あんずの里として全国に有名な信州は千曲市森の西北の外れに、岡地という小さな集落があります。有明山の麓にへばりつくようにある小さな山里は、西側に山があるため日の暮れるのが早く「半日村」などと呼ばれました。あんずが満開の時も訪れる人もほとんどなく、静かな花見ができる場所として隠れた撮影スポットとなっています。この地は古くは乙路県(おつじがた)、大穴郷(おうなごう)といい、尾根の向こうには初代科野国の大王の墓といわれる森将軍塚古墳があります。
先日、その近くの伯父の家に採れ採れの野菜を届けたついでに、地元では御天神さんと親しまれている岡地天満宮に合格祈願のために参拝しました。ここに願掛けした人はみな合格したといいます。正式名称は「岡地天満大自在神社」といいます。一見すると、小さく地味な天満宮の末社のように見えますが、さにあらず。実に歴史ある奥深い神社なのです。
伯父はその天満宮の歴史を調べ本を自費出版しているので、そこから引用させてもらいます。この神社には、菅原道真の木像と、法華経妙荘蔵王品一基が所蔵されていますが、菅丞相書『法華経並びに親作木像記』によると、どちらも菅原道真自作のものと伝えられています。
岡地に安置されるようになった経緯は非常に複雑です。もともとの所有者は、江戸城を築城した太田道灌(「七重八重花は咲けども山吹の実の(蓑)ひとつだになきぞ哀しき」の逸話で有名)が足利学校で学んだ折りにもらい受けたとされています。ただし、道真公からどういう経緯を辿って足利学校に所蔵されるようになったかは不明です。
第四次川中島合戦の折に、ここ岡地には観音堂の大伽藍があったそうですが、戦火のために焼失したと縁起には記されています。森の東の山陰殿入地区には戦火を唯一免れたという信濃国三十三番札所第六番観龍寺があります。詳しくは、春のあんずの里ルポをご覧ください。
その後、湯島天満宮に納めようとしたのですが、不慮の変があり果たせず、徳川家康の手に渡り、三代将軍家光へ、さらに幕府の官医であった土岐長庵の手に渡ります。土岐長庵は松代藩の真田家と懇意だったようで、真田家の菩提寺の松代長国寺(曹洞宗)に遺贈されました。
その後しばらくは、松代の長国寺にあり、長国寺十七世千丈寛厳和尚が千曲市森の岡地に華厳寺を開いて隠住したとき(1785年)に森の岡地に天満宮を造って安置したのが始まりということです。
現在では華厳寺は檀家も途絶えて廃寺となり(母はここで演芸会をしたそうです)、天満宮だけがあります。天満宮には、かの米山一政氏が驚嘆したという平安末期-鎌倉初期の作といわれる一刀彫の像があります。さらには、幻の善光寺五重塔建立のための試作品とされる名工・立川和四郎富棟作の「惣金厨子」があります。
またここ岡地には、正和2年(1313)3月に焼失した善光寺、金堂以下の諸堂再建工事の折、用材を伐採、「長さ十丈ばかり材木が空中を飛翔して、その工事を助けた、という「飛柱の異」という言い伝えがあります。
初冬の信州にしては暖かな小春日和の午後。天満宮に参拝して東を望むと、森集落の向こうに大きくそびえる大峯山と手前に延びる倉科と森を分ける県山が。その左奥には、武田別働隊が越えたという戸神山脈が夕日をあびて輝いていました。
★武田別働隊が辿ったとされる経路のひとつ、唐木堂越から妻女山への長~い長~い尾根を鏡台山から歩いたトレッキング・フォトルポをご覧ください。
★フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】には、斎場山、妻女山、天城山、鞍骨城、尼厳城、鷲尾城、葛尾城、唐崎城などのトレッキングルポがあります。