Pの世界  沖縄・浜松・東京・バリ

もの書き、ガムランたたき、人形遣いPの日記

ここはどこ?

2007年07月08日 | 
 久しぶり沖縄にいる日曜日。考えてみると3週間、各地を飛び回っていた。なので、今日は家族と恩納村方面へドライブに行く。途中、浦添市美術館で開催されている骨董市に寄り、リゾートホテルで食事をしたり、海で遊んだりと久しぶりのいわゆる「青い海」の景色を満喫して、途中、断崖絶壁から海を望む万座毛に寄る。もちろんここを訪れるのは初めてではない。
 ここにきていつもある種、懐かしさを感じるのは、駐車場周辺のお土産屋である。横長の建物に並んだお土産屋には上からカラフルな「アロハ」もどきシャツが隙間なく吊り下げられ、店屋のオバサンたちは、観光バスがやってくるたびに客引きに余念がない。もちろん乗用車も同様だが、わが家の車は「沖縄ナンバー」でありながら、レンタカーを示す「わ」の記号ではないため、あまりうるさく声はかけられない。つまり「ジモティー」はこんな場所で買い物をするとは初めから考えられていないからである。
 しかしこんな風景をどこかで見たことはないか?――「そうです。バリです!」
 海岸であろうと、山であろうとたいてい一列に並んだお土産屋には、カラフルな衣装が上からかけられ、下には小物、装飾品、Tシャツなどが所狭しと並べられているのである。その光景もこの沖縄のお土産屋の風景と変わらないのだ。客引きの風景、値切る観光客・・・どれもバリの市場や観光地でみる日常的な光景である。
 本土から来た観光客は、この風景に南国沖縄らしさを感じるだろう。こんなにもカラフルな服・・・。たぶん湘南や伊豆のお土産屋とは相当に違う極彩色のパレット。こんな色彩がきっと沖縄のイメージを作り上げるのだ。しかし私は本土からやってくる観光客と違って、沖縄に「バリ」を、そして「東南アジア」を見る。そして、そんな光景を眺めながらぼんやりと思うのだ。沖縄で東南アジアの音楽を研究し、バリのガムランが演奏できる自分は幸せなのだと。


ガムラン七夕コンサート

2007年07月07日 | 大学
 毎年、七夕に近くなると学内での野外ガムランコンサートを企画している。だいたい沖縄は6月中旬以降に梅雨が明けて、この時期は本格的な「晴れ日」が続くからである。
 ガムランのコンサートにつきものなのは、楽器運びである。東京にいるときには、大森のスタジオにいくのに2時間、搬出に1時間、会場まで電車で1時間以上、そして帰りも同じだけ時間がかかるなんてざらだった。だから沖縄にきて、その楽器運搬が相当に楽になった。異なるキャンパスにスタジオがあるとはいえ、今回は大学のトラックを借りて、1時間以内にはすべてが終了してしまった。
 確かに時間的には楽だ。しかしその一方で大敵が存在する。それは異常な暑さである。昨日もゆうに30度を越す気温の中で汗を流しながらこの作業を行わなければならなかった。「夏はガムランの季節」なのかもしないが、演奏する側は正直、本番の演奏にたどりつくまでに、相当に披露が蓄積するはずだ。しかし若いメンバー達の音をを聴いていると、そんな気配を全く感じない。青銅の響きは、首里城のすみずみまで届いて、魂をもつものすべてに享受されているかのように風に運ばれていく。
 さて、昨晩行われた今年のコンサートであるが、200人近くの観客が集まって、一時の真夏の夜のガムラン音楽を夕涼みがてら楽しんでくれた。毎年来てくれる沖縄のガムランファンの方々、演奏者の友人たち、そして何よりも遅くまで帰らずに私たちの演奏を待ってくれていた学生の方々には感謝!
 コンサートのあとの爽やかな余韻が残るような感覚、もう何百回と経験してきたはずなのに、この感覚だけは色褪せない。だから次も私は「会長」「監督」におさまることなく、彼らに混じって重い楽器を運ぶのだろうと思う。演奏者は楽器を運び続けなければならないのだ。バリの先生たちが皆そうであるように。


