すべては愛する宗像のため

福岡県宗像市在住、井上正文のブログです。

3月例会(その2)

2007年03月12日 | 大会・対談・取材・講演・研修など
前回に引き続き、社団法人宗像青年会議所3月例会での立部瑞真理事長の理事長挨拶からの引用です。
2、エルトゥールル号遭難事件

1985年3月、イランの首都テヘランで孤立した日本人250名を救出したトルコ航空の飛行機。
その理由とは?・・・真実はそこからさらに100年前にあったのでした。

1890年、日本が開国をして間もない明治23年、アジアの一番西の国トルコから700名の使節団がエルトゥールル号という船でやって来ました。
アジアの一番東の国の日本と交流を結ぼうということで6月にやって来て、色んな交流や懇談会を終え3ヶ月後に友好の約束を取り付け、喜び勇んで日本を後にしたのです。

東京を船で出発したのが9月の半ば頃。
ところが船が静岡にさしかかったところで波の様子がおかしくなってきた。

これは台風だとすぐにピンときたそうです。

どうしようか、東京に戻るか?それとも一気に神戸まで行って避難しようかと、二者択一だったのですが、後者の神戸まで行こうというルートを取ったのです。
船は懸命に神戸をめざしたのですが、紀伊半島の先端にさしかかった所で、台風にもろにぶち当たってしまうのです。

紀伊半島の先端には大島という島がありました。
その島は周囲が岩礁だらけなのです。
その岩礁にエルトゥールル号は打ち付けられて船が木っ端微塵になってしまったそうです。

700人の使節団達はすべてが海へ放り出されて、即死する人、溺れる人、岩場に叩き付けられて亡くなってしまう人も多数でました。

時刻は夜の10時位でした。

遭難者に見えた唯一の光は、灯台の灯りでした。
その灯台めざして、みな一生懸命泳ぎ出し、やっと灯台のある岩場に着いたのですが、そこは60メートルの断崖絶壁だったのです。

トルコ人の20歳の青年が何とか最後の力を振り絞って、その断崖絶壁を登っていったのです。

登っていった所に灯台があるのですが、灯台には宿直の若者が一人で居ました。

「何かおかしい、ただならぬ気配がする」というので見回りに行ったところ、血だらけのトルコ人が草むらに倒れていたのです。

明治の半ば頃のことです。
普通であれば、外国人が血だらけで倒れていたら、びっくりし怯えて逃げてしまうことでしょう。
しかし彼はぴんときたのかすぐ村長さんの所に走ります。
夜中に村長さんを叩き起こして、村長さんもその話を聞いて、

「これは何処かの国の船が座礁したに違いない。まだ生きている人もいるかもしれない」と、島中の村民270名全員を起して、遭難者達を救おうと立ち向かっていくのです。

しかし60メートルの断崖絶壁をまず降りないといけない。
そこは周囲が明るい昼間でも降りるのが困難な断崖絶壁。

嵐の夜、何も見えないところを、何人かの若者達がどんどん降りていくのでした。

そして断崖絶壁の下でうずくまっていた沢山の怪我をしたトルコ人達の傷口を海水で洗い、ひどい傷は自分の帯を解いて止血し、また別の人の帯を結び、怪我人を背負って断崖絶壁を登ってということを何度も繰り返しながら助けたのです。

家の中に連れていって今度は治療に取りかからねばならない。
身体は冷えきってぶるぶる震えている。
明治の半ば頃に、すぐに暖をとる手段はないのです。

で、どうしたかというとトルコ人達の服をすべて脱がして自分達も裸になり、体を寄せ合って暖めたのです。

見ず知らずの外国人をです。

次の日、神戸に駐留していたイギリスやフランスの船が連絡を受け迎えに来てくれて、神戸の大きな病院に運んだのです。
大島の村人達が助けたトルコ人は69名。
その69名すべてが回復してトルコに戻ることができたのです。

この事件をトルコの国民は脈々と教育して受け継いできたのです。

いつか日本人に万分の1でもいいから恩返しがしたいという気持ちでずっといたのです。

その行動の一つが今から20数年前のイランに飛行機がやってきて助けてくれた、その行動だったのです。

イランの日本人を救ったのはトルコ人でもあるし、また120年前の日本人でもあったのです。

そういうお話を占部賢志先生という方がされました。


本年度の日本青年会議所の会頭の所信にも書いてあります「利他(りた)の精神」。
今から1200年前、最澄というお坊さんがいましたが、その最澄さんの言葉の中に「自利利他」という言葉があります。

