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建築を旅する

日光東照宮

2010-10-31 17:22:42 | Weblog
日光と言えば、東照宮。

言わずと知れた、家康が神として祀られている、いわば権力の象徴であります。
世界遺産!

東照宮は、本殿と拝殿を石の間でつなぐ、八棟造。
北野天満宮などから始まった、人を神として祀る秘法の建築様式である。
豊国廟もその形であったらしく、ここでは、家康も秀吉の様に神として祀られている。

創建当時は和様の質素な建物であったけれど、三代家光が家康への信仰心にも似た思いから、莫大な費用を投じて普請をした為、現在の様な形になった。

大工や金箔職人など、延べ481万人の職人が関わった大事業であった。





実は、日光東照宮に行くのは今回が初めて。
関東エリアの人達は、学校の旅行なんかで行くんだろうけれど、関西圏の学校はあんまり行かないんじゃないかな。

自分の中でも東照宮は行く前から印象が色々とあり、時々に変わって行った。
よく対比される、桂離宮。桂離宮のイメージは全く変わらない。
ブルーノタウトやグロピウスのせいもあるんだろうけれど、東照宮は、西欧建築家の批評なんかにも踊らされて、あんまりいいイメージは実は無かったっていうのも訪問が遅くなった理由かもしらん。

フィリップジョンソンが、グロピウスの『桂』の書評で、東照宮を高く評価しているのが面白い。
グロピウスが東照宮を「ひとりよがりの自己賛美」といっているのに対し、ジョンソンは、「グロピウスが混乱と見るところはわれわれにはゆたかさとも映るところであり、彼が独善と見るところはわれわれには壮大と見えるところである。」と書いている。

そして最後に「ぜひこの『桂』の一本を購って写真を眺められるがいい。しかしそこに写されざる、また書かれざる日光を見て、死ね!」と書評をしめている。

当時の西欧建築家たちが自身の志向する建築の祖を『桂』にみて、あまりに無防備に賛美する姿に、桂の魅力は評価しつつも、自身の志向に合わないものを排除するかの様な姿勢に、違和感を感じていたんだろうか、後にポストモダンに向かうフィリップジョンソンの嗜好が伺えるようで面白い。



東照宮へ向かう参道。杉木立が立派。大きな礎石が徳川家の力を誇示しているように見えた。


東照宮の一見過剰に見える装飾。
しかし実は、装飾のある建物を参拝者の目線の当たる場所に上手く配する事で、より多くの装飾物が有る様に思える工夫をされているらしい。
ざっくりとした灯籠や石が武士の神社である事を感じさせる。


見せ場の陽明門。すっごいなあ。


陽明門の柱。この柱のパターンが一本だけ天地が逆のものがあると聞いたけど、よくわからなかった。
完成した瞬間から朽ちて行くという考えがあり、常に未完成に見せるためだとか。
白を使うのは特徴的で、美しいなと思う。常に補修を繰り返している意味がある。


ちょうど、唐門から本社あたりの補修が始まっていて、職人の方が漆の塗り替えをしていた。
漆は本来、内装材としてのものなので、外装に使っている東照宮は、贅沢な作りである。
なので、いつもどこかしら工事中。

本社の中の狩野探幽の絵が、創建当初のものらしく、たしかに優美な感じがした。


実際に行ってみると、意外とあっけないように思えた。
二条城の中を見た時の圧倒されるような感覚は無かった。内装と外装の違いなんだろうか。

装飾は確かに華美であるけれど、イメージの中の東照宮よりはしっとりとしていた。
重厚な杉並木のロケーションもあるのかもしれない。

建築を見るときに、最初にイメージをしすぎていると、良くないなと思う。

コルビジェのロンシャンとか見た事ないけど、実際はどうなんだろう。


東照宮、行く前は豪華絢爛な建築は、好きになれないかなと思ったけれど、人の手がこれほど入った建築。
なんというか、愛すべき存在であるなと思った。

家康も心打たれたであろう、この景色は、最後に心に沁みた。







匠明

2010-10-29 16:52:32 | Weblog
ある尊敬すべき方から、日本建築を勉強するなら、『匠明』は是非読んでおいた方が良い。

と言われた。

『匠明』




これは、

『建築物の各部の比例を「木割」といい、このような比例は時代によって変化し、各時代それぞれ特定の比例を持っている。そのため建築史家が年代を推定する要点となる。本書は、東大建築科教室所蔵の「 匠明 」と題する木割書の復刻、解説版。慶長13年(1608)の平内政信、同15年の平内吉政の奥書があり、桃山時代に書かれたもので、完備した木割書としては日本最古のもの。日本建築の意匠を分析的、歴史的に研究する一番の足がかりとなる。』

そうである。


日本最古の木割書。
木割とは、柱間を基準にして各部材の寸法を比例的に決定していくシステムとの事らしい。
京間などもそれにあたる。時代によっても変化していくものだという。
各時代は、それぞれ特定の比例を持っている。

匠明の現代版の監修をした、太田博太郎は「建築史家が遺構から年代を推定するのは、細部の曲線や、構造技法などにもよるが、時代によって木割が違っている点が、決定の要因」と語る。

太田氏によると、木割書は、最古のものは室町時代に出来ていたらしく、江戸時代には多く作られた。
そして、江戸時代には広く流布した。明治以降、木割は設計の自由を拘束され、創造力を失わせるもので、江戸時代の建築が美しくないのは木割のせいだ!と排撃されたらしい。

