マウンテンドームアドベンチャー 白ヒゲおやじのエッセイ

この日記は1990年から数年間、高聴取率を誇り本にまでなった人気FM番組の20周年記念としての復活版である。

ブランコ

2008年10月29日 | Weblog
♪ 君は覚えて~いる~かしら
あの~白い~ブランコ~♪

ビリーバンバンの懐かしい名曲である。

ブランコで遊んでいた子供から自分チの子供にそのブランコを取り上げた母親に腹を立て、デッキに吊り下げていたブランコを取っ払ったのは、もう10年も前のこと。
つい最近、カメラマンのジュンイチから2人がけのブランコを譲り受けた。それをデッキに吊り下げてみたら、久しぶりでほんわか気分になった。
今度は、どこの母子もカップルも譲り合って使って欲しいものである。

兜を脱ぐ

2008年10月29日 | Weblog
 昨日、近くの民家でこんなもの(写真)を見つけて「・・・?!」。
 な、なんとプロパンガスの5キロ入りのボンベで作った〒受けだ。
 参った、参った! やられたぁ!
 このところ忘れていたこれぞ白ヒゲが作るべき作品だ。
 しかし・・・くやしいけど・・・この最高傑作に兜を脱いだ。

ギターを抱いた渡り鳥

2008年10月21日 | Weblog
 先週、オレの腰痛を心配して、あのキクちゃんの愛しのミクが助っ人にきてくれた。
 夏休みの終わりにプレゼントした古いギターを、小林明ばりの「ギターを抱えた渡り鳥」姿で。それがミクらしいポーズだからたまらない。
 前回は弦を張るにも逆さま巻きだった。ところが今回は、ちゃんと巻けるようになっていた。毎晩、ギターに触れているのだろう。継続は上達への道だ。もしかしたら十八番の「禁じられた戯び」もそこそこになっているかも。(最後までメロディーを知っているかどうかは知らないが・・・)。

 昔、上達の道は憧れのスターを真似ることから始まった。オレの場合は、野球は長嶋、歌謡曲は橋幸夫、エレキは加山雄三で、見よう見真似の独学が常識だった。しかしミクは正真正銘の GOING MY WAY だ。間違いなく誰の真似もしていない。上手い、下手など関係ない。周囲の人間のためなんかではなく、自分で楽しんでいるのた。だから見ていて微笑ましい。あの巨体に似合わぬ、エクボのあるもみじ手でギターを爪弾く姿がたまらない。これこそ「癒しのミク」の世界だ。
 マジで「ミク君メイン」のクリスマスライブを企画してみよう。おっちゃんミュージシャンたちが涙を流して大喜びするに違いない。
 
 願わくば子トラとのデュオといきたいところである。

炭焼きのおっちゃん2

2008年10月20日 | Weblog

 心配していた炭焼きのおっちゃんが復活した。
 奥さんの具合が悪いのと、稲刈りとで、炭を焼く暇がなかったとか。このおっちゃん、いつも笑顔がいい。

 おっちゃん、元気やなあ。
 「おらぁ、しょっちゅう S●X やっとるもん」
 げっ! ・・・お、おっちゃん、今、なんぼ?
 「82歳や」
 なんとうちのおやじと同い歳ではないか。
 
 この自信にあふれたセリフと笑顔は、きつい農業と炭焼き仕事で培ったものだろう。実に羨ましい。まいった、まいった!


継続してこそブログ

2008年10月18日 | Weblog
  20余年前に今の山生活に入った頃は単身赴任だったから、しゃべりたくてもしゃべる相手がいなかった。あれもこれも聞いて欲しいのに聞いてもらえる相手がいなかった。そのうち山ほどの艱難辛苦談や失敗談をフアンや後継者に知っててもらいたくてしゃべり始めた。それがFMラジオ番組になり、本にまでなった。

  以来、訪れるお客さんたちにサービスのつもりでいっぱいしゃべるようになった。体調が悪かろうが、悩み事があろうが、わかってくれそうな相手をみると、しゃべってしゃべってしゃべり続けてきた。頼まれれば講演にだって行ってきた。なんだかんだといってもお客さんからしゃべって、といわれれば絶対にしゃべるよ、オレは。

  そんなこんなで今はブログでしゃべるようになった。しかし口でしゃべるにも、文字で書くにも、聞いてくれる人、読んでくれる人がいてくれるからこそ続けられるのであって、きょうは何人アクセスしてくれたのだろうか、どこの誰がどんな書き込みをしてくれているのだろうか、がブログを書き続ける励みとなっている。

  ところがこのところアクセス数は順調なのに書き込みが少なくなっている。時期的に秋祭りや学校行事も多いだろう。世の中、不景気風邪が吹いているのもわかる。もしかしたら白ヒゲおやじのブログは面白くないのだろうか、と不安にもなる。こんなときは、しばらく休もうか、とつい弱気になりがちだ。
 しかしブログを開設するに当たって「継続してこそブログ」と釘を刺されたシンちゃんの言葉にムチ打たれながら、いまだに痛みの残る尻にもムチ打って書いている。

―写真は講演中の白ヒゲ―

羽根にもいろいろ

2008年10月15日 | Weblog
このところ、悪代官、いや麻生総理をはじめとする政治家たちが揃って胸につけている赤と青の羽根を見て?
 赤い羽根運動は古くからあったから知られているが「青い羽根」とは一体? 
 そこで調べてみたら、あるわあるわ、いろんな色の羽根運動があったではないか。
 赤い羽根は国民助け合い共同募金運動
 青い羽根は水難救助隊の活動支援
 緑の羽根は緑化運動
 水色の羽根は水難児の援助
 黄色の羽は交通安全と腎臓移植の普及運動
 黒の羽根は炭坑事故被災遺家族援助(現在はやっていないらしい)
 白い羽根は日本赤十字社
 
 こんなにあるなら羽根よりヒゲに変えて、「白いヒゲ」で年寄りに優しくする運動にすりゃぁいいのに。

得な性分

2008年10月15日 | Weblog
 今年もサマージャンボは外れたが、この連休に大当たりが出た!

