鹿児島県南九州市は4日、ユネスコの世界記憶遺産への2015年の登録を目指し、特攻隊員の遺書や日記などの遺品333点をまとめた「知覧特攻遺書 知覧からの手紙」の推薦書をユネスコに送付したという。
知覧特攻平和会館は、旧陸軍知覧飛行場跡にあり、知覧特攻基地からは大戦末期、陸軍の特攻戦死者1036人のうち、439人が出撃した。同館には、旧知覧町時代の1950年ごろから収集保管している資料約1万4000点を収蔵。申請物件には、隊員自身のサインや日付が記載され、直筆と特定できる333点を選んだという。
私はこの特攻平和会館には2回訪れている。1回目は、30数年前になろうか、親戚の葬儀参列のため鹿児島へ出かけた折りのこと。博多からブルートレインで、西鹿児島駅到着が早朝だったので、タクシーの運転手に時間つぶしの観光をお願いして、案内されたのがこの地で、当時は「知覧特攻記念館」という名称だったように思う。
古いことで記憶がさだかではないが、当時の記念館は今のような近代的な施設ではなく、広大な土地に小さな建物だけがぽつんと建っていたように思う。入り口の横に、海底から引き揚げられた戦闘機の残骸が無造作に置かれていたのが印象的だった。また、だだっ広い野っ原の中に、若者たちが往路の燃料だけを積んで飛び立って行ったという滑走路が、はるかかなたまで続いていたのを覚えている。
館内に展示されている勇士たちの遺書・日記などを読みながら、流れる涙を禁じえなかった。当時はまだ訪れる人も少なく、感情のあふれるまま涙を流しながらゆっくりと読み進んだ。若者たちの筆の達筆なのにも驚いたが、今の同年代の若者にこんな文章が書けるだろうかと、感服することしきり…。
最近、それらの一部を紹介しているサイト「知覧特別攻撃隊」を見つけた。その中の、相花信夫(少尉18歳 昭和20年5月4日出撃戦死)さんの手紙の一節は、2度の訪れで、たしかに読んだ記憶がある。
―前略―
ついに最後迄「お母さん」と呼ばざりし俺
幾度か思い切って呼ばんとしたが
何と意志薄弱な俺だったろう
母上お許し下さい
―後略―
2回目は10年ほど前か、南九州へのツアーで訪れたが、記念館の建物だけで何にもなかった飛行場跡地には、たくさんの土産物店や飲食店が軒を連ね、4月初旬の桜吹雪が風に舞う大通りは観光客で騒然としていて、すっかり観光地化されているのに唖然とした。館内に入ると、変らないのは展示品だけ、IT技術を駆使した超近代的な施設に様変わりして、30年前の面影はまったくない。感傷にひたりながら遺書・日記を読むという雰囲気ではなく、ざわついた館内を人の列に押されて、ただ見て歩くという感じで、30年前のひっそりとした雰囲気が懐かしく感じられた。滑走路があったあの広い野っ原も、今では農地化されてのどかな風景を見せているという。
あまりの変りように、私の勘違いかと思ってネットで調べてみた。旧知覧町は戦後、いち早く町民や関係者の浄財によって観音堂や特攻銅像を建立し、特攻勇士の慰霊の顕彰に努めてきた。昭和50年3月には公園休憩所を利用して知覧特攻遺品館を開設したが、手狭なうえに全国各地から訪れる人々は多くなり、まちづくり特別対策事業の一環として昭和60年度から2年を掛けて工事費5億円で建設したものだという。やはり私が見た小さな記念館も、あの果てしなく続く滑走路も幻ではなかったのである。
余談だが、鹿児島の特攻基地と言えば、知覧と鹿屋が知られているが、知覧から西へ約15kmの吹上浜に面する位置に万世(ばんせい)飛行場という特攻基地があったという。私も初めて聞く話だが、最近、テレビで紹介された「子犬を抱く少年兵」の写真から、「万世特攻平和祈念館」のことを知った。終戦直前の昭和20年(1945年)3月から7月までの約4ヶ月間に、201 人の特攻隊員が万世飛行場から沖縄に向けて出撃し、帰らぬ人となったそうである。さまざまな面で知覧飛行場と混同されたことがあって、万世飛行場は世間の人々から見過ごされ、「幻の特攻基地」などと言われているという。
勿論沢山の人に知って貰い平和の大切さを訴える役目だとは理解できるが、それでも観光名所のような様子が気に掛かる。遺書をしたためて片道燃料だけで飛び立つ若者の心中を思うとやはり静寂こそ望ましい。
長野の無言館、京都立命館平和ミュ―ジアムでも若い兵士の叫びが貼り出されています。
今の平和は、若くしてお国のために散った彼らの犠牲の上にあると言っても過言ではないと思います。
勇壮な若者が心ならずも両親や妻、兄弟と別れを告げ、帰らぬ覚悟で飛び立って行ったその気持ちを思うとたまりませんね。
旧知覧町は皇室御用達の銘茶で有名。また武家屋敷が並ぶ情緒豊かな町でもあります。
限りなく広がる茶畑、電信柱が1本も見えないすてきな町です。が、どこでも観光地化してしまうと魅力が半減しますね。