のびたとブレイク

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地域から 眠れる歴史 下支え  埋もれる歴史が補強している

2018年10月05日 09時32分08秒 | うたごえ

久しぶりに高野山の名前を聴いた 私にとって 実の姉の分骨がどこかに葬られているのだ

生前 ここに葬って欲しいと言っていたそうだ かれこれ40年余経つこと どこの寺だか聴かずじまいである

添乗員の仕事で高野山の宿坊に泊り 早朝散歩しながら どこかに眠る姉に手を合わせた

 

これも含めて 何度か高野山には行き 奥の院を見て歩くのも聖域とは言え楽しみだった

幽玄な御廟の灯り 戦国大名の6割の墓があり かつては敵味方に分かれて争った同志が同じ墓所にある

そして私の好きなコーヒーカップがモニュメントの墓標 これは珈琲会社の社長一族の墓である

 

高野山関係の写真は全てネットから借用です 奥の院には島津藩の墓所が3か所 高麗敵味方供養碑もある

 

昨日の FM銀河・てんがらもんラジオのゲストは 鹿児島の伊敷歴史研究会の池田会長さん 以前にも登場の方である

私たちが歴史の話を興味を持って聞くのは 誰でもが知っている大河ドラマやテレビの特集で聴いているものでは無い

今回のように 地域に埋もれたような歴史の話 あるいは 地域と歴史との関わり合いである

 

 

鹿児島の 「へつか=辺塚」 と言う海岸に 江戸時代 高野山の争いに負けた坊さんが多く流刑されてきたと言う

江戸時代元禄の頃 有名な高野山3つのグループ紛争事件で 当時の幕府の裁判で決定されたものであった

高野山にはかねてから争いが絶えず 殺傷事件も度々起きていたのである

 

3つのグループとは 学侶(がくりょ)・・密教に関する学問の研究・祈祷を行う集団

行人(ぎょうにん)・・・寺院の管理・法会(ほうえ)など行ったり 武装した僧兵も含まれる

聖(ひじり)…全国を行脚(あんぎゃ)して 高野山に対する信仰・勧進行う集団 勧進とは寄付・門付けを求めること

 

当時の高野山の寺数は1853 このうち行人坊が1517坊 学侶坊が194坊 聖坊が35坊 あったと言われる

これらがたびたび勢力争いをして 死傷者もかなりあった 裁判で負けた方は普通なら死罪 遠島が多い

さすがに お坊さんのこと 市中引き回しなどはせず 伊豆大島 薩摩 壱岐 肥後天草などに遠島処分された

 

僧侶数 3768 行人 2665 聖 317 の人数のうち 行人627人が処分されたのである

この一部が 鹿児島の辺塚海岸に流されてきたが ネットで見ても観光用にも記録にも出てこない

まさしく 鹿児島側から見れば埋もれた歴史であり 大きな歴史の基盤を支えるものであった

 

 

更に話が 高野山・奥の院にある 高麗敵味方供養碑 に触れた

これは 島津藩が幕府の命で朝鮮に出兵して その時の戦いで 争いは敵味方であったが 死後は差別しない

双方の亡くなられた方の慰霊に向けて 供養碑を建てた島津藩の幕府には歓迎されないが想いを貫いたものである

 

高麗敵味方供養碑

 

ただ 朝鮮から見れば 秀吉の時代からの憎しみが 現代でも教科書で載せられるほどだ

闘いは相手を殺すと 昔は首級を上げる 即ち 首をとるのが普通だ 信長の時代なら首を跳ね晒したものだ

遠方のことゆえ 幕府に証拠に見せるためには 耳をそいで持ち帰った 耳塚と呼ばれるものも各地にある

 

しかし この 高麗敵味方供養碑が 日本の赤十字加盟に大きな役割を果たした

明治以後 日本も国際的に赤十字に加盟申請したが 理解不足もあり これは拒否されたのである

懸命に説得材料に添えたのが この供養碑の実在である この心に赤十字は感銘して日本の加盟を認めた

 

恵光院(えこういん) 宿坊がある 私が宿泊したのは 赤松院

 

まさしく 知られていない歴史の裏側 それは教科書や史実で私たちに知らされているものを補強するものである

歴史と言う列車が走るレール この下には 無数の埋もれた史実が小石となって 列車を走らせている

中には 敗者の歴史は 細かく砕かれて砂のようになって レールの下に埋もれているだろう

 

 

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