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黛信彦の時事ブログ

「おやじ就職させてくれ!」世界を駆ける農家。

2008年07月21日 | 政治・政局
ある農家が、農協や補助金を捨てて世界に目を向けたとき、「おやじ、就職させてくれ」と、息子が言った。↑↑

(すべて、敬称略とします)
農水省や農協が仕切る日本の農業は、食糧危機に対応できず無策ぶりが目立ち、限界を迎えている。
そんな中、タイや台湾を目指し、世界が注目するドバイに渡ったものがいる。
今年2月、ドバイ国際食品見本市のツアーに日本から18人が参加した。彼らは観光ではなく、「日本の農家はチャンスあり、しかし役所に頼ったらもうだめだ」と考え、チャンスあらば日本の食材を売りこもうとの気概をもつ者たちだ。

20日TV朝日サンデープロジェクト第3部は、3月9日放送の迫り来る食料小国の危機!に次ぐ、経済ジャーナリスト財部誠一の“農”特集第二弾、“世界を駆ける農家”、ドバイに降り立った者たちのエピソードが特集された。

●民主の個別農業補償公約が日本農政を壊した。
これに先立って第一部で民主党の党首選が取り上げられ、その中で、民主党の農政が語られた。同党前代表・前原誠司が「マニュフェストは進化すべき」と主張したのに対して、同党筆頭政調会長・細野豪志は、「民主党の農政も新たな法人の参入を許すとか土地の購買も小規模でも購入できるようにして団塊の世代の人に入ってもらうなど、時代の変化に基づいてバージョンアップしている」と述べた。

財部が、ここで噛み付いた。
「でも、細野さんたちは日本の農業政策を壊しましたよ。
僕はねえ、自民党のことを全然評価していないけど、それでもね“大規模化してゆかなければ持たないというので、個人は4ha、集団は20haまで拡げて行きましょう、それ以下の人は補助金出しませんよ”と、細かい問題はいろいろあるけれども相当頑張ったんです。
それが民主党の個別農業補償の選挙公約で完全に崩れましたからね。」

●農事組合法人 和郷園
千葉県香取地区の和郷園(わごうえん)は、92の農家が参加する出荷組合。経営者は9割が40歳以下と若い。農協から離れた独自の流通システムで大手スーパーなど50社に卸しする。
作物は質が高く、組合員はつわものばかりだ。
代表を務めるのは木内博一(40)。 
林恒男(44)は、折ったのにくっつくほど、みずみずしいきゅうりをつくる。
広井昭子のサンチュは、彼女の顔が見える。
木内の同級生だった斉藤直行(40)は脱サラして農業を継ぎ、小松菜などで4000万円を稼ぐなど、組合員の年商は大半が3000万円を超え、なかでも木内は2億円を越える。

木内のモットーは、“消費者目線で野菜を提供したい”。そこで17年前に考えられたのが、あの“カットごぼう”。
この考え方は組合員にも浸透している。宮野秀平(41)も「作る側の発想ではなく消費者側の発想で」と熱く語る。

従来、生産者目線、農協・農水省目線が支配した農業において画期的発想を持ち込んだ木内は、元暴走族のリーダーというキャリアの持ち主である。

和郷園は、なるべく肥料を使わないなどの高品質、冷凍工場を畑のど真ん中に作って物流コストをカット、卸先軒数を多く持つことで値崩れを防ぐなど、ユニークな考え方を持つ。
たとえば、予定の150%の豊作だったとしよう。50軒の卸し先にそれぞれ、僅か1%づつ多く引き取ってもらう。こうすれば値崩れが起こらない。

木内は、冷凍工場に絡んで大切なことを言った。「本来、旬の時期に旬のものを作るときには、ゼロとは言わないが、農薬も化学肥料も何もいらないんです」その、旬の野菜を畑の真ん中の冷凍工場で加工すれば、長期間旬の味の野菜を供給できるのだ。

いまや、和郷園には3500円の費用を払ってでも学びたいという人が全国から年間500人以上訪れ、後を絶たない。

そして、2006年、木内はついにタイに現地生産法人を設立し、マンゴーと無農薬バナナを生産し日本に輸出するとともに、ドバイに目を向けている。

●国際流通の突破口
ドバイ国際食品見本市に、農水省の選考をクリアして出展した高橋菜穂子(27)は、横浜国大卒業後、実家のさくらんぼ農家を継いだ。
その彼女は「(日本の農業は)日本だけで完結している。その流通を変える突破口になれば」と考え、“ねずみ大根”と呼ぶ辛味大根を「ジャパニーズ・ラディッシュ」として、売り込んでいた。

●「おやじ、就職させてくれ」
新潟上越市の米農家内山義夫(56)は、農水省の選考に漏れたが出展社の一小間を借りて、新潟こしひかりを自前ブランド「恵みっこ」にして、売り込んでいる。
内山は言う「3~4割り減反させられると皆同じものをつくってしまうことになる。それならば、誰も外に出ていないなら、思い切って世界に出よう」

内山は、代々の水田5haを受け継いだが、田んぼの高低差をなくし作業性を求めることから始めた。妻・節子は「雪が降る仲、鼻水たらしながらやってました」と、その重労働を懐かしんだ。

2002年、内山農産を会社化すると、転機が訪れる。
農業を嫌っていた長男・博登が、家業を継ぐことを決意したのである。
「おやじ、就職させろって言うんですね。それに私は感激しましてねえ、「就職させろ」ということは一般の企業として彼(長男・博登)はみてくれたんですね。」
博登は「これだけ苦労して作った米を高く売るという意識の高さに魅力を感じた」のだという。

息子に会社を残すには海外に進出して販路を築くしかない。と考えた内山は、仲間4人と“恵みっ子”の海外輸出を決意。仲間の岸本尚英は「夢をコメに託した」と言った。
彼らは、二年前に始めて台湾に進出し、太平洋SOGOで自ら販売員となり、なんと、すでに台湾のデパート23店舗で販売するようになった。

内山の仲間、曽我文隆(67)も後継者で悩んでいた。「せがれがサラリーマンになってしまったから、私がだめになれば私の農地でだれも作ってくれる人はいませんからねえ」
多くの減反米農家はそういう悩みを抱えるが、曽我のところに、弟子入り志願者、横浜の伊賀祥一(27)が現れた。伊賀は弟子入りの動機を「普通の企業に就職するよりもあきらかに未来があると思った」と述懐した。

しかし、内山は台湾では苦しい闘いを強いられている。それは多くの日本の農家がすでに台湾への進出を果たしていることである。しかも、それらのほとんどは補助金を得て値下げしているものばかり。内山は、台湾の取引見込み客に言う「(高価格かもしれないが)基本的には補助金はあてにしないでやっていきたい。補助金をもらうと制約が強くなります」

台湾での苦闘が続くが、内山たちは去年、タイ・オーストラリアへの進出を果たした。

そして、ドバイの見本市にも青い法被姿で現れ、試食勧誘で販売活動を展開した。(了)

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