昨日、新潟市で開催された演劇大学を受講。
朝6:15、自宅を出発。
運転手はもっちゃん、同行者は恭子ちゃんとサリア。
途中PAで休憩を取り、9:10に新潟駅前で
ケンジ君と合流し大学到着。
受付を済ませ、9:30から始まる西村氏の講座見学。
ケンジ君は実技講座のリハのため、別会場へ。
西村氏の講座はスタニスラフスキーシステムによる
様々な身体へのアプローチ…という感じ。
面白そうなので参加してみたかったが
私は坂手氏の講座受講のため9:55に移動。
10:00から「演出家と語ろう」(講師/坂手洋二)に参加。
①作家と演出
・演出家が生れたのは何故か?
第三者的視点 合理性・責任の所在
客観と主観の違い
例;写真⇒客観 絵画;主観
演出⇒客観 俳優:主観
・演出家は、ある世界観を観客に提供することができる存在
●イプセンは、俳優(主観)では人間の本質(ダークな部分)を
表現できないのではないかと考えた
●チェーホフはイプセンの影響を受けている
表現形態は多種多様だが、演劇の特殊性は
存在する(実在する=ある)身体と言葉を使う表現である
言葉がない世界⇒認識がない世界
言葉は人間が狂わないためにあるのではないか?
・人間は色々な事象に対し「なぜ?」と疑問を持ち
それに対して想像する特質があり、自分なりの答えが欲しくなる
例:なぜ子供が泣きながら生まれるのか?⇒生まれるのが怖いから泣いているのでは?
・言葉は分節化し、置き換えることができる
例:私⇒あなた
自分を取り出し、自分でないものに見たてることが可能
・「演劇とは何か?」というところから考えて行くことが重要
・演劇は情報(ジャーナリズム)の提供という役割がある
・演劇には総合表現(全ての表現)が含まれる
・作家はそれだけでも生業としていけるが
演出家という存在は近代生れたものであり
未だそ認知度が低く地位が確立されていない故
演出者協会は演出家の地位向上も目指している
・口から発する言葉ではない身体の言語による表現も演劇の一つ
・演出の最大の敵はステレオタイプ
・演劇の豊かさを認識する
②舞台美術は演出家の仕事
・客席を含む全体の空間を疑っていく
こうである、と思いこまないということか…
・劇場キャパによるセットを考える
③役者
・感情を自分だと勘違いするな
・見せているのではなく、自分も体験しているのだ
・ちゃんと感じる⇒衝動(日常から感じる必要性)
・相手とのやり取りの重要性
坂手氏の話を聞き、下記のようなことを考えた。
悲惨な状況を舞台にしようとすると
悲惨なことだけを大げさに表現しようとするが、実は
人間はどんなに悲惨な状況下でも豊かに生きている。
ステレオタイプ⇒固定観念・既成観念
表現者は、全ての固定観念を疑ってみることが必要なんだよね。
ところが、人間は日常生活でこの観念をかなり多用している。
こんな文章を見つけた。
ステレオタイプ的認知は、常に変化し完全に把握することが難しい現実を
ある一定のパターンにより整理して理解し、また、その後の変化を速やかに予測し
対応することを可能にするという利点もあります。
環境に対して適応的な行動をとっていくために不可欠な認知でもある。
しかし、ネガティブな印象を伴うステレオタイプは
時に偏見や差別を生み出す危険もある。
また、そのようなステレオタイプは「認知療法」などにおける
ターゲットとしても取り上げられる概念。
人間は世界のありのままを観ているのではなく、一部を抽出し
解釈し、帰属させているなどして認知しているため
必ず個人差があり、主観的と言える。
それゆえ、誤解や思い込み、拡大解釈などを含んだ不都合な認知をしてしまうことがあり
結果として、怒りや悲しみ、抑うつなどが生じてくると、認知療法では仮定する。
これらのステレオタイプな認知は、認知の「歪み」と捉えられ
それを修正することが認知療法の目標とされる。
ステレオタイプは、経験の積み重ね以外にも、情報が得られるだけで
形成・強化されていく場合がある。
つまり、あるステレオタイプ的信念を自分では信じていないつもりでも
そのような相手と遭遇した際、無意識な部分で、ステレオタイプ情報が活性化することになる。
このように、ステレオタイプは無意識的に生じることも多いため
この点に自覚的になることが重要なのである。
自分を分析すると、ある概念で予測することは多々あるが
確定はすることは殆どない。
が、どちらかというと一面を見ただけで
この人は、こういう人間だ
と、断定してしまう人が多いようにも見受けられる。
表現者としては、出来るだけ表に見えていない部分を発見すると共に
現実に起きている出来事を拡大・妄想せず
正確に観察する目を持ちたいものだ。
坂手氏の話は、あちらこちらに飛んだけど
演出を手掛ける者としては、とても興味深かった。
特に、夢幻は予算的な都合で
舞台美術に力を入れることが出来ないと思っていたが
坂手氏の話を伺い、もう一度舞台美術というものを
熟考してみようと考えるに至った。
空間と舞台美術…
旗揚げ当初は、予算がないなりに工夫をしていたが
今は大道具を作る時間がないということもあり
新たに創作するということをせずに
現在ある大道具を手直ししながら
あるいは組み合わせを変えることで変化させてきた。
これって、もしや手抜き?なのか?
