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古賀メロディ聴き比べ8:青い背広で

2010年02月08日 | 歌謡曲
 昭和12年(1937年)3月に、藤山一郎の歌でレコード発売された。
 当時の普通のサラリーマンの洋服は黒、紺、茶色が標準的なものであった。ある日、藤山一郎が、当時としては珍しいダーググリーンの背広を来てテイチクのスタジオに現れた。詩人佐藤惣之助は、藤山の濃緑の背広を見て《青い背広で》を思いついた。例によって佐藤は酒気をおび、だいぶ酩酊していた。「ダークグリーン」の背広が、「青い背広」になってしまったのである。 
 歌詞の<甘い夜風がとろりと吹いて、月も青春泣きたい心>などは、戦争へと出征しなければならない青年層の不安な心理を巧みに衝いている。《青い背広で》がヒットした年(1937・昭和12)は、盧溝橋事件を契機に日本と中国は日中戦争へと拡大。翌1938(昭和13)は国家総動員法が発布された。
 



川崎駅近くの川崎信用金庫裏手の川崎信金ふれあい広場に、昭和12年(1937年)
に流行った「青い背広で」(佐藤惣之助作詞 、古賀政男作曲)の歌碑がある。作詞の佐藤惣之助の生家は川崎宿の上本陣佐藤家で、この場所の北隣の砂子2丁目4番地がその場所であることから、歌碑が建てられたそうだ。


<「青い背広で」 自選聴き比べ>
藤山一郎 最初のシングルレコードの歌唱。
森昌子 当時の映像つき。
カラオケバージョン



      青い背広で

  作詞 佐藤惣之助 作曲 古賀政男
  唄 藤山一郎 (昭和12年)

 1 青い背広で 心も軽く
   街へあの娘と 行こうじゃないか
   紅い椿で ひとみも濡れる
   若い僕らの 生命の春よ
 
 2 お茶を飲んでも ニュースを見ても
   純なあの娘は フランス人形
   夢を見るよな 泣きたいような
   長いまつげの 可愛い乙女
 
 3 今夜言おうか 打明けようか
   いっそこのまま 諦めましょか
   甘い夜風が とろりと吹いて
   月も青春 泣きたい心
 
 4 駅で別れて ひとりになって
   あとは僕らの 自由な天地
   涙ぐみつつ 朗らにうたう
   愛と恋との ひとよの愛か

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2 コメント

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「青い背広で」と朔太郎『純情小曲集』 (メロディ」とは)
2018-07-05 00:38:40
惣之助「青い背広で」と朔太郎『純情小曲集』

「青い背広で」作詞:佐藤惣之助 作曲:古賀政男。テイチク1280-A「青い背広で」 -B「青春日記」藤山一郎

昭和12年3月、青春の哀歓を歌って若い人たちに愛唱され後、日活によって同名の映画が作られた。

『青い背広で』 : 清瀬英次郎監督、日活多摩川、1937年4月8日公開

ビクターからテイチク専属となった昭和11年、5月新譜「東京ラプソディー」が大ヒットする。

翌年には「青い背広で」「青春日記」などがヒットし古賀政男と共にテイチクを大手に押し上げた。

しかし昭和14年後期には先にテイチクを退社した古賀政男の後を追ってコロムビアへ移籍してしまう。 

藤山一郎の「青い背広で」という歌。♪青い背広で心も軽く、街へあの娘と行こうじゃないか・・

その歌で歌われているのは、それはまさしく当時からの銀座の一流企業、数寄屋橋にビルを建てているT社に勤務するサラリーマンそのものだというのがその社内の一応の都市伝説になっているそうだ。