 今回も2泊3日で来てくれていたロイヤルカスタマーの蓮根さん家族が愛用していた介護用イス装備の特別仕様車を只同然で譲ってくれたのである。さっそく試しに痛い腰を下ろして操作してみた。そしたらなんとボタン一つでゆっくりと乗り降りができる超優れものではないか。そのうえ車体もことのほか綺麗でエンジン好調とくるから大当たり以外のなにものでもない。これで父親の病院通いも楽になるし、八十八番の札所巡りにも連れて行ってやれるだろう。もしかしたら今回の尻もち事件から災い転じて福となしたのかも・・・。

 オレは若いときから「おまえはほんまに得な性分やなぁ」とよくいわれてきた。昔、夢パパ②を建てようと企てたとき、徳島からブルドーザーを、愛媛から5トン吊りのクレーン車を、その後、高松から小型のバックフォーまでもらったことがあった。そして今回の介護車ときたら、これを得といわずになんという。

 なにはともあれ、これからは倉敷方面に足を向けては寝られない。蓮根さんに感謝、感謝である。そのうち白ヒゲ専用車になる日もそう遠くはないかも・・・。

尻もち事件のその後

2008年10月09日 | Weblog
 数日前の尻もち事件で多くの人からお見舞いメールや電話をもらい、ブログになんか書くんやなかったと半ば反省している。しかし本人はいたって元気につき、お騒がせしてほんと申し訳ない。

 ところでギックリ腰とかヘルニアとかに代表される腰痛は、人によって症状も程度も痛みもそれぞれ異なっている。例えようのないあの苦しみだけは本人にしかわからない。今の時代、治療法はいくらでもある。かといって人には合う合わないもある。とどのつまりは自分に合った克服法を自身で編み出すしかないのである。

 そこできょうは30年前に編み出した「白ヒゲ流腰痛克服法」をお教えしよう。
①立ったままの状態で、脇の下近くまで伸ばした松葉杖を使って腕立てして全体重をかけ、両膝を曲げて腰に下半身の重量をかける。
② これを何度も繰り返しているうちに腰椎が伸びてくる。と同時に腰椎に痛みを感じ始める。そこで腹を目一杯引っ込め、太いベルトで締め付ける。

―てなわけで昨日、きょうと、ベッドメイクも草刈りもやり遂げてきた。あとは週末からのお客さんの前でいつもの元気おやじを見せられれば完全復活だ。

〔写真は腰痛解消運動中のジロー〕

ガラスの腰椎

2008年10月07日 | Weblog
 昨朝、雨上がりの濡れたコテージの階段で足を滑らせ、脳天を突き抜けるほどの尻もちをついた。と同時にガラスがつぶれる音がした。てっきり両手に抱えていた照明器具が割れたと思ったら、音の出所はどうも自分の腰のようだった。それが原因で腰と尻に激痛が走る。とりあえずは歩行もトイレもなんとかこなしてはいるが立ち上がる度に歯を食いしばる始末。

 大昔、二十歳代の終わりに「第五腰椎分離症」という、当時では再起不能と宣告されベッドに伏し、まる一年間、涙を流し続けた経験がある。以来、この「ガラスの腰椎」の恐怖と闘ってきた。
 女房は病院に行くか、横になるかしろ、というけれど、オレの腰痛はそんなちょろいレベルで治まる代物やない。かといって今週末からまた連休に入る。明日からその準備を始めないと。買い出しもあれば、いつもの草刈りや、ベッドメイクや、調理が待っているのだから、のんびり横になんかなっていられるわけがない。
 しかし松葉杖なんか突いている姿を見られたら、みんなから「やっぱり歳やなあ」といわれそうだ。

 ―写真は「腰痛防止用に」とレスラーからプレゼントされたウエイトリフティング用のベルト―

炭焼きのおっちゃん

2008年10月06日 | Weblog
 昨冬から続く油高につき、今年も囲炉裏が大活躍することだろう。しかし夏前頃から炭焼きのおっちゃんの姿が見えない。どうしたのだろう。
 そういえば春先に「わしももう82歳や。その気があるんなら、あんた焼いてみんか。いつでも釜、譲るでぇ」といわれたことがあったなぁ。しかしいくら山生活20年生の白ヒゲでも炭焼き仕事となると話は別だ。

 一度、ドラム缶で炭焼き釜を作り、竹とか栗を焼いたことがあったが、ほんの数点の炭作品を作るだけでまる二日間、火を焚き続けたくらいだからど素人のちょっとやそっとの片手間仕事でやれるわけがないのだ。
 都会生活に疲れたからとか、第二の人生のためにとかで容易に農業を目指す人もいるが、現実には途中で投げ出しているのが大方だ。自然相手の仕事を舐めてかかったらあかんでよーだ。
 おっちゃーん、お願いだから、また炭焼いてよー。

―写真は2つのドラム缶を切断して溶接した自作の炭焼き釜の図面―