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黛信彦の時事ブログ

浜矩子語録(108) 国富論を超える、君富論

2011年04月02日 | 浜矩子語録

2010年9月11日、日曜クラブに招かれ『恐慌ドラマの行き先は? 今、恐れるべきことは何か』を演題とした妖艶なエコノミスト・浜矩子語録の最終章である。

浜矩子は講演冒頭、財政恐慌・昆虫大戦争・愛国開発を、来るべき三大怖いこととし、検証すると語った。

以下は、その三つ目の怖いこと、愛国開発についての詳録である。
●「自分が自分のやり方を変えない、でも生き延びて行きたい」ということで国々がぶつかり合うことで出てくるものが、保護主義でございます。
保護主義には 色々な側面がございます。
「国産品愛用運動」、愛国消費と言われます。
「日本の金融機関は日本人や日本人の会社にしかカネを貸さないように」、愛国金融と言えます。
「外国人を雇ってはいけません。我が国人を雇いなさい」という愛国雇用。

こういうやり方に出てしまうのは、国益上止むを得ない側面もございますが、個別の国々で見れば、非難できない面もありますが、しかし乍ら、我が身可愛さ、自分だけ良ければという中でのぶつかり合いで、誰も生き延びることが出来ない事になってしまいます。
ところが最近、愛国消費・愛国金融・愛国雇用は、愛国開発にも伝播しているように思えてなりません。
資源開発、要するにレアメタルやその他の鉱山物、希少資源を囲い込み、その開発を「我が国の為にだけ行なう」ために、資源豊かな国に先陣争いをして、独り占めしようと買い付けてしまう。多くの国々がアフリカ詣でをしている。

愛国開発のもう一つの側面として、大型開発プロジェクト受注合戦も激しくなっております。
多くの先進国がドバイ詣で、アラブ首長国詣でをする。日本でも「韓国に負けるな、中国に負けるな。新幹線で世界を制するのだ」と言って出て行っております。
国家戦略的先勝戦略とも言うべき行動が全面に出る。それも分からないことではないのでございます。
「官民一体で、大型受注を獲得するために頑張らなくては駄目じゃないか!」と盛んに言われる世の中になって参りました。

一見それは、国益を考えた発言のように聞こえたりもしますが、愛国開発で血眼になっている国々の姿は、そうとうな昔まで逆流している。
第一次世界大戦前の植民地分捕り合戦と似たような展開になってきてしまっている気が致します。
21世紀、グローバル時代、こんな新しい時代状況に対応するのに、こんな古典的な視野の狭いことで国々が衝突し合うのは非常に愚かしい。
もっともっと、今日的な知恵を持って乗り越えて行かないと地球経済は死に至ることになるのです。

このように、愛国開発という側面が新たに保護主義の体系に加わってきたことに強い危機意識を感じるところでございます。

●今まで申し上げてきた三つの怖いこと、財政恐慌・昆虫大戦争・愛国開発が、地球経済が死に至る道だと思いますので、この道から外れて新たな夜明けの方に動いて行くか、グローバルジャングルの新たな夜明けが来る方向に行くためにはどうなっていく必要があるかという事を一緒に考えてみたいと思います。

その(死に至る道への)流れを堰き止めるにはどういう流れにしなければならないかと言えば、“国富論を超えて”と言うところにあるのだと私は思います。
国富論は、アダム・スミスという経済学の始祖とも言える人が書いた本のタイトルでございまして、(原タイトルは、An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations、概略すれば)『諸国民の富とその形成』ということですが、
アダム・スミスが国富論を書いた当時は、国民国家というものをこれから然るべく形づくって行こうという時代でありました。だから国富論という言い方が時宜に適っていたのです。

しかしながら今や、地球は一つされど国々は多数、国民国家という存在のし方、人間のあり方が、グローバル化して行く時代状況にマッチしていない。
それにも関わらず、為政者の発想は「国民国家の富を豊かにするところに我々の役割がある」との枠組みの中だけでものが考えられている。

