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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

時に笑える『地名辞典』における妻女山の記述 その1【妻女山里山通信】

2008-06-17 | 歴史・地理・雑学
 まず最初に取り上げなければならないのが、吉田東伍が1895年(明治28)から独力で足掛け13年かけて完成させた『大日本地名辞書』冨山房でしょう。「学校はわかりきったことしか教えてくれなかったので行く気がしなかった」と語り、「図書館卒業」と言って憚らなかったという大変ユニークな人物。そのためか、辞書の記述も大変ユニークです。

 その『大日本地名辞書』では、妻女山は、なぜか清野村の隣村の西条村の項目にあります。
「西条(ニシデウ)今西条村と云ふ、松代市街の南にして、山嶺の麓とす、西条とは英多の西条なるべければ、此辺は大穴、英多の二郷の地混雑したりと謂ふべき歟。延喜式、埴科郡中村神社、今西条中村に存す。〔神祀志料〕
甲陽軍鑑云、海津械には高坂弾正を指置かれ、相備とありて、与力衆西条、清野、芋川を始め皆附けらる、又云、先方衆西条四十騎。○信府統記云、西条山の古城を竹山とも云う、其の下に離山あり。此所より海津の城内を見下す、故に常に登ることを禁ぜらる、狼煙(ノロシ)山と云ふも此辺にて、峰に狼煙を挙れば、甲斐国までも見ゆると云ひ伝ふ、妻女(サイジョ)山の東小屋の城跡は倉科村の地なり、山の内十八町程もあるべし、妻女の宮の脇に赤禿山あり、其所に路あり、西の尾崎にも路あり、陣取の塚今に多くあり、永禄四年、上杉謙信陣城とせら れしこと、実にも地利然るべき山なり。○北越軍記云、永禄四年、謙信川中島へ発向西条山に陣取て、下米宮(アメノミヤ)海道と貝津城の通路を取切り、西条(ニシデウ)山の後ろより、赤坂山の下へ出る水の流をせき上げ、堀の如にいたし、西条山を攻候時の防の便に仕候。(諸軍書、妻女を西条に作る)」

 西条山(にしじょうやま)については、西条氏の竹山城(西条城)があったことから、竹山、つまり象山が西条山であるとしています。この説を採る人は多いと思います。一方、榎田良長彩色『河中島古戰場圖 』では、竹山城趾とは別に西条村南奥の山、高遠山を西条山と記述しています。外には狼煙山の本名が西条山であるというものもあります。象山・高遠山・狼煙山という三山は、西条小学校の校章にもなっているように、西条を象徴する山々です。ですからどの山も西条山といえるのですが、本来は象山なのでしょう。しかし、近代では西条山という呼称は、西条以外の人が使うもののようで、狼煙山から高遠山までの山域をいうと明治の埴科郡誌には記されています。

 さて、肝心の妻女山ですが、西条山・狼煙山の説明の後、唐突に妻女山の記述へと入っていきます。「妻女山の東小屋の城跡」というのは、「倉科村の地なり」とあるので鞍骨城のことでしょう。「妻女の宮の脇に赤禿山あり」は初耳です。「赤禿山」とは「赤坂山」のことでしょうか。確かに昔は招魂社の辺りは松以外は赤土がむき出しになっていて禿げ山のようでしたが…。「西の尾崎にも路あり」とは、「笹崎」のことでしょう。「路」とは「長坂(清野坂)」のことです。後に「陣取の塚今に多くあり、永禄四年、上杉謙信陣城とせら れしこと、実にも地利然るべき山なり。」と続きますから間違いないでしょう。「陣取の塚」とは、斎場山から薬師山方面に続く旗塚(実際は古墳時代以降の墳墓)のことです。

 『北越軍記』では、「西条(ニシデウ)山の後ろより、赤坂山の下へ出る水の流をせき上げ、堀の如にいたし、西条山を攻候時の防の便に仕候。」とありますが、西条(ニシデウ)山の後ろから赤坂山の下は無理です。ここは、(ニシデウ)ではなく(サイジョウ)山と書くべきです。戦国時代は斎場山の北から赤坂山にぶつかる様に千曲川が流れていました。その北側は広大な氾濫原でした。蛇池(現在の展望台の真下)はその跡でしたが、現在は埋め立てられて高速道路です。旧千曲川をせき止めて堀の様に深くして防御したのかも知れません。つまり、斎場山は西北東が千曲川に囲まれた天然の要害だったのです。歴史研究家は、この事実を見落としています。
 文末の(諸軍書、妻女を西条に作る)という記述も、なんだか微妙ですね。本来の妻女山を西条村にあることにしてしまったといいたいのでしょうか。著者が妻女山と西条山が、全く別に存在する山であると知っていたかどうかがポイントですね。

