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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

近頃創作の「妻女山」という名は最低!【妻女山里山通信】

2008-06-26 | 歴史・地理・雑学
 そう看破したのは、明治15年編纂の土口村(現長野県千曲市土口)村誌の編者・飯島謙貞氏でした。以下は、その土口村村誌からの抜粋です。凡例:■以下は、村誌の文章。()は、私の注記。[]は、注記として小文字で表記された文章です。●以下は、私の解説です。

■山
【手城山】高二百三十丈(天城山・696.9m正しくは694.6m)、周囲未だ実測を経ず。村の南の方(正確には東南)にあり。嶺上より界し、東は清野村、生萱村に分属し、西は本村に属し、南は生萱村に属す。山脈西は、南山に連なり北は妻女山に接す。樹木なし。登路一條、村の東の方字築地より上る。高十五丁二十五間(約1680m・これは村の中心からの距離か)険路なり。
●天城山(てしろやま)は、倉科や岩野では坂山ともいい、生萱では入山ともいいます。頂上には6世紀頃の坂山古墳という円墳があります。戦国時代には、清野氏の山城・鞍骨城の支城・天城城があったとされます。古墳は、その建設の際に壊されたのでしょうか、竪穴式石室の上屋はなく雨ざらしになっています。

【齋場山】高八十丈(正しくは百六十九丈=512.5m)、周囲諸山連接して測り難し。村の東南(誤り、正しくは北東)の方にあり、嶺上より界し、東は清野村に属し、西南は本村(つまり反対の北東が斎場山)に属し、北は岩野村に属す。山脈、南は西條山(西条村高遠山、あるいは象山)に連り、西は生萱村の山に接す。高十町余(約11000m・距離?)、易路なり。
●これが本当の斎場山(サイジョウザン)です。北緯36度33分32秒・東経138度9分58秒。読みが同じであるために『甲陽軍鑑』で、西條山と誤記されました。妻女山という名称は、江戸時代前期の松代藩による創作です。

■陸墓
【将軍塚】[岩野村にては荘厳塚(しょうごんづか)と云ふ]村居の西北七町半余を距て、北山(薬師山・笹崎山)の山脊上にあり、岩野村に跨る。東西三十八間、南北十八間、裾二段をなす。其形山陵志に所謂御車型の陵に似て、唯小なる耳、何人の墓なるや千数百年前の者たる疑なし。或日往古此地の君長、何縣主[即後の郡司の祖]などと云いたる人の墓なるべし其事尚営窟の條に記す。
●国指定史蹟になった埴科古墳群のひとつ、土口将軍塚古墳です。5世紀中頃の築造で、古代科野の国の国造(くにのみやつこ)の墳墓といわれている前方後円墳です。二基の竪穴式石室が並列しているので、何代目かの国造夫婦のものでしょうか。

【古塚】村の北の方にあり。一は前條将軍塚の束数十間、北山の峯頭にあり。其ち圓にして裾二段級有り。其形山陵志に所謂、十代内の山陵に似て小なり。(斎場山古墳のこと)然れば前條の墓より尚古く、殆ど太古の者と云うべき歟(やorか)(実際は逆で将軍塚より新しく6世紀の築造といわれます)[或云ふ是は墓にあらず、祭壇場ならんやと云へり]此外に三塚有り。一は祭場山長尾根の道の左に有り(実際は七つ)。一は赤坂[祭場山北の一尾也]に在り(現妻女山)。是も亦将軍塚と称す。一は祭場山の東南隅に在り。此二塚今清野村に属す。此他近山尚古塚あり、巳に残骸僅に跡を遺すものも有り。車形、圓形、大小等不同なり[更級郡石川村に十余所の古塚ありて、其内将軍塚と称するもの有り(川柳将軍塚古墳)、将軍塚の多き所以別々に説あり今贅せず。]
●この辺りは、埴科古墳群と称して、4世紀から8世紀にかけての前方後円墳、円墳、横穴式古墳等がたくさんあります。そこで、森将軍塚古墳の大穴山、雨宮、生萱、土口と合わせて、岩野、清野も大穴郷とする記述が見られます。崇神天皇の代に、大和朝廷より科野国の国造に任命された、神武天皇の皇子・神八井耳命(カムヤイミミノミコト)の後裔の建五百建命(タケイオタツノミコト)を祀った神社が多いのも特徴です。