「しかし、この非難は当をえていない、木割の第一の利点は、これによることによって、著しく醜いものが作られることを避けうるということにある。これはいわば教科書であり、教科書の役割は、低い方の程度を挙げることが第一の目的である。」と続く。

そうだろうなあ。
構造的な決まりであれば、仕方の無いところもあるけれど、これはスタイル、その時代の様式の決まり事である。
ただ、色んな職人が精度の高い仕事をする為には、やはり、一定のルールや基準があるほうが、芸術的にも高みに達する事ができると思うので、これは、使い方次第なんだろう。

京都の西陣織の反物も、完成までには20を越えるプロセスがあり、それぞれの工程が専門家によって分業化されているらしい。
企画を考え、糸を紡ぎ、染め、織り、絵付けを行ったりするのだけれど、それぞれが別々の専門の職人が一度きりの人生の中で精進し、クオリティーを挙げて行くことが、20の全ての行程で行われる為、一人の人間では到底到達しえない芸術的高みに達することが出来る。


「木割書によって創造の自由が拘束されるのは、拘束される側の罪であって、木割書そのものの罪ではない。」と。

なるほど。

著者の平内政信は、天正11年(1583)生まれであり、活躍したのは、江戸初期。
幕府作事方大棟梁に登用される。

父とともに、15年かけてこの『匠明』を著す。

日光東照宮の寛永度造営にも参画した。




これは、非常に気になるし、今でも『匠明』は手に入る。


とても高価な本ではあったけれど、ここは一つ手元に置いて読んでみようと購入し、今日、届いた。



ひと言でいうと、難解。

それに、江戸初期の書物だけに、レ点の嵐。

根気よく見て行くと、本当に木割の説明文の様である。

これは読み物というより、歴史的資料、教科書なので、はいその通りと見て行くしか無いんだろう。
根気よく攻めて行きたいと思います…。




華厳の滝

2010-10-18 11:03:04 | Weblog
奥日光の湯本温泉で宿泊。
途中の、戦場ヶ原は原初の日本の風景といった風情で、自然の生態系がそのままになっている感じ。
ラムサール条約湿地に登録されているだけある。

平地があると、すぐに開墾してなにかしらの『用途』をはめ込みたくなる日本にあって、貴重な風景だと思った。
「戦場ヶ原神戦譚」という、神話の舞台らしいけれど、そういった物語がしっくりくる雄大な場所であった。



朝から、竜頭ノ滝へ再訪。

よくテレビなんかで出てくる、竜頭ノ滝の鑑賞ポイントらしきところ。
エレガントな滝が二つ流れている。

中央の大きな岩が竜の顔で、二筋の流れが竜のひげに見えるから、竜頭ノ滝というらしい。
紅葉の季節の写真などを見ると、なるほどと思う。

訪問した夏の時期は、細かなしぶきを感じることができ、ひんやりとマイナスイオン浴が気持ちよかった。






華厳の滝へ

やはり、那智の滝、袋田の滝に並ぶ、日本三名瀑。でっかい、迫力が違う!




華厳の滝は、仏教の華厳経から来ているらしい。
近くに、阿含滝、方等滝、般若滝、涅槃滝もある。
まさに、釈尊が説いた、教えの準にある。

しかし、このスケール、華厳の滝というより、法華の滝としてほしかった。



この川の下流の渓谷が、一部、いろは坂のある谷へ連なっている。
そして、第一、第二のいろは坂の合流点である『馬返』という所まで続いているらしい。
明治初期まで奥日光は女人牛馬禁制で女性や牛馬は坂を上れなかった様で、その名残の名前とのこと。

奥日光、様々な歴史のある土地である。


シモツケみたいなのが奇麗だなと思ってみてると、ビニール袋がぽろっと落ちていた。
ものすごい違和感。
自然の純粋な美しさと、不純なものとのコントラストが凄く、罪深いものだと深く考える。





竜頭ノ滝

2010-10-08 10:24:45 | Weblog
奥日光をさらに進む。

中禅寺湖から、更に山間を抜ける。

途中、パーキングがあるので、なにか風光明媚なものがあるのかな?と何気なく車をつけてみた。


竜頭ノ滝。

なるほど、これが奥日光三名瀑のひとつといわれる、竜頭ノ滝かあ。


ほおおお、山が滝になってしまった様な迫力。
滝と言うより、山。山肌だなあ。


遠方に中禅寺湖も見える。


しばし、圧倒される。


奥日光の湯ノ湖から流れ出した川が、戦場ヶ原を抜け、中禅寺湖へたどり着く。
その流れが、かつて男体山が成層火山として活動したなごりの溶岩の上を、210メートルの長さで滝となり、山肌を抜けて行く。



久しぶりに、呆然としてしまうような、感動が襲って来た。


山にこだまする瀑音。

なんの作為もないんだもんあ。
大きい美しい。

普段意識しないような感覚、滝に覆われた、山が大きな塊となって、迫ってくる様にも思う。

クリストの梱包された海岸の様に。マッスの迫力。



ずっと下って行くと、いよいよ溶岩も削り込まれ、gorgeとなって、さらに勢いを増していた。


これだけでも、来た甲斐があったよ、奥日光。