藤山一郎が歌ってヒットした「青い背広で」(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)。

「青い背広で 心も軽く まちへあの娘と 行こうじゃないか」という歌詞、青い背広に心も軽くと流行歌のモデルになった可能性がような会社。

当時から憧れの一流企業の青春を謳歌する若きサラリーマン、憧れの銀座の街を心も軽く、まだ自由を謳歌し、

さっそうと歩く姿可能性は簡潔な言葉の中に見事にイメージされるような素晴らしさ。

藤山一郎が歌唱する「東京ラプソディー」「青い背広で」、昭和モダンを高らかに歌いあげます。

戦前の都市文化の象徴する流行歌としてヒット。

「東京ラプソディー」は原曲が「スペインの花」。

ビクターから藤山一郎を迎えるために古賀政男が作曲し門田ゆたかが作詞。「青い背広」は佐藤惣之助がダーググリーンの背広を見て「青い背広」を思いつく。・・

失業者が巷に溢れた昭和初期の時代から、ようやく景気も回復しサラリーマンの時代になった「ああそれなのに」(星野貞志=サトウハチロー 作詞、 古賀政男作曲 1937年1月発売)うちの女房にゃひげがある・・空にゃ今日も アドバルーンさぞかし会社で 今頃はおいそがしいと 思うたに)

大正期は、モダニズム・リベラリズムの勃興期であり、都市労働者の増大とともに、
この「青い背広で」が出来た。

その直後,盧溝橋事件(昭和12年7月7日)で中国との全面戦争(支那事変)、そして太平洋戦争へと日本は暗い時代へ坂道を転げおちていく。

なぜ背広なのか、それには朔太郎の若き日の詩を読むと浮かんでくる。

 朔太郎の「旅上」(『純情小曲集』)が出来た大正14年から、惣之助の「青い背広で」が歌われた昭和12年頃は

丁度、大正期勃興したモダニズム、リベラリズムが線香花火のごとく最後の輝きを放つよう
な時期でもある。


ようやくサラリーマンの時代が始まったばかりの昭和12年、背広を着るサラリーマン姿は、まだ珍しく憧れがあったでしょう。

地方では、勤め人自体がまだ多くなかったと思います。

背広を着る職業、新しい背広を着て外に出たい憧れ(旅情)があったとしてもおかしくない。

そんなあこがれで見られる新しき「背広」を着て・・・は文人ならずとも,あこがれの背広がまだ一般的でなかった時代、特別な思いもあったとしてもおかしくないようなのだ。

石川啄木 → 萩原朔太郎 → 佐藤惣之助

詩人であり、作詞家である佐藤惣之助は長年住み慣れた川崎から雪ヶ谷〈馬込文士村〉
に越してきた。

これは昭和十二年五月のことだ。場所は呑川左岸崖線の背尾根筋であった。

この年、彼が作詞してヒットした曲が「青い背広で」作曲は古賀政男。「青い背広で 心も軽く 街へあの娘と 行こうじゃないか」で始まる。
 
佐藤惣之助は、「馬込文士村の住人」の一人としてレリーフに刻まれている。

大正15年頃、南馬込の広津和郞邸に居候をしていた。雪ヶ谷には昭和12年から亡くなる17年まで居住した。

解説などでは「自宅がある馬込文学圏(雪谷)で、脳溢血を起こして急逝」したと説明している。雪谷は馬込文学圏に入るらしい。

参考までに、古賀政男の自伝「歌はわが友わが心」(日本図書センター)には、詩人の萩原朔太郎が古賀政男の家によく遊びに来たそうです。

小田急線の代々木上原駅から3つ目「世田谷代田駅」を出て、 南へすこし歩いたところにある、一本の鉄塔。 この鉄塔の下には、詩人の萩原朔太郎が、1933年(昭和8 年)から、 1942年(昭和17年)に亡くなるまで住んでいた。

大正14年8月詩集『純情小曲』刊行集 (新潮社)。11月号から「日本詩人」の編集を佐藤惣之助と担当。

ここ代田1丁目42に、「代田の丘61号鉄塔由来碑」(萩原朔太郎文学顕彰碑)が立っている。

代々木上原駅前の3000坪の古賀政男邸、古賀政男自伝「我が心の歌」には、この古賀邸に萩原朔太郎、惣之助さんが集まって三人でよく詩の談義をしたとあり、朔太郎の娘・萩原葉子の「父・萩原朔太郎」にも同じ記述がある。