「自利とは利他をいう」と読むのですが、その意味は、「他人に良いことをすれば、それが巡り巡って自分に返ってくるのだ」という解釈ではないのです。
何故なら仏教では見返りを求めることはないからです。

では正しくはどういう意味かと申しますと「利他の実践そのものが、自分の幸せなのですよ」ということなのです。

他人のためにすること、そのものが既に自分のためになっている。
これが「自利利他」の本当の意味なのです。

私達は命を与えられているのです。
この命を活かさないと生きている意味はありません。
この命を一生懸命活かして、それを社会や他人に還元することが人生の本質であり、本当の幸せではないかと思っております。

私達の血には、あの大島の270名の村民達のDNAが、同じ日本人ですから絶対に流れているはずなのです。
そういったことを再認識して、また今月も宗像青年会議所らしく行動していってほしいと思っております。

という、理事長挨拶でした(次号へとつづく)。

3月例会(その1)

2007年03月12日 | 大会・対談・取材・講演・研修など
3月7日(水)、宮地嶽神社で開催された(社)宗像青年会議所3月例会の中で、立部瑞真理事長が理事長挨拶の中で触れられた、あるお話を紹介させていただきます。
社団法人宗像青年会議所3月例会・理事長挨拶より

立部理事長:先日、アカデミーの開校式がありました。その時の印象に残った話がございますので、その話をさせていただきたいと思います。
アカデミーの開校式は2月24日、シーホークホテルであったのですが、その時の講演会の講師の先生が占部賢志先生という高校の先生をされている方でした。
各地で講演をされている方なのですが、その講演のほんの一部を今日は紹介させていただきます。

1、テヘランで孤立した日本人

1985年3月、今から20数年前、イランイラクが戦争をしていた頃の話です。
イランとイラクは戦争を続けていましたが、その長い戦争の間、理由があってお互いの首都とか大都市には攻撃をしなかったのです。
何故かと言いますと首都とか大きな都市には外国からの技術者であるとかそういう優秀な人達が来ていましたので、そういう都市は暗黙の了解で攻撃をしなかったのです。

ところが長い戦争にしびれをきらしたイラクのサダム・フセイン大統領が、「48時間後にイランの首都テヘランを攻撃する、そして上空を飛んでいる飛行機は民間機であろうが軍用機であろうが全てミサイルで撃ち落とす」という声明を発表したのです。

全世界はパニックに陥りました。

ただちに各国は自分達の同胞が待っているテヘランに飛行機を出して迎えに行ったのです。
そして自分達の国の仲間達すべてを連れて帰ったのです。

日本でももちろん、そういうことをしました。
まず自衛隊機を出そうということで自衛隊機を飛ばしてテヘランに残っている日本人を救おうとしたのですが、当時20数年前といいますと、そういったことをすれば、すぐに軍国主義だとか、戦争を始めるのではないかという議論が起こっていた時代です。
ですから自衛隊を出すのを断念しました。

そこで政府は日本航空に打診し、すぐに飛行機を2機スタンバイさせたのです。
そして政府で様々な調整を行い、さていよいよテヘランに行ってくださいという時には、時すでに遅し。
今、行きますとちょうどテヘランでミサイルの的になります。
だから涙を飲んで断念したのでした。

日本は同胞達を救うすべての手段を失ってしまったのです。

そしてタイムリミットの1時間20分前になろうという時にテヘランの飛行場には日本人だけが取り残されていたのです。
他の国の人達はみな自国の人に助けられ帰国していたのですが、取り残されていた日本人の多くは女性とか子ども達です。

総勢250名が肩を寄せ合って自分の国の飛行機が来るのを待っていたのです。

ところが日本からの救援機は一向に来ない。

そこへ2機の飛行機が助けに来て、テヘランの日本人全員を成田空港まで連れて帰って降ろし、その飛行機は再び自分の国に帰っていったのです。

その飛行機はトルコ航空の飛行機だったのです。

何故、トルコの航空機が日本人を助けたのだろうか?
当時の日本人は誰も解りませんでした。

新聞にもトルコはODA(政府開発援助:先進工業国の政府及び政府機関が発展途上国に対して行う援助や出資のこと)が欲しかったのではないかというような記事が出ていたそうです。

ところがこれの本当の理由は、実はさらにさかのぼること100年前に真実はあるのです(次回へつづく)。