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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

ピーカンの妻女山展望台へ。鹿島槍ヶ岳、爺ヶ岳、蓮華岳、針ノ木岳、白馬鑓ヶ岳、杓子岳、白馬岳、高妻山、飯縄山、根子岳、四阿山、高社山(妻女山里山通信)

2021-11-30 | アウトドア・ネイチャーフォト
 11月最後の日、朝カーテンを開けると北アルプスがくっきりと見えました。これは撮影に行くしかないと支度をして妻女山展望台に着いたのが10時半。お昼ごろになると稜線が雲で隠れてしまうのでギリギリの時間でした。気温は3度。今朝の最低気温は−3度と冷え込みました。慌てて出てきたので三脚を忘れてしまいましたが、手ブレ補正の抜群の機能を持つオリンパスですからなんとかなるでしょうと。

 鹿島槍ヶ岳(2,889m)。後立山連峰(飛騨山脈)の盟主といわれる名峰。山頂右(北側)の大きな谷は、平家の落人が隠れ住んだという「かくね里」。日本で4例目の氷河かもしれないと雪渓の調査がされましたが、2018年1月に、長野県初の氷河であると認定されました。かくね里の人々は、やがて大川沢を下り鹿島川の辺りに住み、それが今の鹿島集落とか。ただ、鹿島神社には807年(大同2年)には集落があった記述があるそうで、平家追討以前にすでに集落があったことになります。戦国時代の天文年間の大地震で鹿島槍が大崩壊し、麓が大被害を受けたため、地震の神様である鹿島神社を勧請したともいわれています。かくね里上部は、鹿島川最上流部の標高1800〜2200mにあり傾斜もきつく、雪崩や落石も多くとても人が住めるようなところではなさそうです。もし落人が住んでいたとしても、もっと下流の方かも知れません。

 その左(南)にそびえる爺ヶ岳(2,670m)。鹿島槍、五竜岳と共に仁科三山と呼ばれます。

 ずっと右にそびえる白馬三山。左から白馬鑓ヶ岳(2,903m)、杓子岳(2,812m)、白馬岳(2,932m)。明治時代に帝国陸軍陸地測量部が地図を作るために白馬村に訪れた時、この山々には確固たる山名がありませんでした。岳山(たけやま)とか西山とか適当に呼んでいたそうです。そんな馬鹿な話があるかと役人に怒られて、長老が命名。
 雪形の代かき馬からとって代馬岳、貝杓子に似ているので貝杓子岳、長いので貝を取って杓子岳、尖っているので槍ヶ岳、しかし槍ヶ岳、鹿島槍とあるので駄目だと言われて白馬鑓ヶ岳と命名。西山にいる山の主で天狗の尾根、身の程を知らぬ者が天狗に近づこうとして帰れなくなったので不帰ノ岳と適当に命名して今に至ります。代馬岳は、実際の地図では白馬岳となっていましたが、村人達は長い間その事実を知らなかったそうです。(出典:『北アルプス白馬ものがたり』石沢 清著)

 白馬鑓ヶ岳と杓子岳。手前の里山は、茶臼山の登山口にある信里小学校と農協。この向こうには、山布施などの古い集落が点在します。西山地区といい西山大豆や野沢菜、おやきなどが有名です。

 白馬岳の雄姿。北は栂海新道をたどり、大昔にユーラシア大陸と引き離された親不知で日本海へと落ち込みます。手前の里山は、地滑りで崩壊した茶臼山の南峰です。

 妻女山展望台から北を見るとまず目に入るのが、戸隠富士と呼ばれる高妻山(2,353m)。手前は戸隠山の連峰。

 右手前に大きな山塊の飯縄山(1,917m)。拙書でも詳しく紹介していますが、山頂付近には飯縄権現を祀る飯縄神社があります。北信五岳のひとつで、長野市民の山。都民ならたいてい高尾山に登る様に、長野市民ならたいてい一度は登る山です。ちなみに高尾山薬王院は飯縄大権現を祀っています。飯縄権現は、古くから戦勝の神として信仰され、上杉謙信や武田信玄が信仰していたことでも知られています。多くの場合、神が烏天狗という形であることから、古くは秦(羽田・畑・本田・本多)氏の様に徐福伝説や古代ユダヤとの関係も考えられます。

