雅工房 作品集

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歴史散策  古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 6 )

2017-12-31 08:46:28 | 歴史散策
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               古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 6 )  

歴史の表舞台へ  

大伴氏が歴史の舞台に登場してくるのは、とてつもなく古い。神武天皇の即位をわが国の建国と考えるとするならば、その登場は、わが国の歴史を遥かに遡ることになる。もっとも、日本書紀なり古事記なりをそのまま事実として受け取るとするならば、ということではあるが。
ただ、ごく普通に考えて、日本書紀にしろ古事記にしろ、当時伝承されていた神話に属する分野の物語が実歴史として記録されていたり、後世の為政者に都合の良いような取捨選択や、創作された物さえも加えられた可能性が高いことは事実であろう。
ただ本稿は、日本書紀をベースにして、記録されている記事をごくごく単純に受け入れることを基本としていることをご承知願いたい。

大伴室屋は、大伴氏一族の中で、歴史上存在が確実視されている最初の人物というのが、通説に近いもののようである。
ただ、そうなれば、前回までに紹介している大伴武以以前の人物については、実在が疑問だという事にもなる。しかし、本稿においては、日本書紀などに記録されてる事跡については、厳然たる事実ではないとしても、それらの記録を後世に残そうとした時点では、時の権力者の意向が強く反映されていると考えられるし、その意向との辻褄を合わせるために偽装や架空の物語が多く加えられている可能性も否定できない。それは、大伴氏に限ったことではなく、天皇家をはじめ古代史の多くの部分で指摘されていることである。そうであるとしても、それらのことも承知の上で、完全に実在を否定されるような人物も含めて、先人たちが何かを伝えようとして生み出されたものと考えたいのである。

さて、大伴室屋は、前回登場の大伴武以の子供とされている。しかし、武以は仲哀天皇の御代(在位 192-200)に大連として仕えていたとされている。一方、室屋が日本書紀に最初に登場するのは允恭(インギョウ)天皇十一年(422)の事であるから、この間ざっと二百年の差があり、二人を父子とするのにはかなりの無理がある。後世の大伴氏の系図の中には、この間に二人ばかりの人物が記されているものもあるようなので、二人、あるいは数人の世代を経ている可能性の方が高い。
また、この室屋という人物の事跡そのものも、日本書紀によれば、最後に記録されているのは、武烈天皇三年(501)の項に、『大伴室屋大連に詔(ミコトノリ)して・・・』なのである。この記事をそのまま受け取ってしまえば、天皇の重臣として八十年以上活動していたことになってしまう。しかし、この頃には、室屋の孫とされる大伴金村がすでに活動している時期であり、明らかな誤記と考えられる。
結局、室屋という人物は、允恭・安康・雄略・清寧(セイネイ)の四代の御代で活躍した人物と考えられるのである。

以下、日本書紀に室屋が関わったとして記録されている記事をご紹介するが、いずれも、何とも不愉快なものであるが、室屋個人の為せるものではないことを、彼の名誉のために明記しておきたい。

室屋が日本書紀に最初に登場するのは允恭天皇の十一年であるが、『 天皇、大伴室屋連に詔して曰く・・・』とあり、要約すれば、『 「私(天皇)は最近美しい女性を得た。それは皇后の妹である。私は格別に愛おしく思う。願わくば、その名を後の世まで伝えたいと思う。どうすればよいか」と室屋に仰せられ、それに答えた結果、諸国の国造(クニノミヤツコ・地方長官などの豪族)等に命じて衣通郎姫(ソトオシノイラツメ)のために藤原部を定めた。 』というものである。
この藤原部というのは、御名代(ミナシロ)というもので、王族などの名を後世に伝えるためのもので、ある地域なり部族なりを「藤原部」と名付けさせられたらしい。衣通郎姫の場合は、藤原という宮殿が与えられたことにより、各地に藤原部を設けるよう詔されたらしい。この藤原部とされた所から何らかの利益ももたらされたのではないかと考えられるが、いわゆる大化改新以後はこのような御名代は衰退したようである。

