのよ。警察へ届け出たところで、まじめに捜索してくれるわけじゃないしね。こんな風だから、中国ではお金持ちになるとみんな先進国の治安のいい場所へ移住しちゃうのよ」
 話を聞いていて悲しくなってしまった。
「中国はどうしようもない」といったことは、家内に限らず多くの中国人が口にする。自分の国の問題は根深いとわかっているのだ。だが、誰も変えようがない。身内とお金しか信用できないという社会の仕組み――つまり、他人をまったく信頼できない仕組み――になっていて、そこから誰も逃れようがない。逃れるとすれば、外国へ行く場合だけだ。
 経済発展した中国は豊かな国になった。だが、経済発展の先に出現したのは、安心して子供を育てられない社会だった。どこの国にも暗黒面はあるものだし、中国より治安の悪い国はいくらでもあるけど、いつも人さらいにおびえながら暮らさなければならない社会は、決していい社会とはいえないだろう。他人をまったく信頼できない社会は恐ろしい。もしかしたら中国人は悲しい国の悲しい人民なのかもしれない、とふと思った。




(2016年7月20日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第363話として投稿しました。
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