鮎と戯れて・・・魚族に感謝

東北地方を中心とした短い夏のあまり多くない鮎釣りの記録。家族に感謝して。近くの広瀬川の環境等にも拘るも、オフは時事問題も

生と死と、

2017-06-13 14:02:31 | 思いつくまま

 

  いやあ、きょうの天気は昨日と比べるとずっといいですね。何といっても明るいし、寒さも感じさせない(午前中は)ところがいいです。とは言っても午後後半の自転車は肌寒く感じました。それでも最高気温は21度まで上がったようです。

 

              

 

              

 

  きょうからみね子はすずふり亭で働き出しましたね。昭和41年の1月4日という設定ですか。まあ何にしても新しい職場で心機一転してバリバリ働いてほしいところですが、それではスト-リーがつまらないでしょう。

 

 これからどういう失敗を繰り返し、悩みながら働いていくのか、成長して行くのか、楽しみですが、もうすっかりみね子に感情移入していますね。毎朝7時30分が楽しみです。ここまでのめり込むとは自分でも不思議です。「あまちゃん」以来でしょうか。

 

 根底には素朴な茨城弁があるように思います。あの独特のイントネーションが何故かぴったりし、素直に入って来るのです。そして応援したくなるのです。時々田舎の方で「太子」という地名が出てきたりするのも一因かもしれません。

 

         

 

       

 

  昔々になりますが、釣り仲間とアユ釣りの解禁日やその前日に出かけているからでしょうか。6月1日の解禁にはよく福島県の矢祭町を経由して北茨城方面に鮎釣りに行きました。目指す河川は、そうです「久慈川」です。久慈川の上流域で竿を出していました。

 

 

 こう書き出して、いまでも思い出すのは雨となった解禁日ですが、ちょうど皇太子が雅子さまと結婚するということが決まった、というのではなく、結婚したばかりの頃だったかな、そのことがラジオから流れていたことを覚えています。古いですねえ。

 

 

 その後は解禁日に行く場所が、久慈川から栃木県の那珂川に変わりました。数年間那珂川に通ったのですが、それもいつしかなくなり、地元か近県に行くようになりました。ということは鮎釣りは6月1日から7月1日へと変わったということです。

 

 

 

 

  みね子は再出発をし、きのうはパンダの赤ちゃんが生まれたというニュースが流れました。熊やパンダの赤ちゃんは、大人の熊やパンダの大きさと比べると本当に小さいのですね。小さすぎてハラハラしてしまいます、つぶされないかと。口にくわえてる動画が何回も流されましたが、本当にハラハラドキドキものです。何にしても何事もなくすくすくと大きく育ってほしいものです。

 

 

 前にも書いたことがありますが、私が就職してすぐ頃に上野動物園にカンカンとランランのパンダの子どもが中国から贈られました。当時は大熱狂、一目見ようとすごい人出だったですね(マスコミによると)。

 

 

 でも私も見たのです。じっくりと押されることもなくゆっくり見ることができました。友達と大阪から見に行ったのですが、平日のせいかどうか、時間帯なのか、なぜかゆったりと見物することができたのです。何か今でも不思議な感じがします。

 

 

 

 

  そしてパンダと言えばもうひとつ、言いたいことがあります。6年前になりますが、中国から仙台の動物園にパンダが来ることになったのにその後全くうやむやになっていることです。一体どうしたというのでしょうか。不可解です。

 

 

 大人の皆さんは記憶していますよね。確かに中国政府が仙台にパンダを贈ると約束したはずなのですが、その後日中関係が緊張したためでしょうか、尖閣諸島の領有権の問題で一触即発になったからかな、もしかして。

 

 

 パンダが来ればそれなりに費用もかさむでしょうが、東北地方から家族連れや修学旅行の生徒たちもたくさん来てくれたでしょうし、何よりも大震災後という打ちのめされていた岩手宮城福島島に住む人々には何よりのプレゼントになったのですが。親を亡くした子どもたちにとっては何物にも代えがたい癒しになったのではないでしょうか。残念です。

 

 

 

  そして残念と言えば、元沖縄県知事だった太田昌秀さんが92歳で亡くなりました。過酷な沖縄戦のなかを鉄血勤皇隊の一員としてくぐり抜け生き延び、琉球大学の教授を務めました。そして沖縄県知事となり、2期8年勤めました。

 

 92歳という歳を考えれば致し方ないのかもしれませんが、まだ亡くなるのは早すぎます。そう考えるのは残酷なのでしょうか。そうかもしれません。いつまでも心身共に苦痛を与え続けるのは酷であるとも考えます。こんな戦後最悪の独裁政治状況を見続けるのは耐えられなかったでしょう。

 

 誰よりも戦争のない平和な日本の構築を目指して、沖縄県知事として精一杯働いたと思ってます。沖縄の本土復帰、そして日本国憲法の適用に期待をかけた分、現実の失望は大きかったことでしょう。理想と現実の狭間で非常につらい立場に立ちながらも少しでも理想の実現に向けて働きかけ続けてきました。 

 

 沖縄県知事時代に「平和の礎(いしじ)」の建設があります。二度と沖縄に戦争の惨禍をおこさせたくないという強い平和へのメッセージと考えます。

 ご冥福を心よりお祈り申し上げます。

 


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