カール・マルクス氏の資本論でもやっぱり、国民こそはという枠組の中で労使は如何に対立し搾取の構図が起きるか?という事を分析して、国民国家というものを大前提的枠組みにしていたのでございますが、(現在は)そこを枠組みの前提に出来ない中で問題が起きてしまっている。

国富論的な発想を人々が超えて行くことがないと、地球経済を死に至らしめることから免れることは出来ない。
つまり、国富論が勝つのか地球経済が勝つのかという感じにだんだんなって来てしまっているのです。
地球経済にせよ国富論的国民国家にせよ、その基盤はその“命”である“人々”、どっちも人間が主役なのですから、どっちかがどっちかをやっつける、などという事はあり得ないのですが、現状はそういうようになってしまっている。

ということで、国富論を超えてゆく発想の転換が求められているのではないかと思うところでございます。

では、国富論を超えるという事はどういうことか?
詳しくは先ほどご紹介いただきました、「※その本を買え」とそこはかとなく申し上げているわけですが、“僕富論”から“君富論”への発想の転換ということでございます。
(※その本:死に至る地球経済、(岩波ブックレット)

今、国々は僕富論、「僕ちゃんが豊かになるためにはどうするの?」という発想に突き進んでいる訳でございますが、個別的に国々が「僕だけ生き残ろう」、我欲いっぱいの僕ちゃんどうしのぶつかり合いの中で経済は死に瀕している訳でございますから、「君を如何に富ませるか?」とお互いに考えられるような、「私の内需はあなたの外需よ!」という感じで、菅さん(現:菅直人首相、この講演会当日:10年9月11日は民主党代表選終盤だった)ご本人は何を言っていたか忘れてしまっているでしょうが、6月に菅政権として出しました成長戦略の中に「アジアの内需を日本の外需に取り込んで」という言い方がありました。
さらっと読めばそれなりにふんふんという感じですが、よくよく考えてみれば「アジアの内需を日本の外需に」という言い方は「僕のものは僕のものだけど、君のものも僕のもの」と言っているのと同じ事で、こういうことで良いわけがない、ともつくづく思います。

アジアのために日本は何が出来るか?どのような形で付加価値を提供できるか?と考えて然るべきところだと思いますが、やっぱり「あなたのものは私のものよ」と。

そういう意味で“僕富論”から“君富論”というのが国富論を超える一つの方向性であると思います。

●もう一つの道があると考えています。
“汎富論”から“皆富論”、全体が富むというのではなくて、皆が富む。
“汎富論”というのはどんぶり勘定でございまして、アリとキリギリスは両方いるのですが、合体すればバランスが取れている。
EUは、ずーっと汎富論で来ていまして、その典型でございます。
しかし、全員が良ければ全体が良くなりますが、全体が良いから全員が良いとは限らない。
如何にして“皆富”というレベルでハッピーになれることを考えるか、G20などという会合を繰り返し開催しているのであればその場所で“皆富論”を、“君富論”をどうやって実現して行くかを考えて貰わなければいけないと思っております。

●「イメージ的に分かるが、どうやるの?」ということでございますが、
“僕富論”から“君富論”へ“汎富論”から“皆富論”へという言い方を別の角度で言い換えれば、“地球から地域へ”、“国民から市民へ”という事になると考えられます。
「皆が一緒に良くならなければいけないですね」という発想、それは地球より国家より地域経済のレベルでアリギリスを目指し知恵を出し合い、痛んでいる者、弱っている者を救い上げて、全員参加で経済活動を展開して行くやり方を地域で実現してゆくことが必要です。
向かい合うことが出来る広がりの領域で積み上げて行く、地域々々のレベルで皆がハッピーになれる構図をしっかり造り上げて行く、個別で皆ハッピーな“皆富論”の部分々々を足し上げてゆく。
地球の問題を地域のレベルで解決して行く発想が、新しい展望が開けてくることに繋がるのだと思っております。