馬込の文士村・雪が谷に住んでいた詩人・佐藤惣之助、佐藤惣之助の義兄が萩原朔太郎、二人は惣之助の主宰する「詩の家」の同人でもある。

大正14年(1925)8月詩集『純情小曲集』刊行(新潮社)。

11月号から「日本詩人」の編集を朔太郎と佐藤惣之助で担当。

佐藤惣之助はしょっちゅう代田の朔太郎宅を訪問していた。

この三人は詩を通して日常的に親密な関係を持っていた。


詩のモチーフの基底に朔太郎の『純情小曲集』にある「旅上ーの背広」が沈殿していた,かなり奥深いものがあるのではないか?と考えてもおかしくない。
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萩原朔太郎と古賀メロディ (メロディ)
2018-07-05 13:33:06
      
『月に吠える』、『青猫』、『純情小曲集』などで知られ、昭和17年5月11日に亡くなった詩人・萩原朔太郎と古賀政男は、ギター、マンドリン愛好で非常に近い関係にあり、朔太郎は古賀政男宅をしばしば訪れる関係だった。そして朔太郎は大衆に根ざした「古賀メロディ」を高く評価し愛していた。

自らも、音楽家を夢見ていたというほどで、マンドリンやギターの演奏もし、マンドリンクラブを持っていました。

ギターで「影を慕いて」や、マンドリンで「丘を越えて」を弾いたそうです。出身地の「前橋文学館」にはこのギターが展示されてるそうです。

朔太郎の故郷、前橋では「萩原朔太郎記念演奏会」が定期的に開催され、朔太郎作曲のマンドリン曲「「機織る乙女」、「野火」、そして「朔太郎と古賀メロディ」と題して、「丘を越えて」や「影を慕いて」など古賀メロディが必ず演奏されるようです。

「群馬マンドリン楽団」のHPによると、『丘を越えて』『影を慕いて』『人生の並木路』『東京ラプソディ』などが演奏されるそうです。

作曲家・古賀政男は昭和6年(1931)3月に、コロムビアと専属契約を結んだのだのだが、彗星のように登場し華々しい活躍をし、僅か5年後の昭和13年11月には、半生物語と、作品104編を収録した、宮本旅人によるB5判393頁と浩瀚な『古賀政男藝術大観』(シンフォニー楽譜社)が刊行された。

序文には、萩原朔太郎、中山晋平、奥田良三、藤陰静枝、小松耕輔、三浦環、サトウ・ハチロー。跋文には佐藤惣之助、など錚々たるメンバーが寄稿しているのだ。

詩人の萩原朔太郎は、「古賀政男と石川啄木」と題する序文を寄せ、二人に共通する情想について、次のように記した。

「現代日本の社会が実想しているところの、民衆の真の悩み、真の情緒、真の生活を、その生きた現実の吐息に於て、正しくレアールに体感しているロマンチシズムである。それ故にこそ彼等の藝術は、共に大衆によって広く愛好され、最もポピュラアの普遍性を有するのである 」。
 
そして、古賀を、西洋音楽の形式を日本音楽のモチーフによってアレンジし、現代日本人の血肉に同質血液化させたと評した。 文部省唱歌に始まる近代民衆歌謡は、時代状況を色濃く反映し変遷して来たが、古賀は、歌謡曲・流行歌を大衆性をもった新しい潮流として完成させ、昭和という時代を象徴する文化に発展させた。

なお、萩原朔太郎の長女、葉子によるエッセイ集 『父・萩原朔太郎』 には、「流行歌では、「丘を越えて」「影を慕いて」「酒は涙か」など古賀政男のものが特に好きだった。

「影を築いて」の前奏曲は、文の得意中の得意で、まるで指をギターに打ちつけるほどの感情をこめて弾いた。」という。また、マンドリンとギターによる〈朔太郎と葉子父娘で〉、古賀メロディの家庭合奏をよくしていたそうだ。