■古跡
【齋場山】[又作祭場山、古志作西條山誤、近俗作妻女山尤も非なり。岩野村、清野村、本村に分属す]の山脊より東に並び、峯頭の古塚[或云ふ是塚にあらず、祭壇中の大なるものにて、主として崇祭たる神の祭壇ならんと云ふ]に至り、又東に連なり、南の尾根上を登り又東に折れて清野村分界に止む。
凡四十八個の圓形塚如きもの有り、俗に旗塚と云ふ。又四十八塚と云ふ是上古縣主郡司の諸神をこう祭したる斎場祭壇にして、之を掘て或は祭器、古鏃(やじり)等を獲るものあれども、遠く之を望めば累々と相連なり、其かづ数えふ可く、相距る事整々として離れず。必ず一時に築く所にして、墳墓の漸次員を増たるものにあらざるなり。是齋場山の名ある所以なり。
或は云ふ此山の裾を回て千曲川の古道有り。山水の間に岩野、清野両村在り、岩野は齋[イハイ]野、清野の古訓須賀野[其村にて菅野と云ふ]皆祭祀潔齋に因ありと。是本村第二の古跡と称す。
永禄四年九月上杉謙信此に陣する事数日、海津城の炊煙を観、敵軍の機を察し翌日大に河中島に戦事世の知る所なり。山の中央南部に一段の高原有り、之を陣場平と称す。其左西北に降り又左へ登る一峯[即北山の東の峯の古塚在る所]之を謙信の床几場と云ふ。其西の薬師堂を寝所と云ふ。床几場より北に降り、半腹に涌水あり、之を陣用水と云ふ[此外山中所々に泉口あり]其他千人窪、両眼平等の字有りと。里人傳ふる所如斯と雖(いえど)も床几場を本陣とすれば、陣場平より左手先にあり、此より海津城を望めば明瞭掌を指が如し。同城に対して東北に面するの陣とすれば可ならんか。赤坂[北に出る一尾]数隊の陣を置たるは、海津城の道を塞ぐ事左もある可し。但常時未だ此道なく、長尾根より清野へ下り、只越を経て海津に通たりとも云ふ。未詳なり。
●「齋場」というのは、「いつきば」のことで、「斎庭」とも書き、「ゆにわ」ともいい「神様を祀る為に清められた場所」です。つまり、墳墓だけではなく、祭祀を行う場所でもあったわけです。そこで「主として崇祭たる神の祭壇ならんと云ふ」という表現になるわけです。 
 「又作祭場山」とありますが、そういう意味で、祭場山という名称も当てはまるということになります。祭場山という漢字は、土口村誌と生萱村誌にしか見られないので、俗名妻女山に対向して読みを変えぬよう村の長により当てはめられた漢字なのでしょう。
 「古志作西條山誤」とは、『甲陽軍鑑』で、西條山と誤記さたことを指しています。西條山(にしじょうやま)という別の山が、同じ松代に有るわけですから、これは当然否定されるべきものです。
 「近俗作妻女山尤も非なり」というのは、会津比売命にちなんで、相変わらず江戸や上方で西條山と誤記されることに業を煮やした松代藩が創作したと思われる俗名妻女山ですが、読みも違うし、余りにも古代の歴史を無視し安易で商業主義的な名称であると、土口の人々が反旗を翻したわけです。この時、廃藩置県により松代藩はなくなり、松代県もすぐに長野県に吸収されており、松代から、戊辰戦争、松代騒動など幕末に市民を混乱に陥れた真田家は既にいなかったわけです。
 近年、改修工事が終わり松代城となりましたが、それ以前は地元では、海津城とみな呼んでいました。未だ記憶に新しい真田の松代城より、武田の海津城への憧憬の方が深かったということでしょうか。混乱期の中で松代を去らなければならなかった真田家には、大政奉還により江戸城を明け渡した徳川家のそれと重なる侘びしさがありますが、文武学校など今に残る功績が連綿と受け継がれていることも記さなければならないでしょう。
 「凡四十八個の圓形塚如きもの有り」とは、とにかく山中が古墳だらけで、それで齋場山の名がある所以となったと書かれています。
 「此山の裾を回て千曲川の古道有り」とは、北国街道東脇往還(松代道)のことです。信濃追分から上田、善光寺への北国街道(善光寺参りで賑わい、佐渡金山と江戸を結ぶ金の道、加賀百万石の大名行列も通った)に比べると静かだったようですが、江戸後期の川中島ブームで謙信槍尻之泉が霊水として評判になると、日本中から汲みにくる人で妻女山は賑わったとあります。しかし、松代には本陣が無く宿場町としては発達しませんでした。旅人は、矢代宿や丹波島宿、善光寺宿に泊まり賑わったようです。土産物として川中島合戦図会などが飛ぶように売れたことでしょう。
 「永禄四年云々」は、お馴染み第四次川中島の戦のことですが、記述はこの2年前に書かれた岩野村誌とほぼ同じで、地元では同様の伝承があちこちにあったということです。この辺りの人は、みな戦後(もちろん第二次世界大戦ではなくて川中島合戦)に、この地に住みついた人々です。戦争中は両軍による焼き討ち、乱取り、小屋落し、戦で、とても人が住めた環境ではなかったはずですから。実際地元の苗字を見ると、村上義清の配下のものが多く見られます。中には戦闘に参加した人もいるでしょう。わが家の祖先もそうして土着した武士のひとりでした。また、戦後甲州から国替えで移住させられた人達もたくさんいました。山中に隠れていて戻ってきた人もいるかもしれません。
 そんな中でも、斎場山という古代からの名称とまつわる伝承をを連綿と伝え続けた里人が少なからずいたのです。

●写真は、上信越道屋代バス停から見た斎場山。地形図は、25000分の1松代に字や地名・古跡を記載したものです。

 妻女山の詳細は、妻女山について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をご覧ください。また、右上のブログ内検索で「妻女山」を。たくさん関連記事があります。
 
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