デビュー目前

2007年07月06日 | 大学
 夕方から大学サークルのバリ・ガムランの七夕コンサートが、大学の中庭で開かれる。バリ島のガムランを外で演奏するのは、やはり気分がいい。室内だと倍音やウナリの反響が強すぎて、時としてそれに苦しむことすらある。もともとガムランは野外で演奏されるためのものだ。だから外で演奏すると、その音楽は心地よく響く。
 東京にいる頃、外でのイベントを企画するのは大騒動だった。イベント企画そのものだけでなく、近所への事前挨拶などだけでも相当に疲労した記憶がある。昼間なら大丈夫だと思って、リハーサルをやっていると、「夜の仕事系」の人々から騒音の苦情の電話や、怒鳴り込まれたこともある。昼も夜も、野外でガムランを演奏するのは苦労の連続だった。
 ところで、今回の大学サークルのコンサートを利用して、この5月から私が来年の公演のために教え始めた学生グループも「前座デビュー」する。たった2曲、たぶん時間にして10分程度の演奏に過ぎないが、それでも私にとっては新たなグループをデビューさせるのだからそれなりに緊張するし、嬉しさもひとしおである。
 メンバーの多くの学生は演奏を専門とする学生達ではなく、音楽研究を目指す専攻の学生たちだ。だから大学内では、人前で演奏する機会というのは年に一度の「試験」くらいしかない。実は私自身も20数年前、そんな専攻の学生だった。だから演奏を専門とする学生たちにはできないガムランを学内で演奏することは、それなりの喜びがあった。そうした経験を通して、演奏は音楽研究の原点にあると感じた。
 今日はちょっと先生モードで、学生たちに「演奏の楽しさ」を感じてもらいたいと思う。「音楽学は研究するだけで、演奏はしないし、理屈っぽいだけだ。どうせ演奏できたって二流だよ。」なんていうことを口に出していう人はいないと思うが、われわれだって演奏する。そして研究する。ガムランは私たちにしかできないだ。だから胸をはって舞台に立とう。



ヘビの共食い――小玉川でのこと(3)

2007年07月05日 | 
 小玉川で演奏仲間のホセ氏がヘビの共食いの話を語ってくれた。話の内容は、ざっとこんな感じである。
「二匹のヘビがおりました。それぞれのヘビが、相手の尻尾を口に入れて、それを同じペースで飲み込んでいくわけです。少しずつ、少しずつ・・・。だんだん前にいるヘビの体は、後ろのヘビに飲み込まれていきます。少しずつ、少しずつ・・・。そしてとうとう、お互いの頭だけが残るまでにそれぞれ相手を飲み込んでしまったのです。そして最後に、お互い大きな口をあけて・・・・パクッ。相手をもののみごとに飲み込んでしまいました。その瞬間、二匹のヘビの姿が消えてしまったのです。」
 実に不思議な物語である。両者は両者に飲みこまれ、この世から消える。「相撃ち」、「刺しちがい」ならば、両者は同時に倒れるが、ヘビは同時に消えて果てるのだ。しかし、冷静に考えてみればそんなことがありえるわけはないのだが、なぜか私はその反証をする気になれないのである。
 ふつう二者には「力関係」が存在する。上下関係や権力関係の存在しない二者などはありえない。だから、世の中のさまざまな二者は常に争い続け、時には「喰うか、喰われるか」の関係となり、場合によっては無残な結果を生む。しかし二匹のヘビには力関係が存在しない。まるでコンピュータ制御された精密機械のように、同じ速度で相手を飲み込んでいく。世の中に対立する二者のすべての力関係がもし対等であるのならば、バリの魔女ランダと聖獣バロンが繰り広げる終末のない永遠の戦いを始めるか、刺し違えて相互に斃れるか、はたまた、争いをすること自体に意味が見出せなくなり、その状態のまま、何ごともなく両者は存在し続けるかもしれない。しかし、互いに核兵器を持てば、本当に人は殺しあわないのだろうか?
 二匹のヘビは相互に自分の姿を消滅させ跡形もなく消え去る。争いがあったという事実すらデリートされてしまう。そのプロセスはまるで夢の出来事のようだ。つまりは、ありえないことなのである。両者に力関係が存在しないことなど・・・。ヘビはきっと超自然的存在が一時姿を変えた仮の姿だ。そしてそのヘビたちは私たちを嘲笑っているだろう。
「おまえたちにはできないだろう?人間は決着がつくまでずっと争い続けるのだから・・・」
小玉川で私は、確かに自分が「人間」であることに気づかされる。


お店で売られている日用品――小玉川でのこと(2)

2007年07月04日 | 
 小玉川集落には、歩いて数分のところに、私が知る限りお店が二軒立っている。一軒は、売店を兼ねた食堂であり、もう一軒は商店である。食堂はここしかないので、必ず着いた日はここで昼食をとる。ソバ、ヤマメ料理とどれをとっても旨いし、極めつけは、なんといっても熊の手ソバ10万円である。ちなみにここの主人はマタギであり、また写真家でもある。私たちの着いた前日に山の中で撮影したユリの写真を見せてくれたのだが、それはほんとうに美しいものだった。
 さて、注文した食べ物が来る前、この店に売っている品々を眺めてみる。観光客向けに、山で獲ったハクビシンの襟巻きとか、熊の腰巻きだとか、絶対この店にしかない不思議なモノが売られているすぐ横には、集落の人々のための日用品が並べられている。だいたい集落に二軒しか店がなく、商店は酒と食料品中心であるため、この店は日用品が中心である。二軒の売られているものが競合するなんて、あまり現実的ではない。
 たぶんこの店に置かれているものは、村の人々にとって必要最低限の日用品だと考えてもあながち間違いではないだろう。石鹸、洗剤、電池、文具類、ライター・・・なんだかここに売られているものを買うと、フィールドワークに必要な品物すべてがコンパクトに手に入ってしまうようだ。品数は少ないながら、ある意味、品揃えは完璧なのである。
 さて、私が「あれ?」と思ったのは、「線香」である。今の自分の生活には「線香」といえば香取線香だけだが、仏様に捧げる「線香」がこの数少ない品々の一品であったことは、想像できなかったものだ。日用品として売られる線香の存在は、信仰がこの村の人々にとっていまだ日常であり続けている証だと私は思う。

