昨年、天理市から山の辺の道を散策し万葉歌碑を訪ねたが、市内のいくつかの歌碑が未だ訪ねていなかったので、
今回奈良に来たついでに、天理市内の残りの歌碑を巡ることにした。
天理駅から上ツ道(かみつみち)(現在の上街道)を櫟本(いちのもと)町まで北上し、業平神社・和邇下神社、
そして中ツ道(なかつみち)(現在の天理環状線)を南下し前栽(公民館)・井戸堂(山辺御県座神社)・長柄(運動公園)を回り、天理駅に戻った。
古代のなごりを残す官道に、かすかに万葉のいぶきを感じるひと時であった。
上街道(石上町付近)
古代日本における官道のひとつ上ツ道(かみつみち)といわれたところ。
<業平神社>
天理市櫟本町の在原神社は業平生誕の地とされ、『伊勢物語』の23段「筒井筒」のゆかりの地でもある。境内には筒井筒で業平(と同一視される男)が幼少期に妻と遊んだとされる井戸がある。
神社境内
境内は手入れもされておらず、かなり寂れた感じがした。
拝殿
芭蕉の句碑
松尾芭蕉が2度にわたりこの地を訪問し、俳句を詠む。
うぐひすを 魂にねむるか 嬌標(たまやたま) はせを(芭蕉)
ひとむらすすき
謡曲「井筒」に登場する、一群の薄(すすき)とか、詳しくはわからない。
<和邇下神社>
和邇下神社(わにしたじんじゃ)
和邇下という名前から和邇氏に関連のある神社、ご祭神はスサノオ、オオナムチ、イナダヒメ。
和邇下神社は、古代豪族の和邇氏の宗家が本拠とした和邇町にある。大きな古墳(和邇下神社古墳)の上に重要文化財の社殿が建っており、境内には一族であった柿本氏の氏寺"柿本寺跡"、それから柿本人麻呂の墓と伝えられる歌塚も残っている。
和邇下神社古墳全景
和邇下神社古墳は、東大寺山丘陵の西麓台地上に築造された前方後円墳で、全長約120m・後円部直径約70m・高さ約5m・前方部幅50mほどで、前方部が短く端部が両側に撥形に開く特異な形態。和邇下神社は、東大寺山古墳群の一角、和邇下山古墳の上に所在する。
鳥居前
万葉歌碑
鳥居の直ぐ側に万葉歌碑がある。
さす鍋に湯沸かせ子ども櫟津(いちひつ)の桧橋(ひはし)より来む狐(きつ)に浴(あ)むさむ
(長忌寸意吉麻呂 巻16-3824) →万葉アルバムへ
歌塚全景
ここは柿本寺(しほんじ)跡とされ、人麻呂の氏寺として奈良時代にはりっぱな伽藍だったようだ。江戸時代の古地図では場所を変えており、昭和になってその柿本寺も廃寺となり、近くの極楽寺が柿本寺に残されていた宝物などを引き継いで管理しているという。
人麻呂像
歌塚
人麻呂の遺髪を埋めたいわれている。
柿本朝臣は和邇氏の同族。神社の西に歌聖ゆかりの歌塚が建つ。任地の石見の国で死んだ人麻呂の遺髪を妻が持ち帰って葬ったものという。現在の碑は1732年に建てられ文字は後西天皇の皇女の筆になるもの。
碑裏の撰文は黄檗宗の長老百拙和尚の筆によるもので613文字の長文が刻まれている。
神社本殿
本殿は、桁行三間、梁間二間、一重、切妻造、向拝一間、檜皮葺、桃山時代の様式をそなえ、古建築として昭和13年国宝に指定、現在重要文化財に指定されている。
柿本寺跡(奥)、神社社殿へ(右手)
山の辺の道のような雰囲気が感じられるところである。
記紀の歌碑
石の上 布留を過ぎて 薦枕(こもまくら) 高橋過ぎ ものきわに 大宅(おおやけ)過ぎ 春日(はるひ) 春日を過ぎ 妻隠る 小佐保を過ぎ 玉笥には 飯さへ盛り 玉盌(たまもひ)に 水さへ盛り 泣きそぼち行くも 影媛あわれ
(日本書紀武烈天皇即位前記)
影媛(かげひめ)は物部大連麁鹿火(もののべのおおむらじ・あらかひ)の娘で、平群大臣真鳥(へぐりのおおおみ・まとり)の息子・鮪(しび)と愛し合っていた。ところが、小泊瀬稚鷦鷯皇子(おはつせわかさざきのおうじ:武烈天皇)が影媛に求婚してきた。皇子の求めに影媛が応じなかったため、皇子は鮪を乃楽山(ならやま)で攻め殺させてしまう。そのことを知った影媛は、鮪の後を追って乃楽山へ行き、恋人が殺されてしまったことを見届けて、泣きながらこの歌を詠んだという。
何故この記紀がこの地に関係しているのだろうか?