手抜きをしているつもりはなかったが
考えようによっては、予算を理由にして
手抜きをしていたのかもしれないな…
自分を見つめる機会になった坂手氏の講座でした。
随分長文になったので、シンポジウム以降の内容については
明日のBlogに記載することにします。
朝6:15、自宅を出発。
運転手はもっちゃん、同行者は恭子ちゃんとサリア。
途中PAで休憩を取り、9:10に新潟駅前で
ケンジ君と合流し大学到着。
受付を済ませ、9:30から始まる西村氏の講座見学。
ケンジ君は実技講座のリハのため、別会場へ。
西村氏の講座はスタニスラフスキーシステムによる
様々な身体へのアプローチ…という感じ。
面白そうなので参加してみたかったが
私は坂手氏の講座受講のため9:55に移動。
10:00から「演出家と語ろう」(講師/坂手洋二)に参加。
①作家と演出
・演出家が生れたのは何故か?
第三者的視点 合理性・責任の所在
客観と主観の違い
例;写真⇒客観 絵画;主観
演出⇒客観 俳優:主観
・演出家は、ある世界観を観客に提供することができる存在
●イプセンは、俳優(主観)では人間の本質(ダークな部分)を
表現できないのではないかと考えた
●チェーホフはイプセンの影響を受けている
表現形態は多種多様だが、演劇の特殊性は
存在する(実在する=ある)身体と言葉を使う表現である
言葉がない世界⇒認識がない世界
言葉は人間が狂わないためにあるのではないか?
・人間は色々な事象に対し「なぜ?」と疑問を持ち
それに対して想像する特質があり、自分なりの答えが欲しくなる
例:なぜ子供が泣きながら生まれるのか?⇒生まれるのが怖いから泣いているのでは?
・言葉は分節化し、置き換えることができる
例:私⇒あなた
自分を取り出し、自分でないものに見たてることが可能
・「演劇とは何か?」というところから考えて行くことが重要
・演劇は情報(ジャーナリズム)の提供という役割がある
・演劇には総合表現(全ての表現)が含まれる
・作家はそれだけでも生業としていけるが
演出家という存在は近代生れたものであり
未だそ認知度が低く地位が確立されていない故
演出者協会は演出家の地位向上も目指している
・口から発する言葉ではない身体の言語による表現も演劇の一つ
・演出の最大の敵はステレオタイプ
・演劇の豊かさを認識する
②舞台美術は演出家の仕事
・客席を含む全体の空間を疑っていく
こうである、と思いこまないということか…
・劇場キャパによるセットを考える
③役者
・感情を自分だと勘違いするな
・見せているのではなく、自分も体験しているのだ
・ちゃんと感じる⇒衝動(日常から感じる必要性)
・相手とのやり取りの重要性
坂手氏の話を聞き、下記のようなことを考えた。
悲惨な状況を舞台にしようとすると
悲惨なことだけを大げさに表現しようとするが、実は
人間はどんなに悲惨な状況下でも豊かに生きている。
ステレオタイプ⇒固定観念・既成観念
表現者は、全ての固定観念を疑ってみることが必要なんだよね。
ところが、人間は日常生活でこの観念をかなり多用している。
こんな文章を見つけた。
ステレオタイプ的認知は、常に変化し完全に把握することが難しい現実を
ある一定のパターンにより整理して理解し、また、その後の変化を速やかに予測し
対応することを可能にするという利点もあります。
環境に対して適応的な行動をとっていくために不可欠な認知でもある。
しかし、ネガティブな印象を伴うステレオタイプは
時に偏見や差別を生み出す危険もある。
また、そのようなステレオタイプは「認知療法」などにおける
ターゲットとしても取り上げられる概念。
人間は世界のありのままを観ているのではなく、一部を抽出し
解釈し、帰属させているなどして認知しているため
必ず個人差があり、主観的と言える。
それゆえ、誤解や思い込み、拡大解釈などを含んだ不都合な認知をしてしまうことがあり
結果として、怒りや悲しみ、抑うつなどが生じてくると、認知療法では仮定する。
これらのステレオタイプな認知は、認知の「歪み」と捉えられ
それを修正することが認知療法の目標とされる。
ステレオタイプは、経験の積み重ね以外にも、情報が得られるだけで
形成・強化されていく場合がある。
つまり、あるステレオタイプ的信念を自分では信じていないつもりでも
そのような相手と遭遇した際、無意識な部分で、ステレオタイプ情報が活性化することになる。
このように、ステレオタイプは無意識的に生じることも多いため
この点に自覚的になることが重要なのである。
自分を分析すると、ある概念で予測することは多々あるが
確定はすることは殆どない。
が、どちらかというと一面を見ただけで
この人は、こういう人間だ
と、断定してしまう人が多いようにも見受けられる。
表現者としては、出来るだけ表に見えていない部分を発見すると共に
現実に起きている出来事を拡大・妄想せず
正確に観察する目を持ちたいものだ。
坂手氏の話は、あちらこちらに飛んだけど
演出を手掛ける者としては、とても興味深かった。
特に、夢幻は予算的な都合で
舞台美術に力を入れることが出来ないと思っていたが
坂手氏の話を伺い、もう一度舞台美術というものを
熟考してみようと考えるに至った。
空間と舞台美術…
旗揚げ当初は、予算がないなりに工夫をしていたが
今は大道具を作る時間がないということもあり
新たに創作するということをせずに
現在ある大道具を手直ししながら
あるいは組み合わせを変えることで変化させてきた。
これって、もしや手抜き?なのか?
手抜きをしているつもりはなかったが
考えようによっては、予算を理由にして
手抜きをしていたのかもしれないな…
自分を見つめる機会になった坂手氏の講座でした。
随分長文になったので、シンポジウム以降の内容については
明日のBlogに記載することにします。