マタギの文化――小玉川でのこと(1)

2007年07月03日 | 
 小玉川は小さな集落である。小学生は今や3人だけで、中学校は昨年、そして今年度で小学校も閉校になるほどのいわゆる過疎の農村だ。しかしこの村、マタギの村として有名で、村の男たちの一部は、冬にはマタギとなりクマ、ウサギ、ハクビシンなどの獲物を狙う。狩猟はこの地域のマタギ文化、山に対する信仰と深く関わっており、特にクマの狩猟をめぐるさまざまな儀礼は民俗学者による研究の対象になっているほどだ。
 この村にくると、この村の一番奥にある(と思われる)、奥川入という民宿に泊まる。民宿は周囲を田んぼと森、そして山々に囲まれている。この家のご主人、ご隠居ともにマタギである。といっても見た目はふつうの気さくな「オジサン」と「オジイサン」である。二人とも熊の話になると、どうにも止まらなくなる。「今年は、オレが撃った熊、転げ落ちたんだけどさ、それが当たったんだか、当たんなかったんだかわかんなかったんだよな・・・」なんてことから始まり、私たちのために冷凍保存している貴重な熊肉を使って、熊汁を作ってくれるのである。
 この民宿には、えらーい大学の先生が調査に来たりするそうだ。このへんの話になると、なんだか民族音楽学者である自分としては、「他人事」とは思えなくなってくる。酔っ払ってくるとオジサンたちはこんなことを言い始める。
「よーく先生がきて、いろんなこと聞かれるんだけどよ、なんだか、わかんねえんだよな。俺たちも昔からやってきているだけだしさ。でも、このへんの文化は貴重らしいよ。」
 なんと素直な語りであることか・・・。まさに文化人類学で学ぶ「儀礼の慣習的行為の実践」ではないか!こうやってインフォーマントが調査者に正直に語っていれば、あるいは、この語りを聞いた民俗学者がこれを素直に受け止めれば、現在の「民俗誌」が描けることだろう。
 だけど、マタギのオジサンたちは、たぶんノートパソコンとICレコーダーを持ってきた偉そうな民俗学者を前にすると、がちがちになって、古い記憶を必死にたどって、「語って」しまうのだろうな、と思うとやや微笑ましい。やっぱり、村のオジサンたちの本音は酒を飲まないと聞けないものである。

「秘湯」温泉の蝶ネクタイをしたタヌキ

2007年07月02日 | 
 金曜日、新潟県の温泉に泊まった。温泉には一軒の宿しかない、温泉自ら、日本秘湯を守る会の会員になっている、いわゆる「秘湯」である。Wikipediaによれば、秘湯とは「主に山奥などの交通の便が悪い場所に存在する温泉のことを指す。読んで字の如く、秘=他人に知らせたくないような温泉のことである」と書かれている。
 この温泉は新幹線の駅から車で15分程度、バスでも行くことができる。ということは決して、交通の便が悪い場所に存在しているとは思えない。また他人に知らせたくないのならば、営業は不要だし、ホームページもいらないはずである。しかし存在する。Wikipediaの定義が間違っているのか、それともこの温泉は秘湯ではなく、自称「秘湯」なんだろうか?そう考えてみると「秘湯」を自称し、それを宣伝文句に用いる温泉そのものが眉唾ものということになる。
 ところで、この温泉の階段の途中には、異様ないでたちのタヌキの剥製が置かれている。なんとタータンチェックの蝶ネクタイをし、耳にリボンをして、どじょう掬いをしているのだ。由緒正しい「秘湯」旅館は、この不思議なタヌキをなぜ、旅館に飾っているのだろう?
 剥製になってもここまでし続けてなくてはならないタヌキが哀れに見えるだけでなく、この剥製がタヌキへの冒涜のようにも見えてきたのである。せめてタヌキに瓢箪を持たすくらいならば許せるが、これはあまりにも不自然である。宿を出るまで、このタヌキと目をあわさないように過ごした。相手はいつも階段の途中にいるのだから避けることはできないのだ。
 「秘湯」、「タヌキ」、「蝶ネクタイ」、このキーワードが私にとってのこの温泉の印象であった。