蜜柑のつぶやき ~演出家の独り言~

NPO法人劇空間夢幻工房の演出家/青木由里の日々の呟き。脚本執筆・役者・ワークショップ講師も兼業する舞台人日記♪

久しぶりに松本へ ~木曽義仲公の足跡を辿って~

2021年06月03日 20時24分28秒 | 日記

昨日は久しぶりに松本へ。

先日のBlogに綴ったフィールドワークのために・・・

お目にかかったのは
「松本・義仲復権の会」のN氏。

私が知りたかったは平安時代末期に信濃国の権守だった
中原兼遠氏のご子息と姫の動向・・・

Sさんから送っていただいた本
「東の春近 六百年の謎」を読んで
更にその思いが強くなった。

  

この本は非売品で、販売されていないのが残念💦

今年の11月に上演を予定しているのは
辰野町「寺子屋シアター」プロジェクト主催の市民劇で
内容は、辰野町に縁のある中原兼遠の次男
「樋口次郎兼光」公を主人公にした芝居。

今、まさに出演者とスタッフを公募している最中。

 

その市民劇の台本を執筆するために
私は調査と読書を続けてきたわけだが
新事実が判明したため
それを確認するために
松本へ行ってきたのでした。

歴史は御伽噺や昔話ではない。

実際にこの地に生きた人たちの話
私たちの祖先の話なのだ。

だから・・・
歴史を舞台化するとき、私は

単なる物語ではなく
実際に生きた武将の生き様を
文献に残っている出来事から
炙り出していきたい

と思い、疑問点があれば
自分なりの結論が出るまで
調べて調べて調べまくる主義。

とはいっても、時間の制約があるので
タイムリミットが来る前に
現段階での結論づけをして
執筆に入ることが多いんだけどね(^-^;

さて・・・

中原兼遠氏は木曽義仲公の育ての親である。

義仲が2歳の時(幼名は駒王丸)
父の源義堅(みなもとのよしかた)が
兄・義朝(よしとも)の子・悪源太義平に殺されてしまった。
敵方の畠山重能は幼い義仲を殺すことができず
母の小枝(さえ)御前と義仲の二人を
斎藤別当実盛に頼み逃がした。
実盛は、兼遠に二人を匿ってくれるように依頼。
小枝御前は兼遠に駒王丸(義仲)が源氏の立派な大将になるよう
育ててほしいと懇願したという。

兼遠には二人の息子(次郎兼光、四郎兼平)と
長女・次女、そして三女・巴(ともえ)がいて
駒王丸は、兼遠の子どもたちと共に
学問や武道を学んだ・・・

今までの調査では、中原家の長男と三男が登場しなかったため
早世したのかと思っていたが
「復権の会」の方々の調査で、長男・三男も生きていたことが判明。

昨日はその点について詳しく伺いたいと思い
N氏にお時間をいただいた次第。

だって不思議でしょ?
長男は、お家の跡継ぎであり嫡男。
その人の名前が全く出てこないなんて違和感バリバリ。

きっと理由があったに違いない・・・と。

N氏は、これまで収集した資料を惜しげもなく
私にご提供くださって・・・

様々なお話を伺ったが、上記については
明確な資料がなく、想像するしかなさそう。

兼遠氏は平家の家臣でもあり
長男・兼秀氏は京都生まれの京都育ちで
平家から「平」の姓までいただいていたらしく・・・
だとすると、打倒平家の旗を掲げた義仲家臣として
出兵することは出来ないよね・・・

真田昌幸が、信之と信繁兄弟を敵味方に分けたように
兼遠氏も、我が子たちを、平氏と源氏に分けたのか・・・
中原家の血筋を残すために・・・?

真偽はわからないが・・・

長男の兼秀は伊那市の田原殿島の初代領主だったようで・・・

このあたりをもう少し調べてみたいな・・・

松本利昭さんの著書「巴御前」は綿密な調査を行った上で
執筆されている本ですよね・・・とN氏にお話ししたところ

 あの本は良く調べた上で書かれている

と。

歴史を調査している方の間でも
評価されている本だとすれば
参考資料として成立するよね!(^^)!

Nさん、資料と情報のご提供をありがとうございました。

そして、N氏をご紹介くださったSさんに心から感謝です。

こうしてご縁が繋がり、作品が深まっていくのは
本当に有難いことですねー

今の私があるのは、全て素敵な「ご縁」のおかげ💛

これからも「出会い」と「ご縁」を大切にしつつ
感動の舞台を創作していきたいと思います❣



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