そして、地域が主体となりますと、国民ではなくて市民が運営の責任を持つことになりますが、国民でも社員でもなく市民、ここにお集まりの皆様こそが、国民とか社員という縛りから解放された精神・心意気をお持ちの皆様であればこそ、こういう暑い最中(9月11日)にこういう場所(文化女子大学)に足を運んで一緒に議論しようと思われるのでございまして、この部屋にお集まりの皆様こそが正に“僕富論”から“君富論”へ、“汎富論”から“皆富論”へということを伝心できる力をお持ちの、地域にベースをお持ちの市民達だと思います。
こういう所から、地球経済を死に至らしめないエネルギーが出てくるのだと思います。
そういう市民達の力、市民達の声が盛り上がって来れば来るほど、国民国家的な政治も政策のあり方も変わって行くのだと思います。

今の世の中、アリとキリギリスが喰うか食われるかという関係で解決しようとする通貨大戦争が出てきて、いずれも脱却の道が見えてこない中で「必要なのは強力なリーダーシップであり、愛国開発において勝利するにも国家的に強いリーダーが必要なのだ」という言い方は結構出がちな今日この頃でございます。
「政治的に強いリーダーシップが必要なのに(民主党政権には)全然ないじゃないか」と批判の対象になったりする訳でございまして、混沌の中で強いリーダーシップを求める声が余りにも高まってくるとヒットラーみたいな人が出てきてしまうことになるわけでございまして、今はそういう事を、声を大にして言うべき場面ではないのではないかと思います。

リーダーシップがあり過ぎることは無策よりも怖い。
むしろ、リーダーシップを求めるとすれば、それは市民達の世界、地域の世界で、どういう風な方向付けを政治家・政治・政策に対して我々がして行くか、ということだと思います。

政治というものはあくまでも後から付いてくるもの、政治がリーダーシップを執るという考え方は基本的におかしいと私は思います。

我々は、“投票権”という人質を政治家達に対して持っているわけで、大いに有効に活用して“君富論”の方向に導いて行くのは我々の責任であって、政治にリーダーシップを求めるのは、私はやはり本末転倒だろうと思うわけでございます。

市民達の方向性に政治を付いて来させることができれば、私は、地球経済が死に至ることは決してないと思うのですけれども、現状で政治家たちの頭は非常に古いですね。
どうしても、「国富論を声高に唱えれば唱えるほど、良き政治家、頼りになる政治家だと思われる」という発想で政治家たちは動いているわけで、彼らの頭の中に、新しい時代の知恵の風を吹き込んで行くことが皆様の役割ではないかと思います。

●このような話に対して「そんなこと出来る訳ないじゃないか?何言っとるんだ!」という雰囲気を感じる会合もございます。
その感覚もよく分かりますが、「まさか、そんなことはできないだろう」と思う頭自体が前進を阻んでいるわけでございます。
歴史を振り返ってみれば、まさかと思われた事が実現したことは物凄くあります。
「歴史は、まさかの連続である」と思います。
直近でそれを思ったのは、今年(2010年)の事でございますけれども、サッカーのワールドカップが南アフリカ共和国で開かれました。
こんなことが可能になるという事をいったい誰がアパルトヘイトの最中に考えたでしょう。南アフリカの市民達が一緒になって観戦しイベントを組織しました。
そういう日が来るとは誰も思ってはいない最中にアパルトヘイトと戦う人たちは、彼らの力で不可能を可能にしました。
ベルリンの壁が崩れたことも同様でございます。

そのように考えれば、“僕富論から君富論へ”が実現しても、少しもおかしいことではございません。
不可能は必ず可能になる。不可能を可能にする力は市民の力であるわけでございます。

地球経済をしに至る所から新しい夜明けに向かって引っ張っていけるかどうか?
ここにお集まりの皆様こそ、その顔ぶれではないか、と申し上げたところで丁度3時半となりました。(了)


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