 そして、こう続きます。
「補【妻女(サイジョ)山】 ○信濃地理、妻女山は謙信の陣を敷きし所にして、松代の西南にある小丘なり。丘上より東北を望めば、海津の城跡(松代)近く眼前にあり、千曲川其麓を流る。」
「補【西条(サイデウ)山】 ○大八州遊記、山乃埴科山脈支出者、在松代、霜台公置陣地、土人猶設其尤高而坦処、為公牙営、距海津十七八町、距武田所陣雨宮渡一里半。」
 妻女山を小丘といっているのですから赤坂山のことですか。霜台公とは、上杉謙信のことですから、本来の妻女山、つまり斎場山を指しているのでしょう。いずれにしても西条山が『甲陽軍鑑』の誤記であるという想いには至らなかったようですね。

 清野の項目では、「補【清野】 ○「重出」千曲真砂、矢代より松代を二里余あり、雨の宮村の上方小道にさし出でたる山あり、其昔川中島合戦の時、上杉謙信の本陣西条山なり」と『千曲之真砂』から引用しています。松代藩は、江戸や上方で斎場山を西条山と書かれることが余程癇に触ったのか、それならばいっそサイジョウザンという読みを変えてしまえとサイジョザンと読みも加えて漢字も変えてしまったのですが、なかなか全国区にはならず、以後も江戸・上方の浄瑠璃や歌舞伎、浮世絵などは、相変わらず西条山の記述を続けてしまうのです。

 土口の項目では、「人類学会雑誌云、土ロの塚穴は妻女山の南 麓にあり、土民の云ふ所によれば、其数凡九十有余ありしと、然れども今日完全せるものは、妻女山の南面にあるのみにして、幾何もなし、塚穴中最大なるものと云ふを検するに、其口南に向ひ、天井石は三枚より成る、室の広一坪許。」とあります。「妻女山の南面にあるのみ」という記述からも、この妻女山は、赤坂山のことではなく、本来の妻女山、つまり斎場山を指しているということが明瞭です。
 塚穴中最大なるものとは、堂平大塚古墳で間違いないでしょう。しかし、口は南でなく西を向いています。横穴式なので、古墳時代後期のものです。近くには堂平積石塚古墳群があります。高句麗、あるいは渤海由来の渡来人のものといわれています。大和王権とは別の勢力、国が東国にはあったのかもしれません。

 地名というのは生き物なので、時代に添うように変化するものですが、それでも間違いは間違いです。特に妻女山のように時代と歴史、時に藩や軍など権力によって翻弄されてきた山は、その正しい名称と位置を明らかにする必要があります。

 さて、次回は、ああっ惜しい!『角川日本地名大辞典』の記述と、何!? 妻女山はクレーターか!?の『日本歴史地名大系』平凡社の記述を紹介検証します。

 写真は、私が所有する大正時代の絵葉書です。赤坂山(妻女山招魂社)の南から北を撮影した写真です(撮影は社務所が無いので明治43年以前)。おそらく4月25日の春の大祭の模様でしょう。明治時代は松代周辺の合同の大祭で、花火を打ち上げ、舞楽の奉納があり、剣道、相撲の奉納試合が行われ、多くの露天も並び、善男善女の参拝者で賑わったそうです。在郷軍人の演習も行われたといいます。戊辰戦争以前には、ここには松代藩の射撃練習場があったらしく、南の山腹からは鉄砲の弾が数多く出土します。その縁で、戦後当地に招魂社が建立されたのでしょう。また、松代藩が、ここが古代からの神聖な斎場の山と知っていたからに他なりません。招魂社周りの土塁は、江戸時代末期の新しいものですが、射撃練習にも使われたものかもしれません。

 詳細は、妻女山について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をご覧ください。
 
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