そこで、この衣通郎姫が登場する経緯を日本書紀により見てみよう。
允恭天皇七年の冬十二月、新しい宮殿で宴会が開かれた。
天皇は自ら琴を奏でられ、皇后は立って舞われた。舞い終わった後、皇后は礼儀の決まり事を行わなかった。当時の風習としては、舞い終わった後、舞った人自ら座長に「娘子(オミナ)奉らむ」と申すことになっているのである。
そこで天皇は、「どうして礼儀を守らないのか」といった。皇后は恐縮して、再び立って舞い、舞い終わると「娘子奉らむ」と申し上げた。天皇は、「奉れる娘子は誰ぞ。姓名を知りたいものだ」という。
皇后は、仕方なく申し上げた。「私の妹で、名は弟姫(オトヒメ)」とお答えした。
弟姫は、容姿絶妙にして比べるものが無い。その色香は衣を通して輝いていた。それゆえ当時の人は、衣通郎姫と噂していた。
天皇も心惹かれていることを皇后は知っていたので、何とか名前を出さないようにしていたが、無理やり進上させられてしまったのである。
天皇は大喜びで早速迎えの使者を送った。
その時、弟姫は母と共に近江に住んでいた。弟姫は姉である皇后の心情を思い、迎えに応じなかった。しかし、天皇は七度に渡って使者を送った。弟姫はその度に拒絶した。
天皇は機嫌を損ね、舎人の中臣烏賊津使主(ナカトミノイカツノオミ)という者に、「何が何でも召し連れて来い」と厳命した。
烏賊津使主が参って「天皇のご命令です」と言っても、弟姫は「天皇のご命令を軽んじるつもりなどございません。ただ、皇后のお心を傷つけることが辛いのです。我が身が亡くなろうとも参上は致しません」と答えた。
烏賊津使主は、「私は天皇の厳命を受けております。むざむざ帰って極刑を受けるよりは、この庭で死んだほうがましです」と言って、庭の中に伏していた。飲食を与えても食べようとしない。密かに懐中の糒(カレイ・干した飯)を食べていた。
遂に弟姫は、「皇后の心情を思い、天皇の命令を拒んできたが、この上天皇の忠臣を死なせてしまっては、さらに罪を重ねることになる」と思って、遂に都に向かった。
烏賊津使主は、弟姫を倭直吾子籠(ヤマトノアタイアゴコ)という者の家に留め置いて、天皇に報告した。天皇は大いに喜んだが、皇后はご機嫌斜めである。そのため、弟姫を宮中に近づけることなく、別に藤原(橿原市辺りとも?)に宮殿を造って住まわせた。
天皇が、初めて藤原宮を訪れたのは、皇后が大泊瀬天皇(オオハツセテンノウ・雄略天皇)をお産みになった夕べであったので、これをお聞きになった皇后は大いに怨み、「私は初めて結髪(カミアゲ・成人になったしるしに髪を結い上げた。女性は十五歳。)してより、後宮に出仕するようになってすでに多くの年月を経た。ひどいことをすることよ、天皇は。今、私は出産で生死相半ばなのです。どういうつもりで、今夜に限って藤原に行幸なさるのか」と言って、自ら出て、産殿を焼いて死のうとされた。
天皇はそれをお聞きになって、大いに驚き、「私が間違っていた」と皇后を慰め諭した。

この後も、天皇は、弟姫の許に通い、皇后の複雑な気持ちが記されている。
大伴室屋連が弟姫のために藤原部を定めたのは、允恭天皇十一年の記事に記されているが、「これより前」とされているので、二、三年前の事らしい。
この部分は、大伴室屋連の行跡というより、彼の功績と記されていると考えられるが、その経緯を見てみると、現代人の感覚としては、あまり誇らしい仕事ではないようにも考えられる。
大伴室屋が大伴氏を朝廷内で大きな役割を担う一族に押し上げた功労者といえようが、紹介された最初の仕事のスケールは、いささか小さいようにも見える。しかしそれは、室屋が天皇が心許せる近臣であり、大伴氏が親衛隊的な一族であったという証左ではないだろうか。
この後、室屋は政権の中枢へと昇って行くが、伝えられている挿話は、どちらかといえば天皇の陰の部分を支えていることが多いように思われるのである。

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