”高橋”は、天理市和邇町の和邇下神社あたりを充てる説がある。北山之辺道の布留と大宅の中間にあたるから。ただし、現在このあたりに高橋という地名はなく、「東大寺要録」という古文書に次の記録があることから、このあたりがこの歌の高橋にあたると推論されているに過ぎない。
和邇下神社古墳の石棺の天井石
昔、ここの境内に柿本寺があった。柿本人麻呂を輩出した柿本氏の氏寺だった。
柿本寺は当時、東大寺の末寺として規模も大きく立派な伽藍が立ち並ぶ寺だったと思われる。
JR櫟本駅付近
中ッ道を南下して西名阪自動車道をくぐる
道沿いにあった道標
右手が丹波市(たんばいち)とある。丹波市は天理市になる以前の町名だ。
山の辺の山々を展望
<中ッ道沿い、前栽公民館>
天理市前栽町(せんざいまち)、ちょっと難解な地名。
中ッ道沿いの布留川のそばにあり、布留ゆかりの万葉歌碑が建っている。
前栽公民館
万葉歌碑
石上(いそのかみ) 振之早田乎(ふるのわさだを)雖不秀(ひでずとも)縄谷延与(なはだにはへよ) 守乍将居(もりつつをらむ)
(巻7-1353) →万葉アルバムへ
万葉に”石上布留の早稲田”とあるように、古代稲作がさかんに行われていたようだ。
布留川
大和川の支流のひとつで、支流も含めてほぼ天理市を流れている。布留という古代の天理の地名がそのまま川の名前になっている。
<山辺御県座神社>
山辺御県座神社(やまべのみあがたにいますじんじゃ)
御県座神社というのは、大和の国だけに存在している。御県というのは、朝廷の直轄地を示している。時代的には、大化の改新以前とされている。社名から山辺地方の朝廷直轄地に鎮座される神様ということになる。
鳥居
神社境内
社殿
万葉歌碑
境内には元明天皇の万葉歌碑があり、天皇はこの中ツ道を辿って平城京に遷って行ったと思われる歌が詠まれている。
中つ道は、藤原京から平城京への遷都の道だとされている。
飛ぶ鳥 明日香の里を 置きて去なば 君があたりは 見えずかもあらむ
(巻1-78) →万葉アルバムへ
神社の池
山辺の御井の伝承がある井戸がここにあるが、この池も何かいわくがありそうだ。
三輪山を望む
<長柄運動公園>
長柄運動公園(ながらうんどうこうえん)
元明天皇が中ツ道を辿って平城京に遷っていったことから、ここに万葉歌碑がある。
この地も比定されているのであろうか。
体育館
テニスコート脇の万葉歌碑
飛ぶ鳥 明日香の里を 置きて去なば 君があたりは 見えずかもあらむ
(巻1-78) →万葉アルバムへ
ここから天理駅まで戻り、散策終了。
今回奈良に来たついでに、天理市内の残りの歌碑を巡ることにした。
天理駅から上ツ道(かみつみち)(現在の上街道)を櫟本(いちのもと)町まで北上し、業平神社・和邇下神社、
そして中ツ道(なかつみち)(現在の天理環状線)を南下し前栽(公民館)・井戸堂(山辺御県座神社)・長柄(運動公園)を回り、天理駅に戻った。
古代のなごりを残す官道に、かすかに万葉のいぶきを感じるひと時であった。
上街道(石上町付近)
古代日本における官道のひとつ上ツ道(かみつみち)といわれたところ。
<業平神社>
天理市櫟本町の在原神社は業平生誕の地とされ、『伊勢物語』の23段「筒井筒」のゆかりの地でもある。境内には筒井筒で業平(と同一視される男)が幼少期に妻と遊んだとされる井戸がある。
神社境内
境内は手入れもされておらず、かなり寂れた感じがした。
拝殿
芭蕉の句碑
松尾芭蕉が2度にわたりこの地を訪問し、俳句を詠む。
うぐひすを 魂にねむるか 嬌標(たまやたま) はせを(芭蕉)
ひとむらすすき
謡曲「井筒」に登場する、一群の薄(すすき)とか、詳しくはわからない。
<和邇下神社>
和邇下神社(わにしたじんじゃ)
和邇下という名前から和邇氏に関連のある神社、ご祭神はスサノオ、オオナムチ、イナダヒメ。
和邇下神社は、古代豪族の和邇氏の宗家が本拠とした和邇町にある。大きな古墳(和邇下神社古墳)の上に重要文化財の社殿が建っており、境内には一族であった柿本氏の氏寺"柿本寺跡"、それから柿本人麻呂の墓と伝えられる歌塚も残っている。
和邇下神社古墳全景
和邇下神社古墳は、東大寺山丘陵の西麓台地上に築造された前方後円墳で、全長約120m・後円部直径約70m・高さ約5m・前方部幅50mほどで、前方部が短く端部が両側に撥形に開く特異な形態。和邇下神社は、東大寺山古墳群の一角、和邇下山古墳の上に所在する。
鳥居前
万葉歌碑
鳥居の直ぐ側に万葉歌碑がある。
さす鍋に湯沸かせ子ども櫟津(いちひつ)の桧橋(ひはし)より来む狐(きつ)に浴(あ)むさむ
