雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

歴史散策  大和への道 ( 2 )

2015-11-24 09:40:10 | 歴史散策
          大和への道 ( 2 )

五瀬命の戦死

さて、一行は、速吸門(ハヤスイノト)の国(播磨国か)を越え、浪速の渡(ナミハヤノワタリ・大阪湾の一部)を経て、青雲のたなびく白肩津(シラカタノツ・場所未詳)に停泊した。
この時、登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネビコ)が軍勢を率いて、待ち迎えていて戦いとなった。神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)は、船に積んでいた楯を取って降り立った。それで、その地を楯津といったのである。今は、日下の蓼津(クサカノタデツ・現在の東大阪市日下町の辺り。当時はこの辺りまで入り江となっていた)という。

こうして、この登美毘古(トミビコ・トミノナガスネビコのこと)と戦った時に、五瀬命(イツセノミコト)は、手に彼の痛矢串(イタヤグシ・痛手を受けた矢、という意味か)を受けた。そして、「私は、日の神の御子として、日に向かって戦うことは良くなかった。だから、賤しい奴から痛手を負ってしまった。これからは、迂回して日を背に受けて敵を撃とう」と誓って、南の方から迂回している時に、血沼海(チヌノウミ)に着き、そこで傷ついた手を洗った。血沼海というのは、そのため付けられた名である。その地よりさらに迂回して、紀国(キノクニ・古くは和泉国の辺りまで紀国に属していた)の男之水門(オノミナト)まで来たが、五瀬命は「賤しい奴から手傷を負って死ぬのか」と雄叫びをあげて亡くなられた。その為、その水門を男之水門というのである。
五瀬命の陵(ハカ)は、そのまま紀国の竈山(カマヤマ・和歌山市)にある。

     ☆   ☆   ☆

熊野に向かう

神倭伊波礼毘古命は、さらに迂回して、熊野の村に至った時、大きな熊がほんの少し姿を見せ隠れしたあと姿を消してしまった。
すると、命(ミコト)は毒気に当てられて気を失ってしまった。従っていた軍勢も、同じように気を失って倒れてしまった。

この時、熊野の高倉下(タカクラジ・人の名前)が一振りの大刀を持って、天つ神の御子である命が横たわっている所にやって来て、その大刀を献上すると、天つ神の御子はたちまち正気を取り戻し、立ち上がって、「長い間寝てしまったなあ」と仰った。そして、その大刀を受け取った時に、その熊野の山の荒ぶる神は、自ら皆切り倒された。同じくして、意識が混乱して倒れていた軍勢も、全員が起き上った。

そこで、天津神の御子である命が、その大刀を手に入れた事情を訊ねたところ、高倉下が答えて申し上げた。
「私が夢に見ましたところによりますと、『天照大御神・高木神の二柱の神のご命令で、建御雷神(タケミカヅチノカミ・イザナギノミコトの御刀に因り生まれた神のひとり)をお呼びになり、「芦原中国(アシハラノナカツクニ)は大変騒がしいようである。わが御子たちは平安ではないらしい。その芦原中国は、もっぱらお前が言向けた(服従させた)国である。だから、お前が降るべきである」と申されました。建御雷神はそれに答えて、「私が降らなくても、もっぱらその国を平定した大刀があります。この大刀を降らすのが良いでしょう。その方法は、高倉下の倉の頂に穴をあけて、そこから落し入れます」と申し上げた。そして建御雷神は私に、「こういうことだから、よく探して、お前が取り持って天つ神の御子に献上せよ」と言われた』という夢を見たのです。そこで、夢のお告げの如く、朝になって自分の倉を見ますと、本当に大刀があったのです。それで、この大刀を献上申し上げるのです」と言った。

なお、原文の注意書きとして、<この大刀の名は、佐士布都神(サジフツノカミ)という。またの名は、甕布都神(ミカフツノカミ)という。またの名は、布都御魂(フツノミタマ)。この大刀は、石上神宮(イソノカミノカミノミヤ)に鎮座されている。>と説明されている。

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