参考までに、古賀政男の自伝「歌はわが友わが心」(日本図書センター)には、詩人の萩原朔太郎が古賀政男の家によく遊びに来たそうです。

小田急線の代々木上原駅から3つ目「世田谷代田駅」を出て、 南へすこし歩いたところにある、一本の鉄塔。

この鉄塔の下には、詩人の萩原朔太郎が、1933年(昭和8 年)から、 1942年(昭和17年)に亡くなるまで住んでいた。

大正14年8月詩集『純情小曲』刊行集 (新潮社)。11月号から「日本詩人」の編集を佐藤惣之助と担当。

ここ代田1丁目42に、「代田の丘61号鉄塔由来碑」(萩原朔太郎文学顕彰碑)が立っている。

代々木上原駅前の3000坪の古賀政男邸、古賀政男自伝「我が心の歌」には、この古賀邸に萩原朔太郎、惣之助さんが集まって三人でよく詩の談義をしたとあり、朔太郎の娘・萩原葉子の「父・萩原朔太郎」にも同じ記述がある。

馬込の文士村・雪が谷に住んでいた詩人・佐藤惣之助、佐藤惣之助の義兄が萩原朔太郎、二人は惣之助の主宰する「詩の家」の同人でもある。

大正14年(1925)8月詩集『純情小曲集』刊行(新潮社)。11月号から「日本詩人」の編集を朔太郎と佐藤惣之助で担当。佐藤惣之助はしょっちゅう代田の朔太郎宅を訪問していた。

この三人は詩を通して日常的に親密な関係を持っていた。

平成23年(2011)は、萩原朔太郎生誕125 年の節目の年で、10 月、晩年、下北沢に居を構えたゆかりの東京の「世田谷文学館」にて「生誕125年萩原朔太郎展」が開かれた。

常設展では、作家であり、舞踏家であり、手芸作家でもあった萩原朔太郎の長女「萩原葉子」の証言(朔太郎と葉子父娘の家庭合奏)の再現演奏があった。

「朔太郎と葉子父娘の家庭合奏」の再現では、マンドリンとギターによる古賀政男の『影を慕いて』『酒は泪か溜息か』、それに朔太郎の『 機織る乙女』など、朔太郎にちなむ世田谷区ゆかりの作曲家と作品を演奏した。...

・古賀政男と石川啄木(『古賀政男芸術大観』)…… 314pp
「萩原朔太郎全集 第14巻 雑纂」筑摩書房 1978.2.25

・宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和13年11月/復刻 昭和53年10月)

・萩原葉子 『父・萩原朔太郎』 (中公文庫 A 109-2、1979) 1959年筑摩書房、1961
川文庫
・流行歌曲について  萩原朔太郎
   (「日本の名随筆 別巻82 演歌」作品社。:「萩原朔太郎全集」筑摩書房 1975)



大正2年4月このころ自筆の歌集『ソライロノハナ』製作。北原白秋主宰の雑誌「朱欒」掲載の室生星の詩に感動、手紙を書く。5月号「朱欒」に「みちゆき」ほか詩6篇が掲載され、詩壇
太平洋戦争が始まって5ヶ月ほどした昭和17年5月15日(1942年。

76年前の5月15日)、 佐藤惣之助(51歳)が、自宅がある馬込文学圏(雪谷)で、脳溢血を起こして急逝しました。

佐藤の義兄にあたる萩原朔太郎が(佐藤の妻は朔太郎の妹愛子)、4日前の11日に亡くなり、その告別式では、胃潰瘍で体調を崩していた室生犀星(52歳)の代わりに佐藤が葬儀委員長を務めました。その佐藤までが逝ってしまった。二人と関係が深かった人たちは、一挙に二人失い、大きな喪失感に直面します。


「ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背広を着て
きままなる旅にいでてみん。」
(萩原朔太郎 「旅上」(詩集『純情小曲集』(1925年)より)

萩原朔太郎の、この若き時代の有名な詩「旅上」、若き石川啄木の有名な「あたらしき背広など着て/旅をせむ/しかく今年も思い過ぎたる」(『一握の砂』)から衝撃を受け、その熱き思いを共有したものと考えられます、

こうした詩人たちの熱き想いが凝縮した名曲、81年前のですが「青い背広で」‼。

詩人・萩原朔太郎も愛してやまなかった「古賀メロディ」・・この名曲の宝庫、「日本の文化」を、これからも歌い継いでいってほしいものです。


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