(長忌寸意吉麻呂 巻16-3824) →万葉アルバムへ
歌塚全景
ここは柿本寺(しほんじ)跡とされ、人麻呂の氏寺として奈良時代にはりっぱな伽藍だったようだ。江戸時代の古地図では場所を変えており、昭和になってその柿本寺も廃寺となり、近くの極楽寺が柿本寺に残されていた宝物などを引き継いで管理しているという。
人麻呂像
歌塚
人麻呂の遺髪を埋めたいわれている。
柿本朝臣は和邇氏の同族。神社の西に歌聖ゆかりの歌塚が建つ。任地の石見の国で死んだ人麻呂の遺髪を妻が持ち帰って葬ったものという。現在の碑は1732年に建てられ文字は後西天皇の皇女の筆になるもの。
碑裏の撰文は黄檗宗の長老百拙和尚の筆によるもので613文字の長文が刻まれている。
神社本殿
本殿は、桁行三間、梁間二間、一重、切妻造、向拝一間、檜皮葺、桃山時代の様式をそなえ、古建築として昭和13年国宝に指定、現在重要文化財に指定されている。
柿本寺跡(奥)、神社社殿へ(右手)
山の辺の道のような雰囲気が感じられるところである。
記紀の歌碑
石の上 布留を過ぎて 薦枕(こもまくら) 高橋過ぎ ものきわに 大宅(おおやけ)過ぎ 春日(はるひ) 春日を過ぎ 妻隠る 小佐保を過ぎ 玉笥には 飯さへ盛り 玉盌(たまもひ)に 水さへ盛り 泣きそぼち行くも 影媛あわれ
(日本書紀武烈天皇即位前記)
影媛(かげひめ)は物部大連麁鹿火(もののべのおおむらじ・あらかひ)の娘で、平群大臣真鳥(へぐりのおおおみ・まとり)の息子・鮪(しび)と愛し合っていた。ところが、小泊瀬稚鷦鷯皇子(おはつせわかさざきのおうじ:武烈天皇)が影媛に求婚してきた。皇子の求めに影媛が応じなかったため、皇子は鮪を乃楽山(ならやま)で攻め殺させてしまう。そのことを知った影媛は、鮪の後を追って乃楽山へ行き、恋人が殺されてしまったことを見届けて、泣きながらこの歌を詠んだという。
何故この記紀がこの地に関係しているのだろうか?
”高橋”は、天理市和邇町の和邇下神社あたりを充てる説がある。北山之辺道の布留と大宅の中間にあたるから。ただし、現在このあたりに高橋という地名はなく、「東大寺要録」という古文書に次の記録があることから、このあたりがこの歌の高橋にあたると推論されているに過ぎない。
和邇下神社古墳の石棺の天井石
昔、ここの境内に柿本寺があった。柿本人麻呂を輩出した柿本氏の氏寺だった。
柿本寺は当時、東大寺の末寺として規模も大きく立派な伽藍が立ち並ぶ寺だったと思われる。
JR櫟本駅付近
中ッ道を南下して西名阪自動車道をくぐる
道沿いにあった道標
右手が丹波市(たんばいち)とある。丹波市は天理市になる以前の町名だ。
山の辺の山々を展望
<中ッ道沿い、前栽公民館>
天理市前栽町(せんざいまち)、ちょっと難解な地名。
中ッ道沿いの布留川のそばにあり、布留ゆかりの万葉歌碑が建っている。
前栽公民館
万葉歌碑
石上(いそのかみ) 振之早田乎(ふるのわさだを)雖不秀(ひでずとも)縄谷延与(なはだにはへよ) 守乍将居(もりつつをらむ)
(巻7-1353) →万葉アルバムへ
万葉に”石上布留の早稲田”とあるように、古代稲作がさかんに行われていたようだ。
布留川
大和川の支流のひとつで、支流も含めてほぼ天理市を流れている。布留という古代の天理の地名がそのまま川の名前になっている。
<山辺御県座神社>
山辺御県座神社(やまべのみあがたにいますじんじゃ)
御県座神社というのは、大和の国だけに存在している。御県というのは、朝廷の直轄地を示している。時代的には、大化の改新以前とされている。社名から山辺地方の朝廷直轄地に鎮座される神様ということになる。
鳥居
神社境内
社殿
万葉歌碑
境内には元明天皇の万葉歌碑があり、天皇はこの中ツ道を辿って平城京に遷って行ったと思われる歌が詠まれている。
中つ道は、藤原京から平城京への遷都の道だとされている。
飛ぶ鳥 明日香の里を 置きて去なば 君があたりは 見えずかもあらむ
(巻1-78) →万葉アルバムへ
神社の池
山辺の御井の伝承がある井戸がここにあるが、この池も何かいわくがありそうだ。
三輪山を望む
<長柄運動公園>
長柄運動公園(ながらうんどうこうえん)
元明天皇が中ツ道を辿って平城京に遷っていったことから、ここに万葉歌碑がある。
この地も比定されているのであろうか。
体育館
テニスコート脇の万葉歌碑
飛ぶ鳥 明日香の里を 置きて去なば 君があたりは 見えずかもあらむ
(巻1-78) →万葉アルバムへ
ここから天理駅まで戻り、散策終了。