 東方には、根子岳(2,207m)と四阿山(2,354m)。両山ともコースはもちろん、歴史や自然を拙書で詳しく書いていますが、四阿山は真田の修験の山で、山頂には麓の山家神社の奥宮が二つあります。麓の神社には、真田幸隆が奉納した奥宮の漆塗りの扉が現存します。菅平は、ここのところ全国最低気温を記録しています。

 北東を見ると、これも拙書で紹介している地元でたかやしろと呼ばれる高社山(1351.5m)。その美しい佇まいから別名を高井富士といいます。この山を境にこちら側の南側と、向こうの北側では積雪がまったく異なります。木島平や飯山は、日本有数の豪雪地帯です。冬期は手前に雪庇ができるので要注意。実際踏み抜いて死亡事故も起きています。拙書では、美しい花をたくさん紹介しています。

 週末に作業をする予定の陣場平へ。甲高い鳴き声のヒヨドリがたくさんいました。他にはメジロなども。残り少ないクマノミズキの実をついばんでいるのでしょうか。冬に山仕事をしていると、虫を求めてルリビタキが寄ってきます。

 堂平大塚古墳横の友人のログハウスで休憩。蓮華岳(2,799 m)右奥は針ノ木岳(2,821)。針ノ木峠(2,536m)は、古くから信州と越中を結ぶ立山詣者、杣人、商人、釣り人などの重要な道でした。

 下って妻女山松代招魂社へ。戊辰戦争以降の戦没者を祀っています。瓦には六文銭が。戊辰戦争の会津戦争は、信州人同士の戦だったという歴史の悲劇です。上杉景勝の会津転封で、善光寺平の土豪達は家族家来が全て会津に移りました。加えて徳川家光の時代に、伊那高遠藩の保科正之が家光の腹違いの弟と判明し会津に転封。また信州人が行きました。この時、我が一族のものが同行し、後に豪商となって会津藩を支えました。会津は信州人が造った町ともいえるのです。また、妻女山麓にある会津比売(あいづひめ)神社の祭神である会津比売命と、福島の会津は古代において深い関係があるのです。ハイキングのガイドでは、そんなこともお話ししました。そして会津戦争で会津若松城をメリケン砲で攻撃し白虎隊殲滅に加わったのが松代藩でした。戦はいつの世も悲劇しか生みません。
「戊辰戦争」の戦没者を祀る妻女山松代招魂社と松代藩の戦没者名簿(妻女山里山通信)

 妻女山展望台(411m)。ここは川中島八景のひとつ。妻女山秋月に挙げられています。あと七つは、茶臼山暮雪、猫ケ瀬落雁、千曲川帰帆、八幡原夕照、勘助塚夜雨、典厩寺晩鐘、海津城晴嵐。またここは、信州サンセットポイント百選に選ばれており、美しい夕焼けが見られます。
 現在はここが妻女山と呼ばれていますが、正しくは赤坂山です。上杉謙信が本陣としたと伝わる妻女山は、ここより100mほど高い本名を斎場山という山で、山頂は古代科野国の古墳(円墳)です。Googleマップでは、陣場平と斎場山について、私が写真を投稿しコメントも記しています。ぜひご覧ください。

 冬野菜が美味しい季節になりました。やはり霜が降りたものは甘さが違います。今回はオイルサーディンと白菜とのらぼう菜のパスタを作りました。のらぼう菜は江戸時代の初めにオランダから入ってきた菜の花の原種で、東京の西多摩地方で食べられていた野菜です。私は若い頃にあきる野市の養沢川にフライフィッシングに通っていた時に知りました。帰郷してから息子に種を送ってもらい栽培を始めました。亡き父が非常に気に入り採種して集落に配ったので、今では皆作っています。春先にとう立ちを折って食べますが、苦味がなく和洋中華すべてに合うので人気の野菜です。これのボンゴレビアンコとかオイスターソース炒めなどは